「──ヴィクトル!」
少しうわずった声で名前を呼ばれて振り返る。
街灯のオレンジの光をふんわりとまとって、髪を風になびかせて駆けてくる。
見間違えようのない、この世界にたった一人の、愛しいものの姿だ。
隠しようのない喜びを顔に浮かべて駆け寄ってくる。
「ヴィクトル……!」
数歩前にたどり着いた彼に、再び名前を呼ばれる。
瞳がきらめいているのが、青いフレームの、野暮ったいメガネのレンズ越しにもはっきりと見えた。
はあ、と一つ大きく息を吐いて、彼は息を整えた。
それから、急に戸惑ったように視線を彷徨わせた。
ノープランで声をかけたはいいものの、さてどうしようと迷っているのだろう。そんな物慣れないところも可愛いと思うくらいには、彼にぞっこん惚れているのだという自覚があった。
そのまま、なんとなく彼の出方を待った。
意地悪ではなく、なんとなく、だ。
彼は彷徨わせていた視線をこちらの顔に固定させると、一度、ぎゅっと目をつぶった。それから、意を決したのだろう、口を開いた。
「ヴィクトル、ごめん!」
いきなり謝罪だった。
花屋の店先とはいえ、ここは路上で、歩道にはまだ多くの人が行き交う時間帯だ。現に、ちらちらと、こちらを見ながら人々が通り過ぎていく。それでも、彼の目には今、自分たちしか映っていないのだろう、勢い込んでしゃべり出した。
「僕、僕、ヴィクトルの気持ちも考えないで、頭ごなしに──」
「ストップ、勇利。ここ、路上だよ」
「──え?」
きょとん、と彼は問い返した。目が大きく見開かれて、今は街灯の光を受けて、いつもよりオレンジがかったチョコレート色の瞳がまん丸に見えた。
「プライベートな話なら家でしよう。もうすぐそこなんだし。──それより、なんでこんな時間に外に?」
「あ──うん、花を買おうと思って」
「花を? めずらしいね」
「う、うん……」
彼はうろたえたように手を身体の回りでバタつかせて、それから諦めたようにため息をついた。
「花を贈ろうと思ったんだ、ヴィクトルに」
「俺に?」
「うん。あのね……」
言葉を続けようとする彼を、片手をあげて制した。
「じゃあ、一緒に買って帰ろう。俺も買おうと思ってたところだから。どうして買おうと思ったのかは家でゆっくり聞かせて」
「うん……」
彼の背に手を当てて、一緒に店内に入った。そろそろ足を止める通行人が出始めていたので、一時的に人目を避ける思惑もあった。成功したかどうかはよくわからない。
家に帰って、互いに花を贈り合った。
彼は、薄紫のアネモネをあしらったミニブーケを贈ってくれた。こちらは、白薔薇にブルースターをあしらった清楚なブーケを手渡した。彼は芳香を味わうように目を閉じ、それから目を開いてはんなり笑った。
「ありがとう……。こんなこというと、また野暮っていわれちゃうんだろうけど、花って改めて値段を見ると高いんだね」
「ほんとに野暮だね」
「……ごめん」
「冗談だよ。でも、価値を知ったうえで贈り合うのもいい経験になるんじゃない?」
そんな戯れ言をいってみると、彼は情けなく眉尻を下げた。
「ごめんね、ヴィクトルのに比べたら、僕のは貧相だよね」
「何いってるんだ!」
思わず大声になった。それも仕方ないだろう。こういうことを言い出す彼を放置すると、思考がどんどん斜めの方向に突っ走って、よくない結果をもたらすのだ。
「勇利がくれたものを貧相なんて思うはずないだろ。それにね、この色のアネモネの花言葉を知ってるかい?」
「え? ううん」
「〝君を愛す〟っていうんだよ。最高のプレゼントじゃないか」
そういって片目をつぶってみせると、彼は「あい」と呟いて、それからみるみる赤面した。(さっき、こっそり検索したのは、彼には秘密だ)
「いや、僕、知らなくて」
「俺は嬉しいよ。それより、どうして花を贈ろうなんて思ったの?」
そう、これが本題。話の中身によっては、夜の外出をとがめることにもなるが、なるべくなら、そんなことにはならないでほしいものだと思う。
彼はもじもじと指先を擦り合わせながら、何度かためらって、ようやく口を開いた。
「謝りたくて。ヴィクトルに」
「……ああ、花屋の前でも〝ごめん〟っていってたね」
「ヴィクトルはもう気にしてないかもしれないけど、……色々贈ってくれたのに、特にスーツ、スーツを贈ってくれたときのこと、謝りたくて」
「ああ、あのスーツ……。どうしたの。燃やした? それとも捨てた?」
「そんなことするわけないだろ! ちゃんとクローゼットにしまってあります」
よかった、と微笑んでみせると、からかわれたと思ったのか、彼はちょっと悔しそうな顔をして、それから肩を落とした。
「あんなに素敵なスーツ、燃やしたり捨てたりなんてできないよ。光沢も、手触りも、今までさわったことがないくらい素敵だった。──でも、僕、御礼もろくにいってなくて」
「そうだっけ」
我ながら、こともなげな口ぶりだな、と思ったが、彼は「そうなんだよ」と気にしたそぶりも見せない。
「まず、それを謝りたかったんだ。それで──花を。ごめんね、ヴィクトル。せっかく買ってくれたのに、ありがとうもいわないで」
「ということは、あのスーツ、着てもらえると思っていいのかな」
「うん。それで、その……僕、あのスーツ着るから、その……」
彼はまたもじもじと両手の指先をこね回して言いよどんだ。「なんだい?」と先を促すと、彼は二、三度口をパクパクさせてから、クワドフリップを跳ぶときのような顔で一気にいった。
「僕と、デ、デ、デートしてくださいっ」
ぱか、と思わず口が開いた。まぬけな顔だろうなと自分でも思う。彼は肩で息をして、目線を足元に落としているため、見られなくて幸いというべきか。
それにしてもデートとは。彼から誘われるなんて初めてだ。きっと一生懸命デートコースを考えてくれるんだろうな。ああ、困る。顔面が緩む。ここはカッコよくOKしてみせたいところなのに。
「……ありがとう。嬉しいよ。喜んで」
なんとかつっかえずに口にできた自分を褒めたい。
彼は、ほっとしたのだろう、笑顔を浮かべた。その気の抜けた笑顔も可愛いと思うのだから重症だ。
その気の抜けた表情が、すっと落ちた。いや、落ちるように消えた。何だ? まだ何か気にかかることがあるんだろうか。
「あの……それで、ね? その……」
「うん?」
「現金なヤツだと思われるかもしれないけど……受け取ってほしいものがもう一つあるんだ」
「……なんだろう。プレゼントかな。現金なヤツだなんて思わないよ。なんだい?」
「部屋にあるんだ。取ってくるから、ちょっと待っててくれる?」
彼は一転、パアッと喜色を浮かべた。ああ、可愛い。そして、パッとソファから立ち上がると、こちらの返事も聞かずに駆けていった。パタパタという軽い足音が遠ざかる。
リビングの隅に敷いたラグの上で眠っていたマッカチンが、なにごと? とでもいうように顔を上げて音の方を見ている。けれど、すぐに興味をなくしたように、また眠りの態勢に戻ってしまった。
マッカチンももう老齢だ。近頃はジョギングのお供に走ることもめっきり減った。寂しいけれど、大型犬としてはずいぶん長く生きてくれている。そう遠くないだろう将来に備えて覚悟をしておいた方がいいのだろうな、と思う。
思うことと、できるかどうかということは、また別なのだが。
そんなことを考えて、ちょっと気分が落ちかけたところに、またパタパタと足音がして彼が戻ってきた。手の中には小さな細長い包みがある。
彼はソファに座らず立ったままで、はにかんだ笑顔とともに包みを差し出した。
「これなんだけど……」
「ありがとう。開けてもいい?」
「うん」
包装紙には、家からリンクまでの途中にある、こぢんまりした店の名前が印刷されている。なんであれ、彼が選んでくれたものと思えば、包装紙さえ貴重品だ。丁寧に包みを開くと、紺色のベルベットの箱が出てきた。ジュエリーケースの細長いやつ、のような。
ふと、彼の様子が気になって目を上げると、期待と不安と、それと申し訳なさそうな表情の入り混じった顔をしている。思わず苦笑が漏れた。
「勇利、座ったら? そんなにじーっと見つめなくても大丈夫だよ」
「あ」
照れ隠しなのか、彼は慌ててソファに腰を下ろし、そして、やっぱりこちらの手元をじっと見ている。なんとなくフードを待つマッカチンが連想されて、心の中で自分をたしなめた。さすがに失礼だ。
視線を箱に戻し、長辺の中程に親指を当て、蓋を半回転させて持ち上げた。
「……ワオ」
中に入っていたのはネックレスだった。トップは、菱形の銀の枠に縁取られた、透明感のある碧い石だ。これは、パライバトルマリンだろうか。
「きれいだね」
「ヴィクトルの目の色だと思ったら、考える前に買っちゃったんだ。きっと似合うだろうな、って、それしか考えられなかった」
「そう……」
彼の目には、こんな風な色として映っているのか。青の深みと緑の清冽さを織り交ぜた、どこまでも澄んだ湖のような、それ自体が発光するかのような美しい石。
こんなにも美しいものとして見てくれているのか。
じん、と胸に熱いものが広がった。
正直にいえば、アクセサリーをつける趣味はない。彼のくれた指輪以外は、貴金属類はアクセサリーボックスの中で眠っている。つけ外しがうっとうしいし、失くした後で言い訳を考えるのも面倒だ。
でも、これは身につけようと思った。
指輪のほかにもう一つ、宝物ができた。
彼の想いが結晶した宝物だ……。
「ありがとう、勇利。大切にするよ。──つけてみようか?」
「わあ、つけてくれるの?」
うなずいて、留め具を外し、首の後ろで留め直した。ちょっと苦労した。つけ慣れないせいだ。不器用なんじゃない。決して違う。
彼の前ではかっこいい姿でいたい。
鎖骨の下あたりにトップが来るように位置を確かめて、彼に向き直った。
「どう? 似合うかな」
「ふわ……」
歓声とも感嘆ともつかない声を上げた彼は、両手を唇の前で合わせて、瞳を潤ませている。
彼のくれたネックレスは、細い銀の鎖と小さなトップという組み合わせなのに、肌の上で重い存在感を主張している。慣れるまでは肩がこるかもしれないな、と考えて老け込んだ気分になり、内心慌ててその考えを打ち消した。
「ヴィクトルきれいか~……よう似合うとー……」
「勇利、日本語になってるよ。なんとなく褒められてるのはわかるけど」
「あ、ごめん。すっごい似合ってるよ。髪の色とも目の色とも合ってて。ヴィクトルのノーブルな美しさに趣を添えてる感じ」
ノーブルな美しさとまで評されて、さすがに笑ってしまった。一方の彼は何を笑われたのかわからないようで、きょとんとしている。
「勇利って、俺について語るときは表現が仰々しくなるよね。それがおかしくて」
「ええ? ほんとのことしかいってないよ」
「うん、そうなんだろうね。ありがとう。嬉しいよ」
彼はまだ腑に落ちない顔をしていたが、一つため息をついて肩をすくめた。矛を収めるという合図だ。
「失くさないように気をつけないとなあ」
「指輪は失くさないじゃない」
「宝物だからね。それでも、最初の頃は置き忘れそうになって慌てたこともあったんだよ。このネックレスも今日から宝物の仲間入りだから気をつけないとね」
すると彼は、感に堪えない、という顔で「宝物……」と呟いた。
「宝物だよ。本当なら、傷もつけないように、大事にしまっておく方がいいのかもしれない。でも、それじゃ勇利の気持ちを無にするような気がするから、身につけようと思う。いいだろ?」
「もちろん。ヴィクトルが身につけてくれてるのを見るたびに、嬉しく思うよ」
ふふ、と目を見合わせて微笑み合う。それから、右手を大きく開いて、指輪が見えるように高く掲げた。照明を受けて、ちかりと光る。
「この指輪も、毎日つけてるから細かい傷がついてくすんできてる。切ない気もするけど、でも、俺たちの過ごした時間が刻まれてるんだと思えば、傷の一つも愛しい気持ちになる。そういう感じ、わかる?」
問いかけると、彼は嬉しそうに微笑んだ。そして、並べるように指輪をつけた右手を宙に掲げた。
「わかるよ。一つ一つが僕たちの歴史なんだよね。そう思うと、うかつにメンテナンスにも出せないけど」
いいたかったことと若干ズレている気がしないでもなかったが、言葉の終わりにペロッと舌を出した彼の可愛さに、何かもうどうでもいい気がした。
ふふふ、と笑い合う。端から見たらまぬけなカップルに見えるだろうなと思ったが、幸せなんだからそれもどうでもいいと思った。
と、彼は手を下ろして、はふ、と吐息を漏らした。雰囲気が改まる。少しだけ表情が硬くなる。彼に続いて手を下ろし、言葉を待った。
「……僕ね、そのネックレスを見つけるまで、プレゼントする側の気持ちってよくわかってなかった。──ううん、全然わかってなかった。どんなに似合うだろう、素敵だろうな、ってそれしか考えられない気持ち。ウキウキして、ワクワクして」
その気持ちはよくわかる。彼に似合うだろうな、彼が身につけてくれたら可愛いだろうなと思う気持ち。それが心をいっぱいに占めて、ほかのことは考えられなくなるような。
スーツや、花や、細々した贈りものを選んでいたときの気持ち……。
「その気持ちを知ったらね、僕、ヴィクトルになんて酷いことをしていたんだろう、って思って」
「え?」
「僕のことを考えて選んでくれたり、贈ってくれたりしたのに、喜ぶより先に眉間にしわ寄せて。あげく、ありがとうもいわずに。ヴィクトルが怒るのも当然だし、嫌われてもしょうがない」
「嫌わないよ」
慌てて言い募った。放置していたら、とんでもないことになりそうな予感がする。
彼は済まなそうに笑った。
「うん。ヴィクトルなら、きっとそういってくれるだろうとも思ってた。でも、そういうあなたの優しさに甘えっぱなしじゃいけないと思うんだ。だから」
だ、だから?
「僕、もう少し、他人の気持ちに敏感になろうと思う。今まではあんまりそういうこと考えずに済んできたけど、これからはそうもいかないだろうし。──あ、他人っていったのは言葉の綾で、ヴィクトルを他人だと思ってるわけじゃないから」
慌てて付け加えた彼がおかしかったけれど、笑うのはやめておいた。彼の機嫌を損ねて、雰囲気を壊したくない。代わりに少しだけ真面目な表情を作った。
「好きの対義語は無関心、っていうよね。勇利は今まで他人に関心を持たないように生きてきたんじゃないかな。だから、少しだけ周りに関心を持つようにすれば、今までより他人の気持ちがわかるようになると思うよ。──少しだけでいいからね? あんまり関心を持って、俺以外の人に目移りされたら困るから」
そういってウィンクしてみせると、彼が噴き出した。
「目移りなんて、そんな──そんなことあるわけない。この僕が」
「すごい自信だね」
「だって、ヴィクトルより素敵な人なんているわけないじゃん。それに、何年ヴィクトルオタクやってると思ってるの。人生の半分以上だよ? そう簡単に、あなた以外の人に目なんか行かないよ」
じーん、と謎の感動に襲われて、とっさに言葉を紡ぐことができなかった。こういうことを、相手を喜ばそうと意図せず口にできるのが、彼の長所であり、不安に思う点なのだが。不安というのはもちろん、彼に惹かれる輩が増えるという意味で、だ。
「……と、とにかく、加減に気をつけて」
「? ……うん、わかった」
と、まるでわかっていない顔でうなずく彼に、これはこの先、彼の周囲に張り巡らせるアンテナの感度を強くしないと、と心に刻んだ。自分の魅力をまったくわかっていない子はこれだから……。
「それでね? 改めて、謝罪を受け入れてほしいんだ。今まであなたの気持ちに鈍感すぎてごめんなさい。これから、もう少しあなたの気持ちに寄り添うように気をつけます」
「……わかった。謝罪を受け入れるよ。この話はこれで手打ちにしよう。OK?」
「Yeah. ありがとう、ヴィクトル」
謝罪か。確かにスーツを贈ったときの彼の態度には少々腹を立てたが、わざわざ改まって謝ってもらうほどのことでもない。仕事でペテルブルクを離れている間に腹立ちなんてすっかり忘れていたし。
それでも、彼の気持ちが嬉しいし、わざわざこんなことを言い立てれば水を差してしまう。だから、素直に受け入れることにした。
「俺こそ。きちんと謝ってくれて嬉しいよ」
にっこり笑ってみせれば、彼の笑みは花のようにほころぶ。それを見たくて笑うのかもしれないな、と頭の悪いことを思う。
「あ、でも、ヴィクトル。プレゼントしてくれるのは嬉しいけど、スーツみたいな大物を買うときは僕も連れてってよ」
「ん? でも、そうしたら着せ替え人形をやってもらうことになるけど?」
「着せ替え人形も値段も、ほどほどにしてください。あんまり高価なものだと、袖を通すだけでおっかなびっくりになって、落ち着かないんだよ」
「えー」
「考えてもみてよ。あのスーツを着た僕が、デート中なのに、『汚しちゃいけない』とか『破いちゃいけない』とか考えて上の空だったら、嫌な気持ちにならない?」
「うーん」
「なにを悩むことがあるの」
「そのときのフィーリングで選ぶことが多いから、価格帯がどうとか約束できないんだよ。勇利にはこれが似合う! と思ったら、もうそれ以外は考えられない感じ。勇利もこのネックレスのことで、わかったんだろ?」
「わかったけどさあ……でも、それだって限度ってものがあると思う」
うーん、と二人で腕組みをして考え込む。
「僕も一緒に行って、ヴィクトルがあんまり高そうなものを買いそうになったらそれとなく止めるから、察してよ」
「俺に日本人並みの察しは無理だよ」
「じゃあ、こんな高いの、いらない、ってハッキリいった方がいい?」
「それはさすがに傷つくよ」
うーんうーんと二人で頭をひねる。
「じゃあさ、あのスーツを基準にしようよ。あれより高価なものはとりあえずナシで」
「ええ?」
「あれ以上に高そうなものは、今の僕には分不相応だもん。年齢的にも、収入的にも。僕、ヴィクトルに養われたいわけじゃないから」
「GPFメダリストで世界的アスリートの勇利に分不相応とか言い出したら、大変なことになりそうだけど」
「おかげさまで肩書きだけは立派になったけど、内面が伴ってないから、僕が身につけても浮いちゃうんだよ」
「そんなことないよ」
彼のこの自己肯定感の低さ。何とかしたいと思って、手を替え、品を替えしてやってはいるが、なかなかうまくいっているとはいいがたい。それが、こんなところで足枷になるとは。
「ねえ、ヴィクトル。プレゼントをくれるあなたの気持ちはわかったけど、高価なものを贈られたときの僕の気持ちはわかってる?」
「勇利の気持ち?」
「嬉しいのと、ありがたいのと、申し訳ないのと。あと、ほんのちょっとだけ……みじめな気持ち」
「What!?」
思わず大声を上げて間を詰めると、彼は慌てて言い募った。
「ごめんね、こんなこというのはマナー違反だし、ルール違反だとも思うんだけど、少しでいいからわかってほしくて。僕、あなたが大好きだし、あなたにはそんな気持ちは全然ないこともわかってる。でも、あんまり高価なものを贈られると、ほんの少しだけつらいんだ。あなたに比べたら、吹けば飛ぶようなものだけど、僕だって収入はある。ちっぽけだけど、プライドだってあるよ。でも、それら全てを、その……無視、されるようで」
あまりの衝撃に、どっとソファに倒れ込んだ。額に手をかざして目を覆う。彼がおろおろしているのに、なだめることもできない。
これまで贈りものをしてきた相手を思い浮かべる。高価であればあるほど、有名なブランドであればあるほど喜ばれた。歓声。興奮。媚びるような笑顔。ときに代償のようなセックス。
だが、と思い直した。
そうだ。彼は男性なのだ。庇護されるのを良しとする、惰弱な精神など持ち合わせていないのだ。
試合に臨む彼の表情を思い浮かべる。きりりと引き結ばれた唇、決意のたぎる瞳、男性らしい印象を強める眉。
これまで付き合ってきた相手と同じような対応をしてきたこちらのミスだ。
よかれと思ってやったことが彼のプライドを傷つけてきたのなら、悪意がないだけタチが悪いというものじゃないか……。
「……勇利」
「な、なに?」
彼がおっかなびっくり応答する。目を覆った手を外し、ソファの背から身を起こして、心持ち姿勢を正した。
「俺はつくづく人間関係を疎かにしてきたと痛感したよ」
「え?」
「勇利も知ってるように、過去に何人か付き合った人はいるけどね、つくづくおざなりな付き合い方をしてきたなと思ったよ。プレゼントの代償のような夜の過ごし方まで含めてね。恋愛関係にある人間がたどるパターンにまんまとハマる形で付き合ってた。──それが一番ラクで、なにも考えずに済んだから。なんて不誠実だったんだろうと思うよ」
それで許されてきたし、許さない相手は離れていった。追いかけることもしなかった。恋愛なんてそんなものだろうと思っていたし、そもそも、大した執着も持っていなかったのだと今ならわかる。
彼への想いを大切に抱いている今なら。
「そんな付き合い方をしていた頃と同じようなことを君相手にもしていたんだと、今気づいた。──申し訳なかった。君が不快に思うのも当然だ」
「不快だなんて、そんな。そこまでは思ってないんだ。ほんのちょっとだけ──」
「うん、わかってる。勇利は優しいから、大抵のことは受け止めてくれる。俺もそれにちょっと甘えすぎてたみたいだ。君を想うあまり、盲目になっていたというか」
腿の上に置かれていた彼の両手を取って、胸の高さで握りしめた。彼の目をまっすぐに見つめる。大きなチョコレート色の瞳。
「勇利、俺は忘れっぽいし、フィーリングで物事を決めることが多いし、面倒ごとは避けて通ってきた。この先もそれは変わらないと思う。でも、君にまでそんなことではいけないよね」
彼は、話の先行きがつかめないのだろう、不安そうな面持ちをしている。安心させるように微笑んで、握った手を軽く揺すった。
「プレゼントも、君の気持ちに沿って選ばなければ、俺の欲求の押しつけだ。こんな基本的なことに今まで気づけなかった自分のまぬけさを呪うよ」
「まぬけだなんて」
「うん。さっきもいったけど、俺は忘れっぽい。だから、今ここで約束しても必ず守れるとは言い切れないけど、勇利、君のいうとおり、スーツとか大きな買い物のときはできる限り君の意見を尊重するよ」
「ほ、ほんと?」
「もちろん、俺にだって譲れないことはあると思う。だから、ちゃんと話し合ってお互いの意見を擦り合わせよう。俺たちにはそういうことが足りないみたいだから」
すると彼は、ぱっと華やいだ笑みを浮かべた。
「ありがとう、ヴィクトル! こんなに早く考え直してくれるなんて思ってもみなかった!」
「念のためにいっとくけど勇利もだからね? 俺たちは話し合いをすっ飛ばす傾向があるから、君にも気をつけてもらわないと。バルセロナの二の舞はごめんだよ?」
ちょっと眉をしかめてそういうと、彼は首をすくめて申し訳なさそうな顔になった。
「あのときは悪かったってば。僕もちょっと変に思い詰めてたから……。でも、そうだね。どっちかが一方的に努力するんじゃ不公平だもんね。うん、僕も気をつけるよ」
互いににっこりと笑い合って。今夜の話し合いは平和裏に終結しそうだ。
「それにしても面白いね。勇利も俺も、お互いの優しさに甘えてた、って反省して」
「ほんとだね。お互い、なにを思ってるか、ちゃんと話し合うってやっぱり大事だね」
「二人に関することで重大な決断をするときは、事前に話し合うようにした方がいいね。特に勇利は」
「もうわかったってば……。でも、うん、お互い気をつけようね」
決意を込めてうなずき合う。後は行動が伴うように努力するのみだ。生まれた国も育ちも違う、日常で使う言語も母国語ではない二人が円滑に暮らしていくためには、多少の努力は必要不可欠というものだ。それが彼との会話なら、なんの苦痛もない。
「ヴィクトル、そろそろ手、離して? 僕、お腹すいた。夕食の支度するから。ヴィクトルもご飯まだでしょ?」
うなずいて素直に手を離すと、彼は立ち上がってキッチンに行きかけ、ふと何かを思い出したように戻ってきた。こちらをじっと見下ろして、それから、ふふ、と笑う。
「やっぱり素敵だ。似合ってる。つけてくれてありがとう」
彼はそれだけいうと、照れたように頬を赤らめ、ぱっと踵を返してキッチンへと駆けていった。
ふう、と吐息を一つ。それからソファの背に沈み込んだ。
思いのほか長い話し合いになった。
飛行機を乗り継いで帰国した疲れがのしかかってくるようだ。
それにしても、と思う。
彼と出会い、ライフとラブを得たことで、自分という人間の欠損ぶりに気づかされてはいたが、こんなところまで欠けていたとは。
スケートに全てを捧げて生きてきたといえば聞こえはいいが、じきにその言い訳も通用しなくなる。それにむしろ、スケートを言い訳にしていい加減に生きてきたという方が正しいようだ。
はああ、と深くため息をついた。
欠けていることに気づかされるのはショックだが、彼と出会わず、欠けた人間性のままで生き続けたかもしれないと思うとゾッとする。
「勇利に感謝、だね……」
本当に、彼と出会ったことで自分という人間は再生できたのだ。いや、再生しつつある、が正確か。
彼とともに生きることで欠けたものを埋めることができる。そう考えると、この日常はなんと尊いのだろう。
「大事にしなくちゃ、ね」
ふふ、と笑みがこぼれる。
そこに、声がかかった。
「ヴィクトルー。もう用意できるからダイニングに来てー」
愛しい声。柔らかな、耳に快いテノール。
自分の生活に、こんなにも愛しい声が加わるなんて想像もしなかった。
「はーい、今行くよー」
声に応えて立ち上がる。いい匂いが漂ってきている。
無論、彼にだって欠けている面がある。それはこちらが補えばいい。そうして二人で補い合って生きていくことができたら……。
「サイコーじゃないか」
「え? 最高ってなにが?」
「勇利と一緒にご飯を食べられること」
パチン、とウィンクすると、愛しいものが頬を染め、嬉しそうに笑った。