「勇利、一息入れよう。コーヒーがいい? 紅茶がいい?」
「んー……コーヒーの気分です」
「OK.」
ヴィクトルはウィンクを一つ残してキッチンに向かった。その背を見送って、勇利はパソコンの画面をオフにする。どうにも断り切れずにエッセイの執筆を引き受けたのだが、勇利の日常なんてスケートとヴィクトルと、後は寝て起きて食べるだけのつまらないものだ。
大体エッセイなんて僕の柄じゃないんだよ……と口の中でぶつぶついいながら、気分を変えようと立ち上がった。
キッチンに向かうと、ガリガリとハンドミルでコーヒー豆を挽く音が聞こえてくる。
ヴィクトルはこうしたことの手間を惜しまない。手間そのものを楽しんでいるかのようにさえ見える。
勇利は、面倒だからインスタントやティーバッグで済ませても構わないタチだ。というか、自分一人ならそうする。わざわざハンドドリップで淹れなければ気が済まないほど肥えた舌でもないし、実のところ違いがわかるわけでもない。
キッチンの入口からのぞき込むと、音が止んだ。挽き終わったようだ。
「ヴィクトル、何か手伝うことある?」
「うん、そこのカウンターに置いてあるクッキーを箱から出しておいて。マッカチンに食べられないように見張っててね」
「はーい」
食器棚から手頃な皿を出して、クッキーの箱と一緒に持ってリビングへ。テーブルの上に箱と皿を置くと、マッカチンが隅に敷いたラグの上から起き上がって、ゆっくり近づいてきた。
「ノー、マッカチン。これはあげられないよ」
眉間にシワを寄せて、精一杯怖い顔を作っていうと、愛犬は「つまんなーい」とでもいうように鼻を鳴らして、またゆっくりとラグに戻っていった。
小ぶりな皿にクッキーを数枚ずつ載せてソファに腰を下ろした。
インスタントなら、もうとっくに飲んでる頃なのにな。
まだるっこしい、と思ってしまう。自分には生活を楽しむ才能が欠けてるのかなあ、などとぼんやり思う。
ぼーっと皿の上のクッキーを見つめているところに、「お待たせー」と声がかかった。
両手にマグを持ったヴィクトルがニコニコしながらやってきた。
手渡されたマグを「ありがとう」と受け取り、ヴィクトルが隣に腰を下ろすのを待って口に運ぶ。
ほどよい熱さのコーヒーが喉を滑り落ち、同時に香気が鼻から抜けていく。
「……おいしいね」
インスタントとの違いを述べよといわれたら白旗を掲げるしかないけれど、おいしいと感じたことは間違いないのだから、素直にそう言葉にした。おいしいものは、おいしい。まずいものは、まずい。それでいいじゃないか。
ヴィクトルは「そう? よかった」と微笑んだ。
「何ていう豆なの?」
「これはね、マンデリンだよ」
「時々、酸っぱい感じのコーヒー、あるよね」
「うん。俺、あんまり酸味の感じられるコーヒーは好きじゃないから、好んで買うことはないけど、勇利が飲みたいなら」
「ううん、特には。ただ、味の違うコーヒーがあるよね、っていいたかっただけ」
「そうだね。飲み比べて銘柄を当てられるほどの舌は持ってないけど、なんとなく好みの味とかはあるよね」
「これは結構好きだよ。マンデリンね」
「そう、よかった」
ヴィクトル宅のキッチンに、勇利用のインスタントコーヒーを置くに当たっては、二人にしては険悪なムードで話し合った。
わざわざ味の落ちるものを飲む意味がわからない、面倒なら、お茶関係は全て自分が用意するというヴィクトルと、あなたに面倒をかけるつもりはないし、食べたり飲んだりする物に手間をかける趣味はないのでインスタントを置かせてほしいという勇利と。
互いに、どうにかして相手の言い分を理解しようと努めたのだが、隔たりが大きすぎて話合いは物別れに終わった。最終的に勇利は(ちょっと面倒くさくなったので)家主の了承を得ずにインスタントコーヒーや紅茶のティーバッグをキッチンの棚に置くことにしたのだった。なしくずしに既成事実化してしまうのが手っ取り早いと、こんなところだけは竹を割ったような性格なのである。
一方のヴィクトルは、自分の趣味ではなく、調度とも不釣り合いな物品をいきなり置かれたことで、当初激しい違和感を味わうことになったが、これもまた同棲の一側面かと自分を納得させて、黙認という形を取っている。
こんなことに目くじらを立てるのも狭量に過ぎるだろうという思いもあった。
自分と一緒にいるときに本物や良い物を食べたり飲んだりさせることで、いつか勇利がインスタントから卒業してくれれば……という、ささやかな野望も胸に秘めている。
ヴィクトルはコーヒーや紅茶を淹れる手間を面倒くさいと思ったことがない。
ハンドミルで豆を挽いているときは、豆が臼にゆっくりと落ちていくのを見ているのも楽しいし、時々跳ねて飛び出す豆には「元気だなあ」とほほえましくなる。挽いた粉に最初のお湯を落とすと、粉はムクムク膨れ上がる。それを見ると、新鮮ないい豆を手に入れることができて良かったとうれしくなる。ドリップの滴が落ちていくのを見ていると、今日はおいしく淹れられたかなと、少しの不安と期待とでワクワクする。
手順の一つ一つが好きだし、その結果おいしいものも飲めるし、そんな調子だから、勇利の主張する面倒さはどうしても実感を伴わないのだ。
勇利だっておいしいものは好きだし、別に自分を苦しめたくてインスタントを選択しているわけではない。苦しむどころか、飲みたいな、と思ったときに、すぐに飲める、しかも、いつでも同じ味、自分なりに満足できる味が価格という形で保証されているから、今日の出来はどうだろう? なんてドキドキしなくていい……などなど、インスタントの利点を数々考えて選択しているのだ。
大体、インスタントを偽物扱いするって失礼じゃないか? あれはあれで立派な本物じゃないの?温泉業で忙しい家族は、インスタントも上手に日々の生活に取り入れていた。長谷津ではきっと今もそうしている。そんな家族の日常さえ偽物と否定されるような気がして傷つくのだ。(ヴィクトルは偽物なんて言葉は遣わないけど)
二人の考えの隔たりは事ほどさように大きい。
そんなわけで、ヴィクトルの在宅時には彼がコーヒーや紅茶の支度をすることが暗黙のルールになった。
二人ともいい大人だし、ことあるごとに波風を立てたいわけではないから、自然な成り行きといえた。勇利も、別に必ずインスタントを飲ませろなんてこれっぽっちも思ってないし、むしろ、おいしいものを、あの! ヴィクトル・ニキフォロフが! 手ずから用意してくれるなんて! そりゃもうありがたくてありがたくて不満なんていったら罰が当たると思っている。
今日もまた、胸の中で手を合わせながらコーヒーを飲む勇利である。
「同居してよかったなあ」
思わず本音がポロリと口をついて出た。
「うん?」
勇利はちょっと慌てて言葉をつないだ。
「ヴィクトルにコーヒー淹れてもらえるなんて」
「そう?」
「もちろん、それだけじゃないよ。時間が合えばいつでもスケートについて話し合えるし、ヴィクトルのスケートを形作っているものに日常から触れることができる。世界最高のフィギュアスケーターとこんな間近で接することができるんだから、ほんとに恵まれてるよ」
「ははは、そんな風にいってもらえてよかったよ」
お互いにニッコリ笑い合って。恵まれてるなあ、と勇利は改めて思う。
「勇利が同棲生活を楽しんでくれてるようでよかったよ。勇利は鉄砲玉みたいなところがあるから、不満があったら何もいわずに突然出て行かれるんじゃないかって心配だったから」
あれ? ヴィクトル、今、同棲っていわなかった? まあ、言い間違いだろう。
「何もいわずに出て行くなんてことはしないよ。書き置きぐらい残します」
「冗談でもやめて」
ヴィクトルは苦笑し、勇利は笑った。
「でも、ほんと、長谷津で一緒に暮らせたからそんなに心配はしてなかったけどさ、生活のリズムとかルールとか? あんまり違いみたいなものがなくてよかったなあって思うよ」
「そうだね。細かな不満の積み重ねで同棲が破局するとか、よくある話らしいからね」
あ、また同棲っていった。ロシアじゃ、ただの同居のことも同棲っていうのかな。
「この先、大ゲンカして同居が破綻するなんてこと、あるのかなあ」
勇利は心持ち、「同居」を意識して発音してみた。
「無いように心がけたいね。同棲してみてわかったけど、勇利は公私ともにベスト・パートナーだと思ってるからね」
同棲よりも破壊力のある言葉が出てきて勇利は慌てた。
「パートナーって……言い過ぎだよ」
「言い過ぎなもんか。──そうだ! 今度、パーティーがあるんだけど、同伴者が必要なんだ。勇利が一緒に出てよ」
「ええ!? 僕、そんな晴れやかなところで、ヴィクトルの隣に立つ勇気、ないよ!」
思わずたじろぐ勇利に、ヴィクトルは手にしていたマグを置いて改めて向き直ると、勇利の左手を取って(右手はマグを持っていたので)両手で握った。
「勇利、お願い。俺を助けると思って」
ヴィクトルの顔が間近にある。きれいな碧い瞳が切なげな色をたたえて、ひたと勇利に据えられている。
ドキン、と心臓が跳ねた。勇利の右手のマグの中で、コーヒーも跳ねた。
うろたえながら、勇利は何とか反論しようと口を開いた。
「で、でも、僕、パーティーなんてバンケットぐらいしか知らないし、マナーとか、第一、どんな格好すればいいのか」
「それは大丈夫! 俺が傍で教えてあげるから。服装も、俺が見立ててあげるよ!」
ヴィクトルは、今度は一転してうっとりした瞳で勇利を見つめた。
「スリーピース・スーツを誂えよう。ほんとはフルオーダーにしたいところだけど、間に合わないからセミオーダーだね。でも、ちゃんとフルオーダーのスーツも作ってあげるから心配しないで。控えめな光沢のある生地で、色は、そうだな……深い紺色がいい。アスコットタイを合わせて、ポケットチーフはその分控えめに。試合の時みたいにオールバックにすれば、みんなきっと、うっとりするよ」
「い、いやー……それはどうかな……」
たとえヴィクトルの見立てだとしても、自分がそんな、衆人を魅了するほどの変身などできるわけがないではないか。
ほとんど一息でバラ色の予想図を述べるヴィクトルに、勇利が顔を引きつらせながらいう。それなのに、ヴィクトルは一歩も引かない。
「大丈夫、まかせて! ね、だから、勇利お願い! いいよね!?」
「ええー……でも……」
なお渋る勇利にヴィクトルはぐっと顔を近づけた。
「勇利は見たくないの? パーティースタイルの俺を。ビシッとキメた俺にエスコートされたくないの?」
「え、え……それは」
見たいし、ヴィクトルにエスコートなんてされたら、それはもう天にも昇る心地だろう。
「勇利、お願い」
ささやくように懇願されて。
「う……わ、かりま……した」
「やった! ありがとう勇利!」
不承不承、勇利が返事をすると、満面の笑みでヴィクトルが抱きついてきた。勇利はコーヒーがこぼれないように、慌ててバランスを取った。(というか、まだ持ってるのもどうかと思う)
ハグだけでなく頬ずりまでされて、勇利の心拍数がドンドコ上がる。顔面が熱い。これはきっと真っ赤になっている。
「ヴィ、ヴィクトル、離れて、コーヒーがこぼれちゃう」
「おっと」
離れ際に頬にチュッとキスまでされて、勇利の心臓は今やドラムの乱れ打ちだ。
「約束だよ、勇利。埋め合わせは必ずするから」
「う、うん──ぼ、僕、そろそろ仕事に戻るよ。コーヒーありがとう」
右手にマグを持ったまま立ち上がり、ドキドキとうるさい鼓動の音がヴィクトルに聞こえませんようにと祈りながら、勇利はそそくさとリビングを後にした。ヴィクトルの発した同棲というワードのことなんか、きれいさっぱり頭から抜け落ちていた。
その背中を見送ってから、ヴィクトルは食べ損ねたクッキーを元通り箱に戻した。それからマグと皿を持ってキッチンに行き、洗って水切りに伏せて置いた。
鼻歌が漏れる。
ヴィクトルの見立ての下、勇利はすばらしく美しく装うだろう。きちんと体に合った立体裁断のスーツや、全身を引き締め、ときにアクセントにもなる上等の靴、メガネを外させオールバックにすれば、けぶるような瞳は周囲を魅了するに違いない。
「ああ、楽しみだなあ」
ヴィクトルと勇利、二人の周りに人々が集まって褒めそやす光景が目に浮かぶ。
当然、その中には勇利に対してよからぬ思惑を持って近づいて来るものもいるだろう。
そうしたら、勇利の肩を抱いていってやろう。「やあ、俺のパートナーは素敵だろう?」と。
ヴィクトルの描く勇利との未来予想図はバラ色だ。ほかの色など許さないし、どんな横槍が入ったとしても覆すだけの力も気概もあるつもりだ。
「そうだ。俺、勇利の指輪のサイズ、結局知らないままなんだよな」
バルセロナでは、なぜかヴィクトルの指のサイズを知っていた勇利があっという間に購入手続きをしてしまったので、ヴィクトルは口を挟む隙もなかったのだ。
「なんで俺の指のサイズ知ってたのかな……」
いくら憧れていたからって、そんなことまで知ってるなんて、勇利の愛はなんて深いのだろう。婚約指輪を贈ってもらったのだから、結婚指輪はこちらから贈ってしかるべきだよね。
そうだ、パーティーを早々に抜け出して、ちょっとお洒落なレストランで食事というのはどうだろう? その席で結婚指輪を差し出したら、勇利はどんな顔をするかな。サプライズを受け入れてくれればいいけど。
今度、勇利が寝てる間に指のサイズを測ってみよう……と、ヴィクトルはウキウキしながら二人で眠るベッドを、その中ですやすや眠る勇利を思い浮かべ、一層笑みを深くした。
当然、寄ってくるハエも多くなるだろうが、そんなものには指一本触れさせない。
聞かれれば堂々とパートナーだと答えるつもりだ。
それを聞いたら勇利は慌てるだろうが……俺は絶対に言を翻したりしない。
「早く名実ともにパートナーになろうね……勇利」
独りごちてから漏らした笑みは、きっと悪魔のような微笑だろうなとヴィクトルは思った。