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好き。

足首がじん……と痛む。
あっ、やったな、と思ったときには氷の上に転がっていた。
すぐには立ち上がらない勇利に、リンクサイドからヴィクトルが慌てて近づいてくる。
「勇利! どうした!?」
「あー、大丈夫。ちょっと……捻ったかな」
「大丈夫じゃないじゃないか」
左足首をかばいながら立ち上がろうとすると、ヴィクトルが勇利の背と脚の下に手を差し伸べてくる。
「ちょっ、無理だよ、危ない」
シーズン中で絞っているとはいえ成人男性の体重なのだから軽いわけではない。まして氷の上だ、横抱きなどさせたらヴィクトルまで怪我をしかねない。
「今、立つから肩だけ貸して」
渋るコーチの手を優しく、しかしきっぱり拒絶して勇利はそろそろと立ち上がった。
ヴィクトルの肩を借りて立ち、左足首に体重をかけてみる。痺れるような痛みがある。重くはないが、軽くもないな、と勇利は思った。この程度の捻挫なら過去に何度もやっている。しばらくは練習禁止だなあ、ヴィクトルが許すまい、と内心でため息をついた。
「ロンバルディアは欠場だね」
「えー!? 治るよ、それまでには」
反射的に口走ると、コーチの眼差しが険しくなった。
「ゆ・う・り? キャリアの浅い若手じゃないんだよ。一年ごとに完治までの時間は長引いていくものだと考えないと。オータムクラシックには出ていいから我慢すること」
エントリーしていた上記二つの大会は開催日が一週間以上離れている。コーチのヴィクトルとしてはオータムクラシックも欠場させたいところだったが、グランプリシリーズへの調整を考えるとそれも悩ましい。何より、大会を二つも欠場させると勇利のメンタルが不安定になる恐れがある。
「さ、湿布したら病院行くよ。大事な時期なんだから大げさとかいわないように」
勇利のいいそうなことを先に封じてヴィクトルはてきぱきと勇利の靴を脱がせた。それが昨日のこと。
「……ヒマだ」
折しもの雨で気分まで滅入ってくる。
病院での診断は全治二週間。ロンバルディア、間に合うんじゃ……といいかけた勇利をぎろりと睨んだヴィクトルは怖かった。元がきれいな顔だけに冷たい表情をされると物凄く怖いのだ。美形って何をしても迫力がある。
勇利も今年でもう26歳。スケート界ではベテラン枠に入り、ヴィクトルがコーチとして過剰なまでに心配するのも頷ける年齢になった。
「でも、その本人は今年で30歳じゃん」
自分の心配はさせてくれないくせに、と勇利は唇を尖らせる。そもそもヴィクトルは転ぶこと自体が少なく──いや、めったになく──転んだらほとんど珍事──フィジカルにも気を遣っているので故障自体が少ない。風邪もめったに引かないし、頭痛とか腹痛などといっているのを聞いたこともない。大酒飲みなのに二日酔いで苦しんでいるところも見たことがなかった。
「超人か」
空中に向かってツッコミを入れて虚しくなった。
彼がそれだけ徹底してフィジカルと向き合い、管理に努めていることはよく知っているが、こうまで不調知らずだと何となく不公平感を覚えてしまう。
「そもそも基礎代謝量からして違うもんなあ」
長谷津で暮らした頃、ブロッコリーを頬張る勇利の目の前でカツ丼をがっつく彼の姿は記憶に焼き付いている。あの当時、エロスをカツ丼に例えてしまったのは、少なからずコーチのせいでもあると思っている。
人種の違いは生まれ持っての筋肉量の違いでもある。7cmしか身長が違わないのに身体の厚みが違う。
「フィジカルまで含めて天賦の才っていうことなんだろうなあ」
正直、うらやましい。妬ましくさえある。これで性格が悪かったら憎んでしまうのに躊躇はなかっただろう。
羨望の的の彼は、本日はモデル仕事なのだそうだ。なるほど、フィジカルは彼にとって商売道具でもあるのだから、それは徹底して管理もするよなあ、と勇利はため息をつく。
自分とは違う。違いすぎる。あまりにも違いすぎて笑いが出るほど。
時々、雑誌の取材でいろいろ服を着させられるけど、とても着こなせているとはいえない自分とは、天と地ほどの差がある。
それにしても、モデル仕事か。
「スチール、お土産にもらってきてくれないかなあ」
何のモデル仕事だろう。雑誌だったら、この足で買いに行けるかなあ、などと考え始めるあたり、本気で妬むつもりは毛頭なくて、結局のところ好きなのである。
もう、大好き。
時々、一緒に暮らしているのは夢なんじゃないかと疑うぐらい好き。
純粋にアスリートとして好きだった頃とは心持ちが少々違ってしまったが、好きなものは好きなんだからしょうがない。
神様も何を間違ったのか、自らが造りたもうた傑作が勇利ごときを好きになるという事態を招いてしまって、今頃焦っているだろうなあ、なんてことまで考える。
そう、彼とは奇跡的に両想いになってしまった。
今は自室のベッドに転がっているが、普段はヴィクトルの寝室で一緒に寝ている。両想いの二人が一緒に寝ていれば、当然そういうこともする。
生々しく情景を思い浮かべてしまって、勇利は頬を赤らめた。
「昼間っから何を考えてるんだよ」
うだうだ考えているからおかしなことまで思い浮かべるのだ。何かしよう、とベッドから起き上がる。
でも、さて、何をしよう。
安静を言い渡されているから動き回るのはナシ。家事はハウスキーパーがやってくれるから勇利のやることはないに等しい。第一、この足ではできることが少ない。
「マッカチンのブラッシングでもするか……」
大げさだと病院で抵抗したが、その抵抗も虚しく、主にコーチの主張で押しつけられた松葉杖をつきつき、リビングに向かう。
マッカチンはスタンダードプードルの平均寿命を超える長寿ぶりを見せているが、さすがに最近は寝ていることが多くなっている。リビングの隅に小さなラグを敷き、愛犬お気に入りのクッションを置いたスペースで日がな一日寝ている。ヴィっちゃんもこうだったのかなあ、と死に目に会えなかったかつての愛犬を思い起こす。
勇利が傍らに腰を下ろすとマッカチンは頭を上げ、嬉しそうにしっぽを振った。
「マッカチン、ブラッシングしようね」
ふわふわもこもこの毛並みはブラッシングをサボるとすぐに毛玉だらけになって健康によろしくない。全身に優しくブラシをかけ、雨で湿度が高いせいか普段にくらべて絡まりの多い毛並みを無心で整える。意外と顔の毛も絡まりができやすい。ゆっくりゆっくり時間をかけてブラッシングしていると、雨で閉ざされた家の中で、世界から孤絶している気分になった。
「雨の日は、なんか寂しいね、マッカチン」
ブラシのリズムに.合わせて声をかけると、聞いているのかいないのか、愛犬のしっぽがパサリと音を立てて揺れる。いずれこの子を見送ることになるんだなあ、と思うと、いよいよ寂しさが募ってきた。
「ヴィクトル、早く、帰ってくると、いいのにね」
なんだか無性に話し相手がほしかった。


玄関のチャイムが鳴ったので、えっちらおっちら出迎えに出た。
お帰りとただいまのキスを交わす。恋人になりたての頃は恥ずかしくて仕方なかったが、最近ではスムーズにこなせるようになったなあと我ながら思う。
「大人しくしてた?」
「してた。ヒマで死にそうだった。明日からはすることがなくてもリンクに行こうかなあ」
「ダメ。滑りたくなるはずだから。上半身の筋トレなら家でもできるでしょ」
「信用ないなあ」
軽口の応酬が楽しい。ヴィクトルが帰ってくると、家の中が明るくなる。
ヴィクトルはリビングのマッカチンに帰宅の挨拶をすると着替えに行った。途端に勇利は寂しくなる。着替えを手伝おうにも、この足ではついて回るだけで精一杯で役に立たない。つくづく怪我なんかしなきゃよかった。
今日何度目かのため息をついたとき、ヴィクトルが戻ってきた。
「ため息をつくと幸せが逃げていくよ」
「何それ。何かの言い伝え?」
「さあ? でも、前に誰かにいわれたか何かで記憶に残ってたんだ。で、今日は何してたの?」
勇利の傍らに腰を下ろしてヴィクトルが問う。
「なんにも。上半身の筋トレして、マッカチンのブラッシングして、曲を聴いてイメトレして、ヴィクトルの過去プロ観てた」
「なんにも、じゃないじゃない」
ヴィクトルが笑う。それだけで家の中は華やいだ空気になる。この人は本当にスターなんだなあと思う。それに比べたら、自分なんて畑のジャガイモか深海魚みたいなものだ。本当に、なんでこんな華のある人が自分なんかを好きだといってくれるのだろう?
意図せず見つめてしまっていると「なに?」と問い返された。その柔らかな微笑みも、とても好きだ。勇利にだけ見せてくれる優しい、優しい笑み。見慣れた笑みなのになんだかドギマギして、慌てて問いを返した。
「ヴィクトルこそ、今日はなんの撮影だったの?」
「んー、なんだっけ。何とかって雑誌のグラビアになるんだって」
「何とかじゃ買いに行けないじゃん。スタッフさんに聞いて教えてもらってよ」
「わかった。発売されたら送ってもらうように手配するよ」
「自分で買いに行きたいんだよ」
「なんで? 手に入れば一緒でしょ」
「違うよ、全然違う。自分の力で手に入れてこそのお宝なんだよ。ヴィクトルはオタクを理解してない」
理解したくないなあ、とヴィクトルが声を上げて笑う。
「それじゃあ、今日のスチールはいらない? 自分の力で手に入れたものじゃないもんね」
「それとこれとは別です。ありがたくいただきます」
「いいかげんだなあ」
ヴィクトルが笑ってくれるのが嬉しい。今なら最高の道化役だって演じられるのに、と、そんなことを思いながらまた見つめてしまっている。
「今日はどうしたの? やけに情熱的だね」
「……そんなんじゃないよ。ヒマすぎて人恋しかっただけだよ。やっぱり明日はリンク行こう」
「ダメだって」
「ケチ」
「ケチは違うでしょ」
笑いの満ちるリビングは明るくて暖かい。楽しい。ヴィクトルがいるだけでこんなにこの家は楽しい。
ハウスキーパーの作った夕食を向かい合って食べながら、ヴィクトルの話を聞くのが楽しい。自分が作ったわけでもないのに美味しそうに食べる姿を見るのが嬉しい。
……と、湯舟の中でヴィクトルが帰宅してからの自分を振り返って、勇利はやっと我に返った。
いやいやいや、いくら人恋しかったからって今日の自分はおかしすぎる。
両手でお湯をすくって顔にぶっかけ、ごしごし擦って、目を覚ませ、と自分に言い聞かせる。
頭を冷やすために、風呂から上がって自分の部屋で寝ようとしたら、ヴィクトルが盛大に拗ねた。
「あんなに情熱的に見つめてくれてたのに、夜は別々っておかしくない!?」
放っておいたら勇利の部屋のベッドに潜り込んで来かねない。シングルのベッドに大の男二人は狭すぎる。狭いが「抱き合って寝れば狭くないよね!」とか前にいわれた経験があるので、勇利はやむなく、いつもどおりヴィクトルの部屋で寝ることにした。
まあいいや、すぐに寝ちゃえば、と思うものの、今夜に限って寝付けない。おやすみ3秒ではないが、勇利は寝付きがいい方だ。寝付きがよすぎてヴィクトルを待たずに寝入って拗ねられたこともある。
今夜に限って隣のヴィクトルの気配が気になって仕方ない。息遣いが、布の擦れる音が耳につく。不快な音ではない。むしろ好もしい音だ。好もしいだけに気になり出すと眠れない。
ヴィクトルに背を向けて、上掛けを被って何とか寝ようとしたら、「ゆうり~?」と背中から抱きつかれた。
「なんで背中向けるの。寂しいでしょ」
「朝起きたら背中合わせなんてよくあるでしょ。ちょっと重いよ、ヴィクトル」
「初めから背中向けるのとは違うでしょ。こっち向いてよ」
ヴィクトルの手のひらが胸から腹にかけてさわさわと這い回る。カッ、と頬と腹の底が熱くなって、これはヤバいと悪戯な手を上から押さえて顔だけ背後に向けた。
「ちょっと、悪戯しないでよ。寝れないでしょ」
勇利はリンクに行けないが、明日のヴィクトルは早朝からスケジュールが詰まっていたはず。今夜は静かに寝なければ。勇利の足だって、踏ん張ったり振り回したりしたら治りが遅くなる。
「やめてってば。今日はしないよ。わかってるでしょ」
「だって寂しいんだもん」
「わかったよ、そっち向くから」
渋々ヴィクトルの方を向くと、邪気なんてまるで感じられないにっこり笑顔に迎えられ、ちょっとだけ怒っていた気持ちがぐずぐずに崩れていく。
「もう。しょうがないんだから、ヴィクトルは」
「おかしいのは勇利の方でしょ。今日はなんだか変だよ」
「だから、ちょっとヒマで寂しかっただけだってば」
「寂しかった? なんだ、そうか」
いうなり、ヴィクトルの腕が勇利をすっぽりと抱き込んだ。
「ちょっと、ヴィクトル……!」
「寂しかったんでしょ? なら、寝るまでこうしてるから」
「寝苦しいよ」
ひどいな、といいつつヴィクトルの腕は緩まない。解放してくれる気はなさそうだ。これはもう、とにかくさっさと寝るしかない。もしくはヴィクトルが寝入るのを待つほかなかった。
肩口に頬をつけるとヴィクトルの喉仏で視野が一杯になる。こめかみのあたりに、かすかに息がかかる。ヴィクトルの手が優しく背中をさする。
……寝れるか!
ひたすら体を硬くして耐えていると、「勇利」と呼びかけられた。
「なんで緊張してるの?」
さて、何と答えたものか。
「……寝苦しいっていったでしょ」
「した後なんか、こんな感じで寝るけど緊張したことなんかないでしょ。寝苦しいっていわれた覚えもないよ」
「今日はそういう気分なんだよ。わかったら離れてよ」
「勇利?」
ヴィクトルが少し身体を離して勇利の顔を覗きこんでくる。今更ながら、大好きな顔を近づけられて勇利の心臓がドクンと跳ねた。
怪訝そうなヴィクトルの顔。わかっている、心配してくれているのだ。わかってはいるんだけど。
「俺のこと嫌いになった?」
何てことをいうのだ! 天地が逆さまになっても有り得ない。
そのまま口にすると、ヴィクトルはほっとしたように微笑んだ。ああ、その顔も好き。
「なんで離れたがるの? 寂しいよ、俺」
「今日、僕、おかしいんだよ。今日だけ。明日にはいつもどおりになるよ」
多分……、と胸の中で呟く。
ヴィクトルは少しの間黙って勇利の顔を見つめていたが、勇利の額の髪をかき分けると額を触れあわせた。
「それ、寂しいの裏返しでしょ。甘えてくれていいんだよ」
そうなのかな。そうなのかもしれないけど、甘えるなんて照れくさくて素面じゃとてもできそうにない。
「明日から心配だな。こんなに寂しがられたら置いていけない」
「何いってんの。仕事も練習もバリバリこなしてカッコいいヴィクトルでいてよ」
「ほら、いつもの調子じゃない。いつもは、ヴィクトルはヴィクトルでいて、っていってくれるのに」
ちゅ、と鼻の頭にキスが落ちる。それから額、頬、そして唇。鳥がついばむようなやさしいキスだ。なんだか目の奥が熱くなる。なんでだろう? こんなキス、いつもしてるのに。
ヴィクトルの碧い瞳が勇利の瞳を見つめている。大好きな碧。こんなに美しい碧を勇利はほかに知らない。
「今日だけ、今、この時だけ。後は忘れてあげる」
だから甘えろといっているのがわかって、勇利はなんだか本当に泣きたくなった。
「ほんとに? ヴィクトル」
「ほんとに」
本当かな? でも、嘘でもいい気がしてきた。いつか、からかわれたら、そのとき怒ればいい。
「……今日、僕、おかしいんだ」
「そうなんだ」
「いつもは一人の方が気楽なのに。──あ、ヴィクトルは別だよ」
「よかった。ドキッとしたよ」
「世界でたった一人のような気がして、なんかつらかった」
ヴィクトルの肩口に顔を埋めて深呼吸した。体臭とフレグランスの混じった、勇利を安心させる匂い。
心得たように、ヴィクトルの腕が勇利の身体を引き寄せる。すっぽりと腕の中に収まって、これじゃ赤ちゃんみたいだなあとぼんやりとしか思わない程度には、自分は甘えているらしかった。
「怪我なんかしなきゃよかった」
「そうだね」
「一人なんて平気だったのに」
「人は変わるものだからね」
「ヴィクトルも変わった?」
「変わったよ。勇利のことを一番に考えるようになった」
「マッカチンが一番じゃないの?」
「難しい質問だね。俺には順位はつけられないなあ」
「そうだね。僕もそうかも」
「僕とマッカチンとどっちが大事なの?って訊かないの?」
「訊かないよ。ヴィクトルだって訊かれたら困るくせに」
勇利が笑い出すとヴィクトルも笑った。胸の中にぽっと灯りがともるようだった。
「マッカチン……弱ってきたね」
「そうだね……」
「僕、ヴィっちゃん……あ、昔、長谷津で飼ってた犬なんだけど、死んだとき傍にいてやれなくて。凄く後悔してる」
「うん……俺も、もしそうなったら物凄く後悔すると思う」
「そうならないようにしたいね」
「そうだね」
視界が翳ってくる。目蓋を押し上げるのに努力が必要になって、ああ、自分は眠いんだなと思った。
「眠い……」
「寝ていいよ。このまま」
「つらくない……?」
「全然」
「ん……」
もう目を開けていられない。
ヴィクトルの手が、眠りを促すように勇利の背をぽん、ぽん、と叩く。「愛してるよ」と囁かれて「うん」と返事をした気がする。
きっと今夜はいい夢を見る。そう思ったのを最後に、眠りに落ちていた。

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