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それはまるで儀式のように


署名欄に氏名を記入し、ペンを置く。印鑑ケースから印鑑を取り出して朱肉を付け、向きを入念に確かめながら押印する。
その一連の作業をヴィクトルは興味深く見守っていた。
押印し終わった彫刻面をティッシュで拭いてケースにしまう。朱肉にも蓋をした。
ふう、と勇利が息を吐いたのを見て、ヴィクトルが堰を切ったように話し出した。
「インカン? 押すときって緊張感があるんだね。儀式っぽくて、すごくオリエンタルな感じがするよ。Fantastic!」
勇利は苦笑いした。
「そう? まあ、印鑑使うのはアジアの一部だもんね。見慣れないと新鮮かもね」
「日本人はみんな持ってるのかい?」
「子供以外は大抵持ってると思うよ。僕は Junior High school を卒業するときに記念にもらったんだ。みんな、そうなんじゃないかな」
そういって勇利は再び印鑑をケースから取り出し、ヴィクトルに手渡した。青いアクリル樹脂製の、いわゆる三文判だ。23歳という年齢を考えれば実印の一つも持っていた方がいいのかもしれないが、今まで実印の必要な場面が訪れなかったので中学の卒業記念品をそのまま使い続けている。
彫刻面をのぞき込んだり、物珍しそうに様々な方向から眺めたりしているヴィクトルを微笑ましいな、と勇利は思った。
「ねえ、俺も押してみたい。押してみていい?」
「えっと、ちょっと待って。紙、紙……」
手近なメモ帳を彼の前に置き、朱肉の蓋を開ける。
「強く押しすぎると液が付きすぎて滲むから気をつけて。ポンポン、って軽く二、三回ね」
OK、と印鑑を構えるヴィクトルは、端から見ていてもワクワクしているのが見て取れる。
勇利の言いつけ通りに三回軽く朱肉に押しつけ、印鑑を構える。
「あ、へこみがあるの、わかる? そこを正面に向けると正しい向きで押せるよ」
「へこみ?……I see. ここだね」
指先で回して、正面を向いたらしい印鑑を再度構える。そっとメモ帳に押しつけ、すぐに離した。紙に残された印影は薄く、しかも縁が擦れてしまっている。
「Oh……」
「初めてだとそんな風になることが多いよ。力加減とかわからないんだよね。もう一回押してみる?」
「Off course!」
ヴィクトルは意気込んで印鑑を構え、今度はぎゅっと紙に押しつけた。そして、縁が擦れないよう気をつけて持ち上げる。印影はきれいに「勝生」の文字を描いていた。
「Yes! どう? 勇利」
「うん、きれいだね。さすが、飲み込みが早いね」
ふふふ、と笑いながらヴィクトルはさらに二ヶ所印を押し、満足げに顔を上げると、「ところで、これって何が書いてあるんだい?」と尋ねた。
「これは勝生って書いてあるんだよ。僕の姓」
「姓なのかい?〝勇利〟じゃないんだ?」
「印鑑は姓で作るのが一般的なんだ。名前も入れて姓名のを作る人もいるようだけど、名前だけの印鑑を作る人はほとんどいないんじゃないかな」
ふうん、といってヴィクトルは彫刻面を眺めている。と、何かを思いついた顔になった。
「ねえ、外国人は? 俺のは作れないのかな?」
「え? できると思うけど」
「Really!?」
「Sure. ただ、ヴィクトルは名前も姓も印鑑にするには長いから、どっちか片方だけになると思うよ」
「そうか……。どんな風になるか見られるといいんだけどなあ」
「──あ。ちょっと待ってて」
そういうと勇利はスマホで何やら検索し始めた。うーん、と時折うなりながらしばらく続けていたが、やがて「あった」と呟いて喜色を浮かべた。
「ねえ、見て、ヴィクトル。このサイト、印鑑のデザインをプレヴューできるんだ。これでどんなデザインになるか見てみようよ」
「Wow, そんなサービスがあるのかい? 面白そうだ、勇利、早く早く」
はいはい、といなしながら勇利はサイトの姓名の欄にそれぞれ「Victor」「Nikiforov」と入力した。瞬時にデザインが表示される。文明って素晴らしい。
どうぞ、と勇利がスマホの画面を見せるとヴィクトルは目を輝かせてのぞき込んだ。が、一転渋い顔になった。
「なんか日本ぽくない……俺の名前って日本語で書けないのかい?」
「え? ヴィクトルに読めるようにって思ったんだけど」
「せっかく日本で作るんだから日本語でなきゃ」
「はあ」
ならばと勇利はカタカナで姓名を入力して見せた。横書きの上下二列で、書体は隷書体を選んだ。「どうぞ」と再び画面を示す。
「Hmmm……なんか勇利のと違うのは何で?」
「僕のは漢字で、ヴィクトルのはカタカナだからだよ」
試しに、と勇利は自分の姓名をカタカナで入力して見せた。
「カンジ? の方がいいなあ。俺の名前はカンジで書けないの?」
「えー? 名前の音に近い漢字を無理矢理当てはめれば書けなくもないけど」
難しい、といおうとした勇利を遮って「書いてみて!」とヴィクトルが身を乗り出してきた。
「え、えー?……すぐにはちょっと」
「時間かかるの?」
「僕の知識の問題でね。少し待ってくれる?」
勇利は辞書を手に取ると、えらいことになったなと思いながらページを繰った。
「ヴィ……は美でいいか。クは……」
メモ帳の新しいページに一字一字候補を書き込んで組み合わせていく。意味まで調べたらとんでもなく時間がかかりそうなので、字面だけを勇利の好みで選んだ。名付けって大変なんだなあと、子供を持ったときの苦労を考えてため息が漏れそうになった。
「えーと……これでどうでしょうか。ヴィクトルって読めると思います」
印影には「美玖斗琉」の四文字。今度は縦二行に隷書体で表示した。
「Wow! これが俺の名前?」
「漢字はいっぱいあるから、ほかにも組み合わせがあるけど、とりあえずこれでヴィクトルって読ませることはできると思うよ」
「Oh! ありがとう、勇利!」
ヴィクトルに力一杯ハグされて勇利はドギマギした。ただの挨拶程度のものだと頭ではわかっていても、とっさにうろたえてしまうのは止めようがない。ハグし返すこともできず、身を固くしていることしかできない自分は本当に物慣れていないと思う。それでも、デトロイトで女の子を突き飛ばしたときよりは進歩しているはずだ、だって今、ハグされて耐えてるし。と、思いたい。
「じゃあ、さっそく作りに行こう! どこで作れる?」
「え? ほんとに作るの?」
「決まってるだろ。そのために今考えてもらったんじゃないか」
「待って待って、今日はもう遅いから無理。それと字体はこれでいいの?」
「ジタイ?」
「あー、字の書き方にも種類があってね」
それから夜の更けるまで、ああでもないこうでもないとデザインをこねくり回すことになったのはいうまでもない。


午前の練習を終えて、ヴィクトルは意気揚々と勇利に声をかけた。
「勇利、準備はできたかい?」
「はあ」
なぜか、勇利まで印鑑を新調することになっていた。まあ実印の一つも持っていた方がいいのは事実だし、いつまでも三文判というのも何だし、ちょうどよかったんだ、と自分に言い聞かせる。
アイスキャッスルを出て商店街方向に向かって歩く。初夏とはいいながら日差しは強く、アスファルトからの照り返しがきつかった。海風がなければ昼日中に歩きたいとは思えない、そんな日だった。
商店街の入口を左手に見ながら市役所方面に歩くと、目指すはんこ屋が見えてきた。「はんこ」と大書された幟が風にはためいている。
「あそこだよ。あの濃いブルーのノボリ……縦長の旗があるところ」
勇利が指さしてみせるとヴィクトルがうなずいた。かざした手で額の汗を拭っている。
入口の引き戸の取っ手をつかみ、引き開ける。勇利が口を開く前にヴィクトルが「コンニチワー!」と一声を放っていた。
「はい、いらっしゃい」
ガラスカウンターの奥から店主らしき初老の男性が応答する。ヴィクトルを見て、ちょっと驚いたようだったが、連れの勇利を見てほっとした表情を浮かべた。ヴィクトルは所狭しと並べられた印材を興味津々といった様子で見つめている。
「すいません、はんこを作りたいんですが」
「はいはい、どんなはんこ? 認め印?」
「実印を2本お願いします。僕と、彼の分です」
「2本も。ありがとうございます。まあ、どうぞ、座って」
カウンター前の椅子に並んで腰を下ろす。ヴィクトルは顔を手で扇いでしきりに風を送っている。帰りは帽子を買った方がいいかな、と勇利は心配になった。
「字体はどんな感じがいいとか、ありますか?」
「あ、一応検討はしてきたんで、見てもらえますか」
字体の一覧を開いた店主に、勇利はスマホを取り出してカメラロールから一枚の画像を表示して見せた。昨夜、サイトの印鑑プレヴューで作成した印影をスクリーンショットで撮しておいたのだ。
「ああ、隷書体ね。これは……?」
「彼の名前を当て字したんです。あの、問題ありますか?」
「いや、大丈夫ですよ、作れます」
「よかった。──ヴィクトル、作ってくれるって」
「アリガトー! ヨロシク、オネガイシマーシュ!」
ヴィクトルは身を乗り出すといきなり店主の手を取って上下に揺さぶりながら握手した。店主は目を白黒させている。
「ヴィクトル、びっくりしてるよ、その辺にしといて。──あ、すいません、それで僕のなんですけど」
急いで会話を引き取って勇利は次の画像を表示して店主に示した。
「こっちは篆書体ね。じゃあ、お二人の名前をここに楷書で書いてもらえますか」
注文書に書きこむ手元をヴィクトルがのぞき込んでくる。どうやら汗は引いたようだが、頬にはまだ少し赤みが残っている。彼のフレグランスと汗の混じった匂いが鼻に届いて勇利はドキリとした。そのまま心臓がドコドコと音を立て続けて、必死で平静な顔を装う。彼の汗の匂いなんて、練習終わりに近寄ればいつも漂ってくるし、そもそも一緒に風呂だって入っている。何を今さらドキドキするんだと、勇利は自分で自分をたしなめた。
勇利の書いたそれぞれの注文書に店主が書体を指示書きし、間違いないか示す。「はい」と答えると印材は何にするかと問われた。
「特にこだわりはないんで……丈夫な方がいいですけど」
そういうと、店主はカウンターの下からいくつか印材を取り出して並べて見せた。
「うちに今あるので丈夫なのだと、薩摩本柘に、これが黒檀。変わったところではオノオレカンバ。角系がよければ黒水牛なんかも丈夫で人気ですよ。まあ丈夫さでいえばシルバーチタンなんてのもありますが。なんといっても金属製ですからね、値段もいいけど」
ヴィクトルに訳して伝えるとカウンター上の印材と店主の顔とを見比べている。店主は一つ一つ印材を指し示しながら名前を復唱してくれた。
「金属はなんだか味気ない気がするなあ。木か、角系がいい。ワタシ、サワル、オーケー?」
オーケー、オーケーとうなずく店主にアリガトー!と満面の笑顔でいうと、ヴィクトルは黒檀と黒水牛の印材を手に取って見比べ始めた。
「その二つが気に入ったの?」
「うん。黒にシュニクの赤が映えるだろうなと思ってね。へえ、見た目は似てるけど、黒檀は堅くて重い感じ、黒水牛は堅くてしっとりした感じがするね」
見比べ、持ち替え、さわり心地を試し、しばし迷ってヴィクトルは「コッチ!」と黒水牛を選んだ。
「はいはい、ビクトルさんは黒水牛ね。──お客さんは? どれにします?」
「あ、考えてなかった。……えーと……僕も同じのでいいです」
「ありがとうございます。大きさはどうしますか? お二人とも四文字入るので、あまり小さいと字がつぶれてしまうから、少し大きめの方がいいと思うけど」
店主はそういうと、今度はたくさんの印影が押された帳面を開いて見せた。勇利の持っている印鑑ぐらいの小さめのサイズから、径2センチを超える大きなものまでさまざまだ。
「ヴィクトル、大きさはどうする? あまり小さいと字がつぶれるって」
「じゃあ、このぐらいかな」
ヴィクトルが指さしたのは、ちょうど四文字が刻印された、中ぐらいの大きさの印影だった。
「そうだね、僕もこのぐらいがいいと思う」
店主にその旨を伝えると「15ミリだね」と注文書に書き込んだ。
2センチ超えの大きさを選ばれたらどうしようと思っていたので勇利は内心で胸をなで下ろした。正直、それでも値段は高くついたが、まあ一生ものだし、ヴィクトルにもいい記念になるだろうしと自分を納得させた。


帰り道、勇利は商店街に寄り道して麦わら帽子を買い、彼の頭にかぶせた。山の部分に透かし模様が入っている以外はこれといって特徴のない、農作業のおっさんおばちゃんがかぶっていそうなそれだ。日差しをよけるのが目的なのだから、おしゃれな麦わら帽子ではツバが狭すぎると思ったのだ。
「ああ、ありがとう、勇利。大分ラクだよ」
「ヴィクトルのセンスには合わないかもしれないけど、帰り道はこれで我慢して。気に入らなかったら、うちに置いとけば誰かかぶるから」
「そんなことない。ジャパニーズ・ストローハット、俺は好きだよ」
「日焼け止めも買わないとね。真夏には真っ赤に火傷しちゃうんじゃない?」
「日本の夏って驚異的だよ……」
珍しく、力なく言葉を発してヴィクトルはため息をついた。遠い北の国は、長谷津と違って夏でも過ごしやすいだろう。梅雨の終わり頃の高温と湿気に彼は耐えられるかな、とそう遠くない未来が案じられた。
帽子が風で飛ばないように顎の下で結ぶための紐をくるくると指先で回しながらヴィクトルは何事か思案しているようだった。ロシアの夏を懐かしんでいるのかな、ホームシックかな、と思った。
「ねえ、勇利。印鑑、いつできるって?」
「手彫りだから2週間かかるって」
「手で彫るのか。そうか、2週間か……」
「何か急ぐ用事でもあるの?」
尋ねてから、馬鹿か自分は、と思った。日本人と違って印鑑を使う機会が頻繁に訪れるはずもない。かくいう自分だって、昨夜は久々に印鑑を使ったのだ。
「いや、早くできないかな、って思っただけ。俺がサインの後ろに印鑑押したらみんな驚くだろうなあ」
「え? 使う気なの?」
「え? 変かい?」
「変だとはいわないけど、よく思わない人もいるんじゃないかな……しきたりにうるさい人とか」
「俺はねえ、勇利」
そういってヴィクトルは数歩先に進むとくるりと振り返り、勇利をまっすぐ見つめた。
「しきたりとか、大切だとは思うけど縛られたいとは思わないよ。俺の人生を、歴史だけはあるけど、どこの誰が決めたのかもしれないルールで左右されたくない」
強い光を放つ碧い瞳に射すくめられて足を踏み出すこともできない。
「誰に非難されても。俺は、俺の幸せや人生を諦めないよ」
その、まっすぐさ。
強いな、と勇利は思った。
そういう考えを持つことは誰にだってあると思う。とりわけ若いうちは。けれど、貫き通す強さを持てるかどうかは別だ。
彼には強さがある。僕には手の届かない、遙か高みで微笑んでいる。そうでなければリビングレジェンドと呼ばれる偉業を達成することなどできないのだろう。
「届かんばい……」
「うん? 何ていったの? 勇利」
日本語の小さなつぶやきを耳ざとく拾ってヴィクトルが問うてくる。たった今、突き刺すような強い目をしていたのに、すでにいつもの人懐っこい目で勇利の顔をのぞき込んでいる。
「みんな、驚くだろうね。ヴィクトルの印鑑を見たら」
「あ、ごまかしただろ」
「ゴマカシテナイヨー」
足下の小石を蹴って、蹴って蹴って、ヴィクトルを追い越す。すぐに追いついたヴィクトルが肩を並べた。
この人に届こうなんて無謀な挑戦だと自分でもわかっている。
それでも、彼と競いたい、競って勝ちたいと願う心は止められない。
彼と同じ強さはなくても、自分は自分なりの強さを持てばいい。願いの強さが、僕の強さになるなら、僕は願うことをやめないだろう。
僕は、ヴィクトルに勝ちたい。
「僕、頑張るよ」
「うん?」
「さっきは、そういったの!」
照れ隠しに語気を強めて笑いかけると、ヴィクトルが眩しそうな顔をした。




「そんなこともあったねえ」
東京のアパートの一室で、小さなテーブルを挟んで額を寄せ合いながら、すっかり思い出話にふけってしまっていた。
二人、見つめ交わして、微笑み合う。偉利耶が昼寝しているので大きな声は立てない。ひそひそと、まるで秘密を打ち明け合うように話した。
「それにしても、ヴィクトルがあの印鑑のこと覚えてるとは思わなかった」
「失礼だな。日本にいるときは何度か使ったんだよ、これでも。ロシアに戻ったらシュニクがなくて使えなくなったけど」
「朱肉かあ。確かにロシアじゃ探すの大変そうだもんね」
「日本だと、印鑑を出すと誰かがサッと走ってシュニクを用意してくれるんだ。結構、いい話の種にもなったよ」
「みんな、驚いただろうね」
くすくすと、いたずらっ子のように笑い合う。
「それで、持ってきてくれたの?」
「もちろん」
そういうと、ヴィクトルはジャケットの胸ポケットから印鑑ケースを取り出した。記憶にあるとおりの、長谷津のはんこ屋で誂えた印鑑が収まっている。
「……懐かしいね」
「暑い夏だったなあ」
「まだ夏じゃなかったよ。五月の終わり頃だったはず。初夏だよ、日本じゃ」
「ああ、……じゃ、ツユはあの後か。暑くてジメジメして死ぬかと思った」
「ヴィクトル、ぐったり伸びてたね」
からかうように勇利がいうとヴィクトルはちょっと頬を膨らませたが、すぐに気持ちを切り替えた。機嫌を損ねる時間ももったいないと思ったのだ。
「あのストローハット、どうしたんだっけ?」
「さあ? 長谷津の家にあるんじゃないかな。誰かが使ってクタクタになってるかもね」
「パーパかな、マーマかな。マリネーは使わなそうな気がする」
家族の役に立ったなら嬉しいし、使わずに保管しておいてくれても嬉しい。ヴィクトルがそういうと、そんな大層なものじゃないよ、と勇利は苦笑した。
「大層なものだよ。勇利からプレゼントされたものは何でも嬉しかった。だから、あの夏の間はしょっちゅうかぶって出歩いてただろ?」
「そうだね。あれをかぶって天神に行こうとしてたの止めたっけ」
「一度、風にさらわれて海に落としたときはどうしようかと思ったなあ」
「橋の上から飛び込もうとするんだもん。心臓が止まるかと思った」
思い出話は尽きない。あの燦めくような夏、二人で、二人三脚で駆け抜けた。今も胸の大切なところで輝き続けている。
「僕ね、あの頃、勝ちたかったんだ、ヴィクトルに」
「ふうん?」
「届くはずのない高みにいるあなたに、それでも勝ちたくて、それで滑ってたところもあったなあ」
「見事に勝ったじゃないか。グランプリファイナルで俺のフリーの記録を塗り替えて」
「フリーだけじゃん。ショートのユリオとの合わせ技でやっと記録を書き換えることができたなんて、やっぱりとんでもない人だなあって思ったよ」
届きそうで、届かない背中に指先が触れて、いつしかその指を正面から握りしめられて。引き寄せられて、抱きしめられた。そうして、抱きしめ返す幸せを知った。
「……もっともっと競いたかった。氷の上で戦いたかった」
「勇利……」
手を携えて氷の上で生きていけると思っていた。今ではもう遠い昔の話。
ヴィクトルがいたわるように勇利の手を握った。今は、違う形で手を携えて生きていけることを喜びたい。
「こんな未来が待ってるなんて思いもよらなかったし、ヴィクトルにもつらい思いをさせちゃって」
「それは、もういいんだよ。今、こうして一緒にいられる。これからも。そうだろう?」
「うん、ごめん。──ありがとう、ヴィクトル」
ちゅ、と、どちらからともなく唇が重なる。本当に、予想もしなかった未来に自分は今生きている。
そして、これからもっと予測のつかない未来に踏み出していく。
「──さあ、そろそろ印鑑押そうか」
気持ちを切り替えるように勇利がいうと、ヴィクトルが微笑み、それからちょっと心配そうな顔になった。
「ちゃんときれいに押せるかな。久しぶりだからテストしたいな」
「オーケー、ちょっと待って」
勇利がメモ用紙を持って戻ると、ヴィクトルは既に朱肉をつけ、印鑑を構えて待っていた。ナイフとフォークを構えてご馳走を待つ子供のような姿に、こんなところは相変わらずなんだなあ、と微笑ましくなる。
「はい、どうぞ、存分に」
勇利が差し出した紙に、ヴィクトルは印鑑をぎゅっと押しつけたが、力が余って紙の上で弾いてしまった。印影は斜めに擦れて無残な形をしている。
「Oh……やっぱりテストしてよかった」
「力を入れすぎたんだね。気をつけないと印鑑が欠けちゃうよ」
「Really?」
「あ、紙を何枚か重ねれば押しやすくなるかも」
勇利は紙を数枚重ねてセットした。気を取り直して判を押すヴィクトルの手元を見つめる。指先まで手入れされた、綺麗な手だな、と思った。
「Yes! 今度はきれいに押せた」
「うん。じゃあ、その調子で本番いってみようか」
「急に緊張してきた」
「ヴィクトルが緊張!? 動画撮ってていい?」
「怒るよ、勇利」
「ごめんなさい、パーパ。──でも、ほんとに動画撮ってていい? こんな機会、一生に一度しかないし」
「いいけど、勇利のときは俺が撮るからね」
「はーい」
試し押しした紙をテーブルの下によけると、ヴィクトルは改めて朱肉をつけ直した。彫刻面を見て上下を確かめる。実印には側面のへこみがない。こうして押印するまでに一呼吸置くことで、判断に誤りはないか、本当に押印すべきか考えさせるのだ、とはんこ屋の主人が言っていたのを思い出す。
勇利の構えるスマホの先で、ヴィクトルはゆっくりと所定の位置に押印する。加減を推し量りながら、薄かったり掠れたりしないように力を込める。紙を押さえ、そろそろと印鑑を持ち上げると、きれいな印影が紙に残った。
「お見事、ヴィクトル」
「ものすごい大仕事を終えたような気分だよ。オリンピックの方がラクだった」
「またすごいものと比較したね」
勇利の差し出したティッシュで彫刻面を拭い、印鑑ケースに収める。そしてヴィクトルはおもむろにスマホを構えた。
「じゃ、勇利の番」
勇利は苦笑しながら自分の印鑑を取り出した。上下を確かめて朱肉をつけ、もう一度上下を確かめる。
判断に誤りはないか。本当に押印すべきか。
一瞬で、この三年の月日が脳内をよぎっていった。思いもよらないオメガ宣告、ヴィクトルの元からの失踪、妊娠発覚、偉利耶の誕生、戦争のような赤子との日々……そして、ヴィクトルとの再会……。
大丈夫。もう迷わないと決めた。三人で幸せになる。
自分の署名の横にゆっくりと判をつく。思いのほか力が入ってグラつきそうになった。均一に力をかけてから、紙から離す。どうにかきれいといえる印影に、勇利はほっとした。
「……確かに緊張するね。僕はオリンピックに出たことないけど」
「だろう? 人をからかうから」
「ごめんって」
印鑑をケースにしまって、ほうと息をついた。オリンピックは知らないが、確かに大会並のプレッシャーだ。何せ、人生がかかっている。
ふと、時計を見ると14時を回っていた。そろそろ偉利耶を起こしてもいい頃合いだ。
「ヴィクトル、偉利耶を起こして一緒に区役所に行こう。それとも留守番してる?」
「一緒に行くに決まってるだろ」
「だよねー」
勇利は押印した箇所をティッシュで押さえ、余分な朱肉を拭き取った。そして、婚姻届を丁寧に四つ折りにたたんで封筒に入れた。

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