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食の恨みは七代祟る

勇利はイライラしていた。
シーズンオフに油断して太りすぎてしまったのは勇利が悪い。反省している。こんなに太ったのは、あの悪夢のグランプリファイナルでジャンプ全ミスして最下位に沈んだ、あのシーズン以来だ。
油断した勇利が悪いのはわかっている。でも、カロリーの高いロシア料理にも責任の一端はあると思うのだ。
と、無生物にまで責任をなすりつけるほど勇利はイライラしている。
もっといえば、そのロシア料理を嬉々として食べ歩きに連れ出したコーチの責任は一端どころでは済まないと、今はちょっと、いや、かなり恨めしく思っている。
何せヴィクトルは太らない。
同じ料理を勇利よりたくさん食べていても太らない。何なら脂肪の塊といってもいいマヨネーズをさらにマシマシで料理に盛っても太らない。
基礎代謝の差が憎い。
ボルシチにはサワークリームをたっぷりと、ブリヌイにはクリームチーズを分厚く塗って、ヴァレニキにはスメタナをこれでもかと添えて、紅茶はとんでもなく甘いジャムを口に含んで……そんな食生活をしているのに全く太らないヴィクトルが憎い。
無論、心の底から憎んでなどいない。
だが、勇利が茹でたもやしとブロッコリーをもそもそ噛んで、噛んで噛んで噛みまくって、満腹感をどうにか得ようとしている目の前で、食の悩みとは一切無縁の食事風景を見せられ続ければ不満も募る。
ここまで勇利が不満をたぎらせるのには理由がある。
普段は敬愛しているコーチを恨めしくなど思わないし、不満など抱いたら罰が当たるとさえ思っている。
何せ憧れ続けた人だ。
ロシアで最高の練習環境を整えてくれて、自宅に住まわせてくれて、「出世払いでいいよ」とコーチ代も事実上うやむやにしてくれている、ありがたい存在だ。
でも、今は恨めしくてならない。
そう、ダイエットがうまくいっていないのだ。
昨年までのシーズンインの頃と同じような練習メニューなのに、体重の減りが鈍い。一歩進んで一休み、三歩進んで二歩下がる、みたいな毎日が続いている。
このままでは調整がうまくいかず、開幕に間に合わないのではないか、そんな不安が始終脳内をよぎる。
「大丈夫さ、減ってることには違いないんだから、焦らないことだよ」なんて励まされたって時間は有限なのだ。焦るのもやむを得ない。
それなのに、ああ、それなのに。
勇利がもやしチャンプルーを必死で噛んでいる目の前で、ヴィクトルはオクロシカにマヨネーズとマスタードをたっぷり入れている。
「ヴィクトルってさ、思いやりがないよね」
ぼろっと、発言内容を脳内で吟味する間もなく、それこそもうするりと、言葉が口から滑り出ていた。
「……え?」
しまった、ばっちり聞こえたか。そりゃそうだ、差し向かいで食事していたら聞こえるも聞こえないもない。
ヴィクトルの、口の手前まで持ち上げたスプーンから、さいの目に切られた茄子がポチャンと落ちるのがスローモーションで見えた。
「何でもない。気にしないで」
「いや、気にするよ。思いやりがないって聞こえたけど?」
まずい。さっきの発言はヴィクトルとしても意想外で許容しがたいものだったらしい。
だが、発してしまった言葉は戻せない。
「だから、言い間違い。気にしなくていいから」
「何と言い間違うの。思いやりがない、なんて」
こういう場面で上手く切り抜けることができれば勇利の人生はもう少しラクだったかもしれない。だが、こんなときに滑らかに回る舌を持っていないし、何よりダイエットで糖分を抑制し、脳の栄養が不足している状態では切り返しも簡単ではない。
加えて、高まっていたイライラ。募っていた不満。
わかっているのだ。自分を抑えなければ、と。
なのに──
「だって、ダイエットしてる僕の目の前でさ、そんなにマヨネーズたっぷり。嫌み? それとも見せつけてんの?」
わかっているのだ。こんなの、ただの八つ当たりだと。
「スィルニキにはスメタナとサワークリームどっちも乗せなんてやってさ、フレンチトーストには蜂蜜漬けか!っていうくらい蜂蜜かけちゃってさ、たまに僕がご飯作ればてんこ盛りのご飯お代わりして、僕がもやしとブロッコリー時々豚肉を味が何だかわかんなくなるまで噛んでる目の前で、肉汁たっぷり熱々のペリメニを口いっぱい頬張っちゃってさ、あちあち、なんて幸せそうに口をホグホグさせてさ、何なの、何も感じないの? 目の前で僕が特に美味しくもなさそうな食事してるの見てても、僕に対する罪悪感のかけらもないわけ?」
「いや、勇利──」
「これじゃ、思いやりがないっていわれたってしょうがないよね! だって、思いやりのある行動してないじゃん! 自業自得だよ!」
さすがにここまでいわれてはヴィクトルだって腹に据えかねる。
「勇利、俺を責めるより先に自己管理が甘かった自分を責めるべきだろ? 俺はアスリートとして必要なカロリーを計算して立てられた献立に基づいて食事してる。勇利に責められるいわれはないよ」
美しい眉をしかめてヴィクトルが正論を口にする。
だが、正論だけに、今は余計に腹立たしいのだ。
「少しぐらい美味しくなさそうに食べてくれてもいいじゃん。同居人が苦労してるっていうのにさ、全然、そんなことお構いなしじゃないか。自分のことばっかり」
「美味しいものを美味しくなさそうに食べるなんて器用なまねができるわけないだろ」
「へええー。ヴィクトルは器用だから何だってこなせると思ってたよ。氷の上では何にだってなれる演技力も、僕一人の前はもったいなくて披露できませんか、そうですか」
どうして悪口をいうときほど舌は滑らかに回るのだろう。
そう、こんなのただのいちゃもんだ。もはや八つ当たりにすらなっていない。
「勇利、いい加減に──」
「知ってる? 中性脂肪って頭皮に悪いんだよ」
「は?」
勇利はついに禁断の領域に足を踏み入れてしまった。
「血液中に中性脂肪が増えると、末梢血管の血流が悪くなって栄養が行き渡らなくなるんだ。当然、髪にも栄養がいかなくなるから──」
「ちゅ、中性脂肪の数値は正常範囲内だし!」
痛いところを突かれたのか、数値の悪化する要因に覚えがありすぎるからか、珍しくヴィクトルがどもった。
「自信があるなら今の食生活を続けてればいいじゃん! 十年後、どうなっても僕は知らないからね!」
いうなり、勇利はもやしチャンプルーをガーッと掻き込んで、もっしゃもっしゃとおざなりに噛んで、すぐにゴクンと飲み干し、「ごちそうさま!」と言い捨ててダイニングを飛び出した。



「ぁぁあああぁあ」
そして今、自室で、たった今生産したばかりの黒歴史に勇利は身もだえている。頭をかきむしり、あっちにごろん、こっちにごろんとベッドの上で転がって、まるで七転八倒状態だ。
冷静にならなくたってわかっている。ひどいことをいってしまった。人の気にしていることを攻め立てるなんて、なんて、なんて卑怯なことをしてしまったんだ。
しかもヴィクトルに。
「ヴィクトルにぃい~」
よりによってヴィクトルに八つ当たりして当たり散らすなんて。なんて大それたことをしてしまったのか。時間を戻せるなら夕食前に戻って自分で自分を小一時間ぐらい膝詰め談判したい。
しかし、全能はおろか万能ですらない勇利にはどうしようもない。
どうしようもない以上は次にどうするかを考えるしかない。
「どうするったって」
もちろん、謝る。
それしかない。
要求されなくとも土下座くらいなら額から血が出るまでやる覚悟だ。何なら額が割れるまで。
明日の朝イチ、いや、今夜中だって出会ったらその場で謝るしかない。
「出て行けっていわれたらどうしよう……」
この楽しくも快適で、ついでにヴィクトルオタク心も満足させてくれる生活が終わりを迎えるのかと思うとやるせない。それも自分のまいた種で。
「コーチ代、過去三年分一気に払えっていわれたら臓器を売るしかなさそうだ……」
売っても足りるかどうか。
ぞっとして勇利は上掛けに包まった。寒々しい未来予想図が去っては現れ、繰り返し背筋を凍らせた。



〝先に行きます。勇利はゆっくり、よく噛んで朝ご飯を食べてから来てください〟
あっさりしたメモがダイニングテーブルの上に置かれていて、勇利は脱力した。謝るぞ、と気合いを入れて起きてきたのだが、当のヴィクトルがいないのではやる気の持って行き場がない。
朝食はもやしとブロッコリーと茹で豚の白和え(豚肉多め)。メモにある言いつけ通り、ゆっくりとよく噛んで食べた。豚肉の旨さがしみた。
それにしても、先に行きます、とはいえ、あまりにも早すぎないだろうか。
「リンクだって、まだ開いてないよな……」
勇利と顔を合わせたくないがために、行く当てもなく外出したのだろうか。
「だとしたら申し訳なさすぎ……」
ぐずぐずしていると謝らなければならないことが雪だるま式に増えていきそうな気がする。
「リンクで顔を合わせたら真っ先に謝ろう」
固く決意して最後の一口を飲み込んだ。名残惜しかった。



ロッカールームにも、トレーニングルームにも、バレエスタジオにも、食堂にもリンクにもヴィクトルはいなかった。
「どこ行ったんだろ」
行き合う選手やスタッフに聞いても今日はまだ見ていないという。では、やはり勇利と顔を合わせたくないがために……と、推論が裏付けられた気がして勇利はため息をついた。
「……リンク練習の時間までには来てくれるよね」
自分を鼓舞するように呟いて、勇利はトレーニングルームに向かった。ヴィクトルへの謝罪という第一の目的が達せられないからといって、それ以外のことを手抜きして許されるわけはない。
いつもよりも丹念に、筋肉への負荷と呼吸に気をつけながらマシントレーニングを行う。
勇利ももうフィギュアスケートの選手としては若いとはいえない年齢になった。毎日の練習も故障の危険性と練習負荷とをぎりぎりのところで調整して行っている。がむしゃらに取り組んでも上達に結びつくとは限らない。チムピオーンに来てすぐの頃に、それをみっちりと講義された。
勇利の場合、精神的に動揺すると練習に逃げ込んで精神の安定を図るところがあるのだが、ヴィクトルがコーチに就任して以来、ずいぶんと精神的に安定してきた自覚がある。というか、歩くびっくり箱のような人と同居していると些細なことで動揺していられないというか、コーチが一番の動揺の元であり、同時に安定の元でもあるという複雑怪奇な生活のおかげで、その他のことではあまり動揺しなくなってきた気がする。
これもヴィクトル流のメンタルトレーニングなのだろうか、だとしたら天才だな、と勇利は時々考えて、買いかぶりすぎかな、と気恥ずかしくなる。
マシントレーニングを終え、勇利は休憩がてらリンクサイドに向かった。ヴィクトルが来ていたら練習前に謝罪できるチャンスだ。
ドアを抜けると辺りを見回すまでもなくヴィクトルの姿が目に入った。ベンチに腰掛けて靴紐を結んでいる。
「ヴィクトル……!」
勇利は沸き立つ気持ちを抑えるのに苦労した。謝罪するというのにニコニコしていては馬鹿にしているみたいではないか。
深呼吸して気持ちを切り替え、表情を引き締める。
「ヴィクトル!」
名を呼ぶ声は浮き立っていなかっただろうか。表情は緩んでいないだろうか。
小走りでヴィクトルの元に駆け寄った。
「やあ、勇利」
ヴィクトルは柔らかに微笑んでいる。いつものヴィクトルだ! と勇利は百万の味方を得た気分になった。
「ヴィクトル、あの、ごめん、ゆうべ、僕──」
「勇利」
勢い込んでしゃべりかけた勇利を、ヴィクトルが片手を上げて制した。
「昨夜の話なら、今するべきじゃないよね? ここは〝オン〟の場所だ。〝オフ〟の話は家で聞くよ」
「あ、……そう……だね、はい……」
気持ちがみるみるしぼんでいく。
確かに、昨夜のような話の謝罪を、こんな場所ですべきではないだろう。ここでまた言い争いにでもなったら目も当てられない。言い争いというか、ほぼ勇利が難癖をつけていただけだが。
「朝はマシントレーニングだったね。調子はどう?」
「……うん、上々だよ。いつもより呼吸と筋肉の負荷に意識を集中してやってきた」
「オーケー。じゃあ、15分後にコンパルソリーから。いけるかい?」
「大丈夫、です」
第一の目的が達せられないからといって、それ以外のことを手抜きして許されるわけはない。
勇利はきっぱりいって、気持ちを新たにした。緩んだ気構えで練習しては即事故につながる。選手生命を自ら危うくするようなことはできない。
彼の内心はともかく、勇利を見捨てずに練習に来てくれたのだ。
その気持ちに応えなければならなかった。



玄関で靴を脱ぎ、室内履きに履き替えたところで、勇利は床に手をついた。
「ヴィクトル、ごめんなさいっ!」
「……ジャパニーズ・ドゲザかい? 久しぶりに見たよ。顔を上げて。こんなところで、ごめんもないだろ。着替えてリビングに集合、いいね?」
「はいっ」
聞いてくれる気はあるのだ、と勇利はちょっと安心した。もちろん彼が謝罪を受け入れてくれるかはわからない。ヴィクトルの背中を見ながら歩いて、彼の部屋の前を通り過ぎ、自分の部屋に荷物を放り投げると急いで部屋着に着替えた。彼より先にリビングに行って待っていようと思ったのだ。
リビングの隅で寝ているマッカチンに帰宅の挨拶をし、さて座って待っていようかどうしようかと勇利は悩んだ。
座るにしてもどこに? 床か? それはさすがにやり過ぎか?
意味もなく手足を動かし、ソファとリビングの入口との間で視線を往復させた。挙動不審なことこの上ない。
迷っているうちにヴィクトルが来てしまった。さらに、悠々とソファに座った彼に、傍らの座面をぽんぽんと叩かれてしまった。
──犬か。
まあ犬でもいいか、この際……と勇利は大人しく彼の傍らに座った。何となく、膝をそろえて背筋を伸ばした。
起き上がったマッカチンがよたよたとソファに近づいてきて、のんびりとヴィクトルにお帰りの挨拶をした。マッカチンにキスし、わしゃわしゃと毛並みを撫でて、ひとしきり愛犬と交歓するヴィクトルをじっと待った。
ヴィクトルの足元にマッカチンが寝そべって、ようやく勇利のターンになった。
「ヴィクトル、あの……昨夜はごめんなさい」
ヴィクトルは何の音も発しない。
「あの……八つ当たりして、ひどい難癖つけて、本当にごめんなさい。ヴィクトルは何も悪くないのに」
背筋を嫌な汗が伝っていくのが感じられた。
「ダイエットが……あまりうまくいってないっていうか、体重の落ち方が鈍くて、それでイライラしてて。で、ヴィクトルが美味しそうに食べてるのがうらやましくて、悔しくて」
自分の至らなさを追体験するのはある意味地獄だ。
「いや! 悔しいも何も、オフの間に油断した僕が悪いんだけど。わかってるのにイライラしてて。……ごめんなさい」
言葉を切ると二人の間を沈黙が漂った。マッカチンの尻尾がぱたりと床を打つ音がやけに大きく耳に届く。
「ヴィクトル……」
おそるおそる視線を向けると、ヴィクトルは正面を向いたまま、何の反応も顔に上らせていなかった。勇利への興味も関心もない、とでもいうように。
ずきりと勇利の心臓が痛んだ。
ヴィクトルの整った横顔は、なまじ整っているだけに、何の感情も表していないと冷たささえ感じさせる。
よこしまな気持ちを抱いて見る者の心を凍らせるかのような。
昨夜の自身の振る舞いで後ろめたい気持ちを抱いている勇利には、とりわけその冷たさが突き刺さる。
相当怒っているのか。
それとも……嫌われたか。
暗い予感に勇利の胸が塞がる。
「あの……」
「ねえ、勇利」
「は、はい」
「別々に食事した方がいいかい? そんなにつらいなら」
「え?」
勇利はポカンとした。思ってもみない彼の発言に、とっさに思考がついていけなかったのだ。
「俺は楽しんで食事をしたいし、美味しいものは美味しく食べたい。それが勇利の目障りだっていうなら──」
「目障りだなんて、そんな! そんなことないから!」
ちらり、とようやくヴィクトルの視線が勇利に向いた。勇利を刺したように感じられた。
「でも、イライラするんだろう?」
「違うよ! イライラするのは体重がなかなか落ちないこと。ヴィクトルにイライラしたんじゃないから。違うから」
ふうん、と気のないような返事をして、ヴィクトルの視線はまた前を向いてしまった。そうなると、途端に見捨てられたような気分になる。
何とか会話を維持したくて、勇利は聞かずもがなのことを尋ねてしまった。
「あの……それで今朝、早く家を出たの? 僕の目障りにならないようにって」
ぱたり、とまたマッカチンの尻尾が床を打つ音。
「僕……目障りだなんて思ったことない。美味しそうに食べるヴィクトルを見てると、いつもなら幸せな気分になるんだ。ただ、昨日だけはちょっと……食事の前からイライラしてたせいで、ヴィクトルに当たっちゃって」
ヴィクトルは優しい。勇利を責めるのではなく自分を変えようとしてくれた。そんな人に八つ当たりして、いちゃもんつけて、なんてひどいことをしたんだろう。
「本当にごめん……。僕の方こそ、僕が目障りなら……ヴィクトルがもし出て行けっていうなら」
──出て行けるだろうか?
いや、僕が決めることじゃないんだ、と勇利は自分を戒めた。決定権を持っているのはヴィクトルだ。僕は従うしかないんだ。
「出て行きたいの?」
「え、え?」
突然のヴィクトルの声にどぎまぎしてしまう。そんな勇利の内面も知らず、ヴィクトルは淡々と言葉を紡ぐ。
「勇利はこの家を出て行きたいの?」
出て行きたいか? 本音をいえば出て行きたくなんかない。ここでの生活は快適で、楽しくて、ヴィクトルとの会話はときに刺激に満ち、ときに安らぎにあふれ、勇利の内面を豊かにしてくれる。そんな生活を捨て去りたいと誰が思うだろう。
でも、この期に及んで出て行きたくないなんていったら厚かましいにもほどがある。気がする。
「僕は……」
勇利はそれきり二の句が継げなくなって黙り込んだ。どう答えれば正解なのか、ヴィクトルのためを思えば出て行きたいと答えるべきなのかもしれないが、どうしてもその言葉が出てこない。
「迷ってるの?」
「……うん……」
「どうして?」
どうして? どうしてだって? 憧れのヴィクトル・ニキフォロフと寝食を共にする生活を捨て去りたいなんて、どうして思えるだろう。
でも、その憧れの人に自分はひどいことを言ってしまったんだ……。
改めて自身の所業の意味を思い知らされて勇利は激しく落ち込んだ。思わず、がくりとうなだれる。じわりと目が熱くなって、あ、やばい、と思ったときにはメガネにぽつんと一粒涙が落ちていた。慌てて目をしばたたいて、これ以上の落涙を押さえ込もうとした。
「僕……は」
「うん」
「出て行きたくない、です……でも、あんなひどいことをいっといて、このままここに置いてくれともいえないです……」
「それは、俺に決断させて責任を委ねるやり方だね。あまりフェアとはいえないと思うよ」
「う……」
そうだ。事ここに至っても自分で決断できず、ヴィクトルに判断を委ねようとしている。なんて卑怯なんだ。
ついに、勇利の目から涙があふれた。ぼたぼたとメガネのレンズに落ちて、水中のように視界がゆがむ。せめて声だけは抑えようと拳を口にあてがったが、ひっく、と大きくしゃくり上げてしまう。
次の瞬間、ヴィクトルの腕が勇利の身体を抱きしめた。
「ああ、ごめんね、勇利! いじめすぎたね。泣かないで、泣かなくていいんだよ」
「ふえ……え?」
ヴィクトルの急変について行けず、しばたたいた目からさらに涙があふれて勇利の頬を濡らす。涙滴のしたたるメガネではヴィクトルの顔がよく見えなくて、メガネを外したら思いのほか近くに美しい顔があって鼓動が跳ねた。
「え……え、何?」
「ごめんね、泣かせるまで追い詰めることなかったね。やり過ぎたよ。もう泣かないで、勇利」
追い詰める? やり過ぎた? 泣かないで、……ということは、ヴィクトルは本意ではなかったということなのだろうか。
「ヴィクトル……怒ってないの?」
勇利がようよう口にすると、ヴィクトルの腕がすっと引いていった。それがちょっと寂しいと思って、自分の気持ちがよくわからなくなり、混乱に拍車をかける。
「もちろん、怒ってる。いや、怒ってた。でも、こんなに泣かせるほどは怒ってないよ」
そんなには怒っていないのか。それがわかっただけでも勇利の胸にはどっと安心感がこみ上げてくる。
「じゃあ、僕……出て行かなくても」
「出て行かなくていい! ずっとここにいていいんだよ!」
「よかった……」
安堵のため息をついて、それから服の袖で濡れた目元を拭った。ずず、と鼻をすするとヴィクトルが立ち上がってボックスティッシュを取ってきた。数枚引き抜いて顔を拭う。それからまた新しく引き抜いてメガネのレンズを拭った。
すっきりしたメガネをかけると、少し心配そうに、けれど穏やかに微笑んでいるヴィクトルが見えて、思わず勇利の口元もほころんだ。
「ヴィクトル……、改めて、昨夜はごめんなさい。八つ当たりなんかして、恥ずかしい、です」
「うん。反省してる?」
「してます」
「なら、いいよ。謝罪を受け入れるよ」
「ありがとう……ひどいこといってごめんね、ヴィクトル。ものすごく怒ってるんだと思ってた」
「怒ってたよ。割とすごく」
きょとんと言い返されて、勇利は釣り込まれるように、え、と身を乗り出した。
「勇利の八つ当たりにも腹が立ったし、勇利がイライラしてるのに気づかなかったことにも腹が立った。おまけに、髪のことまでいわれたら、ね……」
「ごめん……」
「ねえ、勇利。俺たちはもうスケーターとしては若くない。勇利はそもそも太りやすいのに、これからは年齢のせいでどんどん痩せにくくなっていくだろう。今まで以上に栄養と体調管理についてシビアに考えていく必要がある」
勇利はうなずいた。四捨五入すれば勇利ももう三十代だ。普通の三十代より運動量が多くても、持って生まれた体質だけは如何ともしがたい。
「勇利は一人でいてストレスを受けると食で解消しようとする。それを防ぐためにも俺と暮らした方がいい。俺もこれからはもっと注意深く勇利の食生活について考えるようにするよ」
「うん……僕も気をつけるようにします」
それがいいね、とヴィクトルはうなずいて、それから右手を差し出した。
「仲直りの握手をしよう。それとこれからは、イライラしてるときは素直にそういってもらった方がいいかな。同じことを繰り返さないためにも、ね」
「はい。そうします」
勇利は差し出された右手をしっかりと握った。大きくて温かな手がしっかりと握り返してくれる。この手を失わずに済んでよかった、と心の底から安堵がこみ上げてきた。
「それにしても、ねえ? 勇利。この家を出て行きたくなかったのって、何で?」
「え? それはだって、ここ、ヴィクトル・ニキフォロフの家だし」
スケーターなら誰だって出て行きたいなんて思わないんじゃないかな、と続けると、ヴィクトルは、ふうん? と語尾を上げた。
「だって、あのヴィクトル・ニキフォロフだよ? リビングレジェンドと呼ばれる人と、望めば朝から晩まで一緒にいられて、過去の映像も見せてもらえて、思いついたときにはその場でスケート談義ができる。こんな環境、スケーターなら手放したくないって誰だって思うよ」
「そうか……」
呟くようにいうと、ヴィクトルは腕組みをしてソファにもたれ込んだ。そして、おもむろにとんでもないことを言い出した。
「じゃあ、俺の価値ってスケーターで、リビングレジェンドと呼ばれてる程度で、それ以外にはないって感じ?」
「はあ!?」
あまりといえばあまりの暴言に勇利は思わず立ち上がっていた。
「な……な……な」
「ナ?」
「なんってこというの!? ヴィクトルの価値がそれだけのはず、ないでしょお!?」
血相を変えた勇利にも構わず、ヴィクトルはさらりと、まるでうそぶくように続ける。
「だって、勇利がそういったんじゃないか。スケーターならって。じゃあ、スケーター以外の人には俺の価値なんて、ほぼ無いも同然──」
「バッカなこといわないでよ! スケーター以外の人にだって価値あるよ!」
「どんな?」
「ヴィクトルは優しい! 優しいっていってもただ甘やかすんじゃなくて、厳しさを内に秘めた、相手のことを真に思っての優しさ! 誰にだってできることじゃないよ、だって、厳しさっていうのは嫌われてでも相手のためにっていう崇高な考えがあってのことなんだから!」
「そうなんだ? ほかにはある?」
「ヴィクトルはきれい! カッコいい! 美しい! 理想的な頭身のバランス! 長い手脚! もの知らずの僕は銀髪って表現しか知らなかったけど、ファッション系の雑誌にはシルバーブロンドとかって書いてあった髪色もきれい! 長いまつげの影が差すと深いブルーにも見えるのに明るいところだとグリーンもほのかに感じさせる瞳の色もきれい!」
「外見か……」
「ヴィクトルは踊れる! ソシアルはもちろん、その気になればストリート系すらいける身体能力! まさに神の与えた賜物! 天は二物も三物も与えてる! すごい!」
「それも俺が勝ち取ったものじゃないよね」
「ヴィクトルの何がすごいって、リビングレジェンドと呼ばれるほどまでに努力できること! 天与の才能にあぐらをかかずに努力し続けてるところがすごいの! 努力って誰にも続けられることじゃないから! 強い意志がないと続けられないの! ヴィクトルにはそれがある!」
「そうか……。ねえ、勇利」
「な、なに」
肩で息をする勇利を見やってヴィクトルはちょっといたずらっぽく微笑んだ。
「とっさにそれだけ褒められるってすごいね。勇利は俺のこと大好きなんだね」
「当たり前でしょお? 僕が何年憧れ続けてると思ってるの」
勇利は滅多にすることのないドヤ顔をして見せた。そう、ヴィクトルに関することなら、当のヴィクトルよりも詳しい自信がある。当のヴィクトルより……。
「その大好きってさ、ライクなの? ラブなの?」
「…………はい?」
瞬間、勇利の脳は理解を拒絶した。
「俺のこと大好きみたいだけど、それはライクの意味で? ラブの意味で?」
わざわざ言い直してくれたけど、何をいってるんだろう、この人。
勇利は、目の前に座っている人が急に全く知らない人に見えた。
ライクか、ラブか、だって? そんなのライクに決まってる。だってこの人は僕の憧れ続けた選手でコーチで同居人で、あと多分、その……親友で。家族、とまではまだいえないかな、大それてるかな、うん。ちょっと調子に乗ったかな、あはは。
いや、笑ってる場合じゃない。
確かに僕はこの人が大好きだけど、それはライクっていう意味で、そこには別の感情なんて入る余地はないはずだ。
ライクか、ラブか? ラブって何だっけ。もしかしてL・O・V・Eのラブ? 何いってんの? 何考えてんの。
僕がこの人をラブの意味で好きなんて、そんなことあり得ないでしょう。だってラブってことは、あ、あ、愛してるってことで、そんなことあるわけないじゃん。愛してるってことは、この人とキ、キ、キスしたり、それ以上のことをする関係ってことで、いやいやいやいや、ないないないない。
いくら僕がこの人を好きだからって、この人が僕を好きでなきゃそんなことできないわけで。そう、この人が僕を好きでなければ──
あれ? じゃあ、万が一、億が一、兆が一、この人が僕を好きだったらできちゃうわけ? セッ……
ここまで、勇利が概念で思考すること、三秒。
勇利の脳は爆発した。
「ら……ら」
「うん?」
「ライクに決まってるだろおーっ!」
雄叫びを残して勇利は走り去っていく。
どたばた、バタン! と音が聞こえてきて、どうやら自室に戻ったらしいと見当がついた。
「やれやれ」
ソファに深々と身を預けてヴィクトルは大きく息をついた。
「……いい線までいったと思ったんだけどなあ」
まったく勇利ときたら鈍感にもほどがある。自分の気持ちにさえ気づいていない。だから、昨夜の八つ当たりをきっかけに、ちょっと一押し当ててみたのだが、どうやら今日は外れたらしい。
「泣くほど俺と離れたくないくせに」
まあでも、あの反応から察するに、今回はかなり深いところまで想像したのだろう。今夜はもう自室にこもって出てこないだろうから、明日の朝、どんな顔で起きてくるのかが楽しみだ。
「あ、勇利の夕食……まあ、もやしとブロッコリーだから、冷蔵庫に入れておけばジーナが何とかしてくれるだろ」(※ジーナ…ニキフォロフ家のハウスキーパー)
それにしても、昨日の勇利は相当苛ついていたのだろう。髪のことまで言及されるとは思わなかった。
痛いところを突かれて、昨夜は地味に傷ついていたヴィクトルである。
この際、勇利には、禁じ手を使えば痛いしっぺ返しがあることを覚えてもらわなければならない。
「覚悟していてね、勇利」
ヴィクトルは一人、楽しげな笑みを漏らした。





今日の朝イチで健康診断の結果を持参して薄毛専門病院の門を叩いたヴィクトルは、ダイニングで一人寂しく夕食を摂りながら、これを機に少しだけ脂肪を摂取する量を減らそうかなあと考えていた。

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