ふうぅ、と長く息を吐き出して、胸の中からすべてを追い出す。
紫煙が、暗闇の縁側に漂い出す。
春もそろそろ終わる頃、上着なしで夜気の中にいても体の芯まで染みこむような寒さは、もはや遠い。靴脱ぎ石に置かれたサンダルを突っかけ、足を突き出しぷらぷらと揺する。ふくらはぎの筋肉が揺すられて気持ちよかった。
口にくわえて息を吸い込むと、指先に挟んだ白く頼りない物体は存在を誇示するように先端を赤く光らせた。
深くは吸い込まない。何となく、肺の奥深くにまで入れることは避けてきた。見る人が見れば、粋がってふかしているだけのように見えるだろう。
長く吸って、長く吐いて。
そういえば呼吸法を重視するメンタルトレーニング法もあると聞く。なら、自分のこれもそうなのかもしれない、と思った。
「勇利」
不意にかけられた声に肩が跳ねる。スイッチを入れられたように、腋の下に汗がにじんだ。
振り返ると、遠くの灯りにでも反射しているように、銀の髪が周囲の暗がりから浮き上がって見えた。
「ヴィクトル…」
ほろり、指の先から灰が落ちる。
世界選手権5連覇の皇帝が突然長谷津に現れて、あれよあれよという間もなくコーチに収まり、エキシビションマッチまで開かれて──さして長くもない人生だけど、これほどの激動ってそうはないよな、と勇利は思う。
憧れ続け、神様のように思っていた人が、つきっきりで自分をコーチしてくれる。まだ、目覚める朝のたびに長い長い夢を見ているのではないかと恐怖に駆られる。
そう、恐怖だ。
現れ方が唐突だっただけに、去り方も唐突なのではないか──興を損ねれば、ふいと帰国してしまうのではないか──そんな恐怖が、つねに勇利とともにある。
だから今、声の主を仰ぎ見る勇利の目には恐怖が宿っているはずだ。
ことに、今は、いつも以上に。
「知らなかった。意外だね、勇利、タバコ吸うの?」
「いや、あの……これは」
なんと言い訳すればいいのか、言い訳も何も、この指に挟まった物体が言い訳はムダだと点滅を始めたような気さえする。
アスリートの端くれとして、喫煙は決してほめられる行為ではない。以前のコーチであるチェレスティーノもいい顔をしなかった。
世界王者が喫煙しているなんて情報は見たことがないし、意見がぶつかり合う火種になるかもしれない話題は極力避けたい、だから、飲みにでかけたと聞いたから――。
額にも冷や汗がにじむ。
視線の先にたたずむ人に、怒りの気配は感じられない。それでも勇利には壮絶に居心地が悪かった。
「あの、これは……ちょっと、ちょっと吸ってみたくなっただけで! け、消します!」
慌てて傍らの灰皿をたぐり寄せると、くすり、と笑われた。
「慌てなくていいよ。まあ、コーチとしては小言の一つもいいたいところだけど、勇利だってデメリットをわかった上で吸ってるんだよね?」
「あの、……ハイ」
いたたまれない。おまけに指に挟んだ異物もどうしたものか。この状況で残りを吸いきってしまえるほど勇利の神経は太くない。だから結局、残りは灰皿に押しつけることにした。
静かな足音が近づいて、美しい影が傍らに腰を下ろす。口元はゆるく笑みの形をたたえたままだが、それが返って恐ろしい気がした。
「でも、ほんとに意外だった。俺が長谷津に来てから1ヶ月近く経つけど、よく今まで隠しておけたね」
にっこりと、それはそれは邪気のない笑顔でいわれても、言葉のとげは容赦なく勇利の心に突き刺さる。
「いやっ、違うんです! あのっ」
「ん?」
「吸うのは……えっと、3ヶ月ぶりぐらい……で……」
片眉を上げただけで先を促され、勇利は吐息混じりに言葉を継いだ。
単に、ほかのはけ口を見つけられなかっただけなのだ。
愚痴をこぼせそうな友達は少なく、酒は相当量を飲まないと酩酊しない、カラオケで叫ぶほどアグレッシブでもなかったし、そもそも練習漬けの毎日では時間の余裕も限られていた。
ただ、鬱屈をスケートにぶつけることだけはしたくなかった。美しい氷の世界を自ら汚してしまうような気がして。
それなら、自分を汚した方がまだましだと思ってしまったのだ……。
「ええと……その、吸いたくてたまらないということでは、なくてですね」
横目でそっと様子を窺う。
「時々、……ほんとに時々、吸おうかなって思い出すぐらいで」
傍らの人は黙したまま反応を返さない。
「か、かっこつけてるとか、そういうのでもなくて、……その」
組んだ脚の上に肘を置いて、頬杖をついている姿は、なんでもないポーズなのに絵画のようで。
「お、おいしいと思ったことも、実はなくて、……はは」
……虚ろに笑う自分がみじめで。
アイスキャッスルはせつ、12歳の時だった。
テレビの画面の中で長い髪をゆらして踊るその人を、幼なじみは「かっこよかー」と賞賛したけれど、勇利にはとても「かっこよか」で終わらせることはできなかった。
「美しいもの」が踊っている。
それまで「きれい」「かわいい」「かっこいい」という形容しか使ったことがなかったけれど、そのとき初めて「美しい」という言葉が胸の奥から湧き上がってきた。
これが美しいということなんだ。美しいものを形にしたら、こうなるんだ。
同じ人間だとは、そして同じ競技に取り組んでいるとは信じられなかった。
たった4歳しか違わないことを知ったとき、自分とのあまりの差に愕然とした。
それからずっと目指してきた境地は、つねにその人の形をしていた。
あんな風にはとてもなれない。容姿の絶対的な差は埋められない。
でも、技術なら。表現力でなら。努力で身につけるものでなら、あの境地に近づいて、そしていつか、もしかしたら凌駕することができるかもしれない。
勇利の中で、美や理想や尊敬や、ときには神様といった言葉まで、プラスのイメージを表現するとき、頭の中にはあの美しい姿が浮かぶのだ。
……その人に、こんな言い訳をしなければならないなんて。
コーチの目を盗むようなまねをした自業自得なのは理解しているが、情けなさに目の前が暗くなる思いがした。
「ほんとは、……もう、このたばこも吸わずに捨てちゃってもいいぐらいで」
「いつでもやめられるってこと?」
「は、はい」
勢い込んでうなずくと、ふうん、と気のなさそうな声が返ってくる。
信用、してもらえないのだろうか。仕方のないことだけれどやはり切なかったし、さっさと捨ててしまえばよかったと嘆いても後悔は先に立たない。
呆れられただろうか。ただでさえピークの短い競技人生を自ら狭めかねないまねをしているのだから、やむを得ないことだと思った。
終わってしまうのだろうか。恐怖が襲ってくる。
「――なら、これは」
勇利の傍らに置かれたアメリカン・スピリットをつかんで、声の主はにっこりと笑った。
パッケージのセロファンの擦れる音は、その美しい手に触れられることへの羞恥の悲鳴のように聞こえた。
「俺が預かってもいいよね?」
針のむしろに座ることになるのか、それともコーチ終了を言い渡されるか、と悲愴な気分で迎えた朝は、昨日までと何ら変わらぬ笑顔との対面から始まり、夜には酔ってふやけた笑顔との別れでしめくくられた。
朝夕の挨拶を交わし、差し向かいで食事を取り、練習へ。軽口におそるおそる相槌を打ち、氷の上での厳しい表情には逆に安堵し、帰宅すればなんとなく肩を並べて湯につかる。
日々が当たり前のように過去になる。
おとがめなし、なのだろうか。拙い言い訳を信用してくれたのだろうか。
勇利にはわからない。
「勇利ぃ、ヘヤノミするからつきあってー」
ヘヤノミ? 何のことだろうと首をひねってから「部屋飲み」という語に思い当たった。
「ヴィクトル、そんな言葉、どこで?」
「ん? 真利に聞いたよ」
真利姉ちゃん……と頭を抱えかけたが、あやしい日本語というわけでもないし、まあいいか、と思い直す。それでも「それ、ジャパニーズ・スラングですからね。フォーマルな場では使えませんよ」と釘を刺した。フィギュア世界王者の日本語ボキャブラリーが低俗語ばかりになっていくような気がして申し訳ない気持ちになる。
「それより、行くよー。ほら、立って」
早く、と急かしてくる顔は、すでに聞こし召してうっすら赤い。
「僕、ダイエット中ですけど」
「その分、練習でしごいてあげるよ」
はーやーくぅー、と唇を尖らせて急かす顔は子供のようだ。一つ屋根の下で暮らして、メディアを通じていては得られない生の表情を知るたびに驚かされっぱなしだ。
あまり機嫌を損ねない方がいいよな……と勇利は立ち上がる。マッカチンを従えて満足げに歩き出す背中を追いかけた。
使っていない宴会場だった部屋にはすでに様々な家具調度が運び込まれ、部屋の主の個性を主張している。
部屋の真ん中の、まだ畳が露わになっているところに酒瓶とグラス、階下から適当に持ってきたつまみを置いて、差し向かいであぐらをかいた。チン、とグラスを合わせる。
彼のパーソナル・スペースが狭いことにはだいぶ慣れた。狭いどころかゼロ距離状態のことさえある。今の距離など、互いの間に部屋飲みセットがある分、広い方だ。つくづく慣らされてしまったものだ。
傾けたグラスに隠して吐息を漏らす。どうか僕の神様には気取られませんようにと心の中で短く祈った。
ロシア人と九州男児という、上戸が聞いてもドン引きしそうなメンツでの酒盛りは、どこまで飲めばお開きになるのだろう。
そのロシア人は白皙の顔を薄紅に色づかせてはいるものの、酩酊した様子はない。普段の酔っ払った姿はもしかしてフェイクなのかな、と勇利は思う。
酒の肴のスケート談義も一段落して、ふいに沈黙が訪れた。
沈黙は、嫌いだ。
場の人数が少なければ少ないほど、身の置き所がなくなって、いたたまれない気分になる。
一対一なら、なおさらだ。
何かをしゃべらなければ。けど、何を? スケートの話は、今日の分はもうかなり出尽くした気がする。じゃあ、何を? 僕とヴィクトルに共通の話題って何だ? ……マッカチンか? いや、ダメだ、マッカチンとの出来事なら大概ヴィクトルとも共有している。今さら新奇な話題も見当たらない。
改めて考えてみると、自分とヴィクトルとの間には本当にスケートしかないのだと思い知らされる。
どうする? いっそお開きにしようといってみるか? いや、それもダメだ。明日は練習がない。もうちょっと、と粘られたら拒否できるだけの言い分を持っていない。
どうする? どうする? と勇利がアルコールに霞み始めた脳をフル回転させていた時だ。ヴィクトルが不意に口を開いた。
「あれからタバコは吸ってない?」
勇利は咽せた。
アルコールが気管に飛び散ってじんじんと熱を発している。どうにか咳を止めようと思っても、なまじアルコールなだけに刺激が強烈で咳き込まずにはいられない。
「ああ、落ち着いて勇利。Calm down」
そういいながら背中をさするヴィクトルの手が、大きくて熱いな、と頭の片隅でかすかに思った。
ようやく息を整えて醜態を詫びると、ヴィクトルは元通り相対する位置に腰を下ろして、「その感じだと、吸ってたね?」と茶化すように勇利に尋ねた。
「す──吸ってないです」
「ええ? ほんとに?」
「ほんとです。ヴィクトルに預かってもらってるのしか持ってなかったし、あれから買ってもいないです」
「ふうん?」
「あの時もいいましたけど、美味しいと思ったことないんで吸いたいとも思わないです。だから買ってないし、吸ってません」
「そう。なら、よかった」
「はい」
ほっとしてグラスを傾けようとして、また咽せたらイヤだな、と思ったところにヴィクトルが次の矢を放った。
「じゃあさ、あの日はどうして吸ってたの?」
「──はい?」
口に含んでなくてよかった、と思いながらグラスを顔の前から除けることができない。
「美味しくもない、吸いたいわけでもない、確か3ヶ月ぶりっていったっけ? 久しぶりに吸いたくなるようなことがあったってことでしょ」
「……よく覚えてますね」
「たった一人の生徒のことだからね。──で、どうして吸いたくなったのかな」
これはごまかしても通用しないな、と勇利は諦めてグラスを下ろした。
それにしてもヴィクトルは一向に酔った様子を見せない。頬の赤みがわずかに濃くなったぐらいで思考にもアルコールの影響はないように見える。どんだけ強いんだ、と勇利は内心で呆れかえった。
さて、どういったものか。
本心を吐露するのは──避けたい。個人的な、ものすごく個人的な理由なだけに、話しづらい。というか積極的に話したい事柄ではないのだ、個人的な内容でなくとも。
「勇利?」
黙りこくっているのもそろそろ限界だった。アルコールで霞んだ脳では妙案も浮かばない。
そっとコーチの様子を窺ってみる。茶化すでもなく、怒るでもなく、ただ優しいだけの表情を浮かべて、その人はそこにいた。
勇利は一つため息をついた。
「……その……胸にたまったものがあって、ですね」
「胸にたまったもの?」
「鬱屈っていうんですか。それです。それを何かで解消しようとして……」
「タバコに手が伸びたの?」
「はあ……」
うーん、と一声唸ってヴィクトルは腕組みをした。少しの間瞑目して、それから腕をほどいた。
そのしぐさを見て、ああこの人は優しい人なんだ、と勇利は思った。腕組みは、拒絶と権威を表すといわれている。今、この場で、そのどちらも不要とヴィクトルは判断したのだ。たとえそれが無意識であっても。
「胸にたまったものって、具体的にはどんな?」
でも、言葉は全然優しくない! と勇利は内心で悲鳴を上げた。
「いや、それは……つまらないことだし、話すほどのことじゃ」
「そうかい?」
「はい」
「俺は、そうは思わないけど? アスリートとしてタバコのデメリットは知ってる、なのに手を伸ばさざるを得ない、競技人生にダメージを負っても解消したいほどの鬱屈なら、つまらないことなんてないよね」
「う……」
この人、ほんとに飲んでるのか!? 口から入ったアルコールはどこに消えるんだ!? 少しは脳の活動が鈍るとかしないのか!?
無様にうめき声を漏らして勇利はうつむいた。
お説教なら、神妙な態度で傾聴する姿勢を見せていれば、いずれは過ぎ去る──。
「勇利、顔を上げて」
しかし、この人は、そんな逃げの姿勢は許さないらしい。優しいと思ったのに! と先ほどの思考を打ち消した。
のろのろと顔を上げると、まっすぐに見据える目とぶつかった。
ああ、きれいな目──と、こんな時なのに呆けたように思う。
「俺はなりたてのコーチだけど、生徒に対しては誠実でありたいと思ってる。害があるとわかっているものにすがらざるを得ないほどの鬱屈を君が抱えているなら、とてもそのままにはしておけない」
「はい……」
「余計なお世話と思われてもね、この話を打ち切るつもりはないよ。だから、話してほしい」
聴きながら、勇利は意外な思いに囚われていた。
リビングレジェンドともてはやされ、メディア相手には洒脱な受け答えをする人が、こんなにも誰かに──というか、勇利ごときに──誠実に接しようとしてくれるとは思っていなかったのだ。
どうする? ここまで真面目に対処してくれているのに口をつぐんだままでは、さすがに男らしくないのではなかろうか。
なら、話すか? ──こんなつまらないことを? リビングレジェンドに? 世界一モテる男と呼ばれるこの人に? ……笑われるのがオチなんじゃないか? それに──
話してどうなるというのだろう。
結果、黒歴史を共有しただけ、みたいなことになったら、この先どうやってこの人と顔を合わせていけばいいんだ。
「勇利?」
ええい、侭よ──
「……あの」
「うん」
「つまらない──ほんとにつまらないことなんですけど」
「つまらないとは思わないっていったろ? 大丈夫、話して」
もう、自棄だ。いってしまえ。どうせ取り繕ったって、僕って人間の本質は変わらないんだし、師弟関係がどのくらい続くのかわからないけど、付き合い続けていれば遠からず本質を知られるんだし──
いい加減、考えるのも面倒になってきていた。酒のせいで思考が短絡的になってもいた。
「僕──恋人はいたことないですけど、人並みに、人を好きになったことはありまして」
ヴィクトルは一瞬、虚を突かれたような表情をした。ように勇利には見えた。
「あの、ヴィクトル?」
「……あ、うん。聞いてるよ。それで?」
「それで……まあ、いってしまえば、初恋が実らなかった話、なんですけど」
へへっ、と照れ笑いをして。
「すいません、ほんとに、つまらない話で。せっかくヴィクトルが気にしてくれたのに、こんなことで」
頬が熱い。胸が痛いのは、恥をさらしたからか。それとも、些事であれ、ヴィクトルの期待を裏切ったと感じるが故か。
だが、ヴィクトルは勇利の予想に反して痛ましげな表情を浮かべた。
「……いや、つらいことだと思うよ。ごめんね、傷をえぐるようなことして」
よかった、これで、この話も終わるだろう──と勇利が一息ついたときだった。
「つまり、久しぶりに初恋相手と再会してつらい、ってことでいいのかな」
い──今、傷をえぐるようなことしたって謝ったばかりなのに、えぐった傷を広げてどうするんだ、この人は!
胸が痛いのはヴィクトルのせい! 間違いなくヴィクトルのせいだから!
無意識に拳を胸に当てていた。痛む胸をわずかでも鎮めたかった。
なのに。
「誰だろう。俺が知ってる人かな。もしかして──ユウコ?」
「……ッ」
一瞬、本当に一瞬、目の前が暗くなった。
息が詰まる。
張り付いたような喉が、ひく、と痙攣するように呼吸を再開したけれど、うまく空気を吸えているのか、よくわからない。
なんてこった。昔のことだと、もう平気だと、でも、見ればやっぱりあの頃の憤懣や悲哀のかけらを思い出すから、だからそれらを洗い流すようにタバコなんてものの力を借りたのに──
平気じゃなかった。名前を口にされただけでこんなになるなんて。
全然、平気なんかじゃなかった──。
「……勇利」
ヴィクトルの気遣わしげな声がおぼろに聞こえる。けれど今は応えることができない。
何だ、このていたらく。自分だって「優子さん」「優ちゃん」って散々名前を口にしてるのに、何でこんな。
「う」
嗚咽が漏れそうになって、慌てて手のひらで口を覆う。
優子の笑った顔、怒った顔、ちょっと拗ねた顔が浮かんで過ぎる。
西郡に肩を抱かれて恥ずかしそうに頬を染め、「子供ができちゃったの」と告げられたときの優子の姿が明滅する。
頬を染めつつも誇らしげな西郡の顔は、いつも勇利に向けていた、どこか、ほんの、ほんのわずかに敵意を含んだ表情とは大違いで──。
ぼたぼたぼた、と涙が落ちて、メガネのレンズにたまり、縁に沿って流れ落ちて、畳にシミを作る。
何なんだ。何なんだ、この有り様は。
もう平気だと思ったのに。ていうか、こんなことになるほど優子に気持ちを向けていたなんて、そんな馬鹿な。
そんなに深く想っていたなんて、そんな、まさか──
「う、う」
飲み込もうとしても嗚咽は堪えきれず口から外に出ようとする。無理に押さえ込むと、今度は息が詰まって咳き込む始末。
何てカッコ悪い。人生最大の黒歴史だ。それも、よりにもよってヴィクトルの目の前で。
ヴィクトルはどう思っているだろう。たかが色恋ごときでこんな醜態をさらす弟子なんて願い下げだと思われないだろうか。
いやもう何なら今夜の記憶は封印してもらって「コーチなんて気の迷いだった」とか何とかいってロシアに帰ってくれるなら、いっそもうその方がいいのかもしれない。
そんな支離滅裂なことにまで考えが至ったときだ。
咳き込み、波打つ背中に、再び大きくて温かな手が添えられた。
「う、……ヴィ」
「いいから。無理してしゃべらないで。大丈夫だよ、勇利。落ち着いて呼吸して」
ヴィクトルの手がゆっくりと背中をさすってくれる。
嘔吐する時のように時折えずきながら、はあはあと荒い息をついた。
メガネを外し、スウェットの袖で乱暴に目元を拭う。まぶたも目も熱くて、袖でむやみに擦ったからヒリヒリした。
どれくらいの時間が経ったか。
ようやく落ち着いたものの肩で息をしていると、ヴィクトルは「待ってて」と言い置いて座を立ち、部屋を出た。廊下を歩み、階段を下りる音がする。
しん、と空気の重みが感じられた。
はーっと長く息を吐いて、うなだれる。
目を閉じると、まだ熱を持ったまぶたが肌に火傷しそうなほど熱く感じられた。
ほどなくして階段を上る足音が聞こえ、ヴィクトルの姿が部屋の入口に現れた。手には口の開いた酒瓶と新しいグラスを持っている。
まだ飲むつもりなのか、と、泣いた後の虚脱感に囚われながら見上げていると、彼は勇利の傍らに腰を下ろし、酒瓶の中身をグラスに注いで差し出してきた。
「水だよ。よく知らないキッチンでピッチャーを探すより、この方が早いと思ってね」
それで、空になった酒瓶に水をくんできたというわけか。
「ああ……、すいません」
ぼそぼそと礼をいって水を飲んだ。酷使した喉を流れていく水がいつもよりずっと冷たく感じられた。そのまま、ごくごくと飲み干して、はあ、と息をつくとヴィクトルがまた水を注いでくれた。
「すいません、もう大丈夫です」
「そう」
一口、二口水を飲んでグラスを下ろした。
泣いた後というのはどうして頭がうまく働かないんだろう。勇利はぼうっとしながらヴィクトルを見つめるでもなく見つめていた。
「落ち着いた?」
そう問われて、何も考えずに「はい」と肯いた。
と、ヴィクトルの手が伸びた。ぽん、と大きな手が勇利の頭にあてがわれる。
「初恋に破れた時、ちゃんと泣いた?」
「……え? ……いえ……」
ヴィクトルの瞳が優しくたわんで、慈愛に満ちた光が浮かぶ。
「泣くべき時に泣けなかったから、今も苦しいんだよ。さっき流した涙は、君が過去に流すはずだった涙なんだ」
そう……なのだろうか。
「三つ子ちゃんの年齢から考えて、勇利が恋に破れたのは十代の頃だろう? その頃からずっと君の心は悲しみ続けていたんだよ。だから、ね」
ヴィクトルの手が滑って勇利の頬を柔らかに包んだ。
「泣いていいんだ。恥じることなんかないし、遠慮もいらない。今日の涙は、勇利が先に進むために必要な涙なんだよ」
「そう……なんですか」
ヴィクトルは大きく肯いた。
「成長のために必要な涙を、カッコ悪いなんて思わない。つまらないものでもない。大切なものだよ。今日、君が泣いたその場にいられてよかったと俺は思ってる。君はこれから、きっともっと大きく成長するよ。その契機となった場面に立ち会えたことをコーチとして嬉しく思う」
頬が温かい。ヴィクトルの手から伝わる熱が凍り付いた心を溶かしてくれるような気がした。
「ぼく……は」
「うん?」
この人は優しい。この人は、やっぱり優しいんだ。
「優子さんが……好きでし、た」
声に出した途端、自分は本当に彼女が好きだったんだ、と思った。
「……いいの? 過去形で」
「いいんです。……過去形で。好きでした」
好きだった。そう言葉にした瞬間に、想いは過去のものになって、鬱屈の源だったはずの出来事すら、あっという間にきらきらしい「思い出」へと変容を遂げてしまった。
好きだった。本当に好きだった。
「終わったことなんだって……実感できました」
「そう。……つらかったね」
ゆるりと首を振った。確かにつらかったはずなのに、泣くほどつらかったはずなのに、不思議と胸が軽かった。
「ヴィクトルのおかげで吹っ切れた気がします。……ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる。と、止まったはずの涙がまた一粒落ちた。
「あれ。……変だな」
指の背で目頭を押さえる。その手を、頬を離れたヴィクトルの手が止めた。
空気に触れた頬が、何だか寂しかった。
「勇利の心はまだ泣きたがってるみたいだから、泣けるだけ泣いた方がいい」
「でも……」
「カッコ悪くない。みっともなくない。つまらないことなんかじゃない。俺は、笑ったりしないよ」
「ヴィクトル……」
「後で茶化したりもしない。約束するよ」
約束という言葉に、勇利は笑いを漏らした。
「うん? 変なこといったかい?」
「だって。……忘れっぽいんでしょう? ヴィクトルは。ユリオとの約束だって」
「大事な生徒との約束なら忘れないよ」
ヴィクトルがちょっと頬を膨らませながら抗議する。その顔を、可愛いなと思いながら勇利は笑った。
掴まれた手はそのままで、涙も流れたままで、勇利は笑った。
端から見たらどんなに滑稽な姿なんだろうと思った。けれど、ヴィクトルは笑わないでくれるといった。今、何よりも誰よりも大事な人が笑わないでくれるというなら、さらけ出しても許されるのだろう。──ありのままの自分を。
「……好きだったんです」
「……そうか……」
「本当に……好きだったんです」
「うん」
「でも、終わりました。今日、やっと僕の中で終わったんです」
彼女への想いは、今、この瞬間から僕の中で死んでいくんだと思った。そして、死んでいく想いもあれば、生まれる想いもあるのだと知った。
明日からは、きっと何のわだかまりもなく、彼女にも西郡にも接していくことができるだろう。本当の意味で、幼なじみに戻れるだろう。
ああ、やっと帰ってきた。僕は長谷津に帰って来れたんだ──。
涙が落ちる。もう何の涙かよくわからない。死んでいく想いへの別れの涙か、帰還の喜びのそれなのか。
あるいは、ヴィクトルの言葉が本当なら、新たな成長を言祝ぐ涙なのかもしれない。
ヴィクトルが掴んでいた手を離して、勇利の肩を抱き寄せた。そのまま自らの肩に顔を伏せさせる。
作務衣に涙が染みこんでいく。
シミになったら困るだろうな、と思いながら、ヴィクトルの温かな腕の中からいつまでも抜け出すことができなかった。