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「お帰りなさ~い」

汗を含んだ綿のようにぐずぐずになって帰宅した俺を、夏の陽光が出迎えた。
来てたのか、とは言わない。会いたくなったから、なんて言わずもがなの言い訳を口にさせる必要などどこにもない。
「・・・ただいま」
「へへ。お疲れ様でしたぁ~。────ねぇ、夕食は? もう食べちゃいました?」
「いや・・・」
上衣とカバンを受け取りながら小首を傾げる五代に、ネクタイを緩めながら応える。
「・・・・・・白状するが、昼も抜いたんだ。何だかタイミングを逃してしまって」
「もう~」
「正直、目が回りそうだ。腹が減って」
途端、五代の目がまん丸になる。
「すっすぐ用意するから風呂入ってきてください。あ、湯船じゃなくてシャワーのほう!」
「溺れたりしないよ。・・・そこまで切羽詰まってないから」
怪しいなぁ~、と笑いながら背を向けた五代の後ろ姿に目が釘付けになった。


鼻唄が聞こえる。
換気扇の音、リズミカルにまな板を打つ音。鼻腔をくすぐる匂い。・・・焼き魚、か。
台所を窺う。なにやら刻んでいる五代の後ろ姿が目に入る。見慣れたエプロン姿。見慣れてしまった情景。
そして、ひとつだけ見慣れないもの。
「五代」
声をかけると、ひくん、と薄い肩が揺れた。
「あ、びっくりした~。────早かったんですね。もうできますから座って下さい。なんか飲みます?」
「いや・・・いいよ」
「そう? ですか?」
「うん」
わっかりましたぁ~、と節をつけて答えながら、まな板を傾けて、刻んだ青物を鍋の中に入れている。
「味噌汁?」
「はい。ねぎと豆腐とワカメ。一条さん、好き?」
うん・・・、と口の中で生返事を呟きながら、五代の背に歩み寄る。
「五代?」
「はい?」
かちん、とガスレンジのつまみを閉じて、振り返る。すぐ後ろに近づかれていたことに驚いて、まん丸になった目が、すぐにほわりと柔らかな三日月の形になる。
「なんですか?」
「────それ、どうしたんだ?」
「ン? どれ?」
「髪。後ろの・・・」
「あぁ、これですか・・・。あ、スイマセン、お椀、取ってくれます?」
「ん。────お前の分は?」
テーブルに用意されていたのは一人分の食器だけ。
「ガマンできなくて食べちゃいました。・・・少しなら、お相伴させてもらいますけど?」
「いいよ。無理して腹壊されたらシャレにならないし」
「コドモですか、俺は」
くすくすと、ひとしきり笑い合って。
「なぁ、五代。髪・・・」
「え? あぁ・・・気に入りません?」
そう言うと、五代はちょっと心細げな顔になって、後頭部に手を回した。
伸ばしているのか、めんどくさいだけなのか、くせのある髪は襟足を覆い隠すほどに伸びていた。季節が夏に向かうとともに「切る切る」と言葉だけは積極的だったが、一向床屋に行く気配も見せず・・・。
その髪が、後ろで一つに束ねられていた。
四角いプラスチックの飾りのついた、鮮やかな水色のゴムで。
「・・・それ、コレクションなのか?」
「あ、コレ!? やっだなぁ、ちがいますよォ~。昼間、みのりンとこ行ったらね、あげる!ってイキナリ」
「みのりさんに?」
「んん。真知子ちゃんっていう、年中さんの子」
「・・・・・・守備範囲が広いな」
「ち・が・い・ま・すぅ~」
「だが、プレゼントなんだろ? 幼稚園児にまで貢がせるとは、なかなか大したもんじゃないか」
「あのねぇ~!」
口許に拳を当てて笑いを噛み殺していると、五代は頬を膨らませて、ぷいっとあさっての方を向いてしまった。
束ねた髪が揺れる。短くてフサフサした犬の尻尾みたいだな、と思った。
「────もう。人のこと、からかっちゃってサ。そんな一条さん、キライですっ」
それは、困るな。
せっかく見つけたばかりなのに。
「────わ」
エプロンの背中に添って、細い腰に両腕を回した。
「ちょ、ちょっと」
うなじに顔を埋める。なだらかな首筋から肩の線。普段日に晒されることのない、うなじの白。僅かに、五代の汗の匂い。
「うひゃ」
耳の後ろから、うなじにかけて唇を這わせる。髪の生え際にきつく口付けると、薄赤い痕がやたらなまめかしく見えた。
「────ちょっと、一条さんッ! ご飯が冷めちゃうでしょッ!?」
「ん・・・?」
夢から覚めたような思いで目をしばたたくと、五代が困惑と羞恥と少しだけ怒りの混じった顔で、しかし、しっかり頬だけは赤らめて睨みつけていた。
「座って下さいよォ! もうっ!」
「・・・頬っぺた、赤い・・・」
まだ半分夢の中にいるような気がして、ぼんやり呟くと。
「す・わ・れって、さっきから言ってるでしょ────!!」
五代には珍しく、思いっきり怒鳴りつけられた。


遅い食事を終え、後片付けが終わる頃には、五代の機嫌もあらかた直っていた。
「泊まってく、か?」
「はい。────風呂、借りますね」
ああ・・・と応えながらテーブルを立つ。そういうことなら、シーツぐらいは変えておいたほうがいいだろう。五代の着替えも出してやらないと。
殺風景だった寝室は、五代が少しずつ持ち込んだ小物で、人間の住処らしい雰囲気を醸し出しつつあった。
チェストの上には、どこかの風景写真。空と山並みとが溶け合ってしまいそうな青い写真だ。そのチェストの引き出しを開けてパジャマ代わりのTシャツと短パンと下着を取り出す。以前、五代が置いていったものだ。
別の引き出しからシーツを取り出し、ベッドに向き直る。上掛けをはいでシーツをむしりとり、手早く敷き換える。片手に着替え、もう片手にはがしたシーツを持って、さて風呂場に・・・と踵を返すと、
「・・・・・・・・・・・・なん・・・だ。ずいぶん、早かったんだな」
寝室の戸口で、腰タオル姿の五代が、頭にもタオルを被り、その隙間からじっとこちらを眺めている。
そのまま、わしわしとタオルで髪をかき回しながら無言でベッドに歩み寄り、ぼすん、と腰を下ろして沈み込んだ。
「・・・どうした?」
「何でもないです」
何でもない、とは、とても思えない有り様に見えるが。
「・・・・・・着るか?」
「ん~・・・。いいです。後からで」
後から、と当の本人に言われてしまえば、今この着替えに出番はない訳で。
シーツは丸めて部屋の隅に放り、着替えはベッド脇の小卓に置いた。一気に手持ち無沙汰になって、さて、さっさと隣に腰を下ろすべきか否かと考えている目の下で。
五代はわしわしわし、と乱暴に髪を拭いていたタオルを、ふぅ、と一つ吐息とともに引き下ろして首にかけた。
「あ」
「・・・え?」
タオルの端で、髪から顔に滴る水滴を拭いていた手を止めて、彼の目が上がる。
「いや。・・・何でもない」
「・・・ふぅん?」
何となく気まずくて、ともかく並んでベッドに腰を下ろした。といって、手を出す空気でもない。ぼんやり五代を眺めていた。五代の、襟足を。
「・・・なんです?」
「うん?」
「────さっきから。ううん、今日の一条さん、なんかヘン」
「そうか?」
「そうでしょ。────何が気に入らないの?」
「気に入らないことなんか、何もない」
首筋を覆うタオルを掴んで一気に抜き去り、床に放った。
「え、ちょっと────」
慌てて目を見開くのも意に介さず、手を伸べる。掴むようにうなじに手を這わせ、濡れたままの襟足をかき上げた。
「・・・結ばないのか」
「・・・・・・どうして?」
怪訝そうな瞳に答えを与えず、湯上りの湿った肌────うなじに唇を寄せた。
「・・・一条さん・・・?」
「髪、結べよ」
濡れた髪が、頬や耳に触れるのが、なぜか今夜は苛立たしいものに思える。
「さっきはからかったくせに・・・」
不満に尖らせた唇に、啄ばむように口付けながらゆっくりとベッドに沈み込ませる。唇から顎を辿り、喉許をきつく吸い上げると、「ふ・・・」と吐息とも微笑ともつかない声が漏れる。
もう一度口付けて、顎のラインを耳へと唇で辿り、耳の後ろに花様を刻む。そのままうなじを啄ばみ続けていると、ふいに、くすくすと笑う声が届いた。
「・・・ねぇ。もしかして、一条さんてば────」
「なんだ」
「実はもンのすごーく、気に入っちゃったってワケ・・・?」
見下ろすと、ウレシそうなくせに、人を食ったような笑みを浮かべて見上げてくる。
「・・・・・・言っとくが、あのゴムじゃないからな」
「わかってますよぅ・・・」
尚更おかしそうに笑みを深めると、五代は首に回した手で俺を引き寄せ、顔中にキスを降らせた。
「明日、髪結んで起こしに来たげます・・・」
吐息まじりの囁きに熱が上がる────。


鼻唄が聞こえる。
換気扇の音、リズミカルにまな板を打つ音。鼻腔をくすぐる匂い。・・・コーンスープ、か?
「────あれ、早いですねェ。今、起こしにいこうと思ってたトコでした」
「・・・あぁ」
エプロンの背に歩み寄る。細い腰に両腕を回し、うなじに顔を埋めた。
五代がくすくす笑う。啄ばむ唇の下で、肌が揺れる。束ねた髪も揺れる。頬に触れる。萌え出たばかりの草頭のような、やわらかな感触。────それと。
「────ねぇ。そんなに、気に入りました・・・?」
「うん」
光栄ですねぇ、と笑いながら、まな板を傾けて刻んだパセリを鍋に入れる。身動きにつれ、頬をくすぐられる。
「・・・五代?」
「ハイ?」
「別のゴム、持ってる? なきゃ、買ってやるから」
「え?────なんでですか?」
「────この四角いの、顔に当たってうっとうしい・・・」
「・・・・・・」


次の瞬間、盛大に弾けた笑い声はどんな空の青よりも澄み渡り────笑われているというのに、なぜかちっとも悔しくないのが不思議だと、乾いた肌の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、そんなことを考えていた。

(2004.08.13)

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