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前奏 ~未来に花を 手に愛を~⑥

「おーっ! よう来た、よう来た。元気にしとったか? イリヤ君、おじいちゃんばい」
「勇利、イッちゃん、お帰り。疲れたじゃろ? 早う上がりんしゃい」
長谷津に着いたのは、いつもなら偉利耶がうとうとし出す時刻だった。勇利の姉の真利に福岡空港まで車で迎えにきてもらったので、偉利耶がぐずっても眠っても周囲を気にせずに済んだのがありがたかった。その真利は、空港駐車場で人目が遮断されるなり偉利耶に伯母だと自己紹介し、勇利には「アンタの執念の塊が服着て歩いてる」と偉利耶を評してみせた。ぐうの音も出ない勇利は苦笑いするしかなく、九州の地を踏んで早々に白旗を掲げたのだった。
空港から家までの車中で一眠りした偉利耶は元気いっぱいで、ぐずる様子もない。
「ほら、偉利耶。こんにちは、は?」
「こーちわ。……じーじ。……ばーば」
父を指さしながら「じーじ」、母を指さしながら「ばーば」と偉利耶は間違わず呼んでみせた。
東京のアパートで、スマホの画面に両親の画像をできる限り拡大して、これがじーじ、これがばーばと教えてみせたのだ。毎月のように会っている母はともかく、我が子ながら父のこともしっかり覚えているとは、と勇利は喜びを抑えられなかった。
「おおっ、イリヤ君は賢いなあ。そうばい、じーじばい。大きゅうなったねえ。ますますヴィっちゃんにそっくりばい」
「さぁさ、上がって足ば伸ばしんしゃい。お茶でも煎るっからね。イリヤ君はジュースでよか?」
「あい!」
些細なことだが、ほとんど初対面の父とも真利とも人見知りせずニコニコしている息子が誇らしい。こんなところはきっと彼譲りなのだろう。彼に似てよかった、とつくづく思う。
居間に落ち着いて足を伸ばす。幼児を連れての旅は気苦労が絶えず、さすがに疲れた。飛行機の中で泣き出さずにいてくれただけでも息子に感謝したい気持ちでいっぱいだ。
「さぁさ、一服せんね。イリヤ君、ジュース、どうぞ」
「偉利耶、いただきます、は?」
「いたぁきましゅ」
「はい、よくできました。勇利、アンタたちご飯は?」
「飛行機に乗る前に食べたけん大丈夫。偉利耶ももう寝っ時間やし。偉利耶、ジュース飲んだら、ねんねするよ」
「やー」
「やー、じゃないの」
「はっはっは、いっぱしん親んごたっ口聞いとーわ」
「一応、親やけんね。偉利耶、気をつけないとこぼすよ。しっかり持って」
寝るのは嫌だといいながら、偉利耶の目蓋が落ちてきている。思えば長距離の移動は初めてだ。初めての電車にも飛行機にも興奮していたので、相当疲れているはずだ。勇利はジュースのコップを偉利耶の手の中からそっと引き抜いた。この分だと歯磨きの最中に寝てしまうだろう。
「お父さん、お母さん。偉利耶、寝かせてくっばい。話はまた後で」
偉利耶を抱っこし、両親に向かってバイバイと手を振らせる。二階の自室で寝仕度をさせ、ベッドに寝かせた。偉利耶には初めてのベッドだ。明日、目を覚ましたら、きっと飛び跳ねて遊ぶだろう。落ちないように気をつけてやらなければ。
窓外の桜は葉の陰影だけを偉利耶の寝顔に投げかける。見慣れた桜の枝振りも、月明かりも、部屋の中も何も変わらない。変わったのは自分だ。こんなにも変わってしまった。
ずいぶんと遠いところに来てしまった気がした。


温泉の営業を終了し、諸々の片付けなどを終えれば、家族が居間に集うのは日付が変わる頃になる。
勇利も湯を使い、久々の実家の温泉を堪能した。足を伸ばせる風呂は久々だ。身体のあちこちにたまった疲労が残らず湯の中に溶け出していく気がした。
家族が落ち着く頃を見計らって勇利も居間に入り、父の斜め向かいに腰を下ろす。ほうう、と深いため息が出て、ここまで自分も相当気を張っていたのだと気がついた。
「イリヤ君は大丈夫か」
「うん。今、ちょっと覗いてきたけどぐっすりやった。多分、朝まで目ば覚まさんて思う」
「まあ、ようここまで育てたけんだ。大変やったろう。ゆっくり休むとよか」
「うん、うちん温泉も久しぶりだけん嬉しかったばい。偉利耶も、大きか風呂は初めてだけん喜ぶて思う」
「イリヤ君なあ、ますますヴィっちゃんにそっくりになったねぇ」
それには応えず、母の煎れてくれたお茶に手を伸ばした。一口含む。旨い。考えてみれば、誰かの煎れてくれたお茶も久しぶりなのだった。
「勇利、こん先どうすっ気なんや? こん先もずっと一人でイリヤ君ば育てていくんか?」
そのつもりだと呟くと、父はそうかと頷いたが、「ばってん」と母が割って入った。
「あれだけ日本人離れした子ば育てていくんな大変じゃろう。こん先はますます。いずれヴィっちゃんの耳にも入るて思うし」
「そうばい。あがん似とーもんなあ」
父はこちらにもうんうんと頷いている。どっちの味方なんだと、ちょっと苛ついた。
「なあ、勇利。意地ば張らんでヴィっちゃんに連絡取ったらどうだ? ヴィっちゃんだって絶対わいんこと心配しとーはずばい」
「別に……意地ば張っとーわけじゃなかばい」
勇利の言葉を受けて、母が勢いづいたように畳みかける。
「やったら連絡してんよかじゃなかと? そりゃイリヤ君んこと知ったらビックリすっじゃろうばってん、隠しといてよかもんじゃなかし、隠しとけるもんでもなかじゃろ」
わかっているのだ。いずれ、偉利耶は人目を引く少年になる。その面立ちから彼との相似に気づく人間も出てくるだろう。そのとき、どんなことが起きるのか。
「イリヤ君んことだって考えんしゃい。こんまま大きゅうなって、もののわかる年頃になってからヴィっちゃんのことば知らせたら、どがんたまがるか……」
「たまがるだけで済めばよかばってんなあ。もしもグレてしもうたら、本人も、周りもみーんな不幸になるぞ」
「アンタは親なんやけん、イリヤ君ん幸せんことば第一に考えてあげんば」
なんだこれ。波状攻撃か。正論でズバズバ斬られて血が出るわ。
両親の言い分は100%正しい。正しいから反論できない。親だけあって、情もあるが遠慮もない。
勇利は黙りこくって手の中の湯呑みを見つめていた。丸い飲み口が、そろそろ眼力で四角に変形するかもしれない。
「まあまあ。お父さんもお母さんも、そんなに責めたら勇利だって意固地になるよ」
真利がそういって割って入ったときは、我が姉が女神に見えた。
「意地を張ってるわけじゃないっていうし、勇利だってバカじゃないだろうから、周りがやいのやいのいわなくても何が最善か判断できるでしょ」
ただし、この女神は氷か何かの女神だったようだ。全然、助け船になってない。
実家の居間が針のむしろに変わったような気がして、壮絶に居心地悪かった。
「……そうね、帰ってきたばかりでお説教じゃあ勇利も立つ瀬がなかばい。ばってん、ようよう考えんしゃいね」
「……うん」
およそ三年前の、自分の突然の失踪で家族には多大な迷惑をかけている。それもあって、勇利は立場が弱い。失踪後しばらくはスポーツ記者をはじめ、マスコミがスキャンダル目当てで押し寄せていたという。当然、ご近所や温泉の常連客にも根掘り葉掘り尋ねられたことだろう。そんなものの対応をさせてしまった苦労を思えば、説教にも黙って耐えるしかないのだった。
「勇利、イリヤ君の写真とか動画とかないの? お父さん、楽しみにしてたよ。少しはメールででも送ればいいのに。まったく筆無精なんだから」
「あ、うん」
スマホを取り出してカメラロールを表示する。
はいはいできるようになった頃、初めてのつかまり立ち、歩けるようになった頃……。
あっという間に二歳にまで成長した気がするけれど、振り返ってみればこんなにもたくさんの思い出ができていた。
偉利耶の動画に目を細め、時に歓声を上げる父を見て、もっと早く帰省すべきだったなと思った。そんなつもりはなかったが、やっぱり自分は意地を張っていたのかもしれない……。


奥に引っ込んでいればいいと思っていた。無用に騒ぎを起こす必要もないだろう、と。
しかし、二歳児にそんな理屈は通じない。初めての場所にも臆することなく、むしろ探検気分なのか、偉利耶は堂々と表の温泉施設にまで入り込み、勇利が気づいたときにはすでに遅し、あっという間に常連客のアイドルになっていた。
「……真利姉ちゃん、偉利耶連れてきてよ」
奥でこそこそ姉に頼むと、「は? アンタの子でしょ。自分で行きな」とバッサリぶった斬られた。
そっと宴会場の様子を覗くと、常連のオッサンからイカ刺しを差し出されて嬉しそうに口を開ける我が子の姿。
あああ、偉利耶にオッサンの虫歯菌が感染る……!
たまらず飛び出した。
「偉利耶! メッ!」
勇利の声に振り返った偉利耶は「とーた!」と満面の笑みを浮かべた。釣られて常連客も勇利の姿を認め、そこからはもう大騒ぎになった。
「えーっ! 勇利君!? 勇利君ばい!」
「ほんなごつ、勇利君ばい! 今までどけー行っとったと!?」
「えっ、もしかして、こん子、勇利君ん……?」
「いやあ、そりゃあなかじゃ。全然似とらんやんか」
「どっちかっていえば、ほれ、勇利君んスケートん先生に似とーじゃろ」
あー、もうダメだ、これ……と勇利はがっくりうなだれた。そんな勇利をよそに、偉利耶は小走りで勇利に駆け寄り、膝にすがりついて「とーた、抱っこ!」と抱っこをせがむ。仕方なく偉利耶を抱き上げ、宴会場の客に会釈して奥に引っ込もうとしたが、まあまあとオッサン、オバサンらに座布団の上に座らせられて、根掘り葉掘り尋問される羽目になった。
「ええ、今は関東の方に」
「僕の子です。外人の嫁には逃げられました」
「目は僕似です」
それ以上は、のらりくらりと追及をかわし、這々の体で宴会場から退散した。
がくりと居間の畳に膝をつくと、姉が「お疲れ。頑張ったじゃん」とニヤニヤしながら紫煙を吐いた。その余裕たっぷりの姿がシャクに障って、やり場のない憤りを姉にぶつけた。
「何、ニヤニヤしてるんだよ。明日からまた騒ぎになるかもしれないのに」
「そんなの今更でしょ。アンタが帰ってきた時点でこうなるって予想してたから、どうってことないわ」
「……いってよ、こうなるって」
「そのぐらい頭使いなよ。明日からといわず、もう今日から騒ぎになると思うよ。ご近所ネットワークの恐ろしさ、思い知りな」
姉の不吉な言を証明するかのように、午後一番で西郡優子が飛んできて、夕方には西郡豪と学校帰りのスケオタ三姉妹も合流し、勝生家の居間は泣くわ喚くわの阿鼻叫喚の坩堝となった。
温泉施設は噂を聞きつけた常連客とご近所衆でごった返し、いつの間にか腹におかめのペイントをした父が宴会場の真ん中で腹踊りを披露している。母は殺到する注文をさばくのにてんてこ舞いしながらも、楽しそうに父の踊りに合わせて手を打っている。
こと、ここに至って勇利も引っ込んでいるわけには行かなくなり、挨拶だけ、と宴会場に引っ張り出された。偉利耶は、やーらしか、やーらしか、と客から口々にかけられる言葉の意味はわからずとも、褒められていることはわかるのか大はしゃぎだ。
すぐに引っ込むつもりだったのに、まあまあ、まあまあとコップ酒を突きつけられ、一杯だけのはずが二杯、三杯と杯を重ね、およそ三年ぶりの酒がほどよく回って、勇利の記憶はそこで途切れている。


翌朝、広間の隅で偉利耶とともに布団を被って寝ていることに気づいた勇利は真っ青になった。
慌てて息子の様子を確かめるも、呼吸も寝顔もいつもどおりで、ほっと胸を撫で下ろした。額に手を当ててみても、熱が出ている様子もない。
起き出して、昨夜の顛末を姉に聞くとスマホを見せられ、そこには、腹にペイントして踊る父と、その隣に上半身裸で踊る自分、さらにその足下に満面の笑みで踊る偉利耶が写っていて、「親子三代揃い踏みってご近所衆大ウケだったよ」と知りたくなかった事実を知らされた。
思わず膝から崩れ落ちると「大げさねえ」と姉に笑われた。
「それにしても、真利姉ちゃん、偉利耶まで畳で寝かせとくことないだろ」
「しょうがないでしょ、つぶれたアンタからイリヤが離れなかったんだから」
「偉利耶が?」
「お父さんとお母さんが、じーじとばーばと寝ようっていっても、とーたと寝る!って頑張ってたんだから」
愛されてるねえ、とニヤニヤしながら真利は朝食の支度をしに去って行った。
とぼとぼと偉利耶の傍まで戻り、畳に膝をついた。もう一人の父親そっくりの、しかし、あどけない寝顔は親の目から見ても天使のようで。
息子の寝息を聞きながら勇利は途方に暮れた。
もう駄目だ。彼に知られるのも時間の問題だ。
昨夜は一体どれだけの写真を撮影されたのだろう。その全てが拡散されるわけではないにしても、全てを秘匿してもらうことも不可能だ。ご近所を一軒一軒回って「僕の写真撮ってませんか? 門外不出でお願いします」と頼んで歩く? ダメだ、全然現実的じゃない。
どうしよう。これからどうなるんだろう。
考えても何の打開策も浮かばず、わかるのは昨日にまして大騒ぎになるだろうということばかり。勇利とその息子の存在が明らかになった以上、遠からず彼も乗り込んでくるだろう。そうしたら……彼は怒るだろうか。
……怒るだろうな。
どんなことになるのか見当もつかない。彼の怒りの凄まじさを考えると震えるほどだ。
ただ、どんなことになったとしても守らなければ。偉利耶だけは。
「これは、いよいよ田舎に引っ込まんばいかんかもしれんなあ……」
ため息をついて、それから勇利は偉利耶を起こしにかかった。朝食のいい匂いがしてきている。


その日は偉利耶から目を離さず、奥に引っ込んでいた。
表の玄関には、早速地元のマスコミ関係者が押しかけてきているらしい。またしても家族に迷惑をかけるのは心苦しかったが、それら全てをシャットアウトしてもらって勇利は息を潜めていた。偉利耶は昨日ちやほやされたのが忘れられないらしく温泉施設の方に行きたがったが、勇利は断固として許さなかった。ぐずって泣き出す偉利耶の声が、もしかしたらマスコミ関係者にも聞こえていたかもしれないが、姿を見せなければどうとでも言い訳できる。子供連れの客の声だ、とか。
「一週間ぐらいはいるつもりやったけど……明日にでも東京に戻った方がよかかもな……」
本当は偉利耶にもっと長谷津を見せたい。長谷津の海や、松原や、お城にも連れて行きたい。東京では食べられない郷里の美味しいものもいっぱい食べさせてやりたい。
「でも、こん有様じゃ無理ばいねえ……」
勇利は深々とため息をついた。


不機嫌な二歳児をあやしながら何とか昼食を取らせ、食後の眠気とぐずりとが合わさって意外とあっけなく寝入った顔の、目尻に浮かんだ涙を拭いてやる。本当はもっと楽しい思い出だらけの旅行にしてやりたかったのに、と何度目かのため息をついた時だ。
階段を駆け上がってくるらしき物音に続いて床板を鳴らしながら廊下を進んでくる足音がした。
何だろう、真利姉ちゃんかな、よっぽど慌てて、何かあったかな、と立ち上がったその目の前。
バーン! とノックもなく開かれたドアの戸口に立っていたのは、
「勇利ッ!!」
思い出さないように、思い出さないように努めてきた、その人だった。
わずかに乱れた髪、白皙の美貌、澄んだ湖面のような碧い瞳。
何度も忘れようと思った。そのたびに痛む胸を抱えて、忘れられるはずがないと涙した。
勇利の全身が叫んでいる。愛している、この人を愛していると細胞の一つ一つが叫んでいる。
「……あ……」
無様な呻き声を一つ漏らして勇利は凍り付いた。三年ぶりの愛しい人に触れたいと願う気持ちと、逃げ出したいという気持ちとが身体をがんじがらめにしている。
しかし凍り付くのも束の間、騒々しい物音にぐずりだした偉利耶にハッとして、勇利は慌ててベッドにかがみ込んだ。
「偉利耶、大丈夫、大丈夫だから、ねんねして」
だが、本格的に泣き出した偉利耶は声をかけるだけでは到底寝てくれそうにない。仕方なく勇利は息子を抱っこして優しく揺すりながらあやしだした。
彼もまた、戸口に立ち竦んだまま凍り付いたようにその光景を見つめている。
偉利耶の耳元で小さく、小さく子守歌を歌う。偉利耶はいい子だね、と繰り返しながら背をさする。
何分経ったのか、ようやく寝入った偉利耶を元通りベッドに寝かせた。そっと。起こさないように。
振り返るのが怖かった。彼は勇利と偉利耶の様子をどんな思いで見ていたのだろう。想像するのさえ怖かった。
だが、逃げ場はどこにもないのだった。
「……勇利」
愛しい声がそっと自分の名を呼ぶ。
逃げ出したい。
彼の元から逃げて、三年逃げて──、でも、とうとう捕まってしまった。
偉利耶の眠るベッドを揺らさないように、そっと立ち上がった。おずおずと振り返る視線の先で、彼は呆然と勇利を見つめていた。
「……ヴィクトル」
久しぶりに口にした愛しい名は、胸を詰まらせ、喉を締め付けて、それ以上の声を封じるかのようだった。

※続きは同人誌「前奏 ~未来に花を 手に愛を~」に掲載しています

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