バスタオルを広げると、はらりと落ちたものがある。
手のひらより少し大きいぐらいの長辺とそれより少し狭い短辺の封筒。
手紙だ。
大きめな封筒だな、手紙以外に何か入っているのかな。
とりあえず開封するのは後で、と洗面台に置いた。濡らすのは気が引ける。
体を拭き、髪を乾かして、部屋着を身につける。メガネをかけて、さて、と改めて封筒を手に取った。
読みやすいキリル文字で「親愛なるユウリ・カツキ」と記されている。裏面には差出人──ヴィクトル・ニキフォロフの署名。こちらは流麗な飾り文字だ。正直、読めない。形でなんとなくヴィクトルの名前っぽいと判断しているだけだ。もちろん、一字ずつ記してくれれば読める。これでも、何年もロシア語の記事に触れているのだ。ヴィクトルの名前の綴りぐらい覚えている。
さて、どこで読もうか。ヴィクトルはまだ起きてるかな。目の前で読むのもなんだから、やっぱり部屋で読もう。今日は何が書いてあるのかな。
洗面所を出て部屋に向かう。浮かれて鼻歌が出そうになる。メールとはまた違った嬉しさが、手紙にはある。
自室の机に向かい、さっそく開封する。わくわくする気分を抑えられない。
便箋には、これも読みやすいキリル文字が記されている。
『親愛なる勇利
俺のお気に入りのカフェの話はしたかな? していたら繰り返しになるのを許してほしい。
そこは、表通りを曲がった路地に面していてね、ドアはチョコレート色の木で、目の高さに色ガラスが4枚嵌め込まれているんだ。それぞれ違った色合いで、俺は色んなオレンジの混ざった色ガラスが気に入っている。
店内はペパーミントグリーンに白のダマスク模様の入った壁が奇麗だ。テーブルはアイボリー色の丸テーブル、椅子はクルミ材で、ヴィンテージ風のデザインなんだ。もしかして可愛らしい店をイメージしたかな? でも、実際はエレガントな雰囲気でね、落ち着くんだ。
店主は六十過ぎのお爺さん、ウェイトレスはその孫娘。2人で切り盛りしてるんだ。店主は滅多に笑わない反面、孫娘は愛嬌たっぷりでね。日本語では看板娘っていうんだろう? まさにそんな感じなんだ。
勇利もきっと気に入ると思う。今度、買い物のついでに一緒に行こう。
心より
ヴィクトル』
毎日とはいかないが、ヴィクトルはこうして手紙を書いてくれる。面と向かって渡すのは気恥ずかしいのか、それとも悪戯心なのか、今日のようにバスタオルに隠してあったり、荷物に忍ばせてあったりと、見つけた時には宝物がひょっこり出てきたような気分になって嬉しい。
新聞や雑誌など活字のキリル文字には慣れているが、人の手で書かれたものにはなじみがない。筆記体など悪戯書きにしか見えない。それで、ロシア語の勉強をかねてヴィクトルが手紙を書いてくれることになった。もちろん勇利からの返信もロシア語だ。今は読みやすい字で書かれているが、徐々に筆記体へと難度を上げてもらう予定だ。
封筒の中にはさらに絵葉書が一枚。カーブを描く海岸線と紺碧の海、白い壁の家々が美しいコントラストを成している。こちらは表にも裏にも何も書かれていない。
勇利は引き出しからレターセットを取り出した。パステルグリーンの便箋には、隅に意匠化された植物がエンボス加工されている。初め、普通の白い便箋と封筒を使ったら「味気ない。もっと考えて選んでくれたやつでないと返事書く気になれないなあ、俺」とダメ出しされた。派手すぎず、かといって地味すぎず、文房具店で散々悩んで選んだのがこれだ。なんとか及第点はもらえたようで、今のところ苦情は出ていない。
『親愛なるヴィクトル
素敵なカフェの話をありがとう。エレガントで、だけど居心地のいい店の様子が目に浮かぶようです。連れて行ってくれるのは嬉しいけど、僕なんかが入ったら浮いちゃわないかなあ? ちょっと心配です。飲み物の味について何も書かれていないのは、行ってみればわかるってことなのかな? それとも忘れちゃった? 書くまでもないくらい美味しいってことなら、とても楽しみです。
同封の絵葉書は、僕へのプレゼントと受け取っていいですか。綺麗な風景ですね。どこの町並みなんだろう。今度、教えて下さい。
そうそう、ヴィクトルの字はとても読みやすいです。次からはもう少しだけ難しくしてもらっていいですか? でも、封筒の裏の飾り文字ほど崩されると、何が何だかわからず、解読に時間がかかってしまうので、忘れずに手加減して下さい。よろしくお願いします。
敬意を込めて
勇利』
さて、どうやって渡そうかな。手渡しでもいいけど、つまらなそうな顔をされそうな気がする。ここは彼に倣って荷物に忍ばせておこうか。
便箋を折って封筒に入れる。フラップを閉じ、閉じ口にレターセット付属のシールを貼る。切手型の小片に便箋のエンボスと同じ植物の意匠が描かれている。こんな小さなシール一枚で自分の手紙とは思えなくなるのだから、侮れないなあと思う。次にレターセットを買う時はシール売り場も覗いてみようかな。
『最愛の勇利
この手紙と、俺がピーテルに帰るのと、どっちが早いかな。もしかしたら、いや、きっと俺の方が早くて、土産話をたっぷり聞かせた後かもしれないね。
ここは同じ星の上とは思えないくらい強烈な日差しと小麦色の肌の人々に出会える街だ。日本の夏も強烈だったけど、ここは湿度が低い分だけ過ごしやすく感じるよ。とはいえ、日焼けは厳禁だから、撮影以外は日除けの下にいる。日焼けした肌と衣装の色とがミスマッチを起こしたら大変だからね。
この街はすごいよ。家々の壁はパステルブルーに塗られていて、どうかすると水の底にいるような気分にさせられる。壁だけじゃない、通路も、階段も、家々のドアもすべて青。青といっても一色じゃなくて、薄い水色から濃いめの青まで様々なんだ。壁沿いに置かれた植木鉢の茶色と植物の色が際立って見える。野良猫さえも浮き上がって見えるよ。
まるでアートの世界に迷い込んだみたいだ。時折、地元の人が民族衣装で通りかかると、まるで異界にいるかのように錯覚させられる。
君にもこの景色を見せたい。今、ここに君がいないのが寂しい。感動を分かち合えないのがつらいよ。いつかきっと、一緒に来よう。その時は日焼け止めを忘れずにね!
君の友人
ヴィクトル・ニキフォロフ』
まるで教本のように丁寧に書かれた筆記体の手紙から、隠しようのない興奮が伝わってくる。
コンシェルジュから手紙を渡された時は『わざわざ僕に渡すように頼んだのかな』と思ったけれど、切手にスタンプが押されているのを見て投函されたものだとわかった。
忙しい仕事の合間に、自分への手紙をしたためてくれたと思えば、一層嬉しく、ありがたい。まして、差出人は敬愛するヴィクトルだ。手紙の書き出しが「Dearest(最愛の)」だったので一瞬ギョッとしたけれど、手紙に使われる時は恋愛とは関係ない言葉だったと思い出した。そういえば、ピチット君からも「Dearest」で始まるメールをもらったことがあったっけ。その時はなんとも思わなかったのに、相手が違うとびっくりするものなんだなあ。
ヴィクトルが「Dearest」と書いてきたなら、こちらもそのように返すのがマナーだろう。それでも「最愛の」と訳すのは抵抗があるので、勇利は心の中で「大切な」に置き換えた。
『大切なヴィクトル
あなたの予想どおり、手紙よりもあなたの帰国の方が早くて、青の街の話はたっぷり聞かせてもらったね。でも、こうして現地にいた時に書かれたあなたの手紙を読むと、耳で聞くよりもっと鮮明に情景が浮かぶ気がするよ。不思議だね。文字を通してあなたの興奮が伝わってくるからかもしれない。きっと目を大きく開いて、口をハート型にして「ワオ!」っていったんだろうね。それとも、周りの人にはわからないように平静を装ってたのかな。想像するとなんだか可笑しい。僕もその場にいたかったな。一緒に「ワオ!」「すごいね!」って言い合えたら、きっともっと楽しいと思うんだ。喜びや感動って分かち合う人がいると何倍にもなるって、これはあなたと出会って実感したことだよ。それまでは一人が気楽だって思ってたから。誰かとどこかに一緒に行くなんて面倒くさいって思ってた。でも、今はヴィクトルと一緒に行きたいところが世界中にあって大変だよ。バカンスなんて僕の柄じゃないけど、ぜひ青の街を案内して下さい。よろしくお願いします。
あなたの友
勇利』
読み返して、誤字脱字がないか確かめる。内心を少しだけ吐露した文面が気恥ずかしい。
ええい、と心に勢いをつけて便箋を折りたたみ、封筒に入れた。閉じ口にシーリングワックス風のシールを貼る。文房具屋で見つけて、なんとなく気が利いてるなと思って買ったものだ。貼るだけで一気に手紙のグレード感がアップするから、これはなかなかいい買い物だったと思っている。
さて、どうやって渡そう。少し考えて、ヴィクトルの部屋の、ドアの下の隙間から差し込むことにした。せっかくシーリングワックス風のシールも貼ったし、オールドスタイルで決めよう。
勇利はウキウキと立ち上がった。
今日のサンクトペテルブルクはあいにくの曇り空だ。
一昨日、うっかり右足首を捻ってしまい、安静をきつく言い渡されて勇利はヒマだった。足首が無事ならマッカチンと散歩にでも行くのに。いや、そもそも無事なら練習しているはずなのだ。もう思考もとりとめなくて、少しも実のある時間の使い方ができない。
手紙でも書こうか。
ふと、思いついた考えは良案に思えた。なんとなくヴィクトルの書いた手紙に返信する形になっているけれど、たまにはこっちから書いてみてもいいじゃないか。
思い立ったが吉日。
転がっていたベッドから起き上がり、そっと足を下ろす。痛みはない。ほっとして机に向かい、レターセットを取り出した。
『大切なヴィクトル
たまには僕から手紙を書こうと思って書いてみました。もしかしたら、もうどこかにあなたの書いた手紙が忍ばせてあるのかもしれないね。そうしたら、その返事じゃないこの手紙を見て、あなたはどんな気持ちになるのかな。がっかりしないでくれたら嬉しいけど。
どうして手紙を書こうと思ったかといえば、それはもう、ヒマでヒマで仕方ないからです。足さえ無事ならマッカチンと散歩にだって行けるし、前から行きたいと思ってたエルミタージュにだって行ける。なのに、曇り空を眺めながら部屋にこもるしかなくて、時間を持て余しています。
ぶっちゃけちゃったけど、気分を害しちゃったかな? だとしたら、ごめんなさい。でも、今の偽らざる気持ちです。コーチのあなたからきつく安静を言い渡されて、それでも目を盗んで滑りに行くほどの冒険心がわかなかったことを、ちょっとだけ心の中で褒めて下さい。言いつけどおり大人しくしています。
ああもう、早く足が治らないかな!?
わかってます、僕が不注意でした。転んで、でも、なんてことないように見せかけたくて、無造作に力を入れてしまった僕が悪いんです。リンクで転んだり、無様な姿を見せたりすると、僕だけでなくコーチのあなたまで悪くいわれそうでムキになってしまいました。力みすぎてるとあなたにいわれたけれど、確かにその通りです。自分の姿を実力以上に見せようと躍起になってたんだと思います。そんなことしても、意味ないのにね。頭の冷えている今ならわかります。
なんだか、心のおもむくままに書いたら、とりとめなくなってきたのでこの辺で終わります。変な手紙になってごめんね。読み返したら愚痴っぽくなってて、本当にごめん。こんな手紙だから返信はしなくていいからね。
それから、足をやった時、すごく心配してくれてありがとう。嬉しかったです。
あなたの友
勇利』
もう一度読み返したら送る勇気が消えてしまう気がして、急いで折りたたんで封筒に入れた。
足をかばいながら立ち上がる。またドアの下から差し入れることにしよう。
『最愛の勇利
ワオ! 帰ってみたら勇利からの手紙がある! 嬉しくてすぐに開封したよ。がっかりなんてとんでもない! そんなこと思うはずないじゃないか。勇利からの手紙なら、いつでもどんな内容でも大歓迎だよ!
読ませてもらったけど、しっとりした手紙だったね。勇利の心の内がしたためられていて、なんだか粛然とした気持ちになったよ。そして、あいかわらず俺を大事に思ってくれてることもわかった。嬉しいよ。
ねえ、勇利、あれは昨年の中国大会だったね。鮮明に覚えてるよ。「僕が負けたら僕だけ悪く言われるくらい慣れてるよ。でも今回はヴィクトルまで迷惑かけるからずっと不安なんだよ!!」って君は叫んだね。啓蒙って言葉があるけど、まさに目を開かされた瞬間だった。それまでは、コーチといいながら、まだ俺自身を基準に物事を考えていたのを、あの瞬間から君を基準に考えるようになった。あの時点ですでに何ヶ月もコーチしていたのに、本当の意味でコーチになったのはあの瞬間だった。あの時の君の叫びと涙がなければ、俺は三流のコーチにすらなれなかっただろう。もしそうなっていたら、今頃どんな生活をしていたか、考えるだけで恐ろしいよ。
そして、勇利があの時と変わらず俺を第一に考えてくれてるのがわかって、嬉しいと同時に身の引き締まる思いだ。俺はまた自分基準に戻ってやしないか自省する、いいきっかけになったよ。
勇利。こんなことをいうと身も蓋もないけれど、君が四回転を決めようが派手にミスしようが、中傷したい連中の口を閉じることはできないよ。彼らはアラ探しをするためにリンクに来ているようなものだからね、気にするだけ時間のムダだよ。
それにね、俺が悪くいわれるのを気にしてくれてるけど、俺に迷惑をかけると考えているなら、その考えこそ俺には悲しい。まだ勇利のコーチになりきれていないんだと、ほかならぬ勇利にいわれているようで。選手とコーチは一心同体、まではいかなくても、それに近いものだと思ってる。一緒に悩み苦しみ、泣き、笑うものだと思ってる。それなのに、俺に迷惑をかけるという考え方をされると、勇利と俺との間に一線を引かれているようで疎外感を覚えるんだ。
泣き言を書いてしまったね。ショックかい? リビングレジェンドだって人間だからね、弱音だって時には吐くよ。でも、わかってほしい。俺に迷惑をかける、なんて考えなくていいってこと。君が滑るのはなんのためだい? 俺の名声を高めるためかい? 違うだろう? そう考えたら、俺に迷惑をかける、なんて言葉は出てこないはずだ。何のために滑るのかを見失っちゃダメだよ。
厳しい言葉になったかもしれないね。コーチからの愛の鞭だと思ってくれると嬉しい。
勇利、足が治るまでの間、家の中でできることをやっておくといい。色んな音楽を聴いて、色んな写真や絵を見て、自分の中の引き出しを豊かにするように。俺の部屋には自由に入っていいから、CDなり画集なり好きに持ち出して使うといい。内面を豊かにする時間を与えられたと思って励むように。コーチからの宿題だよ。
君の友人、そして、コーチの
ヴィクトル』
勇利は読み終えた手紙を胸に当てて目を閉じた。
厳しいとは思わなかった。目を開かされたと書いてあったが、まさに今、自分も目を開かされた思いだ。
「何のために滑るのか」
ヴィクトルのいうとおりだと思った。コーチに迷惑をかける、なんて考えているうちはまだまだ未熟ということなのだろう。経験年数は積んでいても、精神面ではまだまだ成長の余地がある。どころか、修行不足もいいところだ。課題はメンタルだと常にいわれてきたじゃないか。ヒマだなんて愚痴をこぼしている時間なんてない。まずはコーチからの宿題に取りかかろう。
勇利は手紙を元通り封筒にしまうと、パソコンを立ち上げ、CDをセットした。ペンとノートを取り出し、ノートを広げる。漫然と聞くのではなく、気になった曲調や曲から受ける印象などをメモするためだ。
音楽が流れ始めた。
衣装に着替え、ウォーミングアップも終えた。6分間練習までの時間が果てしなく長く感じられる。
気持ちを切り替えようとスマホを手にして、イヤホンを荷物の中に忘れてきたのに気がついた。
「ヴィクトル、僕ちょっとイヤホン取ってくる」
「俺が行こうか?」
「いいよ、大丈夫」
ヴィクトルはロステレコム杯とフランス杯で優勝し、あっさりとグランプリファイナル進出を決めていた。今日は勇利のコーチとして札幌に来ている。勇利はカナダ杯で2位に入り、4位以上でグランプリファイナルに進出見込みだ。カナダ杯とロステレコム杯は5日しか間がなく、コーチとして帯同しなくていいとヴィクトルにはいったのだが、本人が強硬に同行を主張してついてきてしまった。勇利を初め、ハラハラする周囲をよそに本人は圧巻の演技で優勝をさらい、王者健在をアピールして見せた。
「先にファイナル進出を決めて待ってるからね! ところで、いつになったら金メダルにキスさせてくれるの?」
と無邪気にいわれた時は、僕の金メダルを阻んでるのは自分じゃないかと、さすがにイラッとさせられた。
とはいえ、カナダ杯で優勝を逃したのは勇利自身の責任だ。出場していない、まして強行日程を押してコーチ帯同してくれたヴィクトルには責任転嫁できない。
「金メダルかあ……そりゃ欲しかばい、おいだって」
荷物の中身を検めながらため息が漏れる。と、指先がカサリと音を立てた。なんだろう、と取り出してみると……手紙だ。ヴィクトルからの。
いつの間に入れたんだろう、全然気づかなかった。
見慣れた飾り文字の署名を見つめ、さて試合前に読むべきか否かと考える。試合前に読んで、もしメンタルが揺らいだら? ヴィクトルに顔向けできない。じゃあ試合後まで読まずにいられるか? 手紙を気にせず試合に臨めるか?──否。
迷った末に開封することにした。このままでは手紙が気になってボロボロの滑りになりかねない。そんなことになったら、ますますヴィクトルに顔向けできない。
できる限り丁寧に封筒の天辺をやぶった。
『最愛の勇利』
見慣れた書き出し。今は「最愛の(Dearest)」の文字も心強く感じる。
『最愛の勇利
君がこの手紙を見つけるのはいつだろう。試合前かな、後かな。きっと試合前だと思う。落ち着かなくて荷物をゴソゴソやってて見つけたんじゃないかな?
カナダ杯は惜しかったね。クワドフリップが回転不足を取られるなんて思わなかった。でも、あれから重点的にフリップを練習したからね。今日の試合ではきっと大丈夫、うまくいくよ。コーチの俺がいうんだから絶対さ。
勇利。君がファイナル進出を勝ち取るのは俺のためでも、俺のおかげでもない。君自身のため、君の努力のなせる技だ。思い出してご覧、どんな練習をしてきたかを。君はファイナルに進む実力も価値もある選手だ。そのことを疑ってはいけない。
前にいったね、「何のために滑るのかを見失っちゃいけない」と。君はもう間違うことなく氷の上に立てると俺は信じてる。そうして、俺と対等、いや、それ以上の力で戦い合えると信じてる。
プレッシャーになったかい? だとしたら、まだまだだね、俺と対等に戦うなんて夢のまた夢だ。
でも、今の君なら、このプレッシャーをはねのけてポディウムの頂点を掴み取れる。なぜそんなことがいえるのかって? ライバルをこの世で一番欲してるのは俺だからさ。
それじゃ勇利、氷の上で待っている。
君がくれた愛とともに
ヴィクトル』
──不思議だ。心が凪いでいる。今までは試合前に激励を受けると重荷にしか感じなかったのに。
『ライバルをこの世で一番欲してるのは俺だからさ』
ヴィクトルの文字が頭の中いっぱいに膨れ上がったように感じられる。
ヴィクトルのライバル。
今まではクリスがその位置を占めていた。でも、今はそうじゃない。そうじゃないんだろ? ヴィクトル。
胸の奥から熱い塊がこみ上げてくる。指先にまで痺れるように闘志がみなぎっている。
──取るよ……金メダル。
勝って、金メダルにキスしてもらう。そして、いうんだ。氷の上で会おう、って。
勇利は決然と立ち上がった。
大会本部に無理をいって用意させたツインルームの片隅、ソファに身を預けてヴィクトルはぼんやりしていた。
負けたのは久しぶりだ。こんな時、何を思い、どうやって過ごしていたのか思い出せない。
銀メダルを胸に、一段下からポディウムの頂点に立った教え子を見ると、勝ったというのに大粒の涙を流していた。いや、勝ったからこそ、か。おめでとう、と祝福すると、顔をくしゃくしゃにして子供のように泣き出した……。
「世界選手権五連覇ぐらいしてもらわなきゃ割に合わない……」
かつて己の発した言葉をなぞると、教え子が五連覇する間、俺は負け続けるってことなんだなあと今更ながらに思った。
ふふ、と笑いが漏れる。
あと五年、滑るつもりでいる自分が可笑しい。選手を続けることは不可能ではない。だが、今を100%とすれパフォーマンスは年々落ちていくだろう。それを良しとできるのか。
「来年、三十歳か……」
いつまで続けられるか。自分はどんな終わり方を望むのか。
選手としての自分の息の根を止めてくれるのが勇利ならいいのに。今日のように。
「……ああ、湿っぽいな」
一度、負けただけで引退のことまで考えるとは、存外気持ちが弱くなっているようだ。
しっかりしろ。俺はまだ死んでいない。
勇利の前に立ちはだかる壁として、俺はまだ死ぬわけにはいかない。何より、俺自身が勝ちたいんだ。今日、負けて改めて思った。俺は勝ちたいんだ。
俺にとって、勝つことと生きることは同義だ。
ならば、次は勝たねばならない。俺はまだ生きているのだから。
腹腔の底から闘志が湧き上がってくる。
「次は負けないよ、勇利」
そう呟いた時だ。カチャリとドアの開く音がして、勇利がバスルームから出てきた。
「お言葉に甘えて先にバス使わせてもらったよ。次、どうぞ。──ところで、今、僕のこと呼ばなかった?」
苦笑が漏れる。呟きにとどめたつもりだったが、思っていたより大きな声だったのかもしれない。
「……いや、呼んでないよ。勘違いじゃない?」
そう? と小首をかしげる勇利に、そうそう、と頷いてみせ、自身もバスを使うべく立ち上がった。
「あ、ヴィクトル。僕、取材があるから先に出てるからね」
「えー、待っててくれないの?」
「しょうがないじゃん、時間が決まってるんだから。日本メディアだから時間にシビアなんだよ」
会場で会おうね、と宥められてぶーぶーいいながら浴室に入った。
浴室から出ると、やはり部屋は無人だった。
「待っててくれてもいいのに」と唇を尖らせながらシャツのカフスをつける。カラトラバ十字のカフスは指に引っかかりが多くて、つける時に落としにくいところが気に入っている。タイを絞め、上着を身につけようとして、ポケットから紙がはみ出しているのに気がついた。
手紙だ。
入れられるのは勇利しかいない。それにしても、いつ書いたものか。バスを使っている短い時間に書き上げたとは思えないから、試合前にしたためていたものか。
手紙をためつすがめつしながら、さて、今読むべきか否かと考えた。
ホテルで勇利からの話というシチュエーションにはトラウマがある。何が書いてあるのか、勇利だけに予想もつかない。
なら、バンケットの後で読むか? いや、それではバンケットの間中気になって気もそぞろになるだろう。
しかし、今読んでしまうとバンケット会場で勇利とケンカになる可能性も……。
散々迷って読むことにした。どうせ読むなら早い方がいいし、後回しにしてもきっといいことはないと判断したからだ。
衣装の手直し用の裁縫セットからおもちゃみたいなハサミを出して封を切る。
『最愛のヴィクトル』
書き出しが「最愛の(Dearest)」で始まっていてほっとする。
『最愛のヴィクトル
この試合にどう臨むべきか、とても迷いました。
僕は勝ちたい。あなたとは一昨年のグランプリファイナルで同じ勝負の舞台に立てたけれど、実力を出し切れずに敗退したのは苦い記憶です。この記憶を払拭し、ヴィクトル・ニキフォロフの生徒として恥じない成績を収めたい。そのためには、あなたに勝たなければならない。
僕はずっと、あなたを目標にして滑ってきました。あなたがコーチになってからは、まさに二人三脚で滑ってきたと思っています。そのあなたに勝つことは、あなたを裏切るようで心苦しさを感じます。
それでも僕は勝ちたい。いえ、勝ちます。
約束しましたね、去年のグランプリファイナルで。いえ、約束ではなかったかもしれません。あなたはこういいましたね、〝世界選手権五連覇ぐらいしてもらわなきゃ割に合わない〟と。正直、なんて無理難題をいうんだと思いました。あなたのような超人でもない僕に、そんな偉業を成し遂げるなんて、天地がひっくり返っても無理だ。
でも、思いました。これは心構えと捉えるべきだろうと。そのぐらいの気持ちでなければ、あなたに勝つなんて夢のまた夢だと。そう考えてみると、あなたに勝つのは裏切るような気になる、なんていってるうちはまだまだ覚悟が足りないのだと気づかされました。僕はメンタルが課題だと言われ続けてきましたが、つまるところ、勝ちへの執念が足りなかったのだと思います。
世界選手権五連覇といったあなたの真意は推し量ることもできないけれど、あなたの言葉を励みに、僕は今度こそ、あなたに勝ちます。そして、勝てたのは運のおかげだといわれないように来年も勝ちます。
見ていてくれましたか? あなたを少しでも脅かす滑りができていたでしょうか。
最後に、あなたにお願いがあります。これからも、僕と一緒に滑って下さい。コーチとして、選手として、まだまだ僕と一緒に勝負して下さい。
この手紙がゴミ箱行きにならず、あなたの目に触れることを祈って。
あなたの生徒、そしてライバル(と思わせて下さい)
勇利』
喜びと安堵とがいっぺんに押し寄せてきてめまいのように視界を揺らす。感情の処理が追いつかない。半々で覚悟していたのだ、またコーチ解消を申し出るのではないか、日本に帰ると言い出すのではないか、と──。
「プロポーズみたいだね、勇利……」
右手の指輪にそっと口づけた。
もちろん、滑るとも。先ほど気持ちを奮い立たせたばかりだ。俺はまだ死んでいない。君が連覇を目指すというなら、俺はそれを阻む高く厚い壁になる。
リビングレジェンドと呼ばれているのは伊達じゃないことを思い知らせてあげるよ。
不敵に笑んで、手紙をしまった。今夜のバンケットはいい気分で臨めそうだ。
「サプライズをしてくれた子豚ちゃんにどんなお返しをしようかな」
「ユーロが近いのに日本に行くなんて無茶だよ」
「俺は去年、ハセツのオショーガツを体験し損ねたんだよ!? 今年こそオゾーニ食べる! ハツモーデ行く! もう決めたんだから! 日本に行くからね!」
……という激しい主張を却下しきれず、共に長谷津の地を踏んだのは昨日のこと。時差ぼけとは無縁のヴィクトルは朝から嬉々として勇利の姉の真利にこき使われている。大晦日には近所の常連が集まって宴会になる。今日中に今年の汚れを落とすんだからね! と真利に命じられてもヴィクトルはニコニコしている。何が楽しいんだか……と、時差ぼけの鈍った頭で考えていたら雑巾が飛んできた。固く絞った状態のそれに額を直撃されて「むがっ」と変な声が出る。
「勇利、何サボってんの! 目覚まし代わりにヴィクトルと男湯の掃除しといで!」
「え~……」
「何が、えー、よ。年末年始に家にいる者は労働力って相場が決まってんの。ほら、早いとこやってきな。ヴィクトルー、勇利男湯に連れてってー!」
「オッケー、マリネー!」
マリネ? ああ、真利姉か……前は呼び捨てだったのに、いつの間にそんな呼び方……。
ヴィクトルに引きずられて男湯に向かいながら、まだぼんやりそんなことを考えていた。
天井の隅のほこりを払い、壁を軽く箒で払い、浴槽を磨き、鏡やカラン、蛇口を磨き……。冷たい水に手足を浸して作業していれば嫌でも目が覚める。冷えて縮こまる指先を無理に動かして血を通わせていると、試合で負けた後の冷えた手足の感触を思い出した。
──年の瀬にろくでもない。
さっさと掃除を終えてしまおう。昼食を食べ損ねてしまう。
「ヴィクトル、僕ちょっと上着取ってくる。ヴィクトルのも取ってくるね」
「なんで?」
「露店風呂の掃除するのに上着ないと寒いじゃん。風邪引くわけにいかないんだからさ」
「わかった。じゃあ、その間に床を磨いておくから」
「うん。お願い」
ざっと足を拭いて二階に上がる。自室に入り、壁に掛けた上着を見るとポケットから手紙がはみ出ている。
ヴィクトルは相変わらず手紙をどこかに忍ばせたがる。意外とこういうのが好きなのかもしれない。宝探し気分というか、宝を隠す気分というか。
思わず、骨を隠す犬の姿を思い浮かべて、慌てて打ち消した。さすがに犬扱いは失礼すぎる。
手紙を机の上に置いて、部屋を出た。手紙は夜、落ち着いた頃にでも読むとしよう。
キリル文字の筆記体もだいぶ読み慣れた。走り書きされると解読に苦労するが、ロシアに来たばかりの頃にくらべたら判別できる文字が増えている気がする。
そろそろもう一段難度を上げてもらおうか。あの、悪戯書きにしか見えない筆記体を読みこなせる日は来るんだろうか。
そんなことを思いながら手紙を開く。流麗なヴィクトルの筆記体。勇利のために丁寧に書かれた筆致。
『最愛の勇利
去年の年末年始は一人きりだったことを思うと、今年は賑やかで夢のようだよ。置いてきたマッカチンのことだけが気がかりだ。慣れたシッターに預けてるとはいえ寂しい思いをしてるだろうな。可哀想なことをした。
去年の年末年始は、一人の家でどうやって過ごせばいいのかわからなくて愕然としたよ。一人で食べる食事の味気ないことといったら。この俺が、食が進まないんだよ。体作りの最中だったから無理して食べけど、砂を噛むような、っていうのはこういう食事のことをいうんだと思ったものだった。
勇利もいない。マッカチンもいない。パーパもマーマも、マリもいない。ミナコもジョーレンさんもいない。
リンクに行けばなじみの顔がいる。でも、彼らは俺の家族じゃない。ヤコフを家族同然に思っているし、今でも父親とも思っている。でも、ハセツで得た家族とは違ったんだ。
ハセツのみんなにとって俺はただの〝ヴィっちゃん〟で、選手でもコーチでもない。家族の一員、コミュニティの一員でしかない。誰も俺をセレブ扱いしない。それが、どんな温かな心に由来するものであるかに気づいた時、俺は一生ハセツの人たちを大切にしようと心に誓ったんだ。
大げさだと思うかい? 無理に信じてくれとはいわないよ。俺だけが知っていればいいことだ。
勇利、君は俺の人生を変えてくれた。生きることの意味を見つめ直すきっかけをくれた。感謝している。
グランプリファイナルの時、手紙をくれたね。俺からもお願いするよ。
勇利、これからも俺と一緒に滑って欲しい。共に氷の上で生きていこう。まだまだ君を一人にはしないよ。
君の友人であり家族の
ヴィクトル』
少し速くなった鼓動は湯上がりで酒が急に体に回ったせいか。それとも。
熱くなった頬に手を当てると指輪の冷たさが心地よかった。
長谷津神社への曲がりくねった参道を、履き慣れない草履でひたすら登る最中も、ヴィクトルは上機嫌だった。初めてのきちんとした和服に、袖を振ってみたり裾を翻してみたりと忙しい。
「ヴィクトル、気をつけないと草履が脱げちゃうよ。そんなにはしゃがないで」
「わかってるよ。でも、浴衣とは違うんだねえ。この感じ、振り付けに生かせないかな」
「和風のプロでも滑るの? ヴィクトルがやるなら衣装から音楽から何から何まで思いっきり和!って感じにしないと中途半端になりそうな。どこからどう見てもヨーロッパの王子様風の外見なんだから」
うーん、としばらくヴィクトルは首を捻っていたが、やがて石鳥居が見えてくるとパアッと顔を輝かせた。
「ワオ、ジャパニーズ・ミラクル・ゲート!」
「ミラクル?」
「知らないのかい? ヒロシマでも大地震でも倒れなかったゲートの写真、見たことない?」
「ああ……そういうこと。夢を壊すようで悪いけど、鳥居だって倒れる時は倒れるんだよ」
「Really?」
「Sure. あ、でも鳥居の形のままアメリカの海岸に漂着してたこともあったから、この形には何か不思議なパワーはあるのかもね」
うんうん、と満足げにうなずくヴィクトルに苦笑いが漏れる。
正月だけあって拝殿の前は大勢の人で埋め尽くされていた。牛歩のようにゆっくりとしか進めず、ヴィクトルが機嫌を損ねないだろうかと勇利はハラハラした。だが、当のヴィクトルは物珍しさの方が勝るのか、上機嫌で辺りを見回している。
やっと賽銭箱の前にたどり着き、ヴィクトルの手に小銭を握らせる。先に投げ込んでみせ、同様にするようにと身振りで示した。
「勇利、このガランガラン鳴るやつ鳴らしていい?」
「どうぞ。2~3回ひもを揺するぐらいでいいからね。神様がびっくりしちゃうから」
ヴィクトルは両手で綱を握り、ニコニコしながら鈴を鳴らす。
「ヴィクトル、初めに2回お辞儀、次に2回柏手……拍手、そして神様に日頃の感謝や目標をいう。最後にもう1回お辞儀っていうのが作法だから。僕の真似して」
勇利の隣でヴィクトルは神妙な顔つきになり、見様見真似でお辞儀をし、続いて柏手を打った。そうして手を合わせ、神に祈る。最後にお辞儀をして賽銭箱の前から退いた。
「勇利、何を祈ったんだい?」
「うん? 世界選手権で優勝しますからお力添えをお願いします、って。ヴィクトルは?」
するとヴィクトルは束の間勇利を見つめ、含み笑いをしながら「ナイショ」といった。
「え、ずるいよ、僕にばっかりいわせて」
ふふ、と口の中だけで笑んで、ヴィクトルはたたた、と数歩前に出た。そしてくるりと振り返る。
「……聞きたい?」
その顔に勇利はドキリとした。にこやかなのに目だけは真剣で、射貫くように勇利をまっすぐに見つめている。
何かを求められている、そんな気がした。
けれど、答えを持たない勇利は黙って首を横に振るしかなかった。
四大陸選手権に向けての追い込みに入り、勇利のまとう空気は日を追うごとに張り詰めていく。チムピオーンに所属する選手たちは四大陸には出場しないので、一人勇利だけが緊迫の度を増す練習に励んでいた。目標は当然優勝である。グランプリファイナル優勝はまぐれだったといわれないようにするために、そして勇利の敗戦をヴィクトルの評価に影響させないために、勇利は必死だった。
「ストーップ、勇利、そこまでだ。ちょっと休憩しよう。おいで」
「ヴィクトル、でも今のところ、もう一度──」
「根を詰めすぎだ。そんな状態の時は怪我をしやすいんだから、気分を切り替えなきゃだめだよ。ほら、こっち来て。それとも追いかけっこするかい?」
物理的に捕まえてやるとほのめかされて、やむなく勇利はリンクサイドに向かった。
「焦る気持ちはわかるけどね、やみくもに滑っても結果は伴わないよ。わかるだろう?」
「……わかってる」
キャリアの長い自分がこんな練習の仕方をしていれば、コーチとしては苦言の一つも呈したくなるのはわかるけれど、逸る気持ちを抑えるのは難しい。あるいはこれもメンタル面の修行不足の表れなのかもしれなかった。
「滝に行くべきかな……」
「なんだって?」
「ううん、なんでもない。ヴィクトル、僕、上だけ着替えてくる。汗かいて気持ち悪い」
手早くスケート靴の紐をほどいて履き替え、更衣室に向かった。
がむしゃらな練習が通用するのはせいぜい十代までだ。二十代も半ばの自分が遮二無二励んでも怪我の元。──よくわかっている。
「わかっててもそうするしかないって場合はどうしたらいいんだよ」
ほかのやり方など知らない──知ってはいるが身につかないままここまで来てしまった。つくづく自分は不器用なのだと思う。
「バカなのかな……」
だが、練習馬鹿なだけではもう通用しない年齢になった。ここらで一から練習の仕方と肉体の鍛え方とを学び直すべきだった。
「運動生理学だっけ? トレーナーに集中講義でも頼もうかな? オフシーズンになったら」
ぶつぶつと独り言を呟く姿は奇異の目で見られることもわかっていたが、声に出して気を反らさないと思考が心の底の方、底の方へと沈んで仕方ない。ため息を吐き吐きシャツを着替え、タオルを取ろうとロッカー内の上部の棚に手を伸ばして、手紙を見つけた。
「いつの間に……」
ロッカーの合鍵でも持ってるのかな? と首を捻りつつ、気分転換になるかもしれないと手紙を開封する。
『最愛の勇利
毎日頑張ってるね。俺の可愛い子豚ちゃんが、最近では頬がちょっとこけたように見えて心配だよ。
オフシーズンになったら美味しいものをいっぱい食べよう。綺麗なものをたくさん見て、心にも栄養をつけよう。そうそう、青の街にも行く約束だったね。ツアーガイドは任せてよ! 勇利を絶対がっかりさせないからね!
ねえ、勇利。俺はそろそろ「Dearest」と冒頭に書くのをやめようと思ってる。
嫌いになったからじゃない。逆だよ。Dearestなんて言葉じゃもう気持ちを表すのにふさわしくなくなったからだ。
勇利、以前にも書いたから繰り返しになる。でも、もう一度君に伝えたい。
これからも俺と一緒に滑って欲しい。共に氷の上で生きていこう。
俺たちの生きる場所は、氷と共に世界中にあるけれど、君とマッカチンのいる家が俺の帰る場所だ。それが世界のどこであってもね。
勇利。どうか俺の帰る場所でいて欲しい。右手の指輪を、本来の意味で共につけよう。どうか俺の差し伸べる手を掴んで欲しい。
この俺が、柄にもなく緊張しているよ。君からどんな答えが返ってくるのか不安で仕方ない。俺は君と出会って、今まで知っていたと思っていたことが──たとえばライフとラブだ──ただの知識に過ぎなかったことを思い知らされて驚愕した。そして、改めてそれらを与えてくれた君を愛しく思う。
勇利。俺の心は常に君と共にある。願わくは、それが永遠のものになるように。
I love all of you.
ヴィクトル・ニキフォロフ』
気分転換なんてものじゃなかった。
まるで爆弾だ。それも特大の。
心臓が耳元に移動したみたいに鼓動がうるさい。
生まれて初めてもらったラブレターが、まさか。そんな、まさか。
夢でも見ているのかと思ったけれど、手の中で手紙は実在を叫んでいるし、筆跡は見慣れたヴィクトルのものだ。
頬でもつねってみようか。
そんなことをしても大して意味がないと考えられる程度には理性も健在で、いよいよこの手紙は夢でも幻でもないと認めざるを得なくなった。
どうしよう。
ラブレターなんてもらったことがない。だからどうしていいかわからない。誰かに相談したいけど、こんなこと誰にも相談できやしない。
詰んだ。これ、僕、詰んだ。
いやいや、詰んだなんて失礼だろ、とかぶりを振って自身の思考を否定する。
確かなのは、自分は答えを求められていて、いずれそう遠くないうちに答えを告げねばならないということ。
つまり告白するっていうこと。──ヴィクトルに? 僕が!?
全身の血液が頭に上ったように火照る。火照って仕方ない。ロッカーの内側の鏡を覗くまでもなく顔は真っ赤だろう。
どうしよう。こんな顔じゃリンクに行けない。
気持ちを切り替えるどころの話じゃない。こんな浮ついた状態で滑ったらそれこそ大けがしてしまう。
今日はもう練習にならない。無理。ヴィクトルの顔見るのも無理。
──逃げよう。
荷物をまとめ、身支度を調える。ヴィクトルにスマホからメッセージを送り、勇利は更衣室から駆け出した。
戻りが遅いなとは思っていた。そこにスマホの着信音が鳴り、なにげなく画面を見ると勇利の名前。
何事かとタップしてメッセージを表示すると、
『汗が冷えて具合が悪くなったので帰ります。悪いけど、スケート靴とかタオルとかお願いします』
とあって仰天した。
慌ててベンチに置かれた勇利の荷物をかき集め、更衣室に向かった。自分の練習のことや後のスケジュールのことなど天から浮かばなかった。
更衣室には誰の姿もなく、ヴィクトルは自分のロッカーに勇利の荷物を突っ込むと、急いでチムピオーンを後にした。
車で来ればよかった。すぐに追いつけただろうに。
家までの道のりを走りながら、家に帰っていてくれればいいがと不安でならなかった。
アパルトマンのエントランスを走り抜け、エレベーターのドアをこじ開ける勢いで乗り込み、家のドアを乱暴に開ける。
玄関に見慣れた靴が乱雑に脱ぎ捨てられているのを見て、一気に全身の力が抜ける。安堵感でその場にへたり込みそうになった。
出迎えに来たマッカチンのご機嫌を取り、リビング、洗面、トイレと見て回り、最後に勇利の部屋のドアをノックした。
「勇利、いるの? 入っていい?」
返事がない。
「勇利。……勇利?」
しつこくノックを繰り返すと、ドアの向こうからか細い声で「大丈夫だから。しばらくほっといてくれる?」と応えがあった。
「大丈夫って? 今、どういう状態なんだい? 熱はあるの?」
「熱はないよ。ちょっと疲れが溜まってたみたい。少し寝かせて」
「勇利、顔を見せて」
「やだ。ほっといて。ほんとに大丈夫だから。熱もないし咳もしてないし、どこも傷めてもないから」
「勇利!」
「ヴィクトル、お願い」
勇利の態度はいつにも増してかたくなだ。さすがにおかしい。いつもならこの辺で折れてくれるのに。
そこまで考えて、はたと思い当たった。
「勇利。もしかして手紙──読んだ?」
目の前のドアは沈黙を選んだようだ。……つまりはそれが答えだった。
「突然でびっくりした? それで、こんな──」
「ヴィクトル、考える時間が欲しいんだ。一人にして」
強い口調で応えが返ってきて顔を見るのは諦めざるを得なかった。了解の旨を口にすると、ドアの向こうはそれっきり静まりかえった。
仕方なくリビングに向かい、ソファに身を投げ出した。マッカチンが喜んでのしかかってくる。
──まさか、こんな反応が返ってくるとは思わなかった。
恋愛に疎いことは知っていたが、まさか逃げ出すとは。
四大陸に向けて焦る勇利の気持ちを切り替えるスイッチになればいいと思っていたが、スイッチどころか勇利にとっては劇物か何かだったらしい。
「まだまだ生徒のこと、わかってないなあ……」
もし、これで勇利が調子を崩しでもしたら。
わかっていない、なんて澄ましてはいられない。その時は死に物狂いでサポートするしかない。なんなら手紙も撤回する。それで勇利が復調するなら──。
「つらいけど、勇利を不幸にしたいわけじゃないからね……。ねえ、マッカチン?」
愛犬のつぶらな瞳に映る自分は、ひどく情けない顔をしていた。
『敬愛するヴィクトル
あなたの手紙を読みました。
でも、今は落ち着いて考えられません。あなたも知ってるとおり、僕は自分でもうんざりするほど恋愛には疎いので。正直にいって混乱しています。
決して焦らすつもりではないのですが、オフシーズンまで答えは待ってもらえませんか。おざなりな答えを出したくないのです。
どうかお願いします。
あなたの生徒
勝生勇利』
『愛する勇利
手紙をありがとう。
君の気持ちは理解できるよ。答えを急かすつもりはない。オフシーズンまで待つよ。
それまでは、俺は自分の気持ちに蓋をすることにする。次から書き出しもDearestに戻すよ。安心して欲しい。
勇利、コーチとして俺は自覚が足りなかった。シーズン中の選手のメンタルを左右するような手紙を送ってしまったことを謝罪させて欲しい。君の混乱を思うと悔やまれてならない。本当にすまなかった。許して欲しい。
償いに、というわけではないけれど、君へのサポートに全力を尽くすよ。今までだってそうしていたつもりだったけど、それ以上にね。
四大陸、必ず勝ちに行こう。君の掴む栄光のために協力を惜しまない。君をポディウムの頂点に立たせてみせる。
今日からまた俺たちはコーチと生徒だ。勝つために、厳しくいくよ。覚悟しておいて。
永遠に君の友
ヴィクトル』
負けた。
一点差でも負けは負けだ。
世界選手権でヴィクトルに負けるのはこれで何度目だろう。
きちんと競っているといえるようになってからは、二度目……か。それ以前はカウントに入らない。同列に並べるのすらおこがましい。
「勝ちたかったなあ……」
呟きが宙に消えていく。ソファに預けた体が、そのまま地の底にまでずぶずぶと沈み込んでいくような錯覚を覚える。
落ち込んではいない。ただ、虚脱していた。心が虚ろな状態。負けたという事実のほかは何も考えたくないし、したくない。
今夜のバンケットを想像する。慰められたり激励されたりするのかと思うとうっとうしかった。それでも行かなければならないのは曲がりなりにもメダリストの責務だと思うから。
「責務なんてどうでもよか……」
文句をいってみるものの、どうでもいいと放り出す勇気もないのだった。そんな自分が不甲斐ない。
「今年も終わってしもうたなあ……」
スケーターの一年は春先に終わる。ある者は休養に努め、ある者はバカンスへと繰り出す。次のシーズンへの準備に余念のない者もいる。
ヴィクトルがコーチになる前の勇利は、次シーズンへの準備をするというよりただ滑っていた。何も考えたくなくて、ろくな休養もせずに滑り続けてコーチに叱られることの繰り返し。
去年はヴィクトルによって強引にバカンスに連れ出された。なじみのない南国の太陽に炙られた後、長谷津に帰ってシーズンの報告会という名の宴会、そしてなだれ込むように温泉 on ICE……。
ふふ、と笑いが漏れた。
「チホコを超える、だっけ……?」
長谷津城の上で反り返っていたヴィクトル。珍妙なポーズだというのに鍛え抜かれたボディラインが日差しよりも眩しく目に焼き付いた。
「ヴィクトル……」
オフシーズンだ。だから勇利は答えを出さねばならない。
あの手紙での告白以来、ヴィクトルはまるで記憶から抹消しましたとでもいうように、勇利への想いをおくびにも出さない。友人であり、家族であり、コーチであり、その範疇を決して超えなかった。その自制心の強さは驚嘆するほどで、もしかしたらあの告白自体が冗談だったのかもしれないと思わされるほどだ。
ヴィクトルは優しい。
そして強い。
わかっていたつもりだったが、改めて力のほどを見せつけられて、その揺るぎなさに羨望を覚える。
「おいとは大違いだ……」
だからこそ勝ちたかった。巨大な壁として立ち塞がるヴィクトルを打ち破って、彼のコーチングの結果として強くなった己を今度こそ証明したかったのだ。
「まだ引退できん。やり残したことがあるけん」
世界選手権五連覇がヴィクトルの戯れ言だとしても、彼に勝たずにやめるわけにはいかない。ちっぽけといえど勇利にもプライドがある。
「ヴィクトル、見ろってくれん。きっと勝ってみすっけん」
滑りに行きたい。試合が終わったばかりだというのに滑りたくてたまらない。
滑ることは生きること。勝生勇利はまだまだスケーターとして生きていく。
そして勝つ。勝ってヴィクトルに、
──ヴィクトルに?
「……そうやった。告白せんばいかんのやった」
そのためにも、……勝ちたかったのだった。
「ヴィクトル、次、朝から練習行ける日っていつ?」
「練習? オフシーズンだよ? 勇利」
「それはわかってるけど、一度も滑りに行かない、なんてことないだろ? 次に朝から時間が取れそうな日っていつ?」
そういうと、ヴィクトルは勇利をまじまじと見つめ、それから深いため息をついた。
「いいけどね、勇利。今年もバカンスには行くからね。わかってる?」
「わかってるよ。だから、その前にちょっと時間が取れないかって聞いてるの」
ヴィクトルは何事か(たぶん文句だ)呟きながらスマホを操作しスケジューラを立ち上げた。すいすいと指を操って顔を上げた。
「あさっての午前中なら空いてる。でも、俺、勇利と一緒に買い物に行きたか──」
「じゃあ、その前に! 僕に少し時間を下さい。お願い!」
両手のひらを合わせて拝み手で懇願する。してから、そういえば日本人くらいにしか通用しないんじゃないか、これ、と思った。
ヴィクトルはまた深い、深いため息をついた。
オフシーズンの早朝、人気のないリンクの中央で勇利は待っていた。
カレンダーこそ春先だが、サンクトペテルブルクはまだ雪の舞う日も多く、空気もきいんと張り詰めている。
いや、それは勇利の緊張感のせいかもしれない。
ウォーミングアップを終えたというのに、鼓動は一向に静まろうとしない。
やがて待ち人の姿が現れた。
鼓動が跳ね上がる。
勇利はものもいわず滑り始めた。
それは音のない、4分30秒のモノローグ。互いにあまりにも見慣れたプログラム。歌詞の意味も、メロディラインも、すべて今、このときのために用意されたようだと思う。
今、このプログラムは僕だけのものだ。僕の心を伝えるためだけに存在するプログラム。あなたに伝わっていますか。僕の心が見えますか。
指先にまで想いがあふれる。目尻に涙がにじむ。アリアの絶唱は魂の叫び。
フィニッシュのポーズは変えた。自分を抱きしめるのではなく、思い人に両手を差し伸べて。
切れ切れの息で呼ぶ。
「──ヴィクトル……ッ」
荒い息の向こうから駆け寄る姿が見える。
ああ、なんて顔してるんだよ。
腕の中に飛び込んできた体を抱き留めきれず、二人で氷の上を漂う。
抱きしめられたまま呼吸を整えていると、ようやくヴィクトルの腕が緩んだ。泣き出しそうな、期待に満ちあふれた、懸念に満ちた、ヴィクトルの顔。
「ヴィクトル……僕の、答えです。あの日の手紙の返事です。受け取ってもらえますか……?」
「もちろんだよ。こんなにも感動的な方法で伝えてくれるなんて思わなかった。まだ胸がドキドキしてる。待ったかいがあったよ」
「ごめん、長いこと待たせて……」
「いいんだよ。待つのも楽しかった。嘘じゃないよ」
ヴィクトルは優しい。そして強い。待つことのつらさ、耐えることの苦しさなど欠片も感じさせずに、シーズンが終わるまで勇利を見守り続けてくれた。
なら、今度は僕の番。僕がヴィクトルの心意気に応える番。
ヴィクトルの肩に手を置き、伸び上がって唇を合わせた。
ヴィクトルの目がまん丸に見開かれる。
恥ずかしい。恥ずかしくて死にそう。自分が、こんなことする日が来るなんて思わなかった。
もう顔を上げていられないし目も合わせられない。顔は多分真っ赤だ。痛いほど血が上っているのを感じる。
ヴィクトルの腕に力がこもり、優しく抱きしめられた。温かな腕。この腕の中と、氷の上が、今日からの僕の生きる場所だ。
ヴィクトル、一緒に滑ろう。氷の上で生きていこう。
一緒に青の街に行こう。色んなものを見て、美味しいものを食べよう。一緒に笑って、一緒に驚いて、一緒に喜ぼう。
一緒に年を取ろう。滑れなくなって、誰からも注目されなくなって、よぼよぼになっても一緒にいよう。
大変なことはきっとたくさんある。でも、一緒ならきっと大丈夫。
「ヴィクトル。離れずにそばにいて」
古く手紙は梓(あずさ)の枝に玉をつけたものを持たせてやったことから、その使いを玉梓(たまずさ)の使いというが、その梓を「みずみずしい茎」としたことから手紙のことをいい、転じて、筆跡、また、筆の意になったものという。