Site Overlay

幸せはどんなときも

「ヴィクトルの手、あったかいね」
リンクからの帰り道、小雪がちらつく中を、どちらからともなく手をつないで歩いていた。夕暮れは早くも夜へと装いを変えて、吐く息の白さを際立たせている。まつげも凍る寒さで、マフラーに鼻まで埋もれた勇利の吐息は、暖かなカシミヤの表面に白く結晶し始めていた。
「勇利の手は冷たい。今はもう、だいぶあったかくなったけど」
「人種の差なのかなあ」
首をかしげる勇利の前髪に、雪の粒が一つ、静かに落ちた。さらに一つ、また一つ。
思わず空を見上げると、雪はだんだん数を増して、空間から湧き出るように落ちてくる。
「早く帰ろう。本格的に降ってきた」
「走る?」
「そうしよう、といいたいとこだけど、滑って転んだら危ない。急ぎ足で」
「ヴィクトル、足長いからついていくの大変なんだよなあ」
マフラーの中で口を尖らせているのだろう、勇利は不満げな声を出したが、早く帰ることに異論はないようで、ヴィクトルから遅れないよう素直に歩を速めた。そうしながら、後から後から雪の落ちてくる天を見上げている。
「勇利、上ばかり見てると危ないよ」
「手、つないでるから、転んだら一緒に倒れちゃうもんね。気をつけないと」
「わかってるなら足下を見て」
へへ、と照れ笑いを一つ漏らして、勇利は足下に視線を転じた。
「ねえ、雪ってこんなに降ってると、雪が落ちてくるんじゃなくて自分が昇っていってるような気にならない?」
「さあ、そんな風に考えたことはなかったな。土砂降りの雨の中でもそんな風に思うのかい?」
「土砂降りのときは泳いでるみたいだって思うよ」
「ああ、それはわかる」
「僕、こんなに雪が降ってる中を歩くの新鮮だから、そんな風に思うのかな」
「そうかもしれないね。俺は雪が降ってくると、早く暖かい家に帰ってウォッカを飲みたい、としか思わないよ」
「飲み過ぎ注意」
「やぶ蛇だったか」
首をすくめるヴィクトルに、勇利はふふふ、と笑いを返し、それから二人はしばらく黙って歩いた。肺の中まで冷たい空気が満ちてしまっていた。身体の内と外から凍り付くかのようだ。
まだこの寒さには慣れないな、と勇利は思う。
生まれ育った長谷津の地は温暖で、冬でも雪はめったに降らない。
ヴィクトルが初めて長谷津に来た時は雪が積もったんだったなあ、と2年前の春を思い出す。あのときは何十年に一度かの大雪で、通りを行く子供たちが雪玉を投げ合いながら駆けていったものだった。
こうして冬のロシアの、凍てつく空気の中にいると、ヴィクトルは本当に雪と氷の国の人なんだな、と実感する。
肌は雪の白、瞳はバイカル湖の氷の色、髪は、何億もの雪を降らせる天の色だ。
このロシアという国の、自然が結晶したかのような人だ。
美しい、美しい人。
その人の手が、今、勇利の手を掴んで足早に家路をたどる。
二人で暮らす家だ。
暖かな家にはマッカチンも待っている。ハウスキーパーの手によって、温め直したり、ほんの少し手を加えたりすればいいだけの状態で夕食も用意されているだろう。
「幸せだね」
勇利が言葉を発すると、ヴィクトルが驚いたように振り向いて立ち止まった。
「外はこんなに寒いけど、家に帰ればあったかいし、夕食だってできてる。マッカチンも待ってる。幸せだね」
メガネとマフラーと帽子に隠されてわずかしか見えない勇利の顔をヴィクトルはまじまじと見つめた。それから、一気に華やぐこの国の春のように笑った。
「よかった。こんな寒い国は嫌だ、っていわれるんじゃないかとドキドキしてたんだ」
「それで帰りを急いでたの?」
「それだけじゃないけどね」
「取り越し苦労だったね」
「ほんとによかった。安心したよ。ハセツとは気候が全然違うだろうから──」
「僕、この国、結構好きだよ。手もつないでるからあったかいしね」
勇利は握り合った手を胸の高さまで持ち上げて見せた。
「まあ、まだよく知らないから大好きとはいえないけど」
「いつか大好きっていってもらえるように頑張るよ」
お互いに、ふふふ、と笑い合って。
「さあ、続きは家で話そう。雪だるまになっちゃうよ」
いいながら、ヴィクトルが空いた方の手で勇利の帽子や肩に積もった雪を払い落とした。勇利も同じようにして彼を雪だるまから遠ざけた。
再び足早に歩き出したヴィクトルから遅れないように、勇利は彼より短い脚を懸命に動かした。
地面には早くも1センチほど雪が積もり、足裏に雪を踏みしめる感触が伝わってくる。
明日の朝までにどれだけ積もるんだろう。人力で除雪できる範囲だといいなあ。エントランス前とか誰が雪かきするんだろう。コンシェルジュさんかな? 業者さんかな。
マフラーと頬の隙間から漏れる息でメガネが白く曇る。でも、道を踏み誤る心配はない。勇利の手を掴んで共に歩いてくれる人がいる。
──本当に幸せだ。
勇利はもう一度そう思った。

BACK

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


Copyright © 2024年 Menesis. All Rights Reserved. | SimClick by Catch Themes