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温かな雨の下で

ガッ、と、ブレードのトゥが氷面のくぼみに引っかかった。
「くっ」
大きく傾ぐ身体を立て直そうと、腕を広げ、腰をひねり、フリーレッグを引きつけた。軸足に無理な負荷がかかる。
何とか転ばずに体勢を立て直したが、左の足首に嫌な違和感がある。
痛みではない。だから捻挫などではないのが救いだ。だが、何事もなかったように滑り続ければ、後で症状となって現れてくるだろう。そんな違和感がある。
直前にジャンプの練習している子がいたな。このくぼみは、あれのせいか。しかし、これならいっそ転べばよかったか?
ため息を一つついてリンクサイドに滑り寄った。
「どうした、ヴィーチャ。足をやったか?」
「いや、その手前。念のためにテーピングするよ」
「医務室に──」
「そこまで派手にやってないよ。ヤコフも見てただろ?」
「だからこその、転ばぬ先の杖だ。一応、見てもらってこい。取り越し苦労で済めば、それに越したことはないだろう。テーピングも巻いてもらえるしな」
それもそうだな、と思い直して、スケートシューズを手早く脱いで靴に履き替え、医務室に向かった。
歩いていても、特段、痛みなどはなくてほっとする。
ドクターの診断もやはり、少々筋を傷めかけたのだろうとのことで、テーピングを巻いてもらった。可動のほどを確かめるために足首をぐるぐると回したら、テーピングの意味がないだろうとドクターに叱られた。
「あれ? じゃあ、今日はあまり動かさない方がいいってこと?」
「テーピングしたから普通に動いて大丈夫、などと思われたらたまらないね。大事を取って今日の練習はもう切り上げることを進言するよ」
「何だか大げさだなあ。ちょっと違和感があるだけなのに」
「君ももう長老枠なんだから、不調を軽く見るのはよした方がいい。明日もジャンプは禁止だよ」
と、ジャンプ禁止令まで出されてしまった。
確かに自分はもう選手としては若くない。ドクターの言葉を無視して悪化させでもしたら、ただでさえ残り少ない時間を無駄にすることになってしまう。
やれやれ、と肩をすくめ、ドクターに礼をいって医務室を後にした。
リンクに戻ってヤコフにことのあらましを伝え、帰り支度をした。
さて、急に時間が空いてしまった。
十代の血気盛んな頃なら、空いた時間をいいことに街に繰り出して悪友と遊び歩くところだが、今はその悪友たちとて家庭のある身だ、そうそう捉まるものでもない。
それに、家庭なら自分にもある。
たまにはマッカチンにお土産でも買って帰ろうかと、ペットショップを覗いて帰ることにした。



マッカチンへのお土産の入った紙袋を抱えて帰ると、その日の午後はオフだった勇利が出迎えてくれた。
「おかえり、ヴィクトル。どうしたの? ずいぶん早かったね」
「ただいま、勇利、マッカチン。いや、ちょっと足をね」
「え!? ケガ!?」
「違う違う。ケガ未満。大事を取って練習を切り上げただけだよ」
「ほんと? 痛みはないの?」
「ないない。違和感があるだけ。まあ、明日はジャンプ禁止っていわれちゃったけど」
「じゃあ、やっぱり大変なんじゃないか。ごめんね、立ち話なんかさせちゃって。早く座って」
大丈夫だったら、といっても勇利は聞く耳を持たない様子で、ぐいぐいと腕を引っ張られてリビングのソファに座らせられてしまった。
「マッカチン、ヴィクトルが動き回らないように見張っててね」
「大げさだよ、勇利。ほんとにケガじゃないんだってば。それに、着替えもしたいし」
「あああ、そうか、ごめん! じゃあ肩を貸すから」
「ケガじゃないんだってば!」
なだめすかすように勇利を説得し、自室に向かった。勇利はついてきて着替えを手伝うと言い張った。病人じゃないんだけどなあ、とは思ったが、めったにないことなので、つい面白くなってしまい、世話をされるにまかせた。
「部屋着は、朝に着てたので構わない?」
「構わないよ。ああ、ありがとう。そこに置いてくれる?」
「スラックス、一人で脱げる? 肩につかまって?」
「大丈夫だよ」
「あ、テーピング。やっぱり痛いんじゃないの? 遠慮しないでつかまって」
「いや、大丈夫だから、ほんとに」
心配されるのがくすぐったくて仕方ない。そして、嬉しい。勇利の気遣わしげな顔が、始終こちらに向けられていて、いつもよりたくさん目が合うのが嬉しい。
心持ちゆっくり歩いてリビングに戻り、並んでソファに座った。マッカチンがわふわふと膝に飛び乗ってくる。
「マッカチン、ヴィクトルは今日、足が痛いからほどほどにね」
「大丈夫だよ、こうして座ってるしね」
「何か飲む? 僕、あんまり上手に淹れられないけど」
「うん、じゃあ一緒に紅茶飲もうか。俺が──」
淹れるよ、と立ち上がろうとしたら、「何いってんの、座ってて!」と怖い顔をされてしまった。



そんな調子で、かいがいしく世話を焼かれ、その日の残りはずっとふわふわした気分で過ごした。
勇利は傍らを離れようとせず、ちょっとでも身動きしようとすると先回りするので、テレビのリモコンすら自分で取る必要がない有り様だった。トイレにまでついてこようとしたときは、さすがに苦笑させられた。どうする気だったんだ、ほんとに。
勇利は普段の塩対応も鳴りを潜めて、ずっと気遣わしげにこちらの様子を窺っている。心配ないよ、と微笑むと、にっこり笑い返してくれる。大好きな子に心配されて、世話までされて、浮かれずにいられる男がいたら教えてほしい。夜も更ける頃には、もう違和感のある足にすら感謝したい気分でいっぱいだった。
「ヴィクトル、お風呂の準備できたよ。入る? 足に悪いかな?」
「入るよ。今日も汗かいたからね。くさい身体でいたら勇利に嫌われるし」
「ヴィクトルの汗の匂い、好きだよ」
ずぐ、と下腹部に響くことをいうくせに、それがどんな効果をもたらすか、勇利はさっぱりわかっていない。時々、悪魔なんじゃないかと思うことがある。
覚られないようにため息をついて浴室に向かった。勇利もすぐ後ろからついてくる。浴室に続く洗面室に入ると、勇利も後から入ってきた。
「……一人で脱げるよ」
「うん。わかった」
そういっても勇利は出て行かない。見つめ合う形になったが、きょとんとしている。
まあいいか、と服の裾を腹からめくり上げると、勇利も服を脱ぎだした。
「……勇利?」
「? なに?」
「何してるの?」
「服、脱いでるんだけど」
「……もしかして、一緒に入る気?」
「え? ダメ?」
普段は誘ってもなかなかOKしないのに、今日はどういう風の吹き回し……というか、傷めた足のおかげか。ありがとう、足。
「ダメじゃないよ。一緒に入ろう」
「うん」
いそいそと服を脱いで浴室に入った。湯面から立ち上る湯気でしっとりした空気がまといついてくる。シャワーを出し、温度を確かめて、二人で湯滴の下に立った。
「なんだか、こうしてると、あったかい雨に降られてるみたいだね」
「裸で雨に打たれたことはないから、斬新な経験といえるかもしれないね」
「ほんとの雨ならね」
意味のない会話をして、それからくすくす笑い合った。
勇利は湯を止めるとボディソープを手に取り、手のひらで泡立てた。こんもりとした泡の載った手をこちらに伸ばして、首から肩を滑り降り、胸を擦り始める。
「洗ってくれるの?」
「うん」
何の動揺もなく、むしろ当然といった面持ちで勇利は手を滑らせている。ならばと、こちらもボディソープを手に取って泡立て、勇利の肌を洗うことにした。
「もう、おとなしくしててよ。手がもつれる」
「だって手持ち無沙汰なんだもん。俺だって勇利を洗いたいよ」
「今日は僕がお世話する日なの。おとなしくしてて」
「じゃあ、背中だけ洗わせて」
勇利の背中に腕を回して、手のひらでうなじから肩、肩甲骨へと泡で包むように洗っていく。自然と、胸と胸を合わせるようにぴったりくっつく形になった。
「お腹が洗いにくいよ」
「うーん、じゃあ、こうするとか?」
胸を合わせたまま上下左右に身体を動かして、胸と胸、腹と腹を擦り合わせた。
「ちょっと、何やってんの」
「洗ってるの。洗えてるだろ?」
「端から見たらものすごく面白いと思うからやめたら?」
「勇利以外は見てないだろ。でもまあ、勇利の前でカッコ悪いことをすることもないか」
「よかった。カッコ悪いって自覚があって」
「時々失礼だよね、勇利って」
「それより、せっかくくっついてるんだから、僕も背中を洗えばいいんだよね。なんで気づかなかったんだろう」
そういうと、勇利も背中に腕を回して、うなじから洗い始めた。
「勇利、髪はどうするの? 各自で洗うの?」
「腕、上げっぱなしだと疲れるから、お風呂につかってるときに洗ってあげる」
楽しみだなあ、といいながら、勇利のお尻の間に手を滑り入れた。
「あっもう、いたずらしないで」
「洗わなきゃだろ」
「洗うだけだからね」
「はーい」
返事だけしていたずらする気満々だったのだが、勇利の手も同じように尻の間に滑り込んできて、それどころじゃなくなった。
「ゆ、勇利、ちょっと」
「なに?」
「いや、手……」
「洗わなきゃでしょ」
これでいたずらする気が消えてしまった。同じことを仕返されるかと思うと、どうにも気が乗らない。穏当に洗うだけにとどめて、それから勇利のお尻の丸みを味わいながら手を動かした。
「ヴィクトル、ちょっとだけ離れて?」
素直に一歩後ずさると、勇利は尻から下腹部に手を回して、今はだらんと垂れ下がったままのイチモツを洗い始めた。
「ちょ……」
「洗うだけだよ、もう」
言葉どおり、勇利の手は洗う以上の意図を(器用にも)感じさせず、あろうことか、大好きな子に触れられているというのにこちらもピクリともしない始末。
──なんということだ。
内心で愕然とし、次いで暗澹たる気持ちでいるのも知らず、勇利はさっさと欲望の巣から手を離してしまった。そして、新たにボディソープを手に取って泡立て直すと、跪いて脚を洗い始めた。
優しいけれど、それ以上の感情は感じさせない手で太腿から膝まで洗い、「ヴィクトル、バスタブに腰掛けて」とこれまた優しく命じる。
泡で滑らないように気をつけながらバスタブの縁に座った。
勇利は片膝を軽く立てて跪き、まず、こちらの右足を腿の上に載せて、すねやふくらはぎを洗う。それから足首、足の甲、指の間、足裏へ。
「当たり前だけど、ヴィクトルの足にも痣があるんだよね……」
「? おかしいかい?」
「ううん、そうじゃなくて。ヴィクトルほど巧い人でも痣ができるなんて、神様って変なところで公平だなあって思ったんだ」
「変なところで公平、か。そうかもしれないね。俺はよく、神様にひいきされてるっていわれるけど、本当にひいきされてたら、慣らす必要もないぐらいぴったりのスケートシューズが毎回できあがってくるはずだしね」
「そう上手くはいかないよね」
勇利は腿に載せていた右足を下ろして、左足を持ち上げた。同じように自分の腿に載せて洗っていく。足裏を洗う手がくすぐったくて、バスタブの縁を掴んでこらえた。
「はい、おしまい。流すから、気をつけて立ってね」
「自分で流すよ」
「僕がやるの。早く来て」
ベッドで発したならどんなにか蠱惑的だろう言葉を無感情に口にして、勇利は湯滴の下から手招いた。
体中が泡だらけなので、いわれずとも気をつけて立ち上がったが、それでもつるりと足の下で床が滑って、とっさに勇利に抱きついた。
「おっと──大丈夫? 足」
「大丈夫。勇利はずーっと大げさなんだよ」
「何いってんの。大事にすれば、それだけ早く治るかもしれないだろ。大切な足なんだから、大事にしすぎるなんてことはないの」
「勇利……」
感極まって、キスをした。舌を差し入れるとき、湯滴も一緒に口の中に入って、なんだか勇利の涙を飲んでいるみたいな気分になった。温かな雨の下で、大好きな子を腕の中に閉じ込めて、唇を味わっている。幸せだなあ、と思った。
ふは、と口を離しても湯滴の中だから、息の仕方にとまどった。勇利も目を白黒させていて、それからお互い目が合って、ぶはっと盛大に噴き出した。
「溺れるかと思った」
「いいね。勇利と一緒なら溺れてもいい」
「ダメ。僕はまだヴィクトルのスケート見たいもん」
「俺と、俺のスケートと、どっちが大事なの?」
「何その古典的な二者択一」
笑いが止まらない。でも、たとえば俺が足を失う、なんてことになったら、勇利は、それはもう泣いて泣いて泣きまくるだろうけど、残った俺も大事にしてくれるだろうなと思う。
「ねえ、勇利。俺はいつか滑れなくなる日が来るよ」
「うん、まあ……いつかは、ね」
「年を取って、すっかり老いて、道ばたをひょこひょこ歩いてても、もう誰も俺だって気づかない、そんな日が来る」
「そうだろうね」
「俺の記録も、若い才能に塗り替えられる。それはもう、勇利とユリオが達成して見せてくれたね」
「うん……五連覇は当分先だけどね」
「そんな、スケートができるという価値も、賞賛される見た目も失った俺でも、勇利は好きでいてくれる?」
「え? うん」
あまりにあっけらかんといわれたのでズッコケそうになった。いや、うん、っていってくれると思ってはいたけど。
「ヴィクトルのスケートが好きなだけだったら、こんなことしてないよ。ましてや、セッ……ク、ス、とか」
「勇利……」
「僕はヴィクトルの顔も好きだけど、それだけで付き合ってるわけじゃないよ。ヴィクトルは違うの? 僕のスケートが好きなだけで、僕みたいな、ほかに取り柄もない、それも男と付き合えるの?」
「無理……だろうね」
ほかに取り柄がないかどうかは、いつかじっくり話し合わないといけないだろうなと思った。
「それに、僕だって年を取るよ。ヨボヨボの白髪のお爺ちゃんになって、もうアジア人かどうかすら見た目じゃわからなくなるかもしれない。そんな僕とは一緒にいたくない?」
「そんなことないよ」
勇利となら一緒に年を取るのも楽しいだろう。それに、きっとお爺ちゃんになっても勇利は可愛いと思う。
「僕だって同じだよ。だったら、聞くまでもなくない?」
「うん。そうだね」
「そうだよ。変なヴィクトル」
勇利が笑う。それだけで、もう何もかもが上手くいくような気がした。だから、「ほんとだね、ごめん」といって馬鹿みたいに笑った。
年を取って、この髪も真っ白になって、顔にもシワやシミが刻まれても、勇利は傍にいてくれるという。それなら、いつの日か訪れるスケートを失うという重大事も、きっと乗り越えられるだろう。
そう遠いことではない競技者引退の日も、きっと勇利が傍にいて手を握ってくれているのだろう。
それを思うだけで、どんな敵にも立ち向かえる気がした。

勇利、一緒にいよう。

病気もケガもしないのが一番だけど、こんな風に甘やかしたり甘やかされたりできるなら、ほんのちょっとした不調ぐらいはあってもいいかもしれない。人生のエッセンスとしてね。
でも、それ以上はダメだよ。風邪とか捻挫以上の不調は不可。心配で夜も眠れない、なんてお互いの健康に悪いからね。
一緒にいよう。長い人生を一緒に歩いて行こう。そうして、いつか同じ日にまぶたを閉じることができたらいい……。
「じゃあ、背中流すから向こう向いて」
「えー、さっきみたいにくっついてやってよ」
「流しづらいの。ほら、早く」
勇利の手に促されて背を向ける。勇利の両手がうなじから背中を擦る。気持ちいい。
手持ち無沙汰なので自分の胸や腹の泡を流していると、「僕がやるから動かないで」と叱られた。今日は徹底的に甘やかしてくれるらしい。
「あっ! 忘れてた! ごめん、ヴィクトル」
「えっ、なに?」
思わず振り向くと、情けなく眉尻を下げて見上げてくる勇利。
「腕をどっちも、洗うの忘れてた」
「……」
言葉もなく見つめ合ってから、二人で浴室がこわれるくらい大爆笑した。

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