「ヴィ……ヴィクトル、どうしたの!?」
帰宅した勇利が仰天して叫んだのも無理はない。
ベージュのエプロンを真っ赤に染めて、手や、よく見ると顔にまで赤い飛沫が飛び散っている。惨劇の現場かホラーハウスでしかお目にかかれないような有様でヴィクトルはにこやかに微笑んでいるのだ。
「どうって? なにが?」
にこにこと穏やかに問い返すヴィクトルが、今はいっそ恐ろしいほど。
「何がじゃないよ。何やってたの。それじゃまるでシリアルキラーだよ」
勇利が指さすと、ヴィクトルは我が身を眺め回して「ああ」と破顔した。
だから、その有様で笑われると怖いんだって。
「これか。うわ、よく見たら真っ赤だ」
「よく見なくても真っ赤だよ」
内心、ツッコミが追いつかないよと勇利がさらに突っ込んでいるとヴィクトルが種明かしをした。
「派手に飛び散っちゃったなあ。今ね、ビーツを切ってたんだ。ボルシチを作ろうと思って」
ボルシチ。
あの真っ赤なスープ。
その赤の元となるビーツは、実は完熟になると結構水分が多い。
「それにしたって飛び散りすぎじゃないの? どんな切り方してたんだよ……」
「んー、5ミリ厚さの短冊に切れっていわれたから、その通りに切ってただけなんだけどなあ」
ヴィクトルは器用な人だが、なぜか台所仕事だけはやたらに汚すのだ。できあがった料理は、器用なだけあって見栄えもいいし、とても美味しいのだが。この分では掃除が大変そうだ……と心の中で十字を切っている勇利に対して、当の本人はのほほんと笑っているばかり。
まあ、二人でやれば掃除も楽しいか……と諦め半分、気持ちを切り替える。
「勇利も食べるだろ? 俺のボルシチはヤコフ直伝なんだ」
「ヤコフコーチの?」
てっきりハウスキーパーにでもレシピを聞いたのかと思ったのだが、そうではないらしい。
「今、牛肉を煮込んでる最中なんだ。あと一時間は煮込むから、何かやってて」
「一時間!? そんなに煮込むの!?」
「牛肉は二時間煮込むんだ。その後でビーツとか野菜とか色々入れてボルシチになるんだよ」
気の遠くなることをさらっといって、ヴィクトルはキッチンに戻っていく。
勇利は出迎えに来てくれたマッカチンにすがりついて、「二時間……」と繰り返した。
ヤコフコーチ直伝だというから、てっきり男の簡単料理かと思ったのだが、予想外に本格レシピのようだ。
「ヤコフコーチって凝り性なのかな」
マッカチンが、くぅん? と首をかしげた。
キッチンを覗くと予想どおりの惨状で、勇利はがっくりと首を垂れた。
これじゃ殺人現場だ。
「ねえ、ヴィクトル……、ビーツってどのぐらい刻んだの?」
「うん? どのぐらいって? 時間のこと? 量のこと?」
「量のこと」
「2個」
たった2個のビーツでキッチンをここまで血塗れの現場に演出できるヴィクトルは、別の意味で器用なのかもしれない。
「今は何してるの?」
「野菜を切ってるんだ。ヤコフのボルシチはね、野菜たっぷりで体にいいんだよ」
ヴィクトルの手元を覗くと、ニンジンを一口大に切っているところだった。なぜか、まな板の周囲にニンジンの皮が散らかっている。調理台にはほかにキャベツ、タマネギ、ジャガイモが用意されている。これらの皮も散らばるのだろうか……と勇利はまた気が遠くなる思いがした。その隣のシンクは、ビーツの殺害現場よろしく真っ赤っかだ。
「……シンク、洗うね」
「うん。ありがとう」
ヴィクトルは一心に野菜を切っている。その表情は真剣で、氷の上で戦う時の顔にも似て、勇利はちょっと胸をときめかせた。
「ねえ、ヴィクトル。ビーツを最後に切れば、まな板に染みがつきにくくなるんじゃない?」
まな板の上で、白いタマネギがところどころピンク色になっている。ビーツを切った後、洗っていないのか、洗ったとしてもおざなりなのか……。
「ダメだよ、それだとジャガイモが空気に触れて黒くなっちゃうんだ。野菜を後にしないと」
「ああ、そうか……。じゃあ、ビーツ専用のまな板を用意した方がいいんじゃない? タマネギ、ピンク色になってる」
「え? どうせ真っ赤になるのに?」
なるほど、こういうところは男の料理っぽい。
それもそうだねと返して、勇利はシンクを洗い上げた。白い大理石のシンクなんて、放置しておいたら染みになってしまう。まな板周りに飛び散った野菜の皮も片付ける。その片付ける端からキャベツの切れ端が飛び散る。見ていると普通に切っているだけなのに、なんで飛び散るんだろう。永遠の謎だ。
ちなみに、ヴィクトルが切った野菜は形も大きさも揃っていて美しい。ボウルの中で出番を待っている様だけ見れば、料理番組の一場面のようだ。
まな板の周囲の血飛沫……もとい、ビーツの汁を無視すれば、だが。ああ、早く掃除しないと染みになる……。
ヴィクトルは気にならないのだろうか?
白い大理石のシンクなんて、まず自分は選ばない。見ただけで白い状態を維持するのが大変そうだからだ。ヴィクトルのことだから、汚れたら買い換えればいいとでも思っているのかもしれない。
金持ちの考えることはわからんばい……と勇利は首を振った。
野菜を切り終えたヴィクトルは、牛肉を煮込んでいる鍋の火を止め、肉とスープを漉して別々にした。
キッチンにふわっと肉の煮えた匂いが広がる。
「いい匂いだね」
「ちょっと食べてみる?」
トングに挟んだ湯気の立つ牛肉を口元に差し出されて、勇利は素直に口を開けた。
熱い。
ハフハフいいながら噛むと、柔らかくなって、ほのかに塩味のついた肉の旨味が口いっぱいに広がった。
「おいひい(美味しい)」
「うん。いい感じらえ(いい感じだね)」
ヴィクトルもハフハフいいながら口を動かしている。二人だと、つまみ食いも楽しいなあ、なんて勇利は幸せな気分になる。
ヴィクトルはもぐもぐしながら使った鍋をシンクに置き、別の鍋を取り出した。ボルシチはその鍋で仕上げるようだ。新たな鍋にサラダ油を熱して、潰したニンニクを炒め始めている。
片付けながら料理することができない人なんだな、と勇利は心の中にメモを取る。
「……鍋、洗うね」
「ありがとう」
ニンニクのいい香りが立ちこめる。ヴィクトルはニンニクを取り出して火力を強め、ニンジンを炒め始めた。次いで、ジャガイモ、タマネギ……と火の通りにくい順に炒めていく。
勇利は調理台に飛び散ったキャベツの切れ端とジャガイモの皮を片付け、空になったボウルを次々洗う。A型の自分がアシストすれば、ヴィクトルが料理してもキッチンだって汚れないんだ。きっと。
鍋に、先ほど肉を煮たスープとトマトペーストが入った。
「さて、これから10分煮込むよ」
「……時間がかかるんだね」
「お腹が空いてちょうどいいだろう? 空腹は最上のソースだよ」
ボルシチにソースいらないじゃん、と口にしないだけの理性を勇利は持っている。
灰汁をすくっているヴィクトルの足下にしゃがみ込んで、床に飛び散ったビーツの汁や野菜の屑を片付ける。床を雑巾で拭きながら、シンデレラってこんな気分なのかなあ、と思う。
A型の勇利は、散らかっているよりは片付いている方が好きだ。いや、誰だってそうだとは思うが、散らかっていれば片付けたいと思う。それが人並みのレベルかどうかはわからない。ヴィクトルも普段は散らかさない人だが、なぜかキッチンだけは散らかし放題にしながら料理する。
といっても、お互い現役の選手で、しかもヴィクトルはコーチとの兼任だ。忙しい毎日の中に料理をする機会がそうそう訪れるわけではない。勇利がロシアに来てから彼が料理をしたのは片手で数えられるほど。その度にキッチンがとんでもない惨状になって勇利を驚かせてきた。
ヴィクトルが牛肉とビーツのボウルを鍋に傾け、盛大に中身を開けた。エプロンにも床にもコンロにも汁が飛び散る。
そのエプロン、洗ってもきっと無理だよね……。お高いエプロンじゃないのかなあ? エプロンだけ庶民派ってこと、あるのかなあ……。服は無事だといいんだけど。
って、よく見たらそのエプロン、レザーじゃないですか。そんなの初めて見ましたけど!
レザーのエプロンなんて肩が凝りそうだなあ、なんて思いながら、再びヴィクトルの足下にかがみ込んで床を拭く。洗面所で雑巾を洗って戻ってみれば、ヴィクトルはお玉ですくった灰汁を調理台にボタボタこぼしながらシンクに捨てていた。
「ヴィクトル、水を張ったボウルを近くに用意しておいて、そこに灰汁を捨てるといいんだよ」
「うん、わかった」
わかっているのかわからなかったので、勇利はボウルを用意してやった。そこに素直に灰汁を捨てているのを見て、悟られないようにため息をつく。お膳立てしてあげれば、きっと綺麗に料理できるんだ、この人は。ほんとに、なんで料理の行程だけはガサツなんだろう。勇利は首を傾げながら灰汁のこぼれた調理台を拭いた。
「勇利、もうすぐできるよ。皿を出してくれるかい?」
塩、こしょうで味を調えながらヴィクトルがいう。ボルシチ作りも最終段階らしい。
さすがにこれ以上は汚れないだろう。汚れても塩、こしょうが飛び散るぐらいか。そう判断して勇利は食器棚から深皿を取り出した。
「ライ麦パンがあるんだ。スライスしてくれる?」
「わかった。美味しそうだね」
ライ麦パンを食べやすい厚さにスライスしながら完成間近のボルシチの匂いを吸い込む。勇利が帰宅してから気づけば二時間近く。さすがにお腹ペコペコだ。
深皿に装ったボルシチにサワークリームを乗せ、みじん切りしてあったパセリを振る。床に散らばっていた緑の粉末はこれか、と勇利が納得している前でボルシチのできあがりだ。
「さあ、できたよ。食べよう!」
「うん。お腹ペコペコだよ」
ダイニングテーブルに向かい合わせに座って「いただきます」と唱和する。
真っ赤なスープに白いサワークリーム、そこに緑のパセリが散った様は美しい。作り手の美意識が感じられるできあがりだ。
一口、含む。
旨い。
牛肉の出汁と野菜の出汁、ビーツの甘さと塩味が絶妙にマッチして、旨い。(大事なことなので二回いいました)
ビーツとともにさらに煮込んだ牛肉は、噛むとほろりと口の中でほどけて旨味がじんわり広がる。滋味を食していることが実感できる味だ。ビーツはジャガイモと大根の中間のような歯触りでホクホクと、キャベツとタマネギは柔らかさの中にもきちんと歯ごたえが残っていて、食べる悦びを味わわせてくれる。
「ヴィクトル、凄い。美味しいよ」
「よかった。野菜たっぷりだから、おかわりオーケーだよ。いっぱい食べてね」
「うん!」
「あ、サワークリームは一杯目だけ」
「う、うん……」
本当に、キッチンのあの惨状さえなければ、ヴィクトルは料理人としても一流になれたのではないだろうかと勇利は思う。出来映えや味がこれなら店で出してもお金を取れるだろう。
「ヤコフコーチ直伝なんでしょ? じゃあ、ヤコフコーチも料理上手なんだね」
「それはどうかな。ヤコフはこれしか作れないみたいだから」
「そうなの?」
「うん。ほかの料理はリリアが作っていたよ。俺もしょっちゅう手伝わされた」
リリア・バラノフスカヤはヤコフコーチの元夫人で、現在、二人はつかず離れずといった距離感で接しているようだ。彼女はチムピオーンでバレエレッスンを受け持っていて、勇利も指導を仰いでいる。彼女の教えは厳しく、バレエスタジオに一歩足を踏み入れた瞬間から立ち振る舞いの全てに容赦ない叱責が飛ぶのだ。彼女の前でだらけた姿など、とても見せられはしない。「バレエには、その人間の為人が表れます。どんなに取り繕ったところで踊りは正直です。全てが曝け出されるのです。ゆえに、日常から美しくあらねばなりません。美しさこそが圧倒的に正しいのです」……耳にタコができるほど繰り返しいわれた言葉だ。
そのリリア先生に仕込まれたなら綺麗に料理できそうなものなのに……と勇利の疑問符が大きくなる。
そんなことを思いながら、そっとヴィクトルを見ると、──なんだかいつもと雰囲気が違う。
いつもは健啖家らしく、見ていて気持ちのよい食べ方をするのに、今日はなんだかしずしずと料理を口に運んでいる。それはそれで目に快いのだが、普段との違いを考えると何か引っかかる。
具合でも悪いのだろうか? でも、勇利が帰宅してからだって二時間近く立ちっぱなしで料理していたのだから、それはちょっと考えづらい。
食べる手を止めてしまっていると、ヴィクトルが気づいて「なに?」と問うてきた。
「ヴィクトル、何かあった?」
「どうして?」
「なんだかいつもと違う気がするから」
勇利の言葉に、ヴィクトルは目を見張って少し沈黙し、それから小さく微笑んだ。
「勇利には隠しごとはできないね」
やっぱり何かあるのだ。勇利の中で不安の芽が育ち始める。
「なに? 何があったの?」
思わず勇利が身を乗り出すと、ヴィクトルは「落ち着いて」と片手を上げて制した。
「勇利に話さなきゃならないことがあるんだ」
カチャ、とスプーンを皿に置いて、ヴィクトルは前置きをした。勇利の喉がゴクリと鳴る。食い入るように見つめる視線の先で、ヴィクトルは切なげな顔をして、いった。一息に。
「今シーズンが終わったら引退するよ」
──ああ。
ああ、そうなのか。
引退の二文字が勇利の胸の、奥底の方にストン、と落ちて、それから喉元にこみ上げてきて言葉を詰まらせる。
引退しようと思う、でもなければ、引退しようかな、でもない。ヴィクトルは引退するよと言い切った。彼の中ではもう決定事項なのだ。
勇利が口を挟む問題ではないし、こんなデリケートな問題に口を挟むことなどそもそもできない。でも、自分一人だけで考えて決断したんだなあと思うと、少しだけ寂しかった。
さっき引退の文字が落っこちた胸の、奥底の方が痛い。喉は相変わらず詰まって呻くことしかできない。その代わりのように勇利の目から涙が雄弁にあふれた。
「泣かないで、勇利。泣かれるとつらいよ」
ちょっと困ったようなヴィクトルの声。
メガネをずらして服の袖で涙を拭いたけれど、後から後からあふれてきて止まらない。
だって、もう見ることはできなくなるのだ。氷の上で戦うヴィクトル・ニキフォロフを。
ともに戦うことはできなくなるのだ。
ロシアの英雄、リビングレジェンドと呼ばれた稀代のスケーターが氷上から消えるのだ。
彼ほどのスケーターなら引退してもアイスショーに引っ張りだこだろうから滑る姿は見ることができるだろう。コーチに専念しても、振付師に転身しても、滑る姿だけなら見ることができるはずだ。だが、それは戦う姿ではないのだ。
アスリートとしてのヴィクトル・ニキフォロフの終焉が迫っているのだ。
引退しないでと、もっと一緒に滑ってと勇利が懇願したら、もしかしたら先延ばしにしてくれるかもしれない。でも、それはしてはならないことだ。彼が考えて、悩み抜いて出した結論なら尊重されるべきだし、ここ数年、体力とパフォーマンスの均衡を計るように滑ってきた彼に、無理に現役期間を引き延ばしたあげく均衡を欠いた滑りをさせるわけにはいかない。彼がゴールを定めたのなら他人がゴール地点を動かすべきではないのだ。
今、勇利のなすべきことは、彼の決断を受け入れること。それだけなのだ。
歯を食いしばって嗚咽をこらえた。まぶたを固く閉じて涙を封じようとした。けれど、どちらも堰き止める意志を無視してこぼれ落ちていく。
ヴィクトルが立ち上がって勇利の傍らに来た。優しい手が、まだビーツの汁のついた、ところどころ赤い手が、勇利の頭を抱え込むように引き寄せる。ヴィクトルの胸元に顔を伏せて、なんとか泣き止もうとしたけれど、涙はあふれてあふれて止まらなかった。
わかっていた。
悩んでいることはわかっていた。
今日の料理だってそうだ。
無心になりたくて、でも、なれなくて。頭の片隅で悩みながら、それでも料理に没頭しようとして。
だから、片付けなんかおろそかになる。思考からこぼれ落ちる。
わかってた。わかってたんだ。
ヴィクトルが凝った料理を作るときは、何かが心に引っかかってるときなんだって、わかってた。
わかっていたけれど、勇利には待つことと見守ることしかできなかったから。
そして、それが、ついに、今、──発せられたのだ。引退するよ、と。
ああ、終わるのだ。この、たぐいまれな人の競技人生が。
それならば、──ああ、そうだ、限られた時間ならば、自分はいわねばならないことがある。
「ヴィク……ヴィク、ト」
「うん? 落ち着いて、勇利」
優しく大きな手が勇利の背を子供にするように摩ってくれる。何度か咳払いして喉を整え、つっかえつっかえいった。
「ヴィクト……、僕、全力で、戦います。表彰台の、一番上で、あなたに、お疲れ様っていいます。だから、あなたも、全力で、戦って下さい」
ヴィクトルの目が意外そうに見開かれた。
「お願い、します」
涙があふれる。視界がにじむ。でも、今日で涙は一旦封印だ。この人の競技人生を最後の瞬間まで見届けるために。
ヴィクトルは柔らかに微笑んだ。
「いいね。そういうの、大好きだよ……」
その言葉に、抑えきれず嗚咽が漏れる。
どんなに悩んだのだろう。どんなにつらいのだろう。本当はヴィクトルこそ泣きたいのかもしれない。
「ヴィクトル……お疲れ様でした」
勇利がようよう口にすると、ヴィクトルは晴れやかに笑った。
「それは、表彰台でいうんだろう? 俺の一段下から、ね」
ああ、そうなのだ。この人は負けることなど考えていない。今も、表彰台の頂点は自分だと、王者のプライドをもっていってのけるのだ。
この人に勝たねばならない。自分はこの人と戦って勝つ。勝って、それを餞とするのだ。
「僕、負けないから」
「俺だって負けないよ」
「しばらくはボルシチも封印だね。そんなヒマなくなる」
「そうだね。さあ、そろそろ泣き止んで? 冷めないうちに食べよう」
うん、と頷いて涙を拭いた。
「次にヴィクトルのボルシチが食べられるのは引退してからだね」
「多分ね」
「そのときは、初めから僕に手伝わせてね」
「それはいいけど……なんで?」
「僕も作り方、覚えたいから」
そうすれば、キッチンが殺人現場になるのを阻止できるしね。
ヴィクトルが元通り席に着く。スプーンを口に運んで無念そうな顔になった。
「やっぱり冷めちゃってるかあ」
「冷めてても美味しいよ。おかわりの時に温め直せばいいよね」
「サワークリームは一杯目だけね」
「わかってるよ」
彼が引退しても日常は続いていく。こんな風に彼のボルシチを味わう日もあるだろう。
彼が悩むなら、僕は見守る。時には手伝う。シンデレラだって、継母たちじゃなく愛する王子様の手伝いなら喜んで床に這いつくばっただろう。
支えていくよ、ヴィクトル。
美味しいボルシチを作ろうね。