通い慣れた関東医大の廊下を靴音高く一条は歩む。長引いた会議からようやくのことで解放され、椿の診察室へと急いでいるのである。今日は五代の検診日だ。一条は、よほどの事情がない限り同席するよう努めている。初めは義務感と罪悪感から、今は五代への想いから。
ノックもそこそこに診察室のドアを開けると、白衣の後ろ姿がデスクに向かい、カルテだろうか、なにやら書き物をしているところだった。
「遅くなった。五代は」
「おお。さっきMRI終わって着替えてるところだ。あと残ってるのは採血だけだから、じきに戻ってくるだろ」
椿は振り向きもせず、持っていたペンで傍らの診察台を示す。
一条も特にその処遇に不満を覚えることなく、診察台に歩み寄ると腕を組んで軽く腰掛ける。
「結果はすぐ出るのか?」
「いやまだだ。レントゲンの現像待ち。今日は混んでる日でな、いくら最優先にとはいっても限界はあるからな」
「・・・それ以外の結果はもう出ているだろう。どうなんだ、五代は」
「ヤツがきたら説明してやるよ。おとなしく待ってろ。俺に二度手間かけさせる気か」
やや憮然として一条が黙り込むと、その気配を察したのか、椿は背中で笑い、やおらペンを放り出すと両腕を伸ばして大きく伸びをした。ついでに大あくびをし、首を回してコキコキと音をたてた。
「暢気なものだな」
「・・・オマエな。人間の健康の基本はバランスの取れた栄養と労働と休養なんだよ。お前みたいな労働にばかり偏ってるヤツは、後になって一気にガタがくるんだぜ」
椿は振り向き、一条に向かって実に人の悪い笑みを浮かべた。
「まずストレスな。これは風邪に次ぐ万病の元だ。お前なんかストレスかかりっぱなしだからな、さぞかしあちこちに異常が出てくるだろうよ」
楽しげに笑う椿に、一条は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「そうだな、まず、額が広くなっていくだろ、ストレスで毛根が弱っちまってな。摂食障害になって暴飲暴食なんかし始めると下っ腹にくるよな。―――おや、どっかの誰かさんにずいぶん似た症例だよなあ」
「・・・いい加減にしろ」
地を這うような声を出した一条に、椿は呵々と大笑し、
「まあ、ストレス溜まったら五代に解消させてもらうことだな」
と、こともなげに言った。
その言葉に一条はぎょっと目を見開いてしまう。しまった、と思ったときには、椿の笑みはニヤニヤとしか形容できないものに変わっていた。
「図星か」
「・・・何のことだ」
「とぼけんなよ。ずいぶんご執心じゃねえか。宗旨替えか?学生時代、言い寄ってくる男がないわけじゃなかったが、鼻も引っ掛けもしなかったのによ」
「当たり前だろう。誰が男に言い寄られて嬉しいものか。そっちこそ、年下のビショウネンからよく手紙がきていたようだったな」
言葉尻だけに反応して話題をそらそうとする一条に、椿は追及の手を緩めない。
「俺さまの愛は美しいものには分け隔てなく与えられるんだ。―――で、どうなんだよ?解消させてもらってるんだろ?」
「ふざけるのも大概にしろ」
「俺はいつだって大真面目だぜ」
胸に手を当てて、うんうんと頷く椿に一条の口からため息が漏れる。
「―――観念しろ。吐け」
「それは俺の専売特許だ」
「・・・イマドキ『専売特許』なんて表現使うヤツがいるとは夢にも思わなかったぜ。看護婦に聞いてみな、みんな知らねえぞ。倒錯性愛者のうえ生きた化石とは、標本にしてとっておきたい珍重さだね」
「お前にだけは言われたくない。それになんだ、その差別的表現は。仮にも医療従事者が人心を踏みにじるような発言をするとは、日本の医療従事者のレベルも落ちたものだな」
倒錯性愛者というインパクトのある言葉に一瞬絶句したが、ここで黙り込むとこの先好き放題からかわれるのは目に見えている。一条はすぐさま立ち直って反撃に転じたが、椿は鼻先で笑い飛ばした。
「俺さまの天才的頭脳はキャパもデカいんでね。―――で、お前は、今の俺の言葉のどの辺りでジンシンがフミニジラレタってわけ」
「・・・・・・」
椿の見事な一本勝ちがきまった瞬間だった。
「入れあげたもんだな。珍しく」
「うるさい」
「しっかし、お前が男とねえ・・・」
「まだそれを言うか」
なし崩しに五代との関係を認めた形になってしまい、一条の眉間のしわは深さを増す一方だ。
「・・・あれか。もう、いいのか」
「なにが」
「大事なモン、作らねえ主義だったろ。だから学生の頃だってそんなにのめりこんで誰かと付き合うことなかったってのによ」
「・・・・・・ああ」
「あいつなら、いいってことか」
「・・・・・・」
そういえば、彼とのことをそんな視点から考えたことはなかったと一条は思う。彼が大事な存在であることは間違いない。かけがえのない存在といっていい。だが今までの一条ならば、これほど深く付き合う前に自ら抑制をかけていたはずなのだ。
椿はそれが意外だと言っている。
「結局、恋は盲目だったってことだな」
確かにそうかもしれない。少なくとも、彼との付き合いを制限しようなど意識の端にすら上らなかったことは間違いない。気づいたときにはすでに深く彼に絡めとられていたようなものだが、それを由々しき問題だとは考えなかった自分がいる。
独占され、独占することの、歓喜。
ただ二人でいる、その事実だけがもたらす、安堵。
五代と付き合うようになってからの己の変化を、しかし一条は好もしくさえ思うのだ。
「しかしよ、お前、いいのか?」
「なにが」
話しづらいことを話そうとするときの椿の癖だ。肝心な単語を一切省略して、まるで子供のような話し口になる。
医師としてなら、言いにくいこともずけずけと口にするくせにな―――と、一条は苦笑いした。
「ひびいたりしねえのか。仕事には」
「仕事?」
「―――だからよ」
「・・・ああ・・・」
準キャリア、と俗に呼ばれる身分で、男の恋人を持つことはマイナスにしかならない―――友人の懸念はもっともだ。変わりつつあるとはいえ、いまだ警察組織の中でキャリアと呼ばれる集団は特異な位置を占めている。その多くが上司・高官との縁戚を通じて閨閥を築き、組織の階梯を上りつめていく。他者を蹴落とし、派閥に与して。
その集団の一隅にいる一条にとって、五代の存在は格好の標的となるのだと、椿は示唆している。
「何もお前の心配してんじゃねぇぞ。ただ・・・アイツのこった、こんなことに気づいたら、よ」
「わかっている。五代に悟らせはしない」
「まぁ当然だな。ただ、アイツ・・・ヘンに聡いだろ。どっからか耳に入るってことも」
「たとえそうなったとしても、何も変わらん。変えるつもりはない。変えさせるつもりも、な」
えらい自信だネェ、と冗談めかして椿はこの話題をしめくくった。要は、一条の覚悟のほどを見定めたかった、ということなのだろう。もちろん、この人の悪い友人は、今後何かにつけて、この件を持ち出しては自分を揶揄していくのだろうが。
「突き抜けちまったヤツてのは、コワイねえ。もう悩んだりもしないってか」
「そもそも悩むことなどなかったさ」
「ああ?男同士なのに、か?お前の性格で?俺はまた、お前のこったから、うじうじ悩むのかと思ったぜ」
「うるさい。―――何を悩むことがある」
「反社会的とか、日陰者とか、刑事のくせにパートナーは法で認められた存在でない、だとか」
「つまるところお前が聞きたいのは、そこか。―――法で認められない、というところ」
言い当てられて椿はバツの悪い顔をしてみせた。
法を遵守する立場の自分がパートナーとして選んだ人間は、現在のところどう足掻いたとて法の擁護は得られない。また、将来しかるべく法整備されたとしても、やはり自分の職務上の立場を考えれば、歓迎され得るパートナーとはいえない。そこのところの一条の葛藤を椿は知りたいのだろう。
「そんなことで悩みはしなかったさ」
「・・・強がるなよ」
一条は口許だけで、ふ、と笑った。
「・・・本当のことだ。自分が彼を選んだことを驚きはした。自分でも実に意外な選択だったからな」
「驚いた、だけだってのかよ、マジで?」
ああ、と肯く一条に、怪しいもんだ、と椿は鼻白む。そんな彼の態度に一条は苦笑して言った。
「俺が悩まなかったというのが、そんなに不服か」
「大いに不服だ。第一、つまらん。・・・刑事のくせに隠し事をするとためにならんぞ」
時代劇中の同心のような台詞を吐いた椿に、一条は背を丸めてくつくつと笑った。
「・・・何をどう言っても信じない男が何を言うか」
「信じるに足るとなれば、信じるさ。さぁ吐け」
やれやれ、と一条は内心で吐息を吐く。高校以来の友人で、実はけっこう世話好きで、割とお人好しなところもあるくせに、皮肉屋の仮面で本心を覆い隠すのに長けたこの男は、どうやら中途半端で解放してはくれないらしい。
天井を見上げ、ほう、と息を吐いてから一条は話し出す。
「お前の言うようなことでは悩まなかった。ただ五代が傍にいてくれればそれでいいと、・・・それだけだ」
「カッコつけんじゃねえよ」
鼻先で笑う椿に、
「なら聞くがな。パートナーとしての五代が問題になるといえば、どんなことがある」
「どうって。だから、さっき言ったようにだな」
「俺たちは法で認められ、擁護される関係にはなり得ない。だが―――それが何だというんだ?」
そう言い切った一条に椿は目を剥いた。
「逆にいえば、その程度の問題しか存在しなかったんだ。俺と五代には。法の問題、それだけだ」
付き合い始めのころ、確かに意識の片隅にちらついたことのある問題だった。だが、法の擁護が得られないなら自分が守ってみせるだけだと―――そう考えたことは今も記憶に新しい。法的に望ましくないという理由で五代を切り捨てるという選択肢はそもそも自分の中には無かったのだと一条は言う。
「悩む必要も無い。職務上不利になるかもしれん。だがそれも予想のうえだ。不利をカバーして余りあるほど働いて成果を挙げていけばいい。それだけのことだ」
椿は言葉もなく一条を見つめる。強がりでなく、本当にそう考えているのだろう。そうして、この男はこともなげに実行していくのだろう。五代を深く懐に抱いて。
「やれやれ。天下の一条薫がネェ。・・・御見それしましたよ」
そう、肩をすくめる椿に、一条はようやく解放されるかと安堵した。
だが。
「ところで、俺が言ったようなことでは悩まなかった、って言ってたな?―――てェことはだ。別のことではぐるぐる悩んでたってことだよな」
再びニヤリと笑って痛いところを突いてきた椿は、一時の衝撃からすっかり体勢を整え直したようだ。
いい加減、辟易した一条が怒鳴りつけてやろうかと口を開きかけたそのとき―――数回のノックに間髪入れずドアが開き、―――方形の空間が救い主の姿を生み出した。
「椿さん、採血終わりましたよ―――って、アレ?一条さん、来てくれたんですか?」
喜色を浮かべる五代に、一条は優しく微笑んで歩み寄る。唐突な五代の出現で断ち切られた椿の追及に対する内心の深い安堵を、毛筋にも悟らせない辺りは腐っても刑事である。
「ああ、遅くなってすまなかった」
「や、そんなそんな。・・・すみません、会議だったんでしょ?」
「気にしなくていい。今日は定例の会議だし、ここのところ未確認が鳴りを潜めているものだから、そう大した事案もなかったし、な」
「―――なら、イイんですけど。あ、椿さん、検査の結果ってもう出ました?」
「・・・レントゲン待ちだ」
「?・・・なんか機嫌悪くないですか、椿さん?」
「放っておけ。それより五代、ちょっと話があるんだ、外へ。―――椿、結果が出たら呼べ」
「・・・へいへい」
じろ、と凶悪犯に相対するときのような視線で睨みつけられ、不承不承に椿は承服してみせる。
一条は困惑したままの五代の背に手を置いて、診察室の外へと誘った。
ドアが閉まり、―――何かあったんですか?―――いいや別に、と二人のやり取りが漏れ聞こえていたが、・・・それもすぐに聞こえなくなった。
診察室に一人取り残された椿は、
「・・・これで逃げられたと思うなよ」
と、聞くものとてない空間に無為に言葉を紡ぎだしながら、次の作戦を練っていた。
(2002.11.10)