音を立てないように、そっとドアを開ける。
光量を絞った枕元のあかりが、こんもり盛り上がった上掛けと、気配を察してパタリと振られた尻尾とを映し出した。
枕に載せられた黒髪が動かないのを見て、起こさずに済んだか、とホッとしつつ、起きてほしかったと思っている自分もいて、我ながら心というものは度しがたい、と思う。
足音を立てないようにベッドに歩み寄る。ベッドの真ん中に陣取ったマッカチンがゆっくりと頭をもたげた。
「ただいま、マッカチン」
声を潜めて、起きてくれた愛犬をねぎらう。マッカチンは足腰がだいぶ弱っていて、こうしてベッドに上がることも減っていた。今日は……もう昨日か、昨日は調子が良かったのだろう。そんな様子に思い至るとうれしさがこみ上げる。
「勇利が寂しがったのかい? 守ってくれてありがとう」
ひそひそと重ねてねぎらうと、愛犬の尻尾がうれしそうに揺れる。
さて、その勇利は……と視線を移すと、顎の下まで上掛けで覆って、健やかな寝息を立てている。身を乗り出してのぞき込むと、半開きになった口からヨダレが一筋垂れているのが仄明かりに光って見えた。
音を立てないように噴き出すというのは、なかなかの難事だ。
呼吸を整え、さて、どうしようか、と束の間考える。
ぐっすり眠ってくれているならうれしい。
こんな風に、愛するものが何の不安もなく安心しきって眠ってくれているのが、たとえ自分の成したことでなくても嬉しいと感じるのは男ならではだと思う。
嬉しいのだが、しかし。
起きてほしい気もある。
むにゃむにゃと寝ぼけ半分に「おかえりぃ」といってほしい。
目を擦りながら起き上がって、へにゃ、と笑ってほしい。
起こしてもきっと怒らないだろう。
起きてほしい。
起こしたい。
そっとベッドに乗り上げて四つん這いになり、つんつん、と頬っぺをつついた。もちん、とした感触。どうやらスキンケアをサボらなかったようだ。
なおも、つんつん、つつくと、「う~ん」と一声うなって、うるさそうに振り払われた。
ちょっと悲しくなった。
熟睡しているところを起こそうとしているのだから、こちらが悪い。わかっているが、邪険にされた気がして悲しくなったのだ。
さらに頬をつついた。なんとなく意地になっていた。
「マッカチ……やめてさ~……」
ついに目が開いた。
半開きのまぶたの奥から大きな瞳がのぞき、ゆっくりと、光がともるように焦点が合い始め、やがて、これも半開きのままの口から「あれ?」と疑問が発せられた。
「……ヴィクトル? あれ? 夢?」
「夢じゃないよ。ただいま、勇利」
「へ、……あ、おかえり……」
目を擦りながら起き上がろうとするのを、肩を押さえて寝たままにさせた。
「ヴィクトル?」
「勇利、ヨダレ」
「あう」
変な声を上げて、手で口元を拭おうとするので、ティッシュを引き抜いて手渡してやった。もごもごと「ありがと」と呟いてごしごしむやみに擦っている。
「そんな風に擦ったら、肌、荒れるよ。ティッシュって意外と固いから」
「ん」
生返事を一つしてティッシュをくしゃっと丸めたので、受け取ってゴミ箱に捨てた。
まだ覚醒しきっていないのだろう、ぼんやりと見上げてくる勇利は事後の彼を思い起こさせる。枕に散る黒髪、シーツの上に投げ出された手、弛緩した表情。
「ねえ、ヴィクトル」
「うん?」
「帰るの、明日じゃなかったっけ」
「うん。今夜中に帰れる飛行機に間に合ったから、飛び乗ってきちゃった」
「え、仕事、大丈夫なの?」
「ちゃんと終わらせてきたよ」
「そっかあ」
へら、と笑って、勇利は手を差し伸べてきた。さっきまで上掛けの中でぬくもっていた、温かな手に頬を包まれる。
「おかえり。お疲れ様、ヴィクトル。──頬っぺたが冷たいよ」
頬からじんわりと伝わる温かさに、なんだか泣きたくなる。
その気持ちのままに、ゆっくりと勇利に覆い被さった。──というより、抱きついた。マッカチンを間に挟んでいるから、斜めにしがみつくことしかできない。
勇利の手が、後頭部や背中を撫でさすってくれる。
「体も冷たい。外、ずいぶん寒いんだね」
「……もう真夜中だからね」
「じゃあ、ほら、中入って。風邪引くといけないから」
勇利が片手で上掛けを引っ張って、なんとか被せようとし始めた。けれど、思うようにいかない。当然だ、上掛けの大半はこちらの体の下にあるのだから。
「ヴィクトル、ちょっと一回離れて」
「……」
「ヴィクトル? 寝るんなら、ちゃんと布団に入って」
「うん」
生返事を返して、勇利の肩口に埋めた顔を動かし、勇利の首筋から耳元の匂いを嗅いだ。風呂上がりの清潔な匂い。あたたかな、幸せの匂いだ。
すんすんと鼻を動かして、さらに髪の匂いを嗅いでいると、勇利が「よいしょ」の声とともに上体を起こそうとした。それを、体重をかけて阻止してやる。
「もう、ヴィクトル。寝るんなら、ちゃんと寝ようよ」
「もうちょっと」
「絶対もうちょっとで済ませる気ないよね。ほら、一回離れてってば」
「やだ」
「えーいこの!」
威勢のいい声と同時に、勇利の足がベッドを蹴って、力づくで体を入れ替えようとしてきた。さすがはスケーターの脚力、一気に形勢を逆転されそうになる。しかし、こちらもスケーター。ベッドに足を踏ん張って押し返す。
真夜中に意地の張り合いだ。
どたばたやっていると、男二人に挟まれたマッカチンが、キャウン、と一声鳴いた。
二人同時にハッとしてマッカチンを見ると、愛犬はいかにも大儀そうにベッドの足下に移動して座り込み、いい加減にしなよ、とでもいいたいのか、「ワオン!」と一声吠えた。
その様子を見て、それから二人して互いの顔を見合わせて、二人同時に体の力を抜いてベッドに転がった。
「何やってんだか、って思われてるよね」
「まずい。マッカチンに愛想を尽かされちゃう」
「いい加減にしないとね。──ということで、ヴィクトル、今度こそちゃんと布団に入って」
何だか負けたような気がしたが、こんなことで勝ち負けもないか、と思って素直に上掛けをめくって潜り込んだ。
勇利は少し意外そうな顔をしていたが、すぐに気を取り直したように笑って、それから「ん」と腕を広げて見せた。
「抱っこはもういいの?」
「──」
あたたかな腕、ボディソープの匂い、少し硬めの髪の感触、──愛しい勇利。
「……よくない」
「じゃあ、どうぞ」
ごそごそと上掛けの下を移動して、勇利の腕の中に入り、さっきまでのように肩口に顔を埋めた。
勇利の手が、また頭や背中を撫でてくれる。やさしく、いたわるように。
「重くない?」
「ヴィクトルの重みは心地いいよ」
「そう。なら、よかった」
そのまましばらく勇利に抱きついていた。
我ながら、今夜の自分はどうかしている、と思った。
勇利はどう思っているだろう。呆れているだろうか。呆れているだろうな。こんな姿を見せたら幻滅されるだろうか。今更か……?
悶々と考えていたら、ふと、腕の中の体が震えて、笑いの波動が伝わってきた。
「勇利?」
「ねえ、ヴィクトル? こんな風に僕が抱っこされることはあっても、逆はないから新鮮だね」
「……そうだね」
「なんだかお兄さんになった気分」
「俺、弟?」
「たまにはいいでしょ」
「……かもね」
勇利の手が、繰り返し繰り返し、頭や背中をさすっている。こんな風に誰かに抱きしめられるのは子供の頃以来で、背骨の中心にわずかに残っていた緊張を溶かしていくようだった。
はあ……と、大きく息をついた。
このまま眠ってしまったら、さすがに重いだろうか……。
「つらかったんだね」
やさしい声が、そっと耳朶に触れる。
「お疲れ様。頑張ったんだね」
柔らかなテノールにくすぐられて、胸の底からこみ上げてきた何かがまぶたの縁を熱くした。だが、さすがにこれ以上の醜態は見せられないと思って、必死に堪えた。
それにしても。
「……聞かないの?」
「聞かないよ」
「どうして?」
「話したいなら聞くよ」
つらかったとも、疲れたともいっていない。それでも甘やかしてくれる勇利には、何もかも見透かされている気がした。
「いいたくない……かな。記憶に定着させたくない」
「じゃあ、聞かない」
「ありがとう」
「いえいえ」
勇利の手が、頭に、うなじに、肩に、背に触れて、やさしく剥がしていくようだった。色々な、積もり積もった負の感情を。
「このまま寝たら重い?」
「ん~……苦しくなったら抜け出るから、いいよ」
「やっぱり重いの?」
「心地いいってば。でも、眠ると沈み込みそうじゃん? だから、苦しくなるかもな、って」
「苦しめるのは本意じゃない……」
「かも、っていってるでしょ。おとなしくしてて」
ぽんぽん、と後頭部をあやすように叩かれて、涙がこぼれそうになった。
「それにねえ、こんな風に弱ってるヴィクトルを慰めることができるのは、僕だけの特権なんだから」
「……弱ってるかな」
「それか、八つ当たりしたいか」
「八つ当たり抱っこか」
「抱っこで済ませてくれてありがとう」
くすくす笑う胸の震えが伝わってきて心地よかった。つられるように、ふっ、と噴き出すと、勇利が「やっと笑った」とうれしそうな声でいった。
「笑ってなかった?」
「なかったよ。めずらしく、顔が死んでる感じだった」
「ひどいな」
「僕は見たままをいっただけだよ」
「……生き返らせてくれてありがとう」
「復活の杖と呼んで」
「何、それ」
「ゲームに出てくるの。有名なんだよ?」
「知らないなあ」
くすくす、くすくすと、互いに笑いは止むことなく、互いの肌を震わせる。体の中の虚ろが余すところなく満たされていく。指先にまで幸せが染み渡って、弾け出すような気さえした。
「このまま寝ていい?」
「いいよ。僕もこのまま抱っこしていたいから」
「ありがとう」
「どういたしまして」
それから、あたたかな沈黙に包まれて、勇利の肌に沈み込んで眠りについた。重いだろうな、申し訳ないな、と思ったが、この幸せを手放したくないという気持ちに勝てなかった。
弱っていると勇利はいう。
こともなげに、慰めるのが特権だという。
弱っている姿など見せたくないと、ずっと思ってきたけれど、勇利にだけは見せてもいいのかもな、と眠りに落ちる間際に思った。