ロシアには24時間開いている花屋があるのは聞いていた。
曰く、恋人とケンカした男が謝罪に買い求めるためとか。
曰く、妻を怒らせたときにすぐ買えるようにするためとか。
「あ、ここにも……」
日本のコンビニレベルで24時間営業の花屋が存在する。
ロシアの男性はそんなに女性を怒らせてばかりいるのだろうか? それとも女性が怒りっぽいのか?
「ん? どうかした? 勇利」
花屋に気を取られていると、隣を歩いていたヴィクトルが勇利の顔をのぞき込んできた。
「あ、何でもないよ。ごめん、何の話だっけ?」
気もそぞろにしていては、自分が花を買い求めに走る日も近そうだと勇利は意識を切り替えた。
「……花がほしいのかい?」
「え? 別に。女の子じゃあるまいし」
「男だってきれいな花が好きでもいいじゃないか」
「そりゃあ、きれいなものを見れば気分はいいけど」
僕はヴィクトルで間に合ってるからなあ──と心のままにつぶやくと、ヴィクトルは一瞬きょとんとしてから、それこそ大輪の花のように笑った。
そんなこともありました。
「ただいまー! 勇利!」
日本のコンビニレベルで花屋があるのは、ヴィクトルみたいに花を贈りたがる男性が多いからなのかもしれない。
帰宅した彼の手には、今日は黄色も鮮やかな小型のひまわりをメインに小花があしらわれた可愛らしい花束。
「はい、これ。勇利にお土産」
そういいながら勇利の胸元に花束を差し出すヴィクトルは、別段酔っているわけでもなければケンカしたわけでもなく、ニコニコと上機嫌だ。
「あ、ありがとう……。今日は何で?」
「ひまわりと目が合ったから」
「だからって買ってこなくても」
「え? 気に入らないかい?」
「いや、可愛いと思うけど……」
無駄遣いといってしまっては彼の気持ちを傷つけてしまうし、と言葉に詰まっていると、「だろう?
勇利に似合いそうだと思ったんだ」とヴィクトルは一層笑みを深めている。
「……そういうセリフは女の子にいうもんなんじゃないのかな」
「似合う、似合わないに男も女も関係ないだろう?」
「ほんとに僕に似合うと思って買ってきたの?」
「そういったじゃないか」
それはそれでどうなんだろう。大体、こんなもっさりした男に花束が似合うと考えるなんて、想像を絶する思考だ。生きる伝説と呼ばれる人は思考も伝説級なのか。
「……もう花瓶がないんじゃない?」
「そう? ならコリンズグラスにでも生ければいいよ。4客揃いのがあったから、それで間に合うんじゃないかな。見た目を気にしないならジョッキでもいいし」
「……グラスで花瓶を代用しなきゃいけないぐらい花を買ってくることないと思います」
えー、とヴィクトルは口をとがらせる。そんな子供っぽいしぐさにほだされてなるものかと勇利は気を引き締める。
「とにかく、しばらく花はいいから。きれいだし、癒やされるけど、限度ってものがあるでしょ」
サイドボードの上は花屋の店頭みたいになっているし、テーブル上はもちろん、窓辺にも、テレビの横にも、何なら床にも花が置かれて、ニキフォロフ家のリビングは一層華やかだ。うっかり蹴倒しそうになってヒヤヒヤするのが困りものだが。
マッカチンはよく花瓶を倒さずに歩いているものだ。家人のやりとりを、いい子にお座りして妨げることもない愛犬は本当に賢いと思う。
「わかった? ヴィクトル。しばらく花はいいからね」
身も蓋もないどころか彼の好意を無にする言い草だ。少しだけ心が痛む。しかし甘い顔をしていては家全体が花屋状態になってしまう。あまりに華美な空間は庶民の勇利には落ち着かない。ここは心を鬼にして釘を刺さねばならなかった。
「気持ちはありがたいけど、もう十分だよ。そのうち足の踏み場もなくなっちゃうだろ。しばらく花は買わないで」
ね? と念を押すと、ヴィクトルは肩をすくめ、つまらなそうな顔をした。
そんなこともありました。
「勇利に似合うと思って」
口を大きなハート型にして、笑顔のヴィクトルが差し出しているのは見るからに着心地の良さそうな白のサマーニットだった。
「どうしたの、これ」
「衣装に用意されてたんだけど俺には小さいと思って。でも、広げてみたら勇利に似合いそうだと思ったから買い取ってきたんだ」
「……僕が気に入らなかったらとか考えなかったの?」
「全然。だって勇利、服にこだわりないじゃないか」
「こだわりならあります。分不相応なものは買わない。──これ、いくらしたの」
「贈りものの値段を贈り主に聞くってマナー違反じゃないかな、勇利」
「ごまかさないで。身につけるものの値段を知りたいと思って何が悪いの。いくらしたの」
「そんなに高くなかったよ」
「高いかどうかは僕が決めます。──で、いくら?」
「んー、カード切ったから覚えてないな。ほら、俺、忘れっぽいし」
「ヴィクトル!」
勇利がまなじりを吊り上げると、ヴィクトルは途端にしょんぼりした顔になった。そして、「そんなに怒ると思わなかった」と悲しげにつぶやいた。
ぐ、と勇利の言葉が詰まる。なまじ憧れ続けた相手だけに、こんな表情をされるとものすごい罪を犯したような気になってしまうのだ。
ほ、ほだされてなるものか──と思うものの、目を伏せてため息なんかつかれたら。まつげ長いなあ、なんて見とれてる場合じゃないのに、その長いまつげが落とす影さえも切なげで。
「と、とにかく気をつけてよね。僕に分不相応なものはいらないから」
精一杯頬を引き締めながらやっとのことでそういうと、ヴィクトルはパアッと輝くように笑った。
結局ほだされてしまった──と自室で膝の上に置いたニットを見ながら勇利はため息をついた。
そんなこともありました。
数種類のカタログをためつすがめつしているヴィクトルに声をかけ、テーブルの端に彼の コーヒーカップを置いた。
「やけに真剣だね。何見てるの?」
「ああ、ありがとう、勇利。ちょっと一息入れたいところだったんだ。──これかい? ちょうどよかった、勇利も見て」
「何?」
試しに一部手に取ってみると瀟洒な家のカタログだった。さらに一部、今度は木立の中にたたずむ牧歌的な装いの、やはり小ぶりな家のカタログ。菜園の中に立つ家、煙突が特徴的な家、背景に牧場らしきものが見える家……。
「え。何これ」
コーヒーカップを傾けて一口含み、満足そうにほうと息をついたヴィクトルは、当然のように「ダーチャだよ。勇利はどういうのが好み?」といった。
ダーチャというのはあれだろうか。確か、週末や夏の間利用されるセカンドハウス。ロシア人の大好きなキノコ狩りの拠点にしたり、菜園を営んだり羊を飼ったり……。
「なに。何でこんなの見てるの」
「いい機会だし、買おうかなーと」
「どんな機会って?」
「勇利とキノコ狩りしたり、バーベキューしたり。プール付きのもいいよね」
「な──何いってんの!? 今だって忙しくて、三日以上家にもいられない人がセカンドハウスなんて持ち腐れでしょうが! 大体、秋冬の間はどうするのさ、僕もヴィクトルもシーズンに入ったらペテルブルクを離れることすらめったにできないのに!」
「それは管理人を雇えば」
「一年の半分も稼働させられない物品なんていりません! 少なくとも今はセカンドハウスなんて必要ないよ」
「コタツだって一年の半分も稼働してないだろ? 夏のハセツで見た覚えないよ」
「コタツって──よっぽど気に入ったんだね、ヴィクトル……。ねえ、値段を考えてよ、僕でも気軽に買えそうなものと家一軒とじゃ比較にならないだろ?」
しかも、カタログにあるのは電気、ガス、水道などインフラも完備された居住性の高い物件ばかりのようだ。ちらりと価格を見れば、目の玉の飛び出るような数字が並んでいる。いやこれ、ゼロが何個並んでんの。
「な、んでこんな高っかいの!?」
「ん?──ああ、これは、元は貴族の持ち物でリノベーションを」
「いりませーん!!」
そんなこともあったというのに。
「勇利に着てほしくて」
大きな箱を抱えて帰ってきたと思ったら、勇利でも知っている世界的ブランドのスーツ一揃いが出てきて。
「……ヴィクトル、僕、前にいったよね? 分不相応なものはいらないって」
「何いってるの、国を代表するアスリートならこのぐらいのスーツは誂えていて当然だよ」
「この光沢、まさかシルク?」
「シルクだと怒るだろうと思ったからやめておいたよ」
「じゃあ何?」
「エジプト超長綿」
コットンダカラ、タカクナイヨ~というヴィクトルに構わず、勇利はスマホでエジプト超長綿なるものを検索してみた。何しろ初耳だったので。
「シーアイランドコットンヨリ、ヤスインダヨ~」
「黙っててください」
「ユウリニハ、キットニアウヨ~」
検索画面を一通りスクロールして目を通し、勇利は画面をオフにした。こめかみを押さえて息を吐く。落ち着け。落ち着け。頭ごなしに怒っちゃダメだ。
「ねえ、ヴィクトル。僕の検索がまずかったのかな。アラブの王族がスーツ着てる写真が出てきたんだけど」
「さすがに王族が着るようなランクのスーツは買わないよ。気軽に着てほしいからね」
「気軽に着れるような値段かどうか、教えてよ」
「フルオーダーじゃないから手頃だったよ」
「だから、いくらなの」
「カードで買えるぐらいだから、そんなに高くないよ」
「ヴィクトルのカード、ブラックじゃん。僕みたいな庶民のと違って。基準にならないよ」
「もう、値段なんかどうだっていいだろ? 勇利はこれ、気に入らないの!?」
気に入るか気に入らないかでいったら、分が悪い。ぶっちゃけ気に入った。品のいい紺の色合いも、光沢も、一目見て心奪われるものだった。きっと着心地も素晴らしく良いのだろう。
「袖を通してみもしないで文句ばっかり。そんなにいうならゴミにでも出せばいいんだ」
「そんなもったいないことできるわけないだろ!? せっかくヴィクトルが買ってくれたものを!」
「なら受け取ってくれるの!?」
「いらないっていったらゴミにするっていうのに、受け取る以外の選択肢、ないじゃないか!」
「もういい! そんな言い方するならクローゼットで腐らせるなり何なり、好きにすれば!?」
憤然とリビングを出て行くヴィクトルの背中を見送って、ああ、やっちまった──と勇利は肩を落とした。
怒らせるつもりではなかったが、結果はこの通りだ。自分は取調官とか向いてないな、と反省する。なりたいと思ったことはないが。
手になめらかな──こんな手触りのいいスーツ生地、初めてだ──スーツを元通り箱に収めて、さて、どうしたものか、とため息をついた。
ヴィクトルからの贈りものが嬉しくないかといったら、決してそんなことはない。
憧れ続けた人が自分のことを思って選んでくれたものと思えば下にも置けないと思っている。
でも、限度があると思ってしまうのだ。
セレブが板についたヴィクトルの価値基準で選んだものは、根っから庶民の勇利には時に恐れ多い気持ちさえ抱かせるもので。
気にせずもらっとけばいいだろ、とはユリオの言だが、そこまで図々しく生まれついてもいないので受け取るのにどうしても躊躇してしまう。
にっこり笑って「ありがとう、嬉しいよ」といえば丸く収まるのだろうが、ダーチャの件もあったように、だんだんエスカレートしそうな怖さもある。
例えば、これが年に一度、誕生日にでも贈られたなら、まあ仕方ないかと受容するのもやぶさかではない。
それが、こう頻繁では──さすがにどうかと思うのだ。
愛情を惜しみなく、あふれるほどに注いでくれる彼の気持ちは本当に嬉しく、ありがたい。
「でも、気持ちだけで……もう十分すぎるほど良くしてもらってるし」
コーチ代もうやむやになっているし、家賃も光熱費も受け取ってくれない。ならばと家事に勤しもうとするも、きっちりハウスキーパーが入っていて勇利の出番なんてほとんどない。むしろ手を出したら邪魔になりそうな感さえある。
「養われたいわけじゃないんだよなあ」
勇利だって男だ。ヴィクトルに比べれば吹けば飛ぶような甲斐性でしかないが、それでも大切な人のために役に立ちたい、何なら自分が彼を養って──いや到底無理だけど──、そんな気概がちゃんとあるのだ。
「カスみたいなプライドなんて捨てちゃえばいいのかもしれないけど……そうはいってもなあ」
結局はプライドが邪魔をしているのかと思えば、なんて自分は小さい男なのだろうとなおさら落ち込む。
勇利は箱を抱えてため息をつきつき自室に向かった。箱に入れっぱなしでシワにするにはあまりにもったいなかったので。
そんなことがあってから。
ギクシャクした状態のまま、ヴィクトルは仕事で三日ばかりフランスに出向くことになってしまった。
謝るタイミングがつかめないまま──いや、謝るのが正解なのかもよくわからないのだが──ぽつんと取り残されたような形になって、勇利はため息をついてばかりいる。
「まず、ありがとうっていうべきだったよな……」
そうなのだ、礼すらいってなかったのだ。
こんなところにも自分の度量の狭さが現れているようで、つくづく嫌になる。こんなことでは嫌われてしまうのでは──と考えて背筋が凍った。
ヴィクトルに嫌われる?
終わりにしよう、と今度は彼からいわれたら?
目の前が真っ暗になって、足下の床が崩れ落ちてゆく音がリアルに聞こえた気がした。
楽しくも、アスリートとしての刺激に満ちたこの生活が突如終わりを告げて、すごすごと日本に帰って? コーチに見放された選手なんてろくなもんじゃないと、誰もコーチを引き受けてくれなくて、ボロボロの成績で引退して? マスコミにぼろくそ叩かれて? 二度と戻れない日々を未練がましく記憶の中で反芻する毎日を送って……
実家の縁側で黄昏れる自分の後ろ姿がまざまざと見えた。
「いかんいかんいかん。絶対ダメだ、それだけは避けなくちゃ」
もうプライドがどうとかいってる場合じゃない。
「帰ってきたら謝ろう……」
そんなことを考えた翌日。
夜にはヴィクトルが帰宅するという日のことだった。
練習の帰り道、何気なく目をやったショップのウインドウの向こう、勇利は出会ってしまった。
「ヴィクトル……」
とっさに彼の名前が口をついて出るほど、それはヴィクトルのイメージにぴったりだと思えた。
シンプルな菱形の台座に透き通った碧い石がはめ込まれたネックレス。K18WGというのが何の呪文なのかはよくわからないが、銀色の台座は彼の髪を、碧い石は彼の瞳を思わせた。ゴテゴテした飾りのない、すっきりしたデザインは、飄々として見えるけれど実は男らしい彼の胸元にこそ映えると思った。
「ヴィクトルにぴったりだ……」
勇利の目は釘付けになった。
そして気づくと店のドアの取っ手を握り、敷居をまたいでいたのだった。
「やっちゃった……」
買ってしまった。だってヴィクトルにぴったりだと思ったら居ても立ってもいられなくなってしまったのだ。
勇利にとっては安い買い物ではなかった。人生二度目の分割カード払い。ちなみに指輪の支払いもまだ残っていたりする。多重債務上等、と勢いよくサインした。
つたないロシア語でプレゼント用に包装してもらい、意気揚々と帰宅して、自室にたどり着くやいなや、我に返った勇利は気づいてしまった。
これではヴィクトルと同じだ、ということに。
これも衝動買いというのだろうか。
いや、衝動買いとは……認めたくない。ないが、確かに衝動に駆られてのことだった。
ヴィクトルに似合うと思って。──勇利に似合うと思って。
ヴィクトルにつけてほしくて。──勇利に着てほしくて。
ネックレスを見つけたときの自分の気持ちを思い起こすと、こだまのように彼の声がよみがえる。
「こんな気持ちだったのか……」
ただただ、相手を想って。喜んでほしくて──いや、そんなわずかな計算さえもなく、ただもう彼が身につけたならどんなにか映えるだろうと、そればかりが脳内を占めて。身につけてもらったところを想像して。それを見て喜ぶ自分の姿までもが鮮明で。
そして、呼応するように自分の声もよみがえる。
「いくらしたの」
「いりません」
「必要ないよ」
それらをヴィクトルの声でいわれたら? と想像して──勇利は打ちのめされた。
なんて思いやりのないことだったろう。
ヴィクトルはどんなにがっかりしたことだろう。
自分のすげない対応を思い起こし、そのときの彼の気持ちを想像して、勇利はガツンと自分の額を拳で打った。
目眩がする思いだ。
彼への申し訳なさに責めさいなまれる。
高価なものは気後れするからと、自分の気持ちばかり考えて。彼の気持ちなどこれっぽっちも考えずに。
なんという黒歴史。(歴史というには新しすぎるが)
へなへなとベッドに腰を下ろして頭を抱えた。
「どうしよう」
いや、どうしようも何もない。謝らなきゃ。
ネックレスの箱が入ったデイパックにちらりと目線を落とす。買ったときのウキウキした気分がすっかりしぼんで、気持ちは果てしなく沈んでいきそうだ。
「あれ、どうしよう……」
どんな顔して渡せるというのか。〝お詫びの印にこれもらってくれない?〟とか?
いやいや、ないない。自分は拒否しておいて、彼には受け取りをねだるとか、いくら何でもそこまで厚かましいことはできない。
じゃあ、どうする? 自分でつける? いや、アクセサリーをつける趣味はないし、何より彼を想って選んだものだ。自分にはふさわしくないし、似合うとも思えない。
できれば返品も質入れも避けたい。そんなこと、悲しすぎてできないし、ほかの誰かがあのネックレスをつけるなんて想像したくない。
「しまっておいて、ほとぼりが冷めた頃に渡す、か……?」
それもどうかと思うし、なんとなく、後になればなるほど渡しづらくなる気もする。いざ渡せても、ずっと隠していた後ろめたさを味わうことは間違いない。自分の性格的に。
はあ~っと、声と息とを同時に吐き出しながらベッドに倒れ込む。背中を受け止める頼もしいマットレスの感触。思えばこのベッドもヴィクトルが用意してくれたものだった。自分の生活は、何と多くを彼に依存していることか。
「やっぱ全部正直にぶっちゃけて……それで、受け取ってもらった方がいいよな……嫌みの10や20は覚悟してさ……」
返しきれないほどの恩義と愛情を受けているのなら、せめて彼に接するには誠実でありたい。
それが正しい対処なのか自信はないし、受け入れてもらえる保証もない。それでも、彼に正面から向き合える自分でいなければ、この先の時間をともに歩むことなどできやしない。何より、彼のそばにいる自分を、自分が許せなくなってしまう。
「……うん、よし!」
足を跳ね上げ、勢いをつけて起き上がり、ベッドから飛び出した。
デイパックから財布をつかみだし、ポケットにねじ込んで玄関に向かう。鍵を忘れそうになって慌てて引っつかんだ。
エレベーターの中でも足踏みしていた。気が急いている。
エントランスを駆け抜け、夕暮れの中を走り出す。暗くなってからは出歩くなと、ヴィクトルから口酸っぱくいわれていることなど頭から抜けていた。
目指すは花屋。
めあての店は24時間営業だから、そう急ぐことなどないのだ。それでも、早く着けばそれだけいい花が残っているかもしれない。
それに、わかったから。
彼がどんな気持ちで勇利への贈りものを選んでくれていたのか。
どんなにワクワクして、どんなに相手のことだけを考えて、どんなに一生懸命だったのか。
今まで、彼が贈りものに込めてくれた気持ちがどんなものだったのかわかったから。
「ありがとう、ヴィクトル……」
胸が温かい。彼への想いがきらめく星のように胸の中で光を放っている。その光が、勇利の背を押すのだ。
走れ、走れ。
街ゆく人波を縫って、羽の生えたような足で。
街灯のきらめきは滑走路を照らす誘導灯のようだ。
花を買って、精一杯彼に似合う花を選んで、彼に贈ろう。そうして謝ろう。
今までごめんね。
でも、値段をいえない買い物はほどほどにねって、それとなく釘も刺さなくちゃ。
それから、ありがとうっていおう。
僕からデートに誘って、頑張ってちょっといいレストランを予約して、あのスーツで出かけよう。
ヴィクトル、喜んでくれるかな。
似合うよって笑ってくれるといいな。
目指す花屋が見えてきた。夕闇の迫る街角で輝いて見える。店先にはとりどりの花、赤、黄、白、青、ピンク、紫、たくさんの、たくさんの色。
その色に縁取られるようにして、店先で花を選んでいる後ろ姿が見えた。
紺のジャケットにオフホワイトのスラックスというありふれた衣装でも、スタイルの良さがわかる。
あえかな風になびく銀髪。
きっと、一生懸命勇利に似合う花を選んでいる。
地を蹴る足に力を込めた。
「──ヴィクトル!」