「こんな狭いシートでよく眠れるもんだね!」
思えばこの言葉は、勇利の心に深く刻み込まれていたのかもしれない。
「じゃあ、ヴィクトル、僕、こっちだから」
「What!? 勇利もファーストじゃないの?」
「僕の財力で二人分のファーストクラス料金なんて捻出できるわけないだろ。ヴィクトルの分だけで精一杯」
じゃあ、と離れていこうとした勇利の腕を「Wait!」とヴィクトルが叫んで引き留めた。
「何で!? 俺だけファーストなんてありえないだろ!?」
「え、だって」
きょとんとして小首をかしげる勇利に、ヴィクトルは「ああもう、可愛い、どうしてくれよう」と心の中で歯ぎしりした。
「ヴィクトル、エコノミー狭くて嫌なんだろ? 僕は平気だからヴィクトルだけ……」
「平気なわけないだろう!? 試合を控えたアスリートがエコノミーで、試合のない俺がファーストなんておかしいだろ!」
「だから、ヴィクトルがエコノミー嫌だっていうから」
「嫌だなんていったことないだろ!?」
「いつも狭いとか何とか文句タラタラじゃないか!」
「狭いのは事実なんだから仕方ないだろ!」
「だからヴィクトルの分はファーストを取ったんだろ!?」
「俺だけファーストはおかしいっていってるの! もういい、ファーストもう一席取るから勇利も──」
「満席だから無理だよ。大人しくファーストに乗って運ばれてよ」
「ちょっと待って勇利! まさか帰りの便も……」
「ヴィクトルだけファースト」
「Noooo!!!」
ファーストクラスの座席でヴィクトルはふてくされていた。
幅広の快適なシートも、行き届いたサービスも、隣に勇利がいないのでは何の意味もなさないではないか。
あまりに凶悪な顔つきでもしていたのか、キャビンアテンダントがおろおろと「何かご不満でも」とご機嫌伺いにやってきた。それを手の一振りで追い払い──普段は決してこんな雑な扱いはしないのだが──ヴィクトルは黙然とシートに沈んだ。
だが、憤りが過ぎて眠ることもできない。
本当にどうしてくれよう。
勇利はまだ俺を神様扱いしているのだろうか。
こんなことならリビングレジェンドと呼ばれて別格扱いされ出したときに却下しておけばよかった。
そうすれば少しはマシだったのではないか。
だが、この状況で過去を悔やんでも仕方ない。見据えるべきは未来だ。二度とこんなことのないように、勇利とはきっちり話をつけねばならない。
ヴィクトルは勇利の傍にいたい。
勇利の傍なら狭いエコノミーのシートだって狭さを存分に楽しめるというのに。
自分一人でエコノミーに押し込められるとなれば、さっさとクラスチェンジもするが、傍らに勇利がいるなら狭くたって問題ない。むしろ狭い方が密着できて都合がいいくらいだ。
どうしてこんな簡単なことがわからないんだ? 勇利は。
ヴィクトルはもうだいぶ前から勇利が好きだった。
いつからと問われると、福岡空港でマッカチンとともに出迎えたときのような気もするし、中国大会で泣かせたときのような気もするし、勇利が滑った動画を初めて見たときのような気もするし、もっと遡ればバンケットで「Be my coach!」と抱きつかれたときには既に好きだったような気もする。
人の心を鷲づかみにしておいて放置とは、まったく勇利には人の心がないのか? 何という仕打ちだ。
そもそも勇利は淡白に過ぎるんだ。
手を握るのも、見つめ合うのも、甘い言葉を囁くのも、全部俺から。勇利からハグされたのなんて、あのバンケットの夜と、試合前後のテンションが上がったときくらいで、全然ベタベタしてこない。
日本人は愛情表現が下手だといわれるけれど、勇利の場合は下手なんじゃなく、ない。ゼロ。Ничего.
とはいえ、今まで勇利に何もいわなかった俺にも多少は、ちょっとは、ほんのちょっとは責任があるだろう。
だから、今は大人しく一人でファーストに座ってやるが、試合が終わったら俺のターンだ。とことん、話し合う。理解してもらう。いや、理解させる。
決意を新たにしたところでベルト着用のサインが点った。今回の旅程は乗り継ぎがやたらと多くて落ち着けない。それもまたヴィクトルを苛立たせるのだった。
「勇利、話があるんだ」
昨年のバルセロナの夜以来、勇利から「話がある」といわれるのがトラウマになっているヴィクトルである。
できれば自分でもこの言葉を遣いたくない。否応なしにあのときの記憶が呼び覚まされて不快な気分になるからだ。
「なに? ヴィクトル」
とても24歳の成人には見えず、ヴィクトルの目にはあいかわらずティーンのように映る勇利は、いっそあどけないといっていい表情で振り返る。
くっそ、ほんとにどうしてくれよう。
内心で不穏かつ野卑な言葉を呟きながら、ヴィクトルはあくまで笑顔を絶やすことなく勇利の傍らに腰を下ろした。
「まずは試合お疲れ様。惜しかったね、もうちょっとで勝てたのに。俺の目には1位の選手より勇利の演技の方が勝って見えたよ。コーチのひいき目かもしれないけどね」
ヴィクトルが率直な言葉で──回りくどい言葉だと通じないことが痛いほど身にしみているので──賞賛すると、勇利は照れたように笑った。
ああ、可愛い。
「ありがとう、ヴィクトル。次はジャッジの目も満足させられるように頑張るよ」
「うん、そうだね。──ところで、ねえ、勇利。飛行機のシートのことだけど」
「飛行機のシート?」
きょとんと小首をかしげる勇利は、本当に悪いことをしたと思っていないらしい。ヴィクトルの機嫌が一気に下降し始める。
「俺だけファーストなのはおかしい。絶対におかしい。ファーストを取るなら選手の君こそ座るべきだ。試合を控えていたんだから。なのに──」
「ああ、その話……。ヴィクトル、何でそんなに怒ってんの?」
どうして勝生勇利という人間は、こうも人の気持ちに疎いのだろう。まあ、俺も勇利のことはいえないが、それにしたってひどくないか。
「何で、だって? 君というれっきとしたパートナーがいながら一人でファーストに座らされて、怒らない方がおかしいだろ」
冷静に。冷静に。言葉を荒げては、空港でのやりとりの繰り返しだ。
勇利はなぜか目を丸くしてヴィクトルを見つめている。
「あの煩雑な乗り継ぎだって、君が傍にいてくれたら、愚痴をいうのさえ楽しいのに。一人じゃ何をいってもどこにも誰にも響かない。君という立派なパートナーがいるのに、だ!」
「いや、ちょっと待って、ヴィクトル……」
「待たない。俺がどんなに侘しく切なかったか。君の隣に座ったであろう忌々しい誰かと無理矢理にでもシートを交換すべきだった。エコノミーとファーストなら喜んで交換してもらえただろうに。あのとき、頭に血が上りすぎてそんな簡単なことすら思いつかなかった自分に今さらながら腹が立つよ」
「ちょっと待って」
「俺をファーストに座らせようという気遣いには感謝するよ。嬉しいと思ってる。でも、同じくらい自分のことも気遣うべきだし、もっというなら、俺たちの関係性にも気遣って、ファーストでもエコノミーでもいいから席を隣同士にする配慮がほしかったと……」
「ちょっと待ってってば!」
「……なに。反論でもあるの?」
「いや、あのさ……パートナーって?」
「うん?」
「パートナーって何」
「パートナーはパートナーだよ」
「それは僕の知ってるパートナーなのかな? 全然別のパートナーじゃないよね」
「それは、勇利の知ってるパートナーの意味をいってみればはっきりするんじゃないかな」
「僕の知ってるパートナーの意味は、相手とか、恋人とか、配偶者とか……あっ! もしかしてヴィクトル、仲間って意味で使ってるとか?」
「いや、仲間の意味でなんか使ってないよ」
「だよね……。じゃあ、やっぱり」
「うん。だって俺たち恋人じゃないか」
「いや、待って待って待って。誰と誰が恋人?」
「俺と勇利が」
「いつから!?」
「こんなの、いつからとかわかるものじゃないだろう? いつの間にかそうなってるものじゃないか」
「ああ、ヴィクトル日本人じゃなかった……いや、あのね、日本ではね、告白もナシで恋人気取りなんてした日には、とんでもない勘違い男認定されるんだよ」
「告白? 教会でやるやつかい? なんで付き合うのにそんな行動が必要なの?」
「いや、教会は関係なくてね、あなたが好きです付き合って下さいって言葉がないと日本ではお付き合い開始しないし、恋人扱いもしないんだよ」
「なんだか窮屈だね。つまり?」
「つまり、僕とヴィクトルは恋人じゃないと……」
「What? 恋人じゃなかったら何だっていうんだい!?」
「ええ? えっと……コーチと生徒」
「そんなドライな関係だったか!?」
「あと、あの……口幅ったい言い方が許されるなら、し、親友……」
「うんうん。あとは?」
「え? えー? あ、あと、か、家族……とか」
「そうだね。ほかには」
「もうないでしょ」
「だから、恋人」
「違うってば」
「どうして」
「だって告白されてないし」
「なんで形式にこだわるの」
「だって、告白でもなきゃ、僕がヴィクトルの恋、こ、恋人なんて信じられないもん」
「なんだ、そうか。何ていえばいいんだっけ? 好きです、付き合って下さい、だっけ?」
「そうだけど、ちょっと──」
ヴィクトルは立ち上がると勇利の前に片膝をついて跪き、手を取った。
「勇利、俺は君が好きだ。俺と付き合って」
「待ってええええ!」
勇利は手を振りほどこうとしたが、ヴィクトルにがっちり掴まれていて敵わなかった。
「なに? 望みどおり告白してるのに」
「そんな軽くいわれたって困るよ! からかわれてるとしか思えない!」
「こんなことに軽重があるとも思えないけど、重くいえばいいのかい?」
「重くっていうか、こんな、ついでみたいにいわれても」
「じゃあ、雰囲気のいいレストランでも予約して、そこでいえばいいかい? そうしたら恋人って認める気になる?」
「えっ、ちょっと待って。話が何だか間違った方向に進んでる気がする」
「何も間違ってないさ。お互い、好きなんだから、後は形式だけで──」
「そこ! そこが問題なの! お互い好きってなにさ」
「え? だって好きだろう? 俺のこと」
「うっ──」
「うん?」
「いや……それは」
「えっ、嫌いなの!?」
「嫌いじゃない! 嫌いじゃないよ!」
「よかった。じゃあ、好き?」
「それは……す、き……だけど、でも」
「でも、なに?」
「いや、ちょっと待って」
「待ってるよ、さっきから」
「うん、ありがとう。あのさ、確認なんだけど……ヴィクトルって僕のこと好きなの?」
「何を今さら」
「大事なことだから! 確認させて! ヴィクトル、僕のこと、本っ当に好きなの?」
「俺の本当の気持ちを知りたいのかい?」
勇利はのろのろとうなずいた。知りたくない気もするが、知っておかないとこの先とんでもないことが起こりそうな気がして怖かった。
ヴィクトルはつかんだままの勇利の手の甲に軽く口づけた。
「うひゃあ」
色気のない悲鳴を上げた勇利にかまわず、ヴィクトルはまるで聖職者の手をつかんでいるかのような厳かな表情で口を開いた。
「勇利。俺は君が好きだ。君が誰かと親しげに会話しているのを見るだけでも腹立たしくなるほどだ。君の瞳にほかの誰かが映っているかと思うと、ほかの誰の目にも触れさせないように、いっそ君を閉じ込めてしまおうかとさえ思う。君の、自己評価が低いくせにプライドが高いところも、末っ子長男で甘え上手なくせに他人には薄情なところも、気弱で控えめなくせに強情なところもひっくるめて君が好きだ。君の……」
「ストップ、わかった、わかりました」
勇利は左手で火照った顔を扇いだ。
「わかったのかい? ほんとに?」
ヴィクトルは幾分疑わしげに勇利の顔をのぞき込んだ。
「わかった……つもり。最後に、ほんとに最後に確認するけど、僕のこと、好きなんだね?」
「好きだよ」
「それってさ、その……あの、ということは、ですよ」
「うん?」
「僕と、キ、キ、キ、ッス……とか、したいとか、考えてるわけ?」
「キスもしたいし、セックスもしたいと考えてるよ」
「セッ……!!!!!」
「シーズン中だから、体調を崩しちゃいけないと思ってベッドに連れ込まなかっただけで、その気になればチャンスなんていくらでもあったよね」
「チャンス……」
「俺の方こそ確認するけど、俺が勇利を好きだってちゃんとわかったんだね?」
「わかった……わかりました……」
勇利は呆然としてソファに沈み込んだ。あまりの衝撃に脱力しきって気力も沸かない。
ヴィクトルは勇利の手を、勇利の腿の上に置いて立ち上がると、元通りソファに腰を下ろした。
「ねえ、勇利。確認したいんだけど」
「……まだ、何か?」
「告白、必要かい? 必要なら張り切ってお膳立てするけど」
「いや……もういいです」
「そう、よかった。じゃあ、俺たち、晴れて恋人ってことで──」
「まだだよ」
「ん?」
「告白には返事が付きものだろ。付き合って下さいって、さっきヴィクトルにいわれたんだから返事しなきゃ」
「そういうものなのかい? 色々面倒だね。じゃあ、勇利の返事を聞かせて」
「うん、ヴィクトル、告白してくれてありがとう。とりあえず──」