白熱した議論が戦わされていた。
ニキフォロフ家のリビングである。マッカチンは「我、人間どもの争いに関せず」といった面持ちでそっぽを向いてあくびをしている。
争いの主たちは真剣そのものだ。互いのプライドと、今後の幸福な生活のために譲ることはできないのだ。
ただし、議論の中身は大変くだらない。
「だからね、勇利、俺の方が体も大きいし」
「でも、体力なら僕の方があるだろ。だったら」
「でも、勇利の方が今後の競技人生長いんだし」
「それはヴィクトルだって変わらないだろ」
「いや、俺、もうすぐ三十歳だし」
「四つしか違わないじゃん。そんなこと言い出したら僕だって条件変わらないってば」
「とにかく、俺の方が丈夫だから俺がボトムやるから」
「頑丈なのは僕の方だっていってるだろ。僕がボトムやるよ」
くだらないことこの上ない。トップの譲り合いである。取り合いではない。譲り合いである。
しかし、繰り返すが当人たちは真剣である。
互いに想いが通じ合えば、血も肉もある人間同士、物理的に通じ合いたくなるのは必然。
すなわちセックスである。
しかし、異性同士なら簡単な話も、同性の、しかもアスリート同士のカップルとなるといささか話は面倒になる。
まず結びつくここと事態が容易ではない。ただ肌を重ねるだけですまさず、挿入を伴う結びつきを望むなら、性器とは異なる器官を使用しなければならない。また、円滑な挿入のためには何らかの潤滑剤を用いる必要もある。
それがどれほどパートナーの体に負担をかけるか。
相手の競技人生に悪影響を及ぼしてしまう可能性はゼロではない。
ゆえに、互いを思いやるあまり、どちらも負担の大きいボトムを務めると主張して譲らないのである。何と麗しい愛の姿だろうか。
かたやパートナーには尽くしまくるロシア男。かたや頑固者の九州男児。どちらも譲ろうとしない。
譲らないまま、時計の針は深夜を差し、議論は平行線のまま翌日に持ち越されるかに思われた。
先にしびれを切らしたのはロシア男の方だった。
「あーっもう! 話が全然進まない! 勇利は俺を抱きたくないの!?」
「ヴィクトルこそ、僕を抱きたくないの!?」
「抱きたいに決まってるだろ!」
「じゃあ抱けばいいじゃん! 何、遠慮してんのさ、普段は全然──」
「全然、何?」
「え……遠慮なんて辞書に書いてないって感じで振る舞ってるじゃん! 何でこんなことだけ慎重なんだよ!」
「こんなことだからだろ! それより、普段の俺のこと、そんなに横柄だと思ってたの!? 勇利、ひどい!」
「話がこじれるだろ! 今はその話じゃないの! とにかく僕がボトムをやるから!」
「いいや、俺が」
「ダメ、僕が」
ついに睨み合いに突入して数分、ロシア男がため息をついた。
「勇利さあ、ボトムをやるって勇ましいけど、具体的なことは知ってるわけ?」
「ぐ……具体的?」
「あ、その感じじゃわかってないだろ。イメージだけで挑んでも上手くいかないってリンクでもいってるでしょ?」
「し、調べりゃいいじゃん! てか、今、調べるし。ちょっと待って」
えー、とか、何も今でなくても、などと口にするロシア男を無視して、九州男児はスマホをすいすいと操作した。目当てのページを見つけたのか、画面をじっと見つめる。時折、指ですいすいと操作する。やがて、その顔がすっと色を変えた。
「……う、うん。だいたいわかった、かな」
「どんなページを見たのか知らないけど、生兵法は大怪我のもとっていうよね」
「ヴィ、ヴィクトルは生兵法じゃないっていうの?」
「いや、俺もボトムは経験ないけど」
「じゃあ僕と変わんないじゃん。偉そうにしないでよ。それに、知るは一時の恥、知らぬは一生の恥って日本語では言ってね、知るという行為について躊躇しない方が美徳とされるんだよ、日本じゃ」
「で? 知ってどう思ったの。できそうなの? 準備とか色々」
「で……きる、よ。僕だって二十五歳の成人男子だし」
「意気込みだけで何でもできたら五回転ジャンプだって決められるよね」
「とにかく! どうすればいいのかわかったから問題ないでしょ!? 僕がボトムやります。ヴィクトルにこんなことさせられないよ」
「俺だって勇利にそんなことさせたくないよ」
「何いってんの。天下のリビングレジェンドにボトムの準備させるなんて僕の理性が絶えられないんだよ。聞き分けてよ」
「何、聞き分けろって。人を子供扱いする気? 俺の方が年上だってわかってる?」
「年上だからボトムなんかしなくていいでしょ。長幼の序は大切にしようよ」
今夜何度目かの睨み合い。マッカチンは部屋の隅のクッションでとうに眠りについていたが、騒々しさに熟睡はできず、耳をピクピク動かしている。
「ところで、勇利。君にボトムの経験がないのは今までの話でなんとなくわかったけど、トップの──というか、セックスの経験自体はあるの?」
「な、何、いきなり」
「いや、ないから自信がなくてトップを嫌がってるのかと」
「トップを嫌がってるわけじゃなくてヴィクトルのボトムを嫌がってるの」
「違わないだろ」
「大違いだよ!」
「まあいいや。で? 経験あるの?」
からかう態度なら怒るなり何なりしてかわすが、ロシア男はいたって真面目だ。茶化すそぶりもない。こう正面から来られるとまともに答えざるを得なくなる。何より彼はロシア男の顔に弱い。
「な……くは、ないけど」
「えっあるんだ!? 意外!」
「悪かったね!!」
「何々、やっぱりアメリカで?」
「うん……まあ」
「へえー……意外だなあ」
「しつこいよ、ヴィクトル」
「だって、俺、勇利ほどパーソナル・スペースが広い人、ほかに知らないもん。それで、よくセックスなんてできたなあって」
九州男児は苦瓜を口に突っ込まれたような顔をした。的確な評だけに反論が難しい。結果、反論するのは諦めた。
「……世の中には無理矢理連れ出されるパーティーとお酒というコンボがありましてね」
「あー……。でも、それじゃ覚えてないんじゃないの? 勇利、飲み過ぎると記憶なくすでしょ」
「記憶なくすほど飲んだら役に立たないだろ!?」
「じゃあ、覚えてるんだ」
「まあ、そりゃ……一応?」
「それって女の子と?」
「当たり前だろ」
「へえー。いい思い出?」
「悪いわけじゃないよ。比較対象がないから、いいも悪いも判断が──」
「じゃあ、俺が生涯二人目!? ワオ! 絶対、いい思い出にしてあげるからね!」
ぱあっと満開の花のように笑うロシア男に九州男児はたまらず苦笑いした。しかし、笑ってばかりもいられない。この機を逃さじとばかり反撃する。
「だったらさあ、百戦錬磨のヴィクトルのテクニックで僕を気持ちよくしてよ。正直、僕、どうしていいかわかんないし」
「トップでもいい思い出は作れるでしょ」
九州男児は、心底悲しいとばかりにため息をついた。
「僕がヴィクトルを組み敷いてさあ、もし上手くいかなかったら、もう一生もののトラウマだよねえ。もしかしたら、セックスなんて二度とごめんってことも──」
「あっ勇利、卑怯!」
「だって実際ありそうなことだもん。生涯二人目の人とは、それで最初で最後になるかもしれないよ?」
ぐぬぬ、といわんばかりに歯ぎしりするロシア男と、どこ吹く風の九州男児。勝負はすでに決していたが九州男児はダメ押しすることにした。
「ヴィクトルにさあ、すっごいロマンチックに口説かれて、夢のような夜を過ごしてみたいなあ、なんて僕だって思うことあるんだよ?──ね? そんなに僕のこと抱きたくない?」
すでに密着してソファに掛けていたが、さらにロシア男の肩に頭を預けて上目遣いで見上げることまでやってのけた。何せ、一生もののトラウマを背負うか否かの瀬戸際である。彼なりに必死だった。
ちなみに、ロマンチックだの夢のような夜云々は大嘘である。嘘も方便、自分がこのゴージャスなロシア男を組み敷くなど、とてもではないが想像できない。臆病風に吹かれて(要はビビって)勃つものも勃たずに泣きべそをかく姿は容易に想像できる。さすがにそれは避けねばならぬ。男としてのささやかなプライドを守らねばならない時があるとしたら、それはまさに今、この時であると九州男児は確信していた。
たっぷりの沈黙の後、ロシア男は腹の底からのため息を長々と吐き出した。
「……仕方ない」
「抱いてくれる? 僕のこと」
「勇利がこんな卑怯な手を使うとは思わなかった」
「必死だもん。──期待していい? いい思い出作ってくれるんだよね」
「任せてよ。もう、こうなったら別の意味で二度とごめんっていわせるから」
「ダメじゃん、それ」
顔を見合わせて、二人同時に吹き出した。当人たちなりに真剣そのものだったのが、その研ぎ澄まされた緊張がふっとんだ結果、今度は笑いが止まらなくなった。
「別の……意味で、二度とごめんって……ダメじゃん……」
「勇利がっ……勇利が卑怯……ずるいよ、勇利……」
笑いの下、震える腹筋を抑えて互いへのツッコミを入れ合い、力の入らない拳で互いにポカポカ叩き合って。そうして、互いの体に腕を回し合ってソファに倒れ込む。勢い余って二人して床に転げ落ちて、それでも笑いが止まらなかった。もうケンカは終わりましたか? とばかりにマッカチンが起きてきて、抱き合う二人の間に割って入ろうとする。もこもこの毛が目といわず鼻といわず、口にまで入り込んで、それでようやく笑いが収まった。
「はぁ……ごめんよ、マッカチン。うるさかったかい?」
「もう、とっくに寝る時間だもんね。ごめんね、マッカチン」
大笑いした後の妙な虚脱感を味わいながら、二人と一匹は床に横たわっていた。二人ももうとっくに休む時間を過ぎていた。明日も朝からスケジュールが詰まっている。やれやれと身を起こし、ふと目が合って、どちらからともなく唇を合わせた。
「仲直りのキスだね」
「思い返すとくっだらないケンカだったね」
「そんなことない。俺は真剣だった」
「僕だって真剣だったけどさ。中身が、さ」
「くだらなくない。大事なことだよ。違うかい?」
ここでまた言い争いになっては眠れなくなる。さすがの九州男児も折れることにした。
「そうだね。一生を左右する問題だもんね」
うんうん、とうなずくロシア男に微笑みながら、どうにか今夜の議論に勝ちを収めた九州男児はやれやれと内心胸を撫で下ろした。ふだんは、相手の顔が好きすぎるゆえに真顔になられるとつい要求を呑んでしまいがちなのだ。要求を容れられないほどの重大事が二人の間に持ち上がることが滅多にないせいでもある。ささいな問題なら、その場では受け入れておいて受け流してしまった方がラクなのだ。九州男児はそうやって、この自由なロシア男との付き合い方を自分なりに会得してきたのだ。
「じゃあ、今日はもう寝ようよ。話合いが長すぎて疲れちゃった」
「そうだね。一緒に寝る?」
「それは、大事な時のために取っておきます」
「えー、勇利のケチ」
「だって、ヴィクトル、僕のこと抱きしめて寝ようとするじゃん。寝苦しいんだよ、慣れてないから」
「回数こなせば慣れるよ。だから一緒に寝よう」
「遠慮します。マッカチンと寝て下さい。じゃあ、おやすみー」
「勇利のケチー!」
ははは、と笑い飛ばしてさっさとリビングから退散する。長居すると、ずるずるベッドに引きずり込まれてしまう。
廊下を自室へと小走りで向かいながら、ロシア男との来たるべき夜を想像する。カッと頬が熱くなって、これでは眠れるものも眠れないなあと九州男児は嘆息した。