ジナイーダ・ミネルコヴァにとって、ニキフォロフ家でのハウスキーピングは疲労と重圧と精神的高揚とをカクテルした飲み物に等しい。
拘束時間の長さは疲労を、ロシアの英雄と呼ばれるヴィクトル・ニキフォロフに食事を用意するときには重圧を、そのヴィクトルの生活に関与しているという事実は精神的高揚をもたらすのだ。
雇用主と使用人という立場である以上、ヴィクトルはジナイーダに軽口を叩くようなことはないし、態度もそっけないものだが、それでも、ふとした拍子に彼が見せる笑みやしぐさはジナイーダをして胸をときめかせるものだった。
折り返し点を過ぎたジナイーダの人生において、今が一番仕事においては充実しているといえた。
今年になってニキフォロフ家には同居人が増えた。
冴えない感じの、アジア人の子供と思っていたら、二十四歳の成人男性で日本のトップスケーターだとヴィクトルから紹介されたときは驚いたものだ。まさかと思って検索してみれば、昨年ヴィクトルがコーチを務めた選手その人ではないか。氷の上にいるときと、目の前にしたときのギャップの激しさにジナイーダは困惑した。これがウワサに聞くニンジャの秘術なのだろうか。
アスリートだというからには明朗快活な人柄なのかと思ったら、どうもそういうタイプでもないようで、ヴィクトルと会話している様を垣間見れば楽しそうにはしゃぎはしているけれど、日常生活はいたって落ち着いたもので、どうかすると陰気にさえ見える。人嫌いなのかと思えばそんなこともなく、ジナイーダに対する態度は丁寧そのもので、使用人だというのに彼女にきちんと〝さん〟をつけて呼ぶし、自分にできることはなるべく彼女の手を煩わせないようにと努めている風だ。
ニホンジンはわからない……と思ったが、所詮彼女は使用人だ、彼と深く関わることなどないのだから、彼の為人について考察するのは控えよう、とジナイーダは思っていたのだ。
彼が記憶を失うまでは。
「初めまして。……あ、では、ないんですよね。えと、とにかく、よろしくお願いします、ジナイーダさん」
「ジーナで結構ですよ、ニキフォロフさんもそのように呼ばれます。こちらこそ、何かと至らないことがあるかと思いますが、よろしくお願いいたします」
そんな、初めましてならぬ〝二度目まして〟をして、記憶のない彼と接する日々が始まった。
とはいえ、使用人の彼女がその家の住人と気安く接する機会などあろうはずもなく、また、彼女自身、住人と使用人との関係には厳として一線を引く主義なので、彼の記憶の有無はさほどの影響も彼女の仕事には及ぼさなかった。
記憶を失っても人柄には変わりがないようで、二度目ましての後の彼もジナイーダを「ジーナさん」と〝さん〟付けで呼び、なるべく彼女の手を煩わせないようにと心がけているようだった。彼は左腕を骨折していたので、それも努力止まりではあったが、気遣われていると知るのは気分を和らげてくれるものだ。
ジナイーダは午前中にニキフォロフ家に出勤し、台所の洗い物を片付け、洗濯、掃除、住人の三食の支度と後片付けをする。なにせ部屋数が多いので掃除だけで半日はかかる。彼女自身の食事や休憩はキッチンの隅で取る。基本、住人との接点はないし、作らないようにしている。
職分を明確にし、それを越えないこと。長く他人の家庭に入る仕事を続けてこられたのは、そうした意識に基づく行動が大きいと彼女は考えている。
「ジーナさん」
時々、キッチンで休憩していると、日本人の彼が話しかけてくることがある。
ジナイーダは英語も話せる。亡き夫が英語圏の出身で、ロシア語に不慣れだったためだ。互いに言葉を教え合った日々が懐かしい。
「ここのロシア語、調べても意味が通らない気がして……ちょっと教えてもらえませんか」
日本人の彼は雑誌の記事の一部分を指し示した。老眼鏡をかけてその部分を読んでみると、今ではほとんど使われなくなった古い慣用表現であることがわかった。そのように教えると、彼はほっとしたように笑った。笑うと眉尻が下がって、ちょっと泣き出しそうな顔に見える。
「ありがとうございます。辞書とかネットで調べるのも限界があって……。お邪魔でなければ、これからも教えてもらえませんか」
彼女は快く了承した。言葉を教えるぐらい、どうということはないし、休憩を邪魔されたと僻む気持ちも起こらなかった。むしろ、亡き夫と過ごした日々が思い出されてやさしい心持ちになれる。
いつでもどうぞ、とキッチンを出て行く背中を見送り、ジナイーダは少し冷めてしまった紅茶を飲んだ。紅茶とコーヒーは、ニキフォロフ家のものを自由に飲んでいいことになっている。さすがはというか、茶葉も豆も良質のもので、変に舌が肥えそうだと、時々彼女は心配になる。衣食住のうち、衣と住はレベルを下げられるが、食は一度上げてしまったレベルを落とすのが難しい。一度美味に親しんでしまうと、そうでないものを食べるのは苦痛に感じるものだ。ところが、日本人の彼が同居するようになってから、ニキフォロフ家のキッチンには、庶民的なティーバッグやインスタントコーヒーも置かれるようになった。どうやら日本人の彼が、自身が飲むときに茶葉で淹れたりコーヒー豆を挽いたりするのが面倒だと置いたものらしい。いつかこの庶民的な品がニキフォロフ家のキッチンから消えたら、少し寂しい気持ちになるだろうなとジナイーダは思う。
「ジーナさん、この筆記体の読み方教えて下さい」
「ジーナさん、発音が合ってるか聞いてもらえますか」
「ジーナさん、ロシア語の言い回し、教えてもらえますか」
そんな風に彼が話しかけてくることが増えた。懐かれれば悪い気はしない。まして日本からたった一人でロシアに来て、あげく記憶まで失ってしまった身の上を思えば、無下にしようなどとはとても思えなかった。
短い休憩をともに過ごすことが多くなり、軽い冗談を互いに口にするようになるのに、そう時間はかからなかった。案外と人なつこい子なんだな、と思った。あるいは寄る辺ない身の上が心細くて、すがりつく相手を欲しているのかもしれない。
キッチンの隅で即席ロシア語教室を行っていると、気づいたヴィクトルが頬をふくらませながら乱入してくることもある。
「何で俺に訊かないの!?」
「だって、ヴィクトル、エッセイの〆切りが今日だっていってたから、邪魔しないようにしようと思って」
「邪魔だなんて思うわけないだろ!?」
そんな問答の末に彼がヴィクトルによって連れ去られてしまうと、ちょっと寂しいと思うぐらいには、ジナイーダも彼に親しみを覚えるようになっていた。
そんな日々が三ヶ月近く続いたろうか。
ジナイーダはふとしたときに彼が見せる、寂しげな表情が気にかかるようになっていた。
ヴィクトルは、もう目に入れても痛くないというのか、手厚いという言葉ではどこにも足りない態度で彼に接しているが、いかんせん、家を空けることも多い。
ヴィクトル不在の日は、彼は自室で一人過ごすことが多いのだが、こもりっぱなしでは気が滅入るのだろう、リビングで彼らの愛犬とたわむれる姿を垣間見ることも多い。
そんなときの彼は、日本語だろうか、ジナイーダには理解できない言葉で愛犬に語りかけている。そうして、ぎゅっと抱きしめている。
ああ、つらいのだろうな。
言葉も慣習も不慣れな外国で、記憶もなく、頼れるのはヴィクトルただ一人。彼の心中や置かれた立場を想像するだけで寒気がする。自分なら耐えられるだろうかと考えて、ジナイーダは首を振る。詮ない仮定だ。
同時に彼女は自身の無力をかみしめる。
自分には何もできない。所詮は使用人の彼女が、住人の悩みや苦しみに寄り添うなどできようはずもない。
職分を明確に。その域を越えない。
自身の信条を、自分に言い聞かせることが増えた。
そんなある日のことだ。
ヴィクトルは泊を伴う仕事で不在だった。
ジナイーダは翌朝の食事の支度を終えて帰宅するところだった。リビングからは灯りが漏れている。彼はリビングにいるのか、ならば辞去の挨拶をして帰ろうと足を向けた。
ニキフォロフ家のリビングは、玄関側の入口にはドアがない。廊下に面した広い開口部から顔をのぞかせてジナイーダは息を飲んだ。
彼は踊っていた。
ゆるゆると手足を、身体を動かしているだけなのに、踊り手の心情が痛いほど伝わってくる。
彼はうちひしがれていた。
これほどの悲嘆を見たことはなかった。どんなバレエの演目でも、映画やテレビの番組でも、これほど真に迫って感じられたことはなかった。かつて夫を見送ったときの自身を思い浮かべ、自分はここまで悲しんでいただろうかと思い惑ったほどだ。
休みなく、よどみなく、しなやかに動きながら、彼は全身で叫んでいた。
悲しい。苦しい。つらい。これ以上は耐えられない──。
駆け寄ろうと思った。だが、彼女の足は根が生えたように動かなかった。その場に釘付けにされていた。
彼は何も求めていないことが、感じられたからだ。
何もできない、と彼女は思った。
悲嘆に暮れる彼に駆け寄って抱きしめたとしても、それは何の慰めにもならないのだ。彼は悲しみながらも救済を求めていないのだ。
私は無力だ。何もできない。
彼女はただ立ち尽くすほかなかった。
どれほど経ったのか、彼が動きを止めた。うずくまり、我と我が身を抱きしめるように両腕を交差させている。あるいは何かから、誰かから自分を守ろうとしているかのようにも見えた。
息を飲んで見つめ続けるジナイーダの前で、彼はしばらくうずくまっていたが、やがて大きく息をついて身動ぎした。
ふい、と巡らせた頭に伴って、視線が彷徨い、立ち尽くす彼女とまともに目が合った。
「ジーナさん……!?」
彼女はかけるべき言葉も持たなかった。半世紀以上の人生経験は何の役にも立たないことを突きつけられていた。
けれど、彼女の足は動いた。何もできない。それでも、このままではいけないと、それだけが彼女の身体を動かしていた。
ぎくしゃくと彼の前まで進み、立ち上がりかけた彼の前で屈んで目線を合わせた。
途端、彼が叫んだ。
「お願いします! ヴィクトルにはいわないで!」
「ユウリさん……」
「ヴィクトルに迷惑かけたくないんです。お願いします!」
「迷惑……?」
ジナイーダがオウム返しのように問うと、彼は束の間ためらって、それから必死の面持ちで口を開いた。
「ヴィクトルにはこんなにお世話になってるのに──こんないい家での暮らしも、何の不安もなく生活できる環境も、全部、全部、用意してもらってるのに、僕がこんな風だってこと知られたら、ものすごく心配させてしまう──彼はコーチと選手のほかに仕事だって持ってて忙しいのに──僕のことなんかで煩わせたくないんです。だから、お願いします!」
「……ニキフォロフさんが煩わしいなんて思うはずありませんよ」
「それでも! それでも、僕のことで、これ以上彼に心配かけたくないんです」
ジナイーダは必死に言い募る彼をしばし見つめ、それから彼の肩に手を置いた。
「まずはソファに座りましょう。いつまでも床の上では何ですから」
少し意外だったが、彼は素直に立ち上がって、ジナイーダとともにソファに座った。彼らの愛犬が、やっと構ってもらえると思ったのか、わふわふと彼の膝にまとわりついてくる。
「マッカチン、待っててくれたの? いい子だね──。でも、ごめんね、ジーナさんと大事なお話があるんだ。悪いけど、もう少し大人しくしててくれる?」
マッカチンは彼の膝に手をついて、まるでキスするように彼の顔にもふもふの顔を擦り付けた。彼の手がふわふわの頭や背中をやさしく撫でる。一旦、満足したのか、マッカチンは彼の足元に伏せの姿勢をとった。
「ありがとう、マッカチン──すいません、ジーナさん」
いいえ、と彼女が首を振ると、彼はわずかに微笑んだ。痛々しい笑みだと思った。
「……ジーナさん、改めてお願いします。ヴィクトルにはいわないでください。僕があんな風に踊ってたこと」
「ユウリさん」
「ヴィクトルに心配かけたくないんです。コーチと選手だけでなく仕事もあって忙しいのに、僕のことで煩わせたら体を壊してしまうかもしれない──そんなことになったら、僕は自分が許せない。だから、どうかお願いします」
紅茶色の瞳を大きく見開いて、彼はジナイーダをかき口説いた。そして、頭を下げた。彼のつむじを見ながらジナイーダはしばし沈黙し、それから口を開いた。
「私はただの使用人です。頭を下げることはありません。ですから、まずは顔を上げてください」
「ジーナさん──」
不安に彩られた瞳を安心させたくて、彼女は微笑んだ。何だか頬が攣りそうな気がした。
「ユウリさん、少しお話をしても?」
のろのろとうなずく彼に、こちらもうなずき返す。あなたの判断は間違っていないのだと、少しでも安心してほしかった。
「私はニキフォロフさんに、あなたのことで気がついたことは報告するようにいわれています」
「ジーナさん……!」
ジナイーダは片手を上げて彼を制した。
「あなたはニキフォロフさんと同格の、いわば雇用主も同然の立場です。ですから、ご要望ならば従うつもりです。ただし、その場合、もう一人の雇用主を裏切ることになります」
彼は青ざめて息を飲んだ。裏切るという表現はきつかったろうかと彼女は束の間悔やんだ。
「ですから、私がニキフォロフさんに嘘をつく──あなたのことを黙っているためには、それなりの理由が必要です」
「理由……ですか」
「私が、沈黙を選ぶ方が得策だと判断できる材料が、まだありません。ですから、あなたにはお話ししてもらわなければなりません。物でも、金銭でもなく、お話を。──おわかりでしょうか」
彼は少しうつむいて考え込んでいた。沈黙の中に、聞こえるのは彼の足元に伏したマッカチンの呼吸音と、時折ぱたりと振られるしっぽが床を打つ音だけだった。
そして、彼は意を決したように口を開いた。
「僕には、記憶がありません」
「はい」
「病院で目を覚ましてから、もうすぐ三ヶ月です。それなのに、記憶の戻る気配もない。このままの生活が続くとしたら──僕はいいんです、こんなにいい環境を整えてもらってるから。でも、ヴィクトルは──」
彼は大きくため息をついた。薄い肩が震えている。
「ヴィクトルは──いつか、失望すると思うんです。記憶が戻らない僕に。記憶のあるなしは関係ないといってくれてるけど、それだって先のことはわからない。今現在、僕が失ってるヴィクトルとの記憶は一年ちょっとだそうです。でも、このままの状態が何年も、もしかしたら何十年も続いた後で、記憶が戻ったら? そうしたら、今度は、彼は何年分もの記憶のない僕と向き合うことになる。そう考えたら──」
彼はしばし沈黙し──それから、ぽつりと呟いた。
「怖い、です」
「……怖いんですか」
「彼が傷つくのが怖い。彼に失望されるのが怖い。この生活が長くなればなるほど、彼が傷つく度合いも大きくなってしまう。だから、早く記憶が戻ってほしいのに、どうすればいいのかわからない。いつか彼が、こんな僕に見切りをつけてしまったらと思うと、それも怖い。きっと彼は僕を見限るなんてことせずにやさしく接し続けてくれるだろうと……、でも、その優しさが──つらい」
紅茶色の瞳はまぶたの奥に隠され、今は涙が頬を伝っていた。
「優しさがつらいなんて、そんなこと、誰にもいえない。なんて贅沢な悩みだって、自分でも思うくらいです。──でも、つらい。優しい彼を、優しいからこそ、いつか傷つけてしまうのが怖い。そんな自分が許せない。僕は──」
彼はメガネを外すと、腕で乱暴に目元を拭った。
「事故で死んでしまえばよかったと思うことがあります。でも、そうしたら、彼はどんなに悲しむだろう。記憶のない僕ですら、こんなに大事にしてくれるのに、どんなに悲しむだろうと思ったら、僕は消えることも許されない。でも、僕の存在自体がいつか彼を傷つけてしまう。そんなこと──耐えられない」
「ユウリさん……」
「でも」
吐き捨てるように否定の言葉を口にして、彼は少しゆがんだ笑みを浮かべた。
「今の僕を忘れられてしまうのも、怖いんです」
今までとは正反対にも思える言葉を、かろうじて笑みと判断できる形に唇をゆがめて、彼は紡ぐ。
「今の僕のこの気持ちも、考えていることも、経験したことも、記憶が戻ったら全部消えてしまう。僕だって生きてるのに、なかったことになってしまう。存在すらしなかったように……。それがすごく怖くて、苦しい。記憶が戻ってもつらい。戻らなくてもつらい。僕は──」
彼は大きなため息をつき、片手で目元を覆った。
「僕は──ヴィクトルのためには早く消えた方がいい。でも、消えてしまうのが怖い。なんて我が侭なんだ……」
「つらいんですね。ニキフォロフさんに忘れられるのが。いなかったことにされてしまうのが」
ジナイーダがそっと言葉を発すると、彼は少しの間沈黙し、それからコクリとうなずいた。
「大切なんですね。ニキフォロフさんが」
「え……」
「違いますか」
彼はまだ潤んだ瞳でジナイーダを見つめ、それから、まるで自分に言い聞かせるかのようにうなずいた。
「僕が今、こうして安穏としていられるのも全部ヴィクトルのおかげですから」
ジナイーダはしばし目を閉じた。
彼の、ヴィクトルへの気持ちを一言で表すと、とても簡単な言葉で表現できるように思った。だが、それは口にしない方がいい。他人が気づかせてよいものではないし、彼女が言葉にすることで、彼の気持ちを変に固着させてしまうかもしれない。それは彼らにとってよいことではないと思った。
気づく瞬間は彼自身の言葉で、表現で、彼だけのタイミングであるべきだった。
「……私は神を信じませんが、運命の女神とやらがいるなら相当な意地悪だということは知っています」
「知っている?」
彼はきょとんと小首をかしげた。そんなしぐさを見て、ヴィクトルが彼を大事にするのも当然だなと思った。
「知っています。夫を亡くしたときに思い知りました」
「……旦那さんを亡くされたんですか」
「まだ娘も息子も食べ盛りで、国の体制が変わったばかりで……あばら屋でも屋根と壁があるだけマシという状況でした。だから、よく知っているつもりです」
「大変だったんですね」
「それでも、今のあなたの状況よりは大変ではありませんでしたよ。石にかじりつくようにして、でしたが生きることができましたから。あなたのように明日をも知れないという恐怖とは無縁でいられました」
「そうですか……」
「私はあなたの助けにはなれません。信じる神を持たないし、そんなものにすがっても、あなたの苦しみやつらさ、悲しさは癒えないだろうと思うから、信仰の道を勧めることもできません」
「はい、僕もそういう方向はちょっと……」
彼はちょっと笑った。今度は野の花がほころぶような笑みだった。
「私にできることは、もしかしたら、ほんの、ほんの少しだけあなたの心を軽くすることだけだと思います」
「心を軽くする……?」
「まず一つ。今夜のことは、ニキフォロフさんには話しません」
「本当ですか」
「はい。理由は申し上げられませんが、あなたの気持ちを尊重します」
「……ありがとうございます」
彼は大きく息をついて緊張を解いたようだった。目元の険が薄れている。
「もう一つを申し上げる前に、確認させてください。ニキフォロフさんはあなたを〝ユーラ〟と呼ぶことはありますか」
「ユーラ? いいえ、彼は勇利とだけ」
「ユーラは、ユーリの略称です。私はこれから、ニキフォロフさんが不在で、あなたと二人のときだけ、あなたをユーラと呼びましょう」
「え……?」
「私の今までの人生でユーラと呼んだ人は誰もいませんでした。この先も、私はほかの誰もユーラとは呼ばないことにします。あなただけです。記憶の戻ったユウリ・カツキをユーラと呼ぶこともしません」
彼は言葉もなくジナイーダを見つめた。
「私がこの生を終えるまでの限られた時間でしかありませんが、私が生きている限り、私はあなたをユーラと呼んだ記憶を持ち続けましょう。私ごときでは不本意でしょうが、私の中で、あなたはユーラとして生き続けます」
ジナイーダは彼の手を取り、力を込めて握った。こんなことは、彼女の職業人生の中で初めてのことだった。
「今夜のことも。あなたの踊る姿を忘れません。あなたの涙を忘れません。あなたは確かに生きているのですから。──ユーラ」
彼の目から涙があふれて頬を伝う。言葉もなく、ほろほろと涙が流れ続ける。
「つらいですね。どんなにかつらいことか。あなたの恐怖を、つらさを、想像することさえ困難です。でも、生きてください。明日、記憶が戻るのかもしれないのなら、今日を精一杯生きてください。私はあなたを忘れません。ユーラ」
ついに彼の口から嗚咽が漏れ出したときだ、それまで彼の足元に大人しく伏していたマッカチンが急に立ち上がると、ジナイーダに向かって唸り始めた。
「あら──」
「ちょ、ちょっとマッカチン、どうしたの。落ち着いて」
だが、マッカチンは一向に静まろうとしない。ジナイーダはふと思い当たって彼の手を離した。
「……おそらく、私があなたをいじめていると思っているんでしょう、この子は」
「ええ? マッカチン、違うよ、いじめられてないよ、落ち着いて」
彼が頭や背中を撫で、懸命に声をかけると、ようやくマッカチンのうなり声がやんだ。彼の膝に手をついて、涙に濡れた彼の頬をぺろぺろと舐める。
「優しい子ですね。この子もきっと、あなたを忘れないでしょう」
「ジーナさん……」
「あなたの欠片のようなものは、あなたを取り巻く全ての人々に少しずつ残り続けるでしょう。記憶は薄れていくものですが、薄れたからといって初めから無かったことにはなりません。今のあなたが消えてしまったら、寂しく思う人も、悲しく思う人もいるでしょう。それでも、寂しさも悲しさも、時という薬が癒やしてくれます。そうして、いつか、笑ってあなたを思い出すでしょう。人は、そうやって他人の中に生き続けるのです」
ジナイーダは指先を下に向けてマッカチンに手のひらを差し出した。落ち着きを取り戻したマッカチンは彼女の手のひらの匂いを嗅いで、舌先でぺろりと舐めた。仲直りだ。
そんな彼女を、彼はまじまじと見つめていたが、やがてふっと憑きものの落ちたような顔をした。
「ジーナさんて……すごいですね。すごい説得力です。教師に向いてたんじゃないですか」
感嘆したようにいう彼に、ジナイーダは苦笑を向けた。
「受け売りのようなものです。夫が他界したとき、たくさんの人が、たくさんの言葉で慰めてくれました。それらの言葉が私の中で縒り合わさって、今の私の思いを形作っているに過ぎません。そしてあなたの思いもまた、私の中でいつか私の思いに縒り合わされるでしょう、きっと、ね」
彼女の言葉に、彼は考え込むように俯いた。そして「僕の欠片……」と呟いた。
「なかったことには、ならないんですね」
「はい」
「消えてしまうわけでは、ないんですね」
「そうですね」
「僕は」
「はい」
「僕の世界は、病院で目を覚ましたときから始まりました。初めて目に映ったのはヴィクトルの瞳の色でした。あの、青にも緑にも見える色でした」
「そうなんですか」
「僕は……〝ヴィクトル〟という世界で生まれて、息をして、生きてきました。彼がいなければ昼も夜もない。ヴィクトルが僕の全てだと、そう思ってきました」
熱烈な告白だとジナイーダは思ったが口には出さなかった。
「でも、それって傲慢な考え方なんですね。僕の周りにはたくさんの人がいて、その人たちだって僕の世界を形作ってくれていたのに。今の僕はかりそめの存在に過ぎないから、記憶が戻った後の生活に影響しないように、周りの人とはあまり深く関わることをしないできました。でも、それだって、確実に影響は残るんですね。〝記憶のないユウリ・カツキは無愛想だった〟とかいわれちゃうんだ」
「そうかもしれませんね」
「僕の欠片が残るんですね……」
「はい」
彼は目を閉じて自分の言葉を反芻しているようだった。マッカチンが気遣わしげに彼の鼻の頭を舐める。彼は黒いつぶらな目をのぞき込みながら「マッカチンは優しいね」といって、愛犬の顔や頭をよしよしと撫でた。もこもこの尻尾が嬉しそうに揺れる。
しばらくそうして愛犬の相手をしながら心の整理をつけているようにも見えた。
「ありがとう、マッカチン。ちょっと降りててね。──すいません、ジーナさん」
ジナイーダは「いいえ」と軽く首を振った。彼は、ふう、と息をついて彼女に向き直った。
「ありがとうございます。……少し、心が軽くなりました」
彼女は軽くうなずくにとどめた。言葉はいらない気がした。
「本当は……ヴィクトルの中には僕の欠片なんて残らない方がいいんだけど……」
彼はそういうと、はにかむように微笑んだ。
「でも……少し嬉しい気もしてしまいます。どうしようもないですね、僕」
「いいえ。揺れ動くのが人ですから」
「……ありがとうございます」
彼はかみしめるように、少しうつむき加減で目を伏せた。そうすると肌にまつげの影が差すことに気がついて、ヴィクトルは気がついているのだろうか、いるだろうなとぼんやり思った。
「悩んでることとか苦しいなって思ってることって、聞いてもらうだけでずいぶん違うものなんですね」
「カウンセラーという職業があるぐらいですからね」
「じゃあ、僕もジーナさんにカウンセリング料を支払わなくちゃ」
ふふふ、と内緒話をする乙女のように、一緒に笑った。
「本当にありがとうございます。少なくとも一つ、怖いことがなくなったように思います」
「よかったです。お役に立てて」
「……忘れないでください」
「忘れません。あなたのことを。ユーラ」
彼は笑った。目尻に涙がにじんでいたので泣き笑いのように見えたが、ジナイーダは美しい笑みだと思った。
それから一月ほどが過ぎて、秋の気配が漂うある朝、彼の記憶は唐突に戻った。
ジナイーダとユーラとの交流は数えるほどしかなかったが、彼女と二人きりのとき、ユーラは声を上げて笑い、ヴィクトルへの想いに涙ぐみ、ときには軽口を飛ばした。
彼女は手製の菓子などを振るまい、ともに茶を愉しみながら他愛ない話に興じた。無駄になるかもしれないと思いつつ、美味しい紅茶やコーヒーの淹れ方を伝授した。
ヴィクトルの知らない彼が──ユーラが──彼女の前に確かに存在していた。
だから、彼女は忘れない。
あの日の涙も、彼の思いも。彼は消えたりなどしない。
「ジーナさん」
記憶の戻ったユウリ・カツキが声をかけてきた。
「何でしょう、ユウリさん」
「〝さん〟を付けるの、やめてくださいってば」
「あなたがやめる方が先ですよ。私はハウスキーパーですからね」
ねえ、ユーラ。あなたともこんな風な会話をしましたね。
「それで、ご用は? ユウリさん」
「あ、そうそう。ジーナさんのボルシチの作り方、教えてもらえませんか。ヴィクトルには内緒で。びっくりさせたいから」
「え?……」
ああ、ユーラ! あなたは消えてなどいない。ユウリ・カツキの中であなたは生きている。
「あ、ダメですか? 門外不出とか」
「いえいえ、いつでも構いませんよ。そうですね、次にニキフォロフさんがお留守のときではいかがでしょうか」
「よかった。じゃあ、木曜日にお願いします」
うきうきと去って行く背中を見ながら、ジナイーダはそっと吐息をついた。
ユーラ。
大丈夫、忘れませんよ。
ユウリ・カツキの中にあなたを見るたびに、あなたの記憶は私の中で思い起こされ、確かなものになるでしょう。
長い人生の中で、あなたと接した時間は刹那に過ぎないけれど、この胸に焼き付いたあなたの面影が消えることはありません。
あなたは、消えはしない。私の中にも、ユウリ・カツキの中にも、あなたが接した人々の中にも、あなたの欠片は息づいているのだから。
もちろん、ヴィクトルの中にも、ね。あなたは不本意かもしれないけれど──。
休憩を切り上げてジナイーダは立ち上がった。腰に手を当てて、うん、と背筋を伸ばす。さあ、仕事だ。お腹をすかせた成人男子たちのために今夜も腕を振るうのだ。