イリヤ、4歳は最近ごきげんナナメだった。
ダディが抱っこしてくれないのだ。
ハグはしてくれる。床に膝をついて、イリヤを優しく腕の中に閉じ込めて、ぎゅーっと抱きしめてくれる。
でも、抱っこはしてくれない。
ダディの肩越しに、ふだんは届かないパーパのつむじに手を伸ばしてちょっと困らせてみたり、高くなった目線で周りを見回したりできない。
もちろんパーパは抱っこしてくれる。
背はパーパの方が高いから目線も高くなって世界が広くなった気持ちになる。
でも、パーパはダディじゃない。
イリヤはダディに抱っこしてほしいのだ。
ダディの腕に抱えられて部屋から部屋へと歩き回ったり、おねむになったらベッドに連れて行ったりしてほしいのだ。
パーパの腕よりダディの腕の方が柔らかくて、優しい感じがする。
抱き上げ方もゆるやかで、まるで自分の背が伸びていくような気分になる。
それに対して、パーパは勢いよくイリヤを抱え上げて、何かというと高い高いしようとする。
パーパと暮らし始めたころ、パーパの抱っこが怖くて泣いてしまったことをイリヤはなんとなく覚えている。
今ではもう怖くて泣くことはないし、パーパだって大好きになった。パーパがイリヤを呼ぶ「イリューシェチカ」という響きは、なんだか呼ばれるとくすぐったくなって思わず笑ってしまう。
銀の髪に、きれいな碧い瞳と白い肌のパーパは、絵本で見た妖精の王様のようだと思う。
イリヤの髪と肌はパーパと同じ色で、ダディも、それからハセツのじーじもばーばも、イリヤとパーパはそっくりだという。
でも、イリヤの目は青くない。ダディと同じ茶色だ。パーパのほっぺはまっすぐですっきりしてるけど、イリヤのほっぺはぷくぷくしてる。だから似ているといわれてもよくわからない。というか、似ていないと思っている。
でも、イリヤはダディにも似ていない。ダディと似ているのは目の色とほっぺがぷくぷくしてるところぐらいで、ちょっと寂しい。大好きな二人になら似ていてもいいと思うのだ。特に、ダディに似ているところがあるとイリヤはうれしい。だって、イリヤはダディが、パーパよりもちょっとだけよけいに好きなのだ。
だから、イリヤはパーパの抱っこよりもダディの抱っこの方が好きで、なのに、ちっともダディは抱っこしてくれないのだ。
「ダディー」
両手を伸ばしてダディを呼ぶ。前は、こうすると抱き上げてくれたのだ。なのに、今は。
「なぁに、イーリャ。抱っこ?」
抱っこ、といいながらイリヤの前にゆっくり膝をついて手を広げ、ハグしようとするのだ。
「ちがう。抱っこ」
イリヤがかぶりを振ると、ダディは首をかしげた。
「うん、抱っこしようね。ほら、おいで」
「ちがう! 抱っこ!」
イリヤは精一杯手を上に伸ばして、抱き上げてほしいと訴えるのに、ダディは全然わかってくれない。まだ四歳のイリヤには〝抱き上げる〟という表現は未知の言葉なのに。
ダディはイリヤの背中に腕を回した格好で困った顔をしている。いいたいことが伝わらないイリヤも、だんだん泣きたくなってきた。
「抱っこ! 上!」
それでも一生懸命いいつのると、やっとダディは〝わかった〟という顔になった。
「そっか、抱っこか。たかーく抱っこしてほしいんだね」
「うん!」
やっと伝わった。イリヤはうれしくて笑顔になった。ダディの首に腕を回して、しがみつく。準備おっけー。後はダディが抱っこしてくれればイリヤの望みどおりだ。
「うーん、困ったな。抱き上げるのはナシってヴィクトルと約束しちゃってるしなあ……」
困ったようなダディの声が聞こえて、とたんにイリヤは不安になる。
ダディはもう抱っこしてくれないのだろうか。でも、どうして? イリヤを嫌いになったの?
泣きそうな顔で見上げると、ダディは困った顔にちょっと笑みを浮かべた。
「うーん……イーリャ、今から抱っこするけど、パーパには内緒にするって約束できる?」
「できる!」
「ほんとに? パーパにいわない?」
「いわない!」
イリヤは唇の前に人差し指を立てて「しーっ」といった。ダディは笑って、それからイリヤのように唇の前に人差し指を立てて「しーっ」といった。二人だけのヒミツだ。
「じゃあ、イーリャ、あんまりバタバタしないでね」
ダディはそういうと、イリヤの背中とお尻に腕を回して、ゆっくり立ち上がった。イリヤの視界が高くなる。大好きなダディの抱っこだ。イリヤはうれしくてうれしくて、全身でダディにしがみついた。
「勇利、イリューシェチカ、マッカチン二世、タダイマー!」
「「おかえりー」」「わん!」
帰宅したパーパを出迎えて、玄関は一気に騒々しくなる。ダディ、イリヤ、マッカチン二世の順にパーパはタダイマのキスをして、それから、やっぱり順番にハグをする。ダディの時はちょっと長めに、イリヤの時は目の高さまで抱き上げて、マッカチン二世にはしゃがみこんでと、パーパはみんなの間をくるくる動き回って忙しい。
帰ってきたパーパからはいろんな匂いがする。お花のようないい匂いのする時もあれば、なんだかちょっと煙たい匂いの時もある。ほっぺが少しピンク色の時はまた違った、つんとするような匂いがする。今日のパーパは煙たい匂いだ。そんな時、パーパはダディに抱きついて「勇利ー、疲れたよー」とふにゃふにゃした声を出すことが多い。オシゴトでたくさんのオジサンたちに会って、いっぱいお話を聞かされて疲れるんだと前にイリヤに教えてくれた。「どんなお話?」と聞いたら「面白くないお話ばっかりだよ」と悲しそうな顔をしていたっけ。
ダディはパーパの頭をよしよしと撫でて、
「さあ、イーリャとお風呂に入ってきて。すぐにご飯にするからね」
と、いつもと全然変わらない。そんなダディを、パーパはよく「シオタイオウだ」という。どういう意味か聞いたら「優しくしてくれないことだよ」だって。ダディはいつも優しいのに、変なの。
「勇利、冷たいなあ。もうちょっと優しくしてよー。チューしてくれても罰は当たらないよー」
「何いってるの、イーリャの前で。ほら、お風呂に入って、そのタバコ臭いの落としてきて下さい」
「あいかわらずシオタイオウ……」
パーパは「あーあ」とため息をついた後、「イリューシェチカ、おいで。お風呂に入ろう」とイリヤに手を差し出した。その手を取って、イリヤはウキウキとお風呂に向かう。パーパとのお風呂は楽しい。一緒に歌を歌って、たくさんの泡で遊んで、ダディの好きなところを言い合いっこして、時々ケンカになることもある。イリヤもパーパも、自分の方がダディをよけいに好きだと思っているし、たとえ相手がパーパでも負けたくないからだ。でも、最後には「ダディを大事にしよう」と握手してケンカはおしまいになる。男同士の約束だから、パーパの留守中、イリヤはダディのいいつけをちゃんと守ろうと頑張るのだ。
今日のパーパはいつもより疲れているみたいだ。イリヤの頭に顎を乗っけてウトウトしている。
「パーパ、寝ちゃダメだよ! 寝るならベッドに行きなさい!」
イリヤの声にパーパはハッと目を覚まして、それから「今の言い方、勇利にそっくりだ」と笑い出した。
「ほんと? ダディに似てる?」
「似てる似てる。やっぱり勇利の遺伝子も入ってるんだねえ」
イデンシってなんだろう? わからないけどダディに似てるといわれるのはうれしい。イリヤがにこにこすると、パーパは目を細めてイリヤの銀の髪を撫でた。
「紅茶みたいな色の瞳も勇利にそっくりだ。ほかにももっと、外から見て勇利と似ているところがあるとよかったのにね」
「似てるもん! ほっぺがぷくぷくしてるとこ!」
イリヤがいうと、パーパは「確かにね」と可笑しそうに笑った。
お風呂に入っている間にダディが用意してくれていた服に着替えて、パーパとダイニングに向かう。お風呂上がりのパーパは少し疲れていて、いつもより動作が緩やかだ。だから、お風呂上がりのパーパの抱っこは、ダディの抱っこと似ていてイリヤは好きだ。
今日も抱っこされてダイニングに入ると、ダディとジーナママがご飯の用意をしていた。
「勇利、座って。ジーナがやってくれるから」
「あー、うん。わかってるけど、つい」
「そうですよ、ユウリさん。座って下さいな。──さあ、皆さん、お食事ですよ」
ジーナママがきっぱりいうと、誰もいやといえなくなっちゃうのはどうしてなんだろう。パーパなんて「寮母のガリーナを思い出すなあ」なんていってる。
テーブルの角近くの子供用の椅子に座らせてもらって、イリヤの右にダディ、左にパーパが座る。ダディとパーパはななめ向かいだ。一度、イリヤとダディが隣り合わせ、その向かいにパーパという席にしたら「向かいなんて嫌だ、寂しい」とパーパがいって、こうなった。
ご飯を用意するとジーナママはダイニングを出て行く。ジーナママとお話できるようになった頃に「どうして一緒に食べないの?」と聞いたら「作っている間につまみ食いをするからお腹いっぱいなんですよ。坊ちゃんはまねしないで下さいね」といわれた。ダディもパーパもなんだか困ったような顔で笑ってたっけ。
食べる前に手と手を合わせて「いただきます」というのがうちのルール。これはダディの国の言葉で、作ってくれた人や食べ物に「ありがとう」という言葉なんだとダディが教えてくれた。パーパもハセツで教わったといっていた。食べ物にありがとうってどういうことなのか、イリヤにはよくわからない。でも、いつも作ってくれるジーナママや、時々作ってくれるダディやパーパにありがとうっていうことなのはわかったから、忘れないようにしようと気をつけている。でも、お腹がペコペコで、ご飯がとてもおいしそうだと、「いただきます」をいう前についスプーンやフォークを突き刺して、ダディに「こらっ」と叱られてしまうことがある。しょげるイリヤを慰めてくれるのはパーパで、大きな手のひらで頭を撫でて、「次から気をつけようね」と笑いかけてくれる。そんなパーパに、ダディは「もう、甘やかして……」と仕方ないふりをしながらイリヤを許してくれるのだ。
今日のご飯はイリヤの大好物のヨージキ(ミートボール)とヴィネグレット(サラダ)だ。四歳のイリヤはまだ食べるのが上手とはいえないので、主にダディが手伝ってくれる。大きなヨージキを割ると、中のお米にソースがからんでとてもおいしい。ご飯がおいしいとイリヤはとてもうれしくなる。にこにこしながら食べていると、パーパが「カツ丼を食べてる時の勇利みたいだ」といいながらイリヤのほっぺを突っついた。
「かちゅろん?」
「イーリャ、お口にものが入っている時にしゃべっちゃダメ。ヴィクトルも食べるの邪魔しちゃダメ」
二人いっぺんに叱られて、「はあい」と声をそろえたら、ダディがぷっと吹き出した。パーパもくすくす笑い出す。イリヤは急いで口の中のヨージキを飲み込んで、ダディとパーパと一緒に笑った。
イリヤの大好きな二人がにこにこしているのがうれしくて、ご飯がおいしいこと以上にイリヤはうれしくなった。
「あのね、今日ね、イーリャ、うれしいがいっぱい」
「へえ、どんなことがあったんだい?」
パーパに聞かれて、イリヤは左手の指を右手の指で一本ずつ折りながら数え上げた。
「えっとね、マカチーが〝待て〟したの」
マッカチン二世はイリヤのいうことを聞いてくれない。舌っ足らずなイリヤの言葉と、まだ仔犬気分の抜けないマッカチン二世の組み合わせでは仕方ない、とダディもパーパも慰めてくれていた。でも、今日はきちんと〝待て〟をしてくれた。初めてイリヤのいうことを聞いてくれたのだ。
「ワオ、すごいじゃないか、イリューシェチカ!」
パーパに褒められて、イリヤはうんとうれしくなった。
「あとね、ご飯がおいしいの。ダディとパーパがにこにこしてるの」
うんうん、と頷きながらダディもパーパも聞いてくれるので、イリヤは今日とっておきのうれしかったことを二人に披露した。──してしまった。
「ダディがね、抱っこしてくれたの!」
「……うん?」
「あっ……」
にこにこ顔を急にやめてしまった二人に首をかしげた後、イリヤは「あっ」と声を上げた。そうだった、ダディと約束したんだ、パーパにはナイショにするって!
「イリューシェチカ、ダディが抱っこしてくれたの? どんな抱っこ?」
どうしよう。パーパは笑ってるけどなんだかちょっと怖い感じがする。たぶん、怒ってる。だからナイショにしようってダディはいったんだ。どうしよう。どうしよう。約束したのに、やぶってしまった。ダディにもパーパにも嫌われちゃったらどうしよう!
イリヤはさっきまでのうれしい気持ちがふっとんで泣きたくなった。
パーパに何て答えればいいのかわからない。ダディにどう謝ればいいのかもわからない。どうしよう、どうしようと頭の中はその言葉だけがぐるぐると回っている。
ダディは、イリヤとパーパを見比べて、「はあ……」とため息をついた。そうして、右手を肩の高さにかかげて「はい、抱っこしました。ヴィクトルとの約束を破りました」といった。
びっくりしたイリヤが「ダディ!」と叫ぶと、ダディはイリヤの頭を撫でて、
「ごめんね、イーリャ。うれしいことを内緒にするのは難しかったね。約束のことなら気にしないで」
と、イリヤが謝らなければいけないのに、ダディが謝ってくれたのだ。
イリヤはもうどうしたらいいのかわからなくて、とうとう泣き出してしまった。イリヤのせいでパーパが怒ってる、ダディは悪くないのに謝らせてしまった、これじゃ二人に嫌われちゃう……。
イリヤが目を覆ってしくしく泣き出すと、パーパが大きな手のひらをぽんと頭に乗せた。
「泣かないで、イリューシェチカ。パーパは怒ってないよ。約束を破られて悲しいだけ」
そう慰められたけど、怒ってないっていってくれたけど、悲しいといわれて、イリヤはやっぱり涙が止まらなかった。お腹のずっとずっと上の方が痛くて、もしかしたら涙はここから出てくるのかなあと思った。
「ヴィクトル、いいよね? 椅子の上だし」
イリヤの体にダディの腕が回って、ダディの体の上に抱き寄せられた。そうして背中をぽんぽんと優しく叩かれる。
「泣かないで、イーリャ。イーリャに泣かれたらダディもパーパも泣きたくなっちゃうよ」
背中を優しく叩かれて、体をゆらゆら揺らされるうちに、イリヤも段々落ち着いてきた。ひっくひっくと喉を鳴らして、時々げふっと大きく息をついて。背中をゆっくりさするダディの手が、息の仕方を教えてくれているみたいだった。
ようやく落ち着いて怖々顔を上げると、ダディもパーパも穏やかに微笑んでいた。パーパはもう怒っていないかな。ダディはイリヤを嫌いになっていないかな。二人の顔を代わる代わる見つめても、怒っているようにも悲しんでいるようにも見えなくて、イリヤは少しホッとした。
すると、パーパが腕を伸ばして、またイリヤの頭にぽんと手のひらを置いた。そしてイリヤの頭を撫でながらにっこり笑っていった。
「もう泣かないで、イリューシェチカ。パーパは怒ったんじゃないんだ。勇利が心配だったんだよ」
「しんぱい?」
「あのね、イリューシェチカ、よく聞いて。今、勇利のお腹の中にはね、イリューシェチカの弟か妹がいるんだよ」
おとうとかいもうと? お腹の中にいるってどういうことだろう?
ダディのお腹を見てみても、いつもどおり平らなままで(ちょっとぷにっとしてるけど)、何かが入っているようには見えない。
「今はまだ、とってもとっても小さくて、ダディのお腹もぺったんこだけどね、だんだんお腹が大きくふくれてくるんだよ。お腹の中で、イーリャの弟か妹がだんだん大きくなって、来年の夏に出てくるんだよ」
「ふくれるの? お腹が? 痛くないの?」
お腹がふくれるなんて大変だ。イリヤはご飯を食べ過ぎてお腹がぱんぱんになると、時々痛くなることを思い出した。あんな風にダディのお腹が痛くなったら大変だ。
「弟か妹が出てくるまでは痛くならないよ。イーリャもダディのお腹の中にいたんだよ。二回目だから大丈夫」
イリヤもダディのお腹の中にいた!? どういうこと!? イリヤがダディのお腹に入ったら、絵本のオオカミみたいにダディのお腹がやぶれちゃうよ!
「イーリャも今よりうんとうーんと小さかったんだよ。だからお腹の中に入っていられたの。イーリャの弟か妹も、今はうんと小さいけど、だんだんお腹の中で大きくなるんだよ」
イリヤはびっくりしすぎて、もう言葉も出なかった。
「ごめんね、イリューシェチカ。ちゃんと話しておけばよかったね。勇利のお腹の中にイリューシェチカの弟か妹がいるから、重たいものは持っちゃいけないんだ。でないと、勇利も、弟か妹も、具合が悪くなってしまうんだ」
「具合が悪くなるの?」
「うん。お腹が痛くなったり、イリューシェチカを置いて、お医者さんのところに何日も泊まらなくちゃいけなくなったり」
それは大変だ! ダディが何日もイリヤを置いて泊まってくるなんて! 寂しくって悲しくって、きっとイリヤは泣いてしまう。
「それで、勇利とパーパは約束していたんだよ、重たいものは持たないって。イリューシェチカはずいぶん重くなったから、勇利が抱っこしたら具合が悪くなるかもしれない。それでパーパは心配だったんだ」
そうだったんだ。だから、パーパにはナイショってダディはいったんだ。
イリヤの目からまた涙があふれそうになった。すん、と鼻を鳴らして涙がこぼれないようにこらえる。そうして、つっかえながら「ごめんなさい」といった。すると、パーパはちょっと慌てたように「謝らなくていいんだよ」といってくれた。でも。
「ちがう。イーリャが、抱っこってダディにいったの。だから、イーリャが悪いの」
こらえきれなかった涙が、ぽろりと落ちた。その涙を、パーパの温かな手が拭ってくれる。そうしてからパーパは微笑んだ。
「イリューシェチカは泣き方も勇利に似てるね」
「ええ? そう?」
と、ダディがイリヤの頭の上から覗きこんでくる。
「似てるよ。涙が落ちるところを見てると、宝石が転がり落ちるみたいだよ」
「それならヴィクトルの方がよっぽど……」
「何かいった? 勇利」
「何でもありません」
ぽんぽんと飛び交うやりとりにイリヤはついていけない。でも、ケンカしてるのではなさそうだ。
ちょっとぼんやりしていると、パーパがまたイリヤの頭を撫でた。
「イリューシェチカは、素直に〝ごめんなさい〟がいえて偉かったね」
なんて答えればいいかわからなくて、ただコクンと頷くと、「どうせ勇利が〝黙ってたらわからない〟とか何とかいったんだろう?」とイリヤに尋ねるので、「パーパにはナイショって」と素直に答えてしまった。嘘をつくのはいけませんっていつもいわれてるし。
パーパは「ふうん」といいながらダディを見る。ダディは不味いものを食べたみたいな顔をした後、「えーと……すいませんでした」といった。
パーパは何もいわず、じーっとダディを見てる。怒ってる顔じゃないけど笑ってもいない。静かな時間が少し流れた後、ダディがちょっと怒ったような声を出した。
「もう。謝ったじゃん。約束破って悪かったってば」
「逆ギレ?」
「違います」
「ほんとに悪かったと思ってる?」
「思ってるよ」
イリヤがハラハラしながら二人を見ていると、パーパは肩をすくめた。
「OK, イリューシェチカに何も説明してなかった俺たちのせいでもあるし、謝罪を受け入れるよ。でも、二回目はないからね」
「はーい」
「返事は〝はい〟でしょ」
「ハイー」
「イリューシェチカが真似したらどうするの」
「ハイ、ゴメンナサイ」
ぎこちない口調でダディが謝ると、また静かな時間がちょっと流れ──二人は同時に吹き出した。そうして、イリヤの頭の上で、ちゅっと軽いキスをした。仲直りのキスだってイリヤにもわかった。
「──さあ、食べ直そう。イリューシェチカは食べられるかな」
「大丈夫でしょ。泣いた後って、なぜかご飯が美味しいんだよねえ。ねえ、イーリャ? ヨージキ、もっと食べる?」
食べる! とイリヤがいうと、ダディが「ほらね」と笑った。パーパも笑った。
「ジーナのヨージキはイリューシェチカの好物だもんね。でも、ヴィネグレットも食べないとダメだよ。赤くてきれいだろう?」
「……グインピースきらい」
ヴィネグレットは酒のつまみに食べられることも多いサラダだ。子供のイリヤにも食べやすいように酸っぱいピクルスは抜いてあるし、塩漬けキャベツも入っていない。でも、その代わりというようにグリーンピースは必ず入っていて、これがイリヤは苦手なのだ。
「イーリャ、今日は一粒だけ食べよう。あとはダディのお皿に入れていいから」
「優しいね、勇利。もしかして子供の頃、嫌いだった?」
「あんまり好きじゃなかったなあ。イーリャの気持ちはよくわかるよ。でも、好き嫌いはダメだからね、イーリャ。段々食べられるようになろうね」
「はーい……」
「ほら、イリューシェチカが真似した」
「イーリャ、返事は〝はい〟でしょ」
「はいー」
「偉利耶(いりや)!」
「はい!」
ダディが怒った! イリヤが慌てて背筋を伸ばして返事をすると、パーパが大笑いした。
「勇利、そのへんにしておこう。さあ、イリューシェチカ、食べよう!」
そういってパーパがヨージキを割ってくれたので、イリヤは喜んでフォークを突き刺した。「すぐ甘やかすんだから……」とダディはぶつぶついっていたが、すぐに笑顔になった。楽しいご飯の時間が戻ってきて、イリヤはまたうれしくなった。
約束どおりグリーンピースを一粒だけ食べて、うえーっとなったけど、一粒ですんでよかったとイリヤは思った。
お腹いっぱいになって、幸せな気分になったイリヤは、ふと聞き忘れていたことを思い出した。
ダディとパーパのどっちに聞こうかな? ダディのお口はもぐもぐしてる。うん、先に食べ終わってるパーパにしよう。
「ねえ、パーパ」
「なんだい? イリューシェチカ」
「オトートカイモートって何?」
ダディとパーパはきょとんとしてイリヤを見つめた後、二人そろって大笑いした。