「ねえ、ヴィクトル。暑いってわかってるんだからさ、無理して夏の長谷津に行くことないんじゃないの?」
勇利が至極当然の意見を口にすると、ヴィクトルはぷくっと頬をふくらませた。
実はこの拗ねた顔が、勇利はことのほか好きだったりする。本人には秘密だが。
「ヴィクトル、去年の夏、長谷津で息も絶え絶えだったじゃないか。バカンスの後はロシアに戻った方がいいと思うんだけど」
「それで? 勇利だけハセツに帰るっていうんだろう?」
「え? うん」
何を当然のことを。自分の実家なのだ、休暇に帰省したって文句あるまい。
「俺を置いて? 一人で?」
「だって僕の実家だし」
「俺には関係ないっていうの!?」
「そこまではいわないけど……体調のこととかスケジュールのことを考えたら、ヴィクトルはロシアに直行して休養した方が……」
ぱんっ! とキレのいい音を立てて、ヴィクトルは両手のひらを自らの太腿に叩きつけた。
「話にならない。今頃勇利は何してるかな、会いたいなって思いながら過ごす休暇のどこが休養になるっていうんだ」
「ええ? スマホもネットもあるじゃん」
「時差があるだろ」
「大会で日本とロシアに別れたときだってコミュニケーション取れてたんだし」
「そう、大会ならね。でも休養とは違うから。やきもきしながら過ごしたって心も体も安まらないよ」
勇利はそっとため息をついた。まったく、言い出したら聞かないからなあ、ヴィクトルは。
「一昨年まではどうしてたのさ。一人だって、それなりに楽しく過ごしてたんだろ?」
「それは勇利と出会う前の話だろう!?」
「だから、僕と出会う前の頃を思い出して……」
「ナンセンス! 時計の針を戻して過去に旅しろといってるようなものだ。そんな無茶な話があるかい? もう勇利と出会ってしまったんだ。今さら出会う前の俺になんか戻れない」
思わず勇利は肩をすくめた。日本人の自分がやっても似合わないだろうなと思ったが、あえて気づかないふりをした。
「もう。何でそんなに一緒に行きたがるのさ」
「勇利こそ。何でそんなに一人で帰ろうとする?」
だって僕の実家だし……といいかけて、勇利は口を閉じた。これじゃ話が堂々巡りするだけだ。
「とにかく! 僕は、ヴィクトルにはゆっくり身体を休めてほしいの。ただでさえ選手とコーチの両立で大変なのに、ほかの仕事まで抱えてるんだから、長谷津には行かずにロシアで静かに……」
「だから! 俺一人ロシアに戻ったって休養になんかならないよ! 勇利と一緒にハセツに行く! もう決めたから!」
おしまい、とでもいうつもりか、ヴィクトルは目をぎゅっと閉じ、口をへの字に閉ざし、耳までふさいでそっぽを向いた。
それ、いつまで続けるんだろう、僕が部屋に戻っても続けてる気かな、と思いながら勇利は肩を落とした。
地球温暖化をダイレクトに感じる季節、夏。
空は青く、湧き上がる雲は白く、突き刺さるような日差しは強烈に肌を焼く。
目を見開けないほどの日差しに顔をしかめながら、勇利はリュックの肩紐の位置を直した。
ポケットからスマホを出して画面に目を落とす。日差しが強烈すぎて見づらいことこの上ない。
アプリで気温を見れば、午前中だというのに30℃を超えている。
「……見たくなかった」
知らなければまだ耐えられたような気がする。が、ともかくあの言葉だけはいわないようにしようと勇利は決意した。体感温度を自ら上げてしまう気がしたのだ。
「あー、帰ってきたー! やっぱりハセツは暑いねー!」
決意した傍からヴィクトルにいわれてしまって、気温が2~3℃上がったような気がした。
「もう、いわないようにしてたのに」
「ん? 何をだい?」
「暑い、って」
「どうして?」
「暑さを実感させられて、よけいに暑く感じるから」
「それ、言葉一つで変わるものかい?」
「普段はヴィクトルの方がこういうことに敏感じゃないか。デリカシーがないとか散々いってくれるくせに」
勇利が苦情をいうと、ヴィクトルは、ははは、と青空に抜けていくような声で笑った。
「めずらしく情感過多な気分だったんだね。ごめんごめん。お詫びに、何か一ついうこと聞いてあげる」
「え、それ、今すぐじゃなくてもいい?」
ヴィクトルがお願いを聞いてくれるなんて、またとないチャンスだ。じっくり考えて後悔のないお願いをしたい。
俄然、目をキラキラさせ始めた勇利に、ヴィクトルはまぶしいものを見るようにサングラスの奥の目を細めて、「いいよ」と微笑んだ。
「今のはお願いにカウントしないであげるから」
「え? あ、そうか。あはは、ありがと」
勇利は照れ笑いしながら額に噴き出した汗を拭った。
「ヴィクトル、早くタクシー乗ろう? こんな炎天下で立ち話なんて自殺行為だよ。……今のも入らないよね?」
伺うようにヴィクトルを見ると、その様子がおかしかったのか、また笑い声が青空に響いた。
家の方の玄関から入ろうと勇利は主張したのだが、ヴィクトルがどうしても表の玄関から入りたいと言い張って、ゆ~とぴあかつきの引き戸を開けた。
壁の掲示物や棚の上の展示物が多少変わっているだけで、何も変わらない光景が広がる。
「タダイマー!」
ヴィクトルが声を張り上げた。廊下を行き交う人やお土産コーナーを覗く人が一斉にこちらを振り向く。
「勇利、ヴィっちゃん、おかえりー!」
母の寛子が宴会場から飛び出してくるとともに、ヴィクトルとも顔なじみだった常連客たちからも声が上がった。中には、わざわざ宴会場から出てこちらに向かってくる人もいる。
なんだか歓迎会のようなムードの輪から、勇利はなんとなく一歩退いてその光景を眺めていた。
夜もまた宴会場の真ん中に引っ張り出され、ヴィクトルを中心に華やかな宴席となった。勇利はヴィクトルの隣に座り(座らされ)、時折投げかけられる質問に「はい、ヴィクトルのおかげで」「ええ、皆さん、よくしてくれて」「スケートをするにはすばらしい環境で」と壊れた機械のように繰り返した。
なんだか透明な泡に包まれて、すぐ隣の喧噪からも隔てられているような気がした。
セーブしている意識はなかったが、飲んでもあまり酔えない。後から後から注がれる酒を飲み干していながら意識のどこかが冷めている。
それでも多少は酔っているのか、ふわふわする足で、気持ちよく酔っ払ったヴィクトルを支えながら母屋に戻った。
階段の両側の壁に左右に揺れる身体をぶつけながら上り、ヴィクトルの部屋の障子を開けた。
「ほら、ヴィクトル。あとは一人で大丈夫だろ? じゃあ、おやすみ」
「一緒に寝ようよ」
「何いってんの」
「俺の部屋、エアコン入れてもらったから涼しいよ」
「僕は慣れてるから。じゃあね」
「勇利、冷たい」
「どうせシオタイオウですよ」
これ以上は有無をいわせず勇利は背中を向けた。駆け込むように自室に入る。ドアを背にして、ふう、と息をついた。
月はすでに没しようとしていて、部屋の中は真闇に近い。
それでも勝手知ったる自分の部屋だ。遠く街灯の明りも届いている。勇利はベッドに腰を下ろし、また息をついた。
「なんか……きついねぇ(疲れたなあ)」
長谷津弁で呟いて、ベッドにごろりと転がる。開けておいた窓からはわずかばかりの風が入り込んでくるが、心地よいと感じるにはあまりに頼りなかった。
まずいなあ、と思う。
気持ちが下降し続けている。
浮上させられるようなことを思い描こうとして様々に思考を巡らせてみるけれど、何を思っても打ち消す思考が湧き出てきて、こんなとき、自分はつくづくマイナス思考だと痛感させられる。
「ヴィクトルとは大違いばい……」
彼がマイナス思考に陥って落ち込む姿などとても想像できない。人間だから一時的に気分が沈むことはあるだろうが、彼ならすぐに気持ちを切り替えられるだろう。
本当に大違いだ。
彼との差は広がるばかりに感じる。彼に勝ちたいのに。競い合い、肩を並べて高め合っていきたいのに、どんなにあがいても差が縮まらない。
「こがんもんで……5連覇なんてしきるんやろうか」
ヴィクトルとの約束。大切な大切なそれは、いつも胸の中で光り輝いているのに。
「だめだ。ちかっと外ん空気ば吸うてこよう」
このままでは果てしなく落ち込んでしまう。ちょうどあの年の、グランプリファイナルの頃のように。
足の向くまま歩いて、気づけば海岸まできてしまっていた。
月のない海は黒々と広がり、波頭だけがわずかに白っぽく見える。
打ち寄せる波音と潮風はささくれだった心を少しだけ慰めてくれた。
手頃な流木を見つけて腰を下ろす。
頭の中には長谷津に着いてからの一連がムービーのように再生されている。
常に人の輪の中心にいる華やかなヴィクトル。
そこから弾き出される自分。
現実は決してそんなことはなく、ヴィクトルは常に勇利に気を配り、勇利を自らの隣に置いて共に輪の中心にいさせようと努めてくれた。
それが逆につらい。
恩知らずな考えだと思う。重々わかっている。
でも、……本音をいえば……放っておいてほしかったのだ。
「ほんなこつ、ひどか……」
自分はなんてひどい人間だろう。あんなによくしてくれるヴィクトルに、放っておいてほしいと思うだなんて。
でも、彼我の差を突きつけられるのはつらいのだ。
とはいえ、この先もヴィクトルと共に歩むなら格差を認識させられるのは避けて通れないのだから、勇利こそが変わらなければならなかった。
「落ち込んどー場合じゃなか」
自分とヴィクトルとの間に絶対的な差があるなんて当たり前のことなんだから、この先、こんなことで一々落ち込んでいられない。
「もっとメンタルば鍛えんば」
鋼メンタルまでは無理でも、鉄……いや銅ぐらいの硬さなら、何とか鍛えられるのではないだろうか。それが無理でも、せめて木材の堅さぐらいまでには何とか。
こんなことでぐらついていながらヴィクトルに勝とうなどおこがましいにもほどがある。
強くなるんだ。きっとヴィクトルに勝つために。
「よぉーし!」
勇利は立ち上がった。砂を踏みしめ、波打ち際まで歩み、大きく息を吸い込む。柄でもないが、景気づけだ。自分を鼓舞する方法はいくつあってもいい。
思い切り叫んだ。
「ヴィクトール! おいが勝つけん! 5連覇してみすっけん! 見とけよー!」
「なーにー?」
ガチン、と勇利の身体が固まった。
サク、サク、と砂を踏みしめる音が背中から近づいてくる。
ギギギ、と軋み音がしそうなほど動きの鈍った首を横に回すと、やっぱりそこにいるのはヴィクトル以外にあり得ないのだった。
「俺の名前、呼んでたよねえ? でも、その後は日本語だったし、波の音でよくわかんなかった。何ていったの?」
「ヴィ……クトル何でここにいるの」
「質問したのは俺だよ」
「つけてきたの!?」
「違うよー。いつまで経っても勇利が戻ってこないから探しに出たらビンゴだったの」
「何で……いい大人だし、ここ長谷津だし、出歩いたっておかしくないだろ」
「心配だったんだもん。変かい?」
変ではないが。ないが、しかし。ああ、何かこう言い返したいが上手い切り返しが思いつかない。
「で、何ていってたの? 俺への愛の告白?」
「違います」
そこだけは言下に否定。却下の勢い。シャットダウン。
先ほどのあまりの驚きにズレてしまったメガネを直し、きちんとヴィクトルを見れば、なんと館内着のまま。
「ヴィクトル、なんて格好してるの」
「うん? 何か変?」
「それは外出用じゃないよ」
「裸じゃないし、夜中だし、誰かに会ったって気にしないさ」
そういわれればそうかと思う。
でも、いつもお洒落なヴィクトルがめずらしいな。ロシアでは、外に出るときはそれなりにこざっぱりした格好をするのに。
長谷津では気が抜けちゃうのかな。まあ、こんな田舎だし、気が休まってかえっていいのかも。
「それで、さっきは何ていってたの?」
「まだそれ聞く? どうでもいいじゃん」
「よくない。俺の知らないところでまた終わりにしようなんて考えてたら困る」
まだバルセロナでのことを引きずってるのか、と勇利はちょっとうんざりした。
「それなら心配ないよ。これから頑張るぞーって決意表明してたんだから」
「夜の海に向かって?」
「たまにはいいだろ。僕がそういうことしたって」
「俺にいってくれればいいじゃないか」
「僕一人だって思ってたんだから仕方ないだろ? ついてきてるなんて思わないもん」
「で、正確には何ていってたの?」
「もういいだろ」
「よくない」
「えー……」
ヴィクトルはいいだしたら退かないところがある。彼は勇利を頑固者だというが、そういうヴィクトルだって頑固だと思う。
さて、どうしよう。どうやらはぐらかされてはくれないらしい。
かといって、さっき叫んだ言葉を繰り返したくはないし、叫ぶに至った経緯を説明するのもごめんだ。
どうしようどうしよう。
その瞬間、勇利に神の啓示が下った。
いや、いささか大げさな表現だったが、とにかく勇利はひらめいた。
「ヴィ、ヴィクトル、昼間の約束、覚えてる?」
「昼間の約束?」
「あ、忘れた? 何でも一ついうこと聞いてくれるってやつ」
「ああ……そんなこといったね」
「今、お願い聞いて! 僕がなんて叫んだか聞かないで!」
ヴィクトルは黙り込んだ。唖然としているのかもしれないし、怒ったのかもしれない。暗くて表情がよく見えないから、黙り込まれると何を考えているのかわからない。
ドキドキしながら反応を待っていると、ハハハ、と声が上がった。笑い声だ。でも、気のせいか、ちょっとやけくそのような響きが混じっている気がした。
「ヴィクトル?」
「仕方ないな。約束したからね。いいよ、お願い聞いてあげる」
「ありがとう!」
「それにしても、一人で夜の海なんて危ないだろ。何かあったらどうする気なの」
ヴィクトルが一転して厳しい顔になった。……と、声から判断した。
「大丈夫だよ、慣れた道だし、海に入るわけじゃないし」
「そうやって油断してるときが一番危ないんだ」
ヴィクトルの手が伸びて勇利の肩を掴んだ。手のひらの熱さが衣服ごしに伝わってくる。
「約束して。夜の海に行きたくなったら俺にいうこと。一緒に行くから」
ヴィクトル、飲みに出かけて夜はいないことが多いだろ……と、いおうと思ったが、いい加減、面倒になったので「はーい」と適当に返事をした。
「面倒くさくなっただろ」
「そ、そんなことないよ。ちゃんとわかりました。夜の海には一人で来ません」
「約束だよ」
「はーい」
返事をしてもヴィクトルの手は勇利の肩から離れない。そんなに信用ないのかな。夜の海になんか入ったりしないのに。
と、ヴィクトルの手が勇利の腕をゆっくりと滑り降りていく。
「な、何してるの」
「ん? 暗くて見えないから」
ヴィクトルの手は腕から滑り降りて、勇利の手をぎゅっと握った。
「捕まえた」
「え?」
「夜の一人歩きは危ないから」
そういってヴィクトルが笑った気配がした。
「ここ、ロシアじゃなくて長谷津だってば」
「どこであろうと、だよ」
「はあ」
ヴィクトルって意外と過保護だよなあ。まあ、それで安心するなら、いいか。
「えっと……僕そろそろ帰ろうと思うけど、ヴィクトルはどうする?」
「帰るに決まってるだろ。勇利を探しに来たのに一人で残ってどうするの」
「愚問でした。えー……じゃあ、帰ります」
勇利がそういってもヴィクトルの手は離れない。離れないどころか、勇利の手を引いて歩き始めた。
「ヴィ、ヴィクトル」
「帰るんだろう?」
「そうだけど……」
まさか家までこのまま手をつないで帰るのだろうか。いい年をした男二人が手をつないでるなんて、ご近所さんに見られたら……。
見られるわけないか、こんな夜中に。
ヴィクトルから半歩遅れて歩きながら、空いた手でズボンの尻ポケットからスマホを取り出す。時刻表示を見れば、もう4時近い。
えっ、4時?
そんなに長く海にいたつもりはなかったのだが、思いのほか時間が経っていたらしい。
これじゃ心配されても仕方ないか。
それなら……手をつなぐことでヴィクトルが安心するというなら、我慢ぐらいしないとダメだろうな。
潮風に背中を押されながらヴィクトルと歩く。
乾いて温かな、大きな手が勇利の手を握っている。
こんな風に誰かと手をつなぐなんて、いつぶりだろう。
街灯の下に出ても、やっぱりヴィクトルの手は離れなかった。