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未来に花を 手に愛を

「ヴィクトル、話があります」
ヴィクトルは愕然として勇利を振り返った。こんな、改まって話合いを要求されるような心当たりは全くない。家庭生活も仕事も順調……のはずだ。じゃあ、なんだ、今度は何を言い出すんだ、と彼の内心は恐慌状態に陥った。
それが表情にも出たのだろう、勇利は深く大きなため息を一つ吐くと、ソファのヴィクトルの隣にゆっくりと腰を下ろした。
「あのね、ヴィクトル」
「待って、勇利。心の準備をさせて」
「終わりにしよう、なんていわないから。安心して。ってゆうか、少しは慣れてよ」
勇利が少しムッとした顔でいうと、ヴィクトルは怖々見つめ返して「……ほんと?」と尋ねた。勇利はそれに深々とうなずくと、今にも耳をふさごうとしていたヴィクトルの両手を下ろさせて彼の脚の上に置き、さらにその上から自分の手を重ねた。
「実は」
冬のバイカル湖の氷の色にも例えられる碧い瞳が戦いている。勇利の大好きな色だ。
「二人目ができました」
重々しい勇利の声に、何の反応もできずにヴィクトルは固まった。思考が完全にフリーズして、愛しい男の声も意味を成さない。
「ヴィクトル、聞いてる? 赤ちゃんができたんだよ?」
「…………赤ちゃん?」
ヴィクトルが思わずオウム返しすると、勇利が「やっと話が通じた」と呆れた顔をした。
「そう、赤ちゃん。ここんとこ体調が悪いから変だと思ってたんだよね。ヒートも来ないし。今日、病院行ったら二ヶ月だって」
「二ヶ月」
「うん。体調悪いの、イーリャの時と似てるなーって思ったから病院行ったらビンゴでした。来年の夏には二児のパーパだね」
真っ白だったヴィクトルの思考に、徐々に色が戻り始める。それは勇利と子供たちと自分を取り巻く未来を彩る色だ。はっきりいえば薔薇色だ。
「──ワオ! 勇利、ほんと!? 俺、今度は絶対立ち会うからね! 何があっても! 絶対!」
重ねられた勇利の手を、今度は自ら握りしめてヴィクトルは叫んだ。途端に「しーっ!」と勇利が音を出す。
「大声出したらイーリャが起きちゃうよ。Calm down, ヴィクトル」
「ご、ごめん。嬉しすぎて──ああ、どうしよう、今すぐ叫んで走り回りたい。そうだ、仕事をセーブするよう秘書に連絡しなきゃ! ハセツには? 連絡したのかい?」
瞳まで薔薇色に染め、勢いよく立ち上がろうとするヴィクトルを何とか押しとどめようと、勇利は彼の腰を掴んで体重をかけ、ソファに押しつけた。
「落ち着いてってば。まだ誰にも話してないし、ヴィクトルも誰にもいわないで」
「Why!? こんな嬉しいことを黙ってろっていうのかい!? 勇利は嬉しくないの!?──ま、まさか、二人もいらないなんて言い出すんじゃないよね!?」
「そんなんじゃありません! もう、ちゃんと座って深呼吸でもして落ち着いてよ。はい、ヒッヒッフー」
しゃれで勇利がいったラマーズ法の呼吸を素直にまねてヴィクトルは息を整える。そうして彼の瞳に少しだけ冷静さが浮かんだところで、勇利は聞き分けのない子供に言い聞かせるかのような口調で話し出した。
「あのね、ヴィクトル。赤ちゃんができたっていっても、まだ二ヶ月なの。このまま無事に育ってほしいけど、まだどうなるかわかんないんだよ。悲しい結果になることだって充分あり得るんだ」
「そんな!」
慌てて口を開いたヴィクトルを片手で制して、勇利は言葉を継いだ。
「もちろん、そんなことにはならないように気をつけるし、ヴィクトルにも協力してもらいます。でもね、だから誰かに話すのは安定期まで禁止。あと三ヶ月は我慢して」
三ヶ月……と呟いて絶句したヴィクトルは、この世の終わりのような顔をした。
「そんな……不可能だよ、勇利。こんなに嬉しいことを隠しておくなんて」
「意外だよ、不可能って言葉がヴィクトルの辞書にあるなんて。でも、ダメなものはダメ。もしも今から公表して、残念なことになった時、なんていうの? うちの両親に、ダメになりました──ていう勇気、ある?」
ぐ……と言葉を飲んでヴィクトルは黙り込んだ。脳内では様々なシミュレートが行われているのだろう、表情がめまぐるしく変わる。そうして思わしくない結果が出たのか、目を固く閉じて首をぶんぶん振った。
「……ダメだ、そんな恐ろしいこと、考えたくない」
「考えたくなくても考えてください。それが、赤ちゃんができるっていうことです」
「勇利は何で平気なの!? 子供がダメになるかもしれない、なんて、恐ろしい未来を考えて平然としてるなんてあり得ないよ!」
「大声出さないでってば。平気じゃないけど、まあ、僕は二回目だし」
いってから、勇利はしまったと内心で臍(ほぞ)を噛んだ。明らかに失言だ。過去を蒸し返すつもりなどなかったのに。
ヴィクトルは、我が意を得たりとでもいうかのように詰め寄った。
「そうだよ、勇利は二回目、でも、俺は初めてなんだよ! イーリャの時は、勇利が教えてもくれなかったから! 忘れてないよね!?」
「……忘れてません。悪かったと思ってるよ。何度も謝っただろ。──てゆうか、ケンカしたいわけじゃないから機嫌直してよ、ヴィクトル」
この話題になると勇利はどうしても弱い。ヴィクトルの元から逃げるように去って連絡を絶ったのちに一人目の妊娠が発覚したので、彼には妊娠中の経過も出産に立ち会う喜びも味わわせてやれなかった。でも、だからこそ、と勇利は思うのだ。
「ヴィクトルには初めてのことだから、わからないことだらけだと思う。みんなには安定期まで内緒にしておくのもそう。大事なことだからこそ慎重でなければならないんだ。親の責任といってもいいと思う。今度の妊娠で、ヴィクトルには親になっていくって過程を味わってほしいんだ」
「親になっていく……過程?」
「僕たちにはもうイーリャがいるからヴィクトルにはいきなり親になってもらっちゃったけど……本当なら、お腹が大きくなるごとに親の自覚っていうのが芽生えていくんじゃないかと思うんだ。僕がそうだったから。毎日毎日変化するお腹を見ながら、赤ちゃんが育っていく喜びを感じてほしい。今度の妊娠をヴィクトルには満喫してほしいんだ」
すらすらといえた訳ではない。勇利はつっかえつっかえしながら必死に心の内を説いた。
「本当ならイーリャの時に、一緒に親になっていくべきだった。そうしなかったのは僕のわがまま。……だけでもないけど、そこはまあいいや。でも、今度は違うから。ヴィクトルと一緒に妊娠の喜びも苦しみも乗り越えていくつもりでいるから。だから」
勇利は改めて最愛の夫の手を握り、瞳を覗きこんだ。
「僕と一緒に、妊娠について勉強してください。ヴィクトルの知らないこと、いっぱいあるよ。楽しいこともそうでないこともあるけど、それを知っていくのが親になっていくってことだから。ね、一緒に親になろう?」
基本、人間関係の維持には興味の薄い勇利がここまで誰かを説き伏せようとするのは珍しいことだった。だが、こと妊娠となれば話は別だ。これからつわりも本格化する。ヴィクトルの的確なサポートなしには生活が成り立たなくなるのは目に見えている。勇利なりに必死だった。
ヴィクトルは会話を反芻するように黙り込んだ後、ゆっくりと微笑みを浮かべた。
「Ok,my dear. さしあたって一つ勉強したよ。安定期まで周りには内緒にする。それでいい?」
勇利はホッとして微笑んだ。
「うん、ありがとう、ヴィクトル。僕も勉強し直すから一緒に頑張ろう」
正直にいえば、一人目の妊娠の時は勇利自身ほとんど妊娠について学ばないまま初期を過ごしたため、つわりとの格闘以外はさしたる知識も思い出も持ち合わせていない。そのつわりにも、食べづわりをはじめ色々と種類があることを、出産して二年も経ってから幼なじみに聞いたぐらいだ。つくづく不真面目な妊夫だったと思う。というか、よく無事に産まれたものだと、子供部屋で眠る第一子を不憫に思うほどだ。
と、勇利が感慨にふけっているとヴィクトルが優しく肩を抱いてきた。
「ああ、それにしても、あと三ヶ月も秘密にしておかなきゃいけないなんて拷問だなあ」
その口ぶりがあまりに情けなさそうだったので勇利は吹き出しそうになった。
「多分、三ヶ月なんてあっという間だよ。だってヴィクトルには大役をお願いするから」
「大役?」
「そう。赤ちゃんの名前を考えるっていう、大役」
ポカンとしたヴィクトルの顔が、みるみる喜色満面に彩られた。
「ワオ! 俺が考えていいの?」
勇利はくすくす笑いながらうなずいた。
「イーリャの名前は僕がつけたからね。今度はヴィクトルの番。責任重大だよ、パーパ。この子が」
と、勇利はまだ平らなお腹を撫でさすりながら続けた。
「一生背負っていく、生まれて初めてのプレゼントだからね。こんなに責任重大で、嬉しい仕事ってなかなかないでしょ。いっぱい迷って、いい名前をつけてね」
「ワオワオワオ! 勇利、ありがとう!」
叫ぶようにいって抱きついてきたヴィクトルの背中を、赤子にするようにぽんぽん叩きながら「あ、でも」と勇利は思い直したように言葉を継いだ。
「あんまり大仰な名前はちょっと……。グレゴローヴィチとかブラディスラヴァとかつけられちゃうと、長谷津の両親が呼びにくいし僕も気後れするから、僕やヴィクトルの名前ぐらいの短めの名前でお願いしたいなあ。──ヴィクトル、聞いてる?」
頬ずりしたりキスしたりと、まるで聞いていないそぶりの夫に不安になった勇利が問いただす。
ヴィクトルは「聞いてる聞いてる」と熱に浮かされたように唱えてから、やっと身を起こした。
「短めの名前だね。オーケー。どんな名前がいいかなあ。……そうだ、勇利は何を考えてイーリャの名前をつけたの?」
え、と勇利の顔がわずかに強ばる。ヴィクトルは小首をかしげて勇利の顔を覗き込み、再度の問いを発した。
「イーリャの名前の由来、聞いたことなかったよね? 勇利がつけたんでしょ? 教えてよ」
勇利は、あー、とか、うー、と唸った後、小さく吐息をついて観念したように口を開いた。
「イーリャの時は……僕も悲壮な覚悟をしてたっていうか……変なテンションだったっていうか……立派な名前をつけなきゃって変に意気込んじゃって」
うんうん、とヴィクトルが先を促す。
「当時は公表する気なかったけど、何といっても父親はヴィクトル・ニキフォロフだし……それなりの名前をつけないと……でも、立派すぎると子供の負担になると思って、で、ロシア語の人名を色々検索して」
当時を思い返して勇利は遠い目をした。
「イリヤって〝ヤハウェは神なり〟っていう意味だって書いてあって……読みは簡易なのに意味は壮大で、日本語にも通じやすい発音だし……で、テンション上がって漢字でも仰々しい名前にしちゃって、後からちょっと反省したっていうか……」
「ええ? 後悔してるの?」
「そうじゃないよ、反省。日本語で名前を書きたいってイーリャが思ったら画数が多くて大変だろうなって」
「カクスー?」
書いて見せた方が早いな、と呟いて勇利は立ち上がり、紙とペンを持って戻ってくると、「偉利耶」と書いた。それを見たヴィクトルが「線がいっぱいだ」と眉を顰めた。
「この線を、ある法則に基づいて数えることを画数っていうんだけどね、見ただけでも線がいっぱいで書くの大変そうだろ? イーリャが苦労しそうだなって、ちょっと可哀想な気がして──まあ、日本語の名前なんて興味ないっていうかもしれないけど」
勇利の書いた字をじっと眺めていたヴィクトルがふいに破顔した。
「この字はわかるよ。勇利の利だろ」
その言葉に勇利は苦笑を漏らした。
「……うん。ヴィクトルの子だけど、僕の子でもあるわけだし、何か証みたいなものがほしかったんだね、その頃。一人で育てていくって悲壮な覚悟してたし、ほんと、テンションおかしかったっていうか……」
「ほかの字は? どんな意味があるんだい?」
「これはイリヤの偉。偉いとか並外れて優れてるって意味で、ヴィクトルの子にぴったりだなーって思ったんだよなー、当時……。イリヤの耶は、父という意味と、イエス・キリストって意味もあるらしくて、ロシア語の名前の意味に通じるなーって思ってつけちゃったんだよ……」
「何でそんなに嫌そうなの」
「いやー……今ならもう少し簡単な字を当ててあげるのになーって。ちょっと反省してるんだよね」
「そうかい? 意味を理解できるようになったらイーリャだって喜ぶと思うよ。それに、俺たち日本人以外の目から見ると線がいっぱいの方がカッコいいし」
「そうなの?」
ヴィクトルがうなずいて「カブシキガイシャとかクールだよね」というと、勇利は少し安心した表情になった。
「イーリャもカッコいいって思ってくれたらいいけど。まあ、恨まれるのも覚悟してるけどね、半分ぐらい」
「大丈夫だよ、きっと。──でも、そうか。二人目にも漢字の名前をつけやすい名前を選ばないとだね!」
「え、いいよ、そこは気を遣わなくて。ヴィクトルがつけたい名前を選んでくれれば」
勇利が慌ててそういうと、ヴィクトルはにっこり笑った。
「俺がつけたいんだから、いいよね? それに、子供二人のうち片方だけ漢字の名前がないなんて可哀想じゃないか。せっかく日本人の勇利との間に生まれるんだから、ロシアの名前も日本の名前もつけてあげた方が素敵だよ。何がいいかなあ。勇利の利が入る名前がいいよね」
「利にこだわらなくていいってば」
「俺がつけたいの! イーリャにはもうついてるし、お腹の子にも勇利と俺の子供だって胸を張って生きてほしい。俺も名前を呼ぶたび、ああ、勇利との子なんだなあって嬉しくなる。だからつける。それだけだよ」
「ヴィクトル……」
勇利が感に堪えないという表情と声音で名を呼ぶ。ヴィクトルは笑みを深めて顔を寄せると、まず頬に、それから額に、そして唇にキスを落とした。二度、三度と戯れのようなキスの後、ゆっくりと舌が唇を割る。優しく、けれど執拗に咥内を蹂躙されて勇利は喘いだ。肩にしがみつく指が震え、目尻に涙が浮かぶ。
ああ、この人と一緒に生きることができてよかった、と勇利は改めて幸せを噛みしめた。一人で子供を育てていくつもりでいたことなど、もはや夢の中の出来事のようだ。ヴィクトルと子供との暮らしを経験した今、とても一人になど戻れないと思ってしまう。
怖い、と勇利は思った。ヴィクトルの気持ちが離れたら一体どうなるのだろう。自分一人が捨てられて……。
「──こら、勇利。考え事? ずいぶん余裕だね」
いつの間にか唇が離れていた。目をしばたたくと、ヴィクトルが少し怒った顔で勇利を睨んでいる。
「ごめん。ちょっと幸せを噛みしめてたら、ぼーっとなっちゃって」
「ほんとに? それだけ?」
頬が少し膨らんで唇が尖っている。怒った顔、可愛いなあ、と勇利は思った。ところが思っただけに留まらず声にも出ていたようで、ヴィクトルの睨む目がきつくなる。
「ユーウーリー? 可愛いって何。まじめに聞いてる? やっぱり幸せを噛みしめてただけじゃないね? ほかにも余計なこと考えてただろ」
余計なこと、といわれてちょっとカチンときたが、キスやもろもろの最中の考え事を嫌うヴィクトルと暮らしていながら不注意だった自分が悪いしなあ、と勇利は腹立ちを押さえた。
「別に……ちょっと、不安になっただけだし」
「何? 何が不安? ちゃんと話して」
ヴィクトルは勇利の両肩を掴んで向き合うと真剣な顔で尋ねた。勇利とは意思疎通をおろそかにすると、後で手痛いしっぺ返しを食らう。バルセロナがそうだし、自分の元から逃げ出されたこともそうだ。もう、あんな胸の潰れるような思いはごめんだと、ヴィクトルはほとんど決死の面持ちだった。
「いや……そんな大事じゃなくて、ちょっと心配しただけで。マタニティ・ブルーかな」
「大事かどうかは俺が判断する。話して、勇利」
はぐらかすのは無理と判断した勇利がしぶしぶ言葉を発した。
「もう、ほんとにちょっと不安になっただけなんだってば。ただ、ちょっと、ヴィクトルの心が僕から離れたらどうなるのかなーって思っただけで」
それだけだよ、と結んだ勇利の顔を、ヴィクトルはなおも見つめてくる。その表情には、一片の嘘も許さない、見透かしてやるという決意がみなぎっている。勇利はちょっとだけめんどくさいと思ってしまった。
気の済むまで勇利の表情を探ってから、ヴィクトルは深々とため息をついた。
「……勇利。君は何かあるとすぐに俺の気持ちを疑うけど、そんなに俺って信用できないかい?」
「いやー、どっちかっていうと信用できないのは僕自身かなー。ヴィクトル・ニキフォロフに愛される僕っていうのがもう有り得ないって、心の底の、そのまた底の方に残ってるんだと思う。ヴィクトルのせいじゃなくて、ヴィクトルに憧れてた頃の強硬派の自分が、僕なんかヴィクトルにはふさわしくないって思っちゃってるんだよね、多分。これはもう、どうしようもないよ。これを直そうと思ったら今までの人生を生き直すしかない。ヴィクトルを知らない自分としてさ。そんなの無理だし、その方が不幸だから考えたくもないけど」
勇利の心の奥底に横たわる、拭いがたい現状への不信感を吐露されて、ヴィクトルは束の間打ちのめされた。この不信感を払拭するにはどうすればいいのか。これを放置しておけば、いつとも知れず勇利の中で大樹に育って、またヴィクトルの元から失踪する原因となるかもしれないではないか。そんなことはさせない。二人目の子供ができたという喜びの最中(さなか)にあってさえ頑固に根を生やした不信感だが、必ず消し去らねばならない。今後の幸せな人生のためにも。
「オーケー、わかった。俺はその、勇利の中の強硬派を倒せばいいんだね」
不穏当な表現に、勇利はちょっと身を退いた。
「倒すって、何するつもりなの」
「うん? 勇利が、もうお腹いっぱいですっていうくらい、俺が君を愛してることを伝えていくだけだよ。あと、勇利以上にヴィクトル・ニキフォロフにふさわしい相手はいないって信じさせるし、俺に愛されることが勇利の幸せなんだってことをもっともっと実感してもらう。それから──」
「いや、待って待って。なんか怖いんだけど」
「とりあえず、今までよりもっといい夫になるし、父親になるよ。ほんの少しも不幸だなんて思わせないようにする。頑張るから見てて、勇利」
「ヴィクトル……ヴィクトルはもう充分頑張ってくれてるよ。忙しいのに、ちょっとの時間もイーリャと過ごしてくれてるし、僕にも気遣ってくれるし」
「何いってるんだ、そんなのパートナーとして、父親として当然のことだろ? それだけじゃ足りないから勇利の中の不安の虫が騒ぎ出すんだから、俺にはまだ頑張る余地があるってことなんだ。違うかい?」
何と答えればいいだろう。違わないと答えたら、とんでもない強欲な気がするし、違うと答えればヴィクトルの気持ちを無為にしてしまう。勇利は束の間迷って、しかしどちらの答えもこの場にふさわしいように思えず、言葉もなく愛しい夫を抱きしめることでしか応えられなかった。ただ、自分は愛されているんだなあ、とそれだけは深く心に刻むことは忘れなかった。愛する人まで不安にさせてしまう、自分の中にいる不安の虫がいなくなってくれればいいと本心から思った。ヴィクトルの肩に顔を伏せて目を閉じる。じわりと目が熱くなった。大きな、優しい手が背中をさすっている。この手を取って、どこまでも一緒に歩んでいきたいと勇利は改めて思った。
「ヴィクトル、僕……、僕も頑張るよ。こんな疑惑の種みたいなもの、消し去ってしまうように努力する。僕だってヴィクトルをあ……愛してる、し、ヴィクトルと子供たちと幸せに暮らしていきたいって思ってる。ほんとだよ。それだけは疑わないで」
「わかってる。愛してるよ、勇利」
ヴィクトル、と愛しい名を呟く唇に、形のよい唇が重なる。今は閉じられた目蓋の下、美しい碧の瞳がどれほど情熱的に愛を囁くか、自分だけが知っていることを勇利は震えるほどの喜びと共に思う。こんなにも美しい人に愛される喜びに不安はつきものなのだけれど、それが愛する夫を悲しませる原因になるなら、そんな不安は抱かないように努力しようと勇利は思った。
腕の中の重みが増して、背中がソファの感触を伝えてくる。ヴィクトルの手が服の裾から滑り込んできて、勇利は慌ててヴィクトルの背を叩いた。
「──ヴィクトル! ストップ! ダメ!」
これじゃまるで犬の躾だが、勇利は必死だった。ヴィクトルはすっかりその気で勇利に覆い被さり、やめるそぶりも見せない。まずい。このままなし崩しはまずい。
「ヴィークートールー! ストーップ! やーめーてー! おしまい! ダメ!」
背を叩き続け、色気のない言葉を発し続ける勇利に、さすがに気が削(そ)がれたのか、ヴィクトルが不機嫌な顔で身を起こした。
「もう、何なの、勇利。今、いい雰囲気だっただろう? 何が不満?」
いや、不満はないけど、と呟いてから勇利も身を起こし、ヴィクトルから少し身体を離した。
「えっと……妊娠についてのお勉強、その2、です」
首をかしげるヴィクトルに、勇利はいっそおごそかに宣言した。
「これから安定期までは、えっち禁止です」
「What!?」
「安定期まで、えっち、禁止」
「区切っていってほしかったわけじゃないよ! どういうこと!? 俺に死ねっていうの!?」
「いや、赤ちゃんが死んじゃうし」
息を呑んで絶句したヴィクトルは青ざめているように見える。はたして、青ざめたワードはどっちなのか、えっち禁止の方か赤ちゃんが死んじゃうの方か悩ましいところだが、勇利は深く追求しないことにした。
「誰でもそうなの。みんな禁止されるの。リビングレジェンドでも例外じゃないの。でないと赤ちゃんとお別れすることになっちゃうから。安定期まで我慢してください。手とか口とかならできるから」
何とかそれで、と締めくくった勇利にヴィクトルがどさっと身体を投げ出すように抱きついてくる。脱力しきった身体を受け止めながら、赤ちゃん潰れるからこれも禁止だなあ、と勇利はぼんやり考えた。
「そんなにがっかりしなくても……生まれるまで禁止な訳じゃないんだから。元気出して」
よしよしと頭を撫でると、肩口にすりすりと頬を擦り付けてヴィクトルが嘆きを表現してくる。そこまでがっかりされると求められている側としては多少嬉しくもあるが、いつまでもこのままではよろしくない。第一うっとうしい。
「ほら、もう二児のパーパなんだからしゃんとして。そんなんじゃイーリャにも笑われちゃうよ」
勇利の言葉に、ヴィクトルは少し顔を上げてじとっと睨んできた。
「なんで勇利は平気なの」
「そりゃ、ちょっとは寂しいけど、僕はこれから赤ちゃん第一の生活に入るから。今までとは色々変わることも出てくるよ。えっちもその一つ。子供が産まれるってそれだけ大変なことなんだよ。ね? 頑張って、パーパ」
への字に曲がったヴィクトルの口にちゅっと音を立ててキスをする。勇利としては大サービスだ。
ヴィクトルは不承不承といった面持ちで身を起こすと勇利のお腹に手を当てた。
「早く元気に産まれておいで。でないとパーパは寂しくて死んじゃうよ」
勇利はくすくす笑いだした。そうしてヴィクトルの手の上から自身の手を重ね、お腹に向かって語りかける。
「パーパとダディとイーリャが待ってるからね。元気に育って産まれておいで。産まれたらヴィクトルに一番に抱っこしてもらおうね」
ようやくヴィクトルも笑い出した。大輪の花のようだと勇利は思う。
「絶対に立ち会うからね。会える日が楽しみだよ、俺の大事なお嬢さん」
「お嬢さん? まだ性別わかんないよ?」
「絶対に娘だよ。勇利に似た黒髪で鳶色の瞳の、愛らしい子豚ちゃん二世だ」
「えー。それは可哀想でしょ。娘ならヴィクトルに似てた方が人生うまくいくよ」
「聞き捨てならないな。勇利は俺と一緒にいて、人生うまくいってないと思ってるの?」
それもそうか、と勇利は思った。こんな冴えない自分でもヴィクトルの傍にいられる幸運をつかめたんだから、僕似でも何とかなるかも。半分はヴィクトルの遺伝子も入るんだし。もう、ヴィクトルの遺伝子を受け継いでるってだけでも最強じゃない?
とはいえ、ヴィクトル似の方が絶対に人生イージーモードだ。こればかりは譲れない。勇利としては育てるならヴィクトル似の方が楽しい。ような気がする。
「聞こえる? 赤ちゃん。今からでもヴィクトルに似て産まれておいで。黒髪に黒い目でもいいから」
「何いってるの、子豚ちゃん二世だよ。勇利そっくりに産まれておいで」
「そんなの僕がやだ」
「俺だって嫌だ」
二人で睨み合い、それから同時に吹き出した。
ヴィクトルの手が勇利のまろい頬を包む。察して目を閉じた勇利の唇にヴィクトルのそれが重なって、この長い夜はようやく収束に向けて動き出したのだった。

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