「ねえ、一条さぁん。疲れてるのわかりますけどぉ・・・起きてくださいよぅ」
ゆさゆさとシーツにくるまった肩を揺すぶられて、目蓋を意志の力で押し上げる。最近おねだり上手だよな、コイツ・・・。いや、ほだされる俺が情けないのだろうかと、とりとめのない思考が頭をよぎるに任せたまま、ベッドから背中を引きはがす。目の前には、ちょっと眉尻を下げて情けない表情の恋人の顔。
この顔見て、何でも言うこと聞いてやりたくなる俺は、相当重傷なんだろうな。
「・・・すみません。疲れてるのわかってますけど、でもどうしても、今日は・・・」
今日? 何か約束でもしていただろうか?
普段俺たちはほとんど約束をしない。できない、という方が正しい。俺は事件が起これば夜も昼も関係なくなるし、その間は帰宅すらままならない。恋人、とお互いに呼べる関係になっても、普通の恋人同士のように時を過ごすこともできない。寂しい思いをさせているという自覚は十分にあって、だからこそ、ほんの時折交わす約束はものすごく大事にしてきたつもりだ。
ぶん、と頭を振って何とか意識を覚醒させる。
「・・・悪かった。・・・今日何を・・・するんだった? すまないが、すっかり忘れて・・・」
謝る気満々の俺の言葉をさえぎって、彼はほんの少し自嘲するように口角を上げた。
「ちがうんです。今日だって会う予定じゃなかったしね。勝手に俺が押しかけてきただけだから」
「・・・じゃあ・・・?」
「・・・あのね、ワガママいってるの百も承知でお願いがあるんです。・・・いいですか?」
「・・・それで、どうしてここなんだ?」
あまりにも見慣れたポレポレの前で、問いただす。久々の休みに「お願い」と言われて引っ張ってこられた先がここ、というのはいくらなんでも納得できん。
いいからいいから、と背中を押す五代に押し切られる形でしぶしぶポレポレのドアを開けると、店内は無人で、マスターもあの何とかいう女の子の姿も見えなかった。
「今日ね、おやっさんも奈々ちゃんもいないんです。おやっさんは冒険仲間と釣り、奈々ちゃんはドラマのオーディション」
「・・・それで店は? 営業するのか?」
「いえ、今日はお休み」
だったらなおさら納得いかないぞ。休業の店になんでわざわざ俺を引っ張ってこなきゃならないんだ? 手が足りないから手伝えというならともかく、ここでも二人きりになるのなら、あのまま俺の部屋にいたってかまわなかったはずじゃないか。
あからさまに不審の色を浮かべた俺を、まあまあとなだめつつ、五代は俺の手を取って二階への階段を登る。
「なんというか・・・多国籍な部屋だな」
他人の部屋をあまりじろじろ眺め回すのは不躾というものだが、視線があちこちさまようのを抑えきれない。城南大学の考古学研究室に飾られていたようなどこのものとも知れない面や、俺には用途の見当もつけられないような品々が、所狭しと並べられている。
くふふ、と含み笑いをもらすと五代は「お茶入れてきますね」と言い置いて階下へ降りてしまった。
一気に手持ち無沙汰になった俺は、とりあえず腰を下ろして部屋の主の帰りを待つ。ふわああ、とあくびが漏れ、昨日まで―――正確には今朝方まで続いたこの三日間の徹夜疲れが全身を覆い、手近なベッドに寄りかかった。
ふわ、と鼻腔をかすめる匂い。
五代の匂いだ。
そういえばこの部屋に入るのは初めてだな、と唐突に思う。ポレポレに来るのもそうしょっちゅうではないし、事務連絡といえばおきまりの噴水公園、あとは俺の部屋で一緒に過ごすぐらいで―――。
そこまで考えて、呆然とする。
いつもいつも、彼のほうが俺に合わせてくれているということに不意に気づいて。
俺が呼び出して、彼が出てきて。
考えてみれば、彼が俺の呼び出しを断ったこともほとんど―――いやまったく無い。
「俺が来たいから来るんです」と言って、俺の部屋に来てはかいがいしく家事にいそしんで。
そのくせ、「勝手に来ちゃってすみません」と謝って、済まなさそうなそぶりで。
俺の休みに、たまたま店が立て込んでいたりして会えないようなときは、必ずその翌朝には部屋に来て短い時間を二人で過ごして―――。
「・・・・・・」
なんてことだ。いつも一歩踏み出すのは五代のほうで、俺はただそれに甘えていただけじゃないか。
考えれば考えるほど自分がひどい男に思えてきて、思わず顔を覆って呻いてしまう。
「一条さんっ? もしかして具合、悪いんですか!?」
驚いて戸口に目をやると、コーヒーカップを乗せたトレイを手に五代が戻ってきたところだった。
「―――すみません。やっぱり疲れてたんですよね。俺が無理に引っ張ってきちゃったから―――」
五代は慌ててトレイを置くと、俺の傍に駆け寄ってくる。
「いや、五代・・・」
「わがまま言っちゃってすみませんでした。今からでも、戻って休みますか? なんだったら俺のベッド使ってくれてもいいですけど・・・」
申し訳なさそうにしゅんと肩を落とした五代に、慌てて否定する。
「違うんだ、五代。今のは―――ちょっと考え事をしていただけで。そもそも具合が悪ければ部屋を出る前にそう言うし」
「でも」
「本当に、違うんだ。今―――君と俺とのことを考えていて」
「・・・俺たちのこと?」
気遣わしげにじっと俺を見詰めてくる。
―――五代、その上目遣いはやめてくれ。無意識のおねだり攻撃に撃沈してしまいそうだ。
ただでさえ、今の俺は疲れて判断力が低下していて、そのうえ疲れているから、なおさら―――。
「・・・でも、つらそうでしたよ、一条さん。具合悪いんじゃなくて、俺たちのことを考えてたって言ったけど・・・、・・・じゃあ、なに考えてたんです? ・・・あんな、つらそうな感じで」
「それは・・・」
隠すようなことじゃない。が、堂々と言いたい話でもない。何といったものか考えあぐねて口ごもってしまう。
すると、その頭の中でどんな考えに至ったものか、五代はみるみる顔を歪めてしまった。
「・・・一条さん・・・俺たちのこと考えて、あんなつらそうにして」
「ご、五代?」
「もしかして、―――嫌になっちゃったんですか? 俺のこと・・・」
「ごごご五代っ!?」
そんなわけないだろう! むしろ日増しに愛しさが募って、それが体中に回って中毒を起こしそうなくらいだ。
そんな俺の胸中を知る由もなく、言葉が返らないことで五代はますます気落ちしてしまったようだ。
だからそんな、儚げな風情で、―――おい、ちょっと目が潤んできてないか?
ほう、と切なげな吐息を吐いて、潤んだ目で見つめるな、頼むよ―――。
「・・・一条さん。俺がわがまま言うから嫌いになっちゃった? だったら、もう言わないから。怒らないでよ。」
怒ってない、怒ってなんかいないぞ、五代!
「一条さんに嫌われたら俺・・・」
そういって膝の横に手をついたしどけない風情に、とっくに限界に達していた理性のストッパーがそれはもう勢いよく外れる音が聞こえた。
「―――五代っ!!」
「え、え、え、あのちょっと一条さんっ!?」
―――君の勧めとは多少用途が違うが、ありがたく使わせてもらうぞ、このベッド。
「もう。ぜんぜん元気じゃないですかっ」
つんけんしないでくれ。昼間っから・・・いや、昼とも呼べない時間に暴走したことはこれでもきっちり反省しているんだ。
ぷんぷん怒っている五代と顔を合わせづらいというのもあるが、さすがに溜まりに溜まった疲労はいかんともしがたく、さらに「駄目押し」までしてしまったものだから、枕から顔を上げることもできない。
しかしここは俺の部屋じゃない。いつ家主が帰ってくるか知れない状況で、いぎたなく眠りこけるわけにはいかない。ことは五代の沽券にかかわる。柔らかなベッドの放つ誘惑を苦労して断ち切り、のそのそと身を起こした。情けないことこの上ない。
心配して損した、とぶつぶつ言いいながら身支度を終えた五代は「シャワー浴びてきますっ!」と言い放って部屋を出ていってしまった。
怒らせてしまったな―――機嫌を直すまでにはしばらくかかりそうだな、あの様子じゃ。
かすかに聞こえる水音が睡魔の睦言に聞こえてきて、慌てて俺は立ち上がり、脱ぎ散らかした服を身に着ける。今眠ったら明朝まで爆睡してしまうこと必死だ、くつろいでいる場合じゃない。何より彼をこれ以上怒らせてはたまらない。とはいえ。
初めて訪ねた恋人の部屋、ろくに語らいもせず茶の一杯も飲まずにいきなり。
はああ~、とため息が漏れる。学生時代だってこんなに急いたことはなかったぞ。この未熟者め。
自分で自分を叱りつけながら、こんなことでは罪滅ぼしにもならないがせめて後始末だけでもとベッドからシーツを引き剥がし、部屋を出て水音の聞こえる方へ進む。脱衣所兼洗面所に洗濯機が置かれていたので丸めたそれを放り込む。回転する水流をぼうっと眺めていると、水音が止んで風呂場から彼の声が俺を呼んだ。
「一条さん? そこにいるんですか? 何してるんです?」
「・・・洗濯」
わずかな沈黙。何を洗っているかは・・・察しがついたようだ。
「・・・そこにいられたら俺出られないんですけど。部屋に行っててもらえます?」
・・・ごく当たり前の台詞なのに、妙に胸に刺さるように感じるのは、罪の意識のせいなんだろうな、やはり。
なんだか雰囲気までよそよそしく感じられるようになってしまった五代の部屋に戻り、彼が戻るのを待つ。腰を下ろしてふと横を見ると、コーヒーが二つトレイの上で温度を失ってしまっていた。
本部に詰めているときなどは無性に彼の淹れてくれたコーヒーが恋しくなるというのに。
カップを手に取り、すっかり冷めてしまったそれを啜る。このまま捨てられてしまうのがなんだか哀れに思えて。
冷めてしまったために普段より苦味が増して感じられたが、一気に飲み干して残りの一つに手を伸ばしたところに彼が戻ってきた。
「何してるんです? それ、冷めてるのに―――飲んじゃったんですか?」
「・・・ああ」
「・・・もう! そんなの飲んだっておいしくないでしょ? 貸してください、淹れなおしてくるから」
だが、五代の手が伸びるより早く―――俺は二杯目を飲み干して、唖然とする五代に言った。
「うまかった」
「・・・なに言ってるんです。そんなわけないでしょ―――何のつもりなんですか」
「何も」
冷めていて、確かにちょっとばかり苦かったが。それでも君の淹れてくれたコーヒーだ、俺は―――うまいと思った。
五代にそう告げると、彼はしばらく無言で俺の顔を見つめ、やおら立ち上がると俺の手からカップを奪い去り、足音荒く階下へ降りていった。
余計に怒らせてしまっただろうか。思ったとおりに口にしただけなんだが。
いや、それがまずかったのかな。もう少し気の利いたことが言えればいいのに。学生時代もっと遊んでおくんだったかな―――などと、五代が聞いたら目くじらを立てそうなことをぼんやり考えているうちに、とうとう俺は抗う力を失って睡魔の虜となってしまった。
・・・・・・
「一条さん。一条さん!」
手荒く揺り起こされて、目が覚める。いかん、眠ってしまった―――我がことながら迂闊な行いを責めながら飛び起きた俺の鼻先に、香り立つコーヒーが突き出された。
「飲んでください」
「・・・え?」
「飲んでください!」
訳がわからないながらも言われるままに口をつける。
鼻腔を掠める芳醇な香り、口中に感じるほろ苦さはまったくいやみがなく、むしろその苦味が全身の細胞を賦活化させていくようだ。
「―――うまい」
思わず口をついて出た賞賛の言葉に、五代はうなずいて、
「当たり前です。俺が淹れたんですから。しかも淹れたてですから。さっきのもおいしかったかもしれないけど、こっちのほうがおいしいはずです。あんな冷めたのをおいしいなんて言われたら、喫茶店店員としてのコケンにかかわります」
と言い切った。
ああ、確かにうまい。こっちのほうが遥かにうまいよ。でも。
「でも、何です?」
俺にはさっきのも確かに―――うまいと感じられたんだ。
そう言うと五代はまじまじと俺の顔を見つめ―――それから、いつものふにゃっとしか形容のできない笑顔を浮かべて抱きついてきた。
「どうしても、一条さんに見ておいて欲しかったんです」
何が功を奏するかわからないものだ。
コーヒーの一件でなぜか五代の機嫌は直ってしまい、今は俺の傍にぴったりとくっついて、一冊の写真集を二人、見ている。
それは、悲惨な戦争の渦中にあってなお希望を失わず誇り高く生きる人々を写した―――五代の父親の遺作となったものだった。
どのページにも、どの瞳にも、生きようとする力がみなぎっている。
五代の父親が人々に抱いていた希望、それがこの写真集全体に横溢している。人々に対する暖かな視線。息子である五代雄介に受け継がれた笑顔の遺産。
「―――そっくりだな」
「え?」
「君と、君のお父さんと」
「・・・父は、写ってませんけど」
「似ているよ。君がみんなの笑顔を守りたいと言った気持ちと。―――そっくりだ」
「・・・・・・」
ページを繰りながら、彼の父を思う。おそらくは、彼が浮かべる笑顔とまったく同じ笑い方で、幼い息子を暖かく見つめたであろう人を。永遠に対面することはかなわないが、もし生きてこの世にあったなら、感謝の言葉を捧げつくしてなお余りあるほどの思いをもって。
「君のお父さんが生きていたなら―――」
「はい?」
「お礼が言いたかったな」
「なんて・・・?」
「こんなにいい息子さんを育ててくれてありがとう・・・とか。いや、何かヘンな言い方だが」
五代はくすくす笑いながら俺の肩に顎を乗せて、耳元で囁く。
「・・・なに言ってるんですか。顔向けできないようなこと、してるくせに」
五代が言わんとしていることがわかって、思わず顔を赤らめてしまう。ごほん、と咳払いをして、
「・・・・・・共犯だろう」
とつぶやくと、
「刑事さんが偽証しちゃいけませんよ」
そう言って、かすめるように俺の口唇にキスをした。
そのまま二人してくすくす笑いあう。
こんな、何気ない時間を共有できる幸せをかみしめながら。
「ところで」
「はい?」
「五代雄介特製スペシャルランチ」なるものを―――もうランチともいえない時間だったが―――たいらげ、食後の眠気と戦いながら、俺は忘れないうちにと切り出した。
「なぜ『どうしても』なんだ?」
「はい??」
『どうしても今日は』と言って俺をポレポレに連れてきて、『どうしても見ておいて欲しい』と言って写真集を見せた。
そう言うと、五代は「ああ」と納得し、ちょっとためらってから話し出した。
見ておいて欲しいと思ったんです。俺の部屋や、俺が大事に思っているものを一条さんに。きっと俺のこと・・・誰よりも忘れないでいてくれる人だと思ったから。
眠気がいっぺんに吹っ飛んでいく。
俺、この間死んじゃって・・・ものすごく心配かけちゃいましたよね。生き返ってこられてホントによかったと思ってます。・・・一条さんと会えなくなるのかと思うと、ものすごく怖かった。忘れられてしまうのも悲しいけど、・・・ずっと覚えてて、ずっと悲しまれるのはもっと嫌だと思いました。
・・・・・・。
でもね、思ったんです。きっと俺がホントに死んじゃっても、一条さんはきっと俺のこと忘れないだろうなって。だったら俺のこと、もっとちゃんと知ってもらいたかったんです。俺のこと、いっぱい。・・・今のうちに。
五代。
思い出を増やしちゃうほうが、残酷なのかもしれないとも考えました。でも、絶対忘れてもらえそうにないなら、せめて、戦いの場以外での俺を思い出して欲しいと思ったから。だから・・・今のうちに。
「五代!!」
もう、聞いていられなかった。無我夢中で五代の薄い体を抱きしめる。
「君は、死なない。絶対に死なない。死なせてたまるものか。死なせたりしない!」
「一条さん・・・」
「君も、俺も、生きて、生き抜いて―――」
しゃべり続けていないと溢れてしまいそうなものが、喉を詰まらせようとする。
「生き延びて、思い出話をするんだ、お互いの。そうして、笑い合うんだ、今日のことも。取り越し苦労だったと、笑って」
「一条さん」
もう、あんな思いをするのは御免だ。
俺はすう、と息を吸い込むと、宣言する。
「今日みたいな思い出作りはもう二度と御免だ。死ぬことを前提とした思い出作りになんか二度と参加してやらない」
目の前には、泣き笑いの五代の顔。
「二度と、御免だぞ。・・・わかったな。―――雄介」
泣き笑いが、本物の涙に変わった。
「嬉しかったです、俺」
泣くだけ泣いたあとの照れ臭さをほんの少しにじませながら、五代が晴れ間のような笑顔を見せる。
「誰かに名前で呼んでもらうのって、久しぶりだったから。それに、一条さんの気持ちも」
改まって言うな、照れくさいのは此方も同じだ。
俺はあらぬ方を見やりながら、それでも五代を抱く手を緩めはしなかった。
「ありがとうございます。一条さん」
「―――なあ」
ふと、思いついたことを言ってみることにする。
「敬語、そろそろ止めてもいいんじゃないか」
「え?」
五代は、きょとんとして俺を見る。
「出会ったころならいざ知らず―――もう、いいんじゃないのか、タメ口ってヤツでも。こうして、二人でいる時ぐらいは」
そんな、鳩が豆鉄砲喰らったみたいな顔するなよ、こっちが照れるだろう。
「―――いいの?」
「当たり前だろう。同い年だし。それに―――対等じゃないみたいで、嫌なんだ」
「ああ、職務をかさにかかってムリヤリ、みたいで?」
「五代」
「冗談です。―――ありがとうござ・・・じゃなかった、ありがとう、一条さん」
「うん」
「・・・慣れるまで、めっちゃくちゃな言葉遣いになりそう」
そう言って、太陽のような笑顔で五代が笑う。
ああ本当に―――この笑顔を守るためなら、どんなことでもしよう。失う痛みを思えば、この先待ち構えるであろう様々な苦難も、何ほどのこともない。
こんなポジティブな考え方も、君が教えてくれたんだったな。
抱きしめていた肩を離して、手を頬に滑らせると素直に目を閉じるから。
俺は久々に穏やかな気分で五代の口唇を味わった。
―――それは、さらに激しさを増す戦いのことなど知らなかった頃の、幸せな午後。
(2002.10.16)