勇利がスイカの載った盆を持って居間に入ると、扇風機の前に長々と死体が横たわっていた。
訂正、死体のようにヴィクトルが横たわっていた。
「ヴィクトル、そんなに扇風機にくっついてたら、かえって風が当たらないんじゃない?」
「う……」
ヴィクトルは無愛想に唸ると、ごろりと扇風機から離れるように寝返りを打った。最大風量が美しい銀の髪を吹き乱す。
見れば、白皙の顔はうっすらと赤らみ、額には汗が浮かんでいる。
勇利はヴィクトルの傍らに座ると、盆を畳の上に置き、指でヴィクトルの額の汗を拭った。ハンカチも何も持っていなかったので、ハーフパンツの裾で指先を拭う。
「そんなに暑いなら上の部屋にいればいいじゃないか。エアコンついてるんだし」
「……一人で部屋にこもってるなんて、やだ」
「やだ、ったって、熱中症になったらどうするのさ」
「だから、扇風機に当たってるだろ」
大儀そうにヴィクトルは起き上がり、盆の上のスイカをめざとく見つけて、少ししぼんだ喜色を浮かべた。
「ワオ、スイカだ。早くいってよ」
「食べる気力もないかと思って」
「それとこれとは別なの」
あぐらをかいたまま盆に指先を伸ばすので、勇利はヴィクトルの方に盆を押しやった。ヴィクトルはさっとスイカを一切れ取り、大きくかぶりついた。シャクシャクシャク、ゴクン、と実に美味しそうな音を立てる。
「ああ、美味しい。スイカがこんなに美味しいなんて、ハセツに来るまで知らなかったよ」
「ロシアでもスイカ食べるの?」
「食べるよ。ていうか、ロシア人、スイカ大好きだよ。日本のと違って楕円形だけど」
あと安い、日本のスイカ、チョー高い、といいながら、ヴィクトルはもう一口ガブリ。
「そうなんだ。スイカは体を冷やす作用があるっていうから、いっぱい食べてね。──あ、でも、食べ過ぎるとお腹壊しちゃうから気をつけて」
「大丈夫だよ、子供じゃないんだから」
苦笑するヴィクトルに合わせて笑いながら、勇利もスイカにかぶりついた。こんな暑い日は、スイカに限る。
しばらく無心でスイカを食べていると、ヴィクトルが不思議そうにこちらを見ているのに気がついた。
「なに?」
「勇利、さっきから全然タネ出してないけど、タネも食べてるのかい?」
「食べてないよ。口の中にためてるの」
「Why!? 何でそんなことする!?」
「いちいち出すの、めんどくさいじゃん」
勇利はスイカの皮とタネをいれる器を手に取って口元に持ってくると、口の中にためていたタネをぺぺぺぺっと吐き出して見せた。
「アメイジング……ニンジャの技かい?」
「庶民の技です。ロシアではスイカのタネを飛ばしたりとかしないの?」
「俺はやらなかったなあ」
「日本には梅干しのタネ飛ばし大会なんてのもあるんだよ。時々ニュースにもなる」
「Wonderful Japan……」
いっそ厳かな調子でヴィクトルが呟くので勇利はおかしくて仕方なかった。
「日本とロシアって、地理的には近いのに全然お互いの国のこと知らないよね」
「まあ、ロシアはまがりなりにも民主主義の国になって日が浅いからね……」
「ヴィクトルの小さい頃ってソ連だったんだっけ」
「3歳の頃までね。記憶はないけど、いつもお腹がすいていた気がする」
「それで今、いっぱい食べるの?」
「関係ないよ。……と思う」
白い部分の近くまでかじってから、ヴィクトルは皮を器に捨て、もう一切れに手を伸ばした。さっそくかぶりつきながらも、何か難しい表情をしている。
「どうしたの?」
「いや……記憶にもない小さな頃の体験が、今の行動を左右しているとしたら、ちょっと怖いなって思ってたんだ」
「ああ……そういうの、日本ではことわざになってるんだよ。三つ子の魂百まで、って」
「ミツゴ? ユウコの家の?」
「その三つ子じゃなくて、三歳ぐらいの小さな頃って意味だよ。小さな頃の性格は大人になっても変わらないっていう意味なんだ」
「幼児体験は重要って意味かな」
「まあ、間違ってないと思うよ」
勇利も皮を器に捨てて、もう一切れにかぶりつく。みずみずしい果肉から果汁が口いっぱいに広がって全身に染み渡っていく気がする。
「でも、よかった。日本の夏は暑すぎるから帰る!っていわれるんじゃないかってヒヤヒヤしてたんだ」
「生徒を置いて? いくら何でもそんなに不誠実に見えるかい?」
「そんなことはないけど……ヴィクトルって自由で奔放なところがあるから……いや、そういうイメージがあるから……」
勇利がしどろもどろに言い訳するのを、ヴィクトルは傷ついたような表情で眺めていたが、ため息を一つつくと、「まあ、好き勝手に生きてきたのは否定しないけどね」と呟いた。
「でも、日本のトップスケーターを生徒として預かってるんだ、いくら俺でも、そんな無責任なことはしないよ」
「うん、わかってる。無責任だなんて思ったことないよ」
それきり沈黙が流れ、勇利はいたたまれずにスイカにかぶりつく。シャクッ、シャクシャクシャク、ごくん。食べ続けていれば言葉を発しない理由になるといわんばかりに。
「ねえ、勇利」
「は、はい」
「グランプリファイナル、優勝しようね」
「え」
「そのために俺はここに来たんだ。忘れた? あの日は雪が降ってたね」
「お、覚えてるよ。そうじゃなくて、唐突だったからビックリしただけ」
桜に積もる四月の雪、ヴィっちゃんと一瞬見間違ったマッカチン、駆け込んだ露天風呂で立ち上がってウィンクしたヴィクトル。
「──あれ? そういえばマッカチンは?」
「上の部屋にいるよ。あの毛皮でこの暑さは可哀想だからね。犬は人間より暑さに弱いっていうし」
そうなんだ、と呟いて勇利はスイカに目を落とした。二切れ目ももうほとんど食べ尽くした。残り少ない赤い果肉をカリカリかじる。それから皮入れの器に皮を捨てて目を上げた。
「ヴィクトルは、本当に後悔してない? 僕なんかのコーチをして時間を無駄にして」
ヴィクトルが目を丸くした。暑いからと、いつもは左目を覆っている前髪も掻き上げているから、きれいな碧い目がよく見えた。
「時間を無駄にしてるなんて思ったことないよ」
「でも、こういっちゃ悪いけど、ヴィクトルだってもうベテラン枠だろ? 一年一年がものすごく大事なはずだ。なのに、僕なんかのコーチをして──」
「それ」
それ、といいながらヴィクトルが勇利を指さした。マナーに関してはヨーロッパナイズされたヴィクトルは、よっぽどのことでないと指ささない。珍しいしぐさだった。
「僕なんか、っていう言い方、俺、好きじゃないなあ」
「だって……実際、僕はグランプリファイナルだって去年初めて出場できたぐらいだし。最下位だったけど。そんな僕をコーチしてたら、ヴィクトルは世界選手権の連覇の記録も途絶えちゃうし、いくら一緒に滑るといっても自分の練習とは運動量だって違うだろ? 不安じゃないの?」
まさかこのまま引退する気じゃ……と縁起でもない考えが頭に浮かんで、勇利は頭をぶるっと振った。ヴィクトルのキャリアの終焉が僕のコーチだなんて、そんなことになったら、世界中のヴィクトルファンに申し訳が立たない。
それなのに、ヴィクトルはあっけらかんというのだ。
「不安はないよ」
「でも」
「俺はねえ、勇利。もうベテランどころか長老枠だし、俺の滑りを世界中のフィギュアファンが見慣れすぎてるとも思ってる。見飽きてるといってもいいかな」
「そんな!」
前人未到の世界選手権五連覇を成し遂げたヴィクトルの滑りを見飽きるなんて、そんなことがあってたまるか!
血相を変えた勇利を、ヴィクトルは片手を上げて制した。
「口幅ったい言い方かもしれないけど、強すぎる光を見続けることは誰もできない。同じことだよ。だからって、自分のキャリアの捨て場に君のコーチを選んだわけじゃない。──ああ、もう、そんな顔しないで」
なだめるようにヴィクトルが笑う。自分はどんな顔をしているのだろう、と勇利は頬を擦った。いつもどおりの情けない顔の感触しか伝わってこない。
「俺はね、俺がコーチする以上、君には必ず勝ってもらおうと思ってるし、コーチとしての経験も自分のキャリアに活用する気でいるよ。この時間に無駄なんてない」
ヴィクトルは、ふと、縁側の向こうに目をやった。塀の上には隣家の屋根と、青空に浮かぶ入道雲の先端がわずかに見える。
「この空の色、湿った空気と熱気、におい、人々の声と笑顔、夏の夜空の星──大会のときにほんの数日滞在するだけじゃわからなかった日本が、ここにある。俺が感じる、俺だけの日本だ。この得がたい経験ができたのも君に出会えたからだ。どれだけインスピレーションを刺激されるか、わかるかい? 枯れかけた泉に新たな水が注ぎ込まれるような感覚を、俺は日々味わってるよ」
ヴィクトルは視線を戻してまっすぐに、まるで射貫くように勇利を見つめた。
「無駄なんていったら、たとえ勇利でも許さない」
「ヴィクトル──」
「それとね、君が自分を卑下することは、君を選んで日本に来た俺まで貶めることにつながるんだ。覚えておいて」
「う──は、はい……」
改めてヴィクトルのプライドを、そして長谷津での暮らしをどれだけ大切に思っているかを知らされて、勇利は恥じ入った。特に、ヴィクトルまで貶める、というところに思い至らなかった自分の短慮を思うとどうにもばつが悪かった。スイカに逃避しようとしても、もう食べ尽くしてしまった。勇利は針のむしろのようになってしまった畳に、俯いて座り続けるしかない。
「まあ、厳しいことをいうのはこのぐらいにしておこうか。──それより、ねえ、この暑さ、どうにかならないの?」
ヴィクトルは皮入れの器にスイカの皮を放るように捨てると、また畳の上にごろりと寝転がった。息をするのも大儀そうに目を閉じる。
あと一ヶ月以上は続くよ、と勇利がいうと、泣き出しそうに表情がゆがむ。レアな表情。見たことのないヴィクトル。憧れ続けた人が、今、こんなにも近くにいて、無防備な姿を見せてくれている。
いつか神様に願った。今だけ、ヴィクトルの時間を僕に下さい、と。
そうだ、この時間を無駄にするもしないも僕次第なんだ。
ヴィクトルに、無駄な時間だったなんて決して思わせてはならない。大切な時間をもらうのに、無駄な使い方をするなんてもってのほかだ。終わりの見えている時間だからこそ、有意義に使わなければいけないんだ。
「日が沈む頃になったら少しは気温も下がるから、そしたらマッカチンの散歩に行こうか。それとも、僕一人で行こうか?」
盆を手に勇利が立ち上がると、畳から「俺も行くよ」と声が上がった。
終わりの見えている時間だからこそ、一瞬一瞬を胸に刻もう。この一年は、僕にとって、きっとこれ以上にない最良の年になる。神様のくれた、人生最大の幸運を目一杯活用するんだ。
ヴィクトルのためにも。
なるべく足音を立てないように勇利は居間を出た。扇風機の音だけが後を追ってきた。