「さらさらですよねえ」
五代は俺の髪を梳きながら嘆息する。
髪をすくっては指の間からこぼしてみたり前髪をいじったりと、よく飽きないものだと感心するほどだ。
「五代」
「はい?」
「悪いがそうされると、仕事に差し支える」
俺は書類の束をとんとん、と揃えると、ことさらしかつめらしい顔で資料をにらみつける。
「・・・は~い」
唇を突き出した子供のような顔で、しぶしぶ、といったふうに手を引っ込める五代。
それでも俺の傍にぴたりとひっついて離れようとはしない。
ソファの上に膝を抱えて座り込み、手持ち無沙汰そうに俺の横顔を見つめている。
「今日はかまってやれない、と言っただろう」
「だってぇ~・・・」
二十五の男が「だって」もないだろう。
「ポレポレに戻っても、いいんだぞ」
「ヤですっ!」
「退屈なんだろう?」
「だからって帰るの、ヤです。何でそんな冷たいこと言うんですか」
「なら、我慢できるのか?」
「・・・・・・します」
ぶう~、とふてくされた顔のまま膝に顎を乗せ、それでもじっと我慢している。まるで、飼い主による「待て」の命令が解除されるのをじっと堪えるペットの、・・・それはいくらなんでも五代に失礼か。
しかし、自分の連想があまりにも的を射ていて、口元が緩むのを抑えきれない。
横目で俺の様子を伺っていた五代が、目ざとくそれに気づいて、
「なに、にやにやしてるんですかぁ。マジメに仕事しないんなら、相手してくださいよぉ」
と再び絡みだすのを、
「却下」
と一言のもとに切って捨てる。ひどいぃ~、と泣き言をもらして、五代の体は軟体動物のようにずるずるとソファ下の床にずり落ちていく。ぺたん、と床に尻を着くと、じぃっと上目遣いで俺の顔を見上げた。
今日は負けん。そんな目をされてもな。
今まで散々その目にやられてきている身としては、はなはだ心もとない決意ではあった。しかし明日は、
隣県3県の重鎮が顔を揃える会議で、これまでの未確認事件の経過、並びに今後予想される犯行パターン等々を報告しなければならないのだ。
その準備があるからと、あらかじめ言っておいたじゃないか。正直、俺だってこんな紙より君の顔を見ているほうが何倍も楽しいさ。
脇道に逸れていきそうな思考を、目の前の資料へと軌道修正する。
我慢しろとは言ったが、そのまま放っておくのもかわいそうだ。さっさと片付けて、お望みどおり相手してやるから。
そんな俺の胸中を知ってか知らずか、今度は俺の脚にじゃれ始める。膝に頭をもたげ、指先で弄うように脛をなぞった。膝下から足首へと何度も往復させる。
「こら」
「・・・つまんない」
ああ、俺だってつまらんさ。
「だからポレポレ戻れって」
「イ・ヤ・で・す」
頑固に言って俺の脚に腕を絡みつかせる。
「この間の非番だって、急に携帯で呼び出されて行っちゃってさ。そのまま夜になっても帰ってきてくれないし」
仕方ないだろう。未確認が出現したとなれば、行かざるを得ないんだ。まぁあの時は誤報だったが。
「その前の休みだって」
あの時は・・・未確認事件の事後処理と強盗事件が重なって、手が足りないと借り出されたんだったか。いや、その前だったか?
「・・・何日、してないと思ってるんですか」
・・・五代、その「して」は、あの「して」なのか?いきなりその話題か?しかし、あのだの、そのだの、まわりくどくてうんざりするな。
「・・・二週間、か」
「ちゃんと覚えてるんですね」
そりゃあ、まあ。
「いつまで俺のこと放っとく気?」
だから・・・さっさと終わらせるから。もうちょっとでこの資料、読み終わるから。
「俺が浮気しちゃっても、いいってワケ」
「・・・浮気、したいのか?」
ドスッ!
げほっげほごほごほ。
ばさばさばさ。
「もうっ一条さんのバカッ!」
鳩尾にクリティカルヒットをくらい、背を丸めて呻く俺を置き去りにして、五代は足音荒くリビングを出て行ってしまった。
立ち直るまでに少し時間がいった。俺としたことが、油断した。醜態をさらしたものだな、とため息を吐き、まだ痛む鳩尾を摩りながら散らばった資料を拾い集める。
容赦ナシの一撃だった。よほど腹に据えかねたのだろう。最後の一言は、さすがにまずかったか。
放りっぱなしの自覚は確かにあった。仕事だからと言えば、寂しげな色を笑顔ににじませて、それでも我慢してくれる五代に、報いてやれることの方が少なくて嫌気がさすほどに。
資料を揃えなおしてテーブルに置く。どのみち、もう今日はこの紙束と顔をつき合わせる気にはなれなかった。
明日の朝にでも詰め込むさ。それよりも。
―――ポレポレに、帰ったのだろうか。・・・あのマスターや、何とかいう娘の前で修羅場を演じるのは勇気がいるな。
自嘲気味に笑いを漏らすと、一条は財布をつかみ、上着を羽織るとリビングを出た。
―――と。
玄関の上がり口に座りこんで、背中を丸めた姿が目に飛び込んできた。
「・・・・・・」
そういえば、玄関のドアを開閉する音は聞かなかった、と今さらながらに思い当たる。
自分の鈍さ加減を胸中でののしって、やけに小さく見える後ろ姿に歩み寄った。
丸まった背中が寒そうで、羽織っていた上着を脱いで着せ掛ける。膝をついて腕を回し、そのまま抱え込んだ。
「―――風邪を引くぞ」
応えはない。だが、回した腕を振り解く気配もないことに安堵する。
「もう、仕事はやめたよ・・・部屋に、戻らないか?」
それでも返らない応えにくじけず言葉を継ぐ。粘り強い性格を与えてくれた両親の遺伝子に感謝する。
「すまなかった。寂しい思いをさせて」
ぴく、と腕の中の体が反応する。
「夕飯、君の好きなものでも食べに行こうか。それか・・・一緒に作るとか。もっとほかにしたいことがあるなら、それでもいい。とにかくちゃんと、謝らせてくれないか?」
抱えた体が身じろいで、顔の角度がやや背後に―――俺のほうに向けられた。
「・・・ほんとに謝る気、あるの?」
「あるさ・・・五代に嫌われたくないからな」
五代は目を伏せて、ほう、とため息を吐いた。彼の緊張が緩むのが感じられる。
それでも彼はすぐには動き出さない。以前にも何度か些細なけんかをしたが、そのつど観察した結果によると、―――どうやらすぐにほだされてしまうのは悔しいらしい。
ぐい、と抱いた体を引き寄せて胸の中に抱え込み、回した腕でしっかりと抱きしめた。コトン、と五代の頭がもたれてくる。その髪に頬ずりし、頬にあてがった手で顔を上向け口付ける。キスの後のほんのり上気した顔を見るのが好きだ。
「な。・・・部屋に戻ろう?」
「―――うん。・・・けど」
「ん?」
「部屋じゃなく・・・ベッドがいい・・・」
「・・・抱っこしていくか?」
「歩きますっ」
ようやく俺のほうを向いて笑顔になった五代ともう一度キスしてから、肩を抱いて寝室に向かう。
ベッドに横たえると、嬉しげに目を細めて俺を引き寄せる。
「寂しかったんだからね・・・」
わかってる。俺だって寂しかったさ。
誘われるままに五代に覆い被さり、この二週間の隙間を埋めにかかる。熱く、深く。
そうして―――結局また彼に敗北を喫してしまったことに気づいて俺は苦笑いを零した。
(2002.11.05)