「……は?」
医師の言葉が理解できなかった。いや、理解を拒否したのかもしれない。勇利は無作法にも問い返した。
「ですからカツキさん、あなたはオメガです」
「そんな馬鹿な」
勇利は思わず失笑した。
この世界には男女のほかに第二の性区分がある。アルファ、ベータ、オメガの三種類である。この三種類と男女の組み合わせにより、六種類の性区分で人間は大別されてきた。
アルファ(α)
男女ともに少数が存在し、生まれついての高い知能と身体能力によって支配的階級に位置する。男女ともにオメガ性の男女を妊娠させる能力を有しており、アルファ性の女性がオメガ性の男性を妊娠させることも可能である。後述するオメガのフェロモンに反応して発情する。発情期における性交中は獣人的な外見に変化する者も存在する。
ベータ(β)
男女ともに社会の大多数を占める。知能、身体能力共に平均的であり、良くも悪くも一般的な人間。アルファのように強力な妊娠能力もなく、オメガのようにフェロモンを発することもない。ベータ性の男性がオメガ性の女性を妊娠させることは可能だが、ベータ性の男女がオメガ性の男性を妊娠させることはできない。ベータ同士の結婚により生まれる子はほとんどがベータであるが、稀にアルファやオメガが生まれることもある。
オメガ(ω)
男女ともにアルファよりさらに少数であり、社会的に冷遇される地位にある。十代後半から、およそ三ヶ月に一度の頻度で発情期(ヒート)が訪れることにより強力なフェロモンを発する。このフェロモンは、決まったパートナー(番と呼称される)のいないアルファとベータを男女の別なく強力に誘引し、性暴行事件を引き起こすことも稀ではない。特に、アルファがオメガのフェロモンに抵抗することは非常に困難であり、これはアルファにとって屈辱的なメカニズムであることから、社会的地位と影響力の強いアルファによってオメガは差別され、冷遇されてきた。近年、ヒートの抑制剤の開発と普及により社会を覆う差別感情は和らいできた。しかし、ヒート中のオメガはほぼ一週間にわたり繁殖以外は活動が不可能なほどの脱力感に襲われることから、就業時などに不利益を被ることが多い。アルファとの番関係を結ぶことによりフェロモンの放出が停止し、同時にヒートも弱まる傾向にある。
それは、シーズンに入って間もない頃だった。
勝生勇利は充実した日々を送っていた。ロシアでの生活は二年目となり、一人での行動にもそうそう不自由しなくなってきた。リンクには新しい知己もでき、スケーターとして刺激を得る毎日だ。憧れのヴィクトル・ニキフォロフについて、ロシア国内でしか発売されない雑誌やインタビュー記事も読みたいと十代の頃からロシア語の勉強をしていたので、勇利は簡単な文章なら自力で読み、書くことができた。とはいえ、リーディングの機会はなかったので、勇利の発音はロシア人にいわせると〝舌っ足らずな幼児言葉〟にしか聞こえないのだそうだ。それでも最近は、小学生レベルにはなったんじゃねーか? とユリオことユーリ・プリセツキーにも評されるぐらいには上達してきた。
フィギュアスケーターとしては、昨シーズンのグランプリファイナルで悲願の優勝を成し遂げたものの、世界選手権ではコーチ兼選手のヴィクトル・ニキフォロフに優勝をかっさらわれた。「五連覇が遠のいちゃったねえ」と彼には珍しくニヤニヤしながらいわれて、今シーズンでのリベンジを誓った次第である。
そのヴィクトルとの同居生活も二年目に入った。彼との生活のリズムにもすっかり慣れ、そして……二人の関係には友人、コーチと生徒、家族に加え、新たに恋人という名前がついていた。あのヴィクトル・ニキフォロフが! 僕の恋人!? と勇利は時々鏡を見ながら首を捻る。こんな、どこにでもいるスケーターの、しかも男を、なんでヴィクトルが? 今更ながら、そんな疑問を抱いて当のヴィクトルを見つめていると、彼はにっこり微笑んでいうのだ。「俺の可愛い子豚ちゃん、そんなに見つめてると氷の女神が嫉妬の炎で溶け出しちゃうよ」とか「その熱いまなざしで俺の情熱をかき立ててどうしようっていうの?」とか何とか。歯の浮くような台詞でもヴィクトルがいうと様になるのはさすがだが、正直、僕なんかを口説いてどうするんだよ、とは思う。思うが、平穏な生活のために口をつぐむことも大切だと学んだ勇利である。生活の合間合間に交わされるキスにもようやく慣れて、自然に振る舞えるようになってきた。それでもヴィクトルの顔が目前に迫ると、僕、こんな綺麗な人の恋人なんだなあ、と呆けてしまう。そのうち唇が重なって、気づくとそれ以上のことを色々されて、あれよあれよという間に神秘の扉を開いてしまった。──感想? セックスって凄い。
公私ともに順調といっていい日々だったが、サンクトペテルブルクの夏の終わりの数日、勇利は強い倦怠感に襲われていた。
だるい。
とにかくだるい。日課の早朝ロードワークなんてとても無理。正直、ベッドから起き上がりたくない。気力を奮い立たせてリンクへ行ってもジャンプなんて夢のまた夢、ウォーミングアップの時点で息も絶え絶えになってしまう。
仰天したのはコーチのヴィクトルだ。体力オバケの勇利が何事だ、病気か、と天変地異でも起きたかのようにうろたえた。
熱はない。咳もない。痛みもない。ただ、ひどくだるかった。隠しようもないので正直に体の状態を説明すると、ヴィクトルは難しい顔になり、すぐに病院を受診する手続きを取った。
「大げさだよ、ヴィクトル。たぶん、たまってた疲れが出ただけだよ」
「そんなこといって、もしも悪い病気だったらどうするんだい? さ、送っていくから用意して」
「何いってるんだよ。自分の練習はどうする気? それに、今日は午後から仕事も入ってたろ?」
「そんなの何とでもなる。勇利の方が大事だ。生徒の健康以上に大事なことなんてあるわけないだろ」
「何とでもなるわけないだろ。わかったよ、病院行くからヴィクトルはちゃんと練習してよ」
「でも、勇利」
「一人で大丈夫だよ。子供じゃないんだし、英語のできるドクターを手配してくれたんでしょ? なら、ヴィクトルにできることって手を握ってるぐらいしかないじゃないか」
「背中もさするよ」
「馬鹿いわないで」
コーチの提案を一刀のもとに両断し、勇利は重い体を引きずって病院に向かった。せめてとヴィクトルが手配した車の中で、泥になったかのように感じられる体をシートに横たえる誘惑と必死で戦った。
初めに内科の医師の問診を受け、それから一通りの検査を受けた。
検査結果が出るまでの小一時間が永遠のように感じられた。壁を背にして待合の椅子に掛けていなければ、病院の廊下に寝転がっていたかもしれない。
やっと名前を呼ばれて診察室に入ると医師もまた難しい顔をして、検査結果を持って特殊臨床診療科へ行けという。内科の範疇では診断ができないし、どうも気になる数値がある、と。
この辺で勇利にもじわじわと己の身に異常事態が起きているのではないかという懸念が生まれた。
特殊臨床診療科ではなぜか腹部のエコーを撮られた。最近レントゲン検査を受けたか、放射線を扱う施設に行ったかなど問診され、いずれも否と応えた。このだるさから解放されるならレントゲンでも何でもやってくれというのが正直なところだったが、口を開くのもおっくうで勇利はただ黙っていた。
検査結果が出たというので改めて診察室に入ると、医師は奇妙な表情をしていた。憐れむような、それでいて何か嬉しそうというか喜色の欠片をにじませていた。
「結果が出ました。カツキさん、落ち着いて聞いて下さい。あなたはオメガです」
「……は?」
「ですからカツキさん、あなたはオメガです」
「そんな馬鹿な」
そして冒頭の場面に至るのである。
医師の言葉に勇利は思わず失笑した。
自分はベータだ。両親も姉も祖父母もベータの、生粋のベータだ。
それゆえに、アルファが大多数を占めるアスリートになるために人一倍努力してきた。折々に浴びせられてきた練習の虫、スケート馬鹿、根暗という言葉は勇利にとって今は勲章に等しい。その努力のおかげで自分はいっぱしのアスリートになれたし、信じられないほど格好いい恋人までできた。勇利は自分の人生に満足していた。後悔や反省点や、過去に戻ってやり直したいことは数え切れないほどあるけれど、今の自分の状況を見れば、そんな後悔など吹き飛ぶほど恵まれている。
何より、自分はベータとして平々凡々と生きてきた。ベータとして培ってきた人生経験が二十五年分ある。いきなりオメガだといわれて受け入れられるはずがない。何かの間違いだ。
だが、医師はいうのだ。
「受け入れられないのはわかります。あなたが自認する性区分からベータとして育ってきたこともわかりますし、事実、ベータ出身のアスリートとしてご活躍もされている。しかし、検査の結果に間違いはありません。こちらでも何度も確認しました」
「いや、でも──」
「稀に、後天的に性区分が変化する方がいらっしゃるのです。あなたもそうだと思われます」
「性区分が変化……」
聞いたことはある。だがそれは、遠い国の、自分とは全く関わりのない人間の話だ。奇人変人と面白おかしく騒ぎ立てるバラエティ番組の一場面が脳裏をよぎる。
「変化する原因については、あまりにも症例が少なすぎて詳しくはわかっていないのです。本人が強烈にオメガになりたいと望んだケースもあれば、強力なアルファの影響力でオメガ化したケースも見られます。何か思い当たることはありませんか」
「あの、強力なアルファの影響って、どういう……?」
「現在、知られている症例では、強力なアルファと結婚したベータ女性がオメガ化した例があります。このケースの場合、アルファの男性が強く相手のオメガ化を望んでいたことがわかっています。生涯の伴侶として女性をつなぎとめたいと願っていたそうです。強力なアルファと接しているうちに、何らかの作用でベータ側の身体内部で変異が生じ、オメガ化したものと推測されます。あくまで推測ですし、精神的な感化によるものか、肉体的な接触によるものかも不明ですが」
強力なアルファ。ベータ側の変異。オメガ化。
医師の言葉に含まれるキーワードが頭の中で渦を巻く。たった三つのキーワードを思い当たる節と呼んでいいのなら、思い当たる節ばかりだ。
ヴィクトルを強力なアルファと呼ばずして誰を強力といえようか。容姿は端麗、身体能力にも優れ、知能も人並み以上、やりたいことをやりたいようにできる意志の強さと運の強さ。
変異の原因が精神的な感化であれ、肉体的接触によるものであれ、勇利に強い影響力を持つとすればヴィクトル以外に考えられない。そして、ヴィクトルであればと頷かされもする。それほどのアルファと共に過ごすことで変異してしまった……僕の身体が?
「あの……何かの間違いということは……」
それでも一縷の望みにかけて医師に問う。だが、医師は無情に首を振った。そして、一枚の写真を勇利に示した。
「これを見て下さい。先ほど撮影したエコーの結果です。わかりづらいと思いますが、この部分が直腸、これが膀胱です。膀胱と筋膜の間に、直腸から伸びるように新たな器官が生じています。これがオメガ男性の子宮です」
「子宮……」
呟いて勇利は絶句した。めまいのように視界が揺れる。うつむき、膝に手をついてかろうじて身体を支える。
信じられない。そんな馬鹿な。この腹の奥に……子宮?
オメガ化だって? 本当に自分は変異してしまったのか? ベータとして平々凡々と生きてきたのに、いきなりオメガになったといわれても。
勇利の脳裏に、オメガの置かれた社会的地位とそれに伴う処遇が猛烈なスピードで再生される。
オメガは身体的特徴から就業に困難を伴う。発情期の期間中は、はっきりいって物の役に立たないからだ。さらに相手のいないオメガは、無遠慮にフェロモンをまき散らしてアルファを誘う迷惑な存在として広く認識されていて……。
そしてスケート!
アスリートの世界にオメガはほとんど存在しない。発情期と大会期間が重なれば出場できないのはもちろん、発散するフェロモンによってアルファやベータの選手のコンディションさえ狂わせかねないからだ。第二の性が未分化な十代前半まで優秀な成績を収めていても、オメガになった途端に放逐される選手を勇利も目の当たりにしてきた。
自分もそんな目に? スケートがもうできない?
そしてヴィクトル……。
ヴィクトルになんていえばいい? なんて説明すればいい?──駄目だ、説明なんてできるはずがない。あなたの影響でオメガ化しました、なんていえるものか。
でも。
いわなきゃいけない。もうスケートできないって。もう一緒に戦えないって……。
勇利の目から涙がたぎり落ちた。
せっかくここまで来たのに。キャリアを重ねて、それに見合う成績もようやく獲得できるようになったのに。鬱陶しかった地元の期待、スケ連のプレッシャー、それらさえ励みに思えるようになってきたところだったのに。
ここで終わるのか。全部、全部、これでおしまいなのか。
ヴィクトル。
ヴィクトル。
憧れのあなたにコーチしてもらって。あなたの想いに応えて恋人になれたのに。どうなってしまうんだろう。オメガになっても好きでいてくれるだろうか。こんな変な身体の人間なんて嫌われてしまうだろうか。
医師がそっとボックスティッシュを差し出してきた。遠慮なく数枚引き抜いて顔を拭う。それでも、涙は後から後から落ちてきて止まる気配もない。
「お気持ちお察ししますとはいえません。私はアルファだからです。今、最大限の用心をしてあなたと接しています」
医師の言葉に勇利はのろのろと顔を上げた。最大限の用心という言葉の意味がわからなかった。
「カツキさん、あなたの主訴であるだるさですが、これは発情期──ヒートによるものです。幸いにといいますか、今の時点ではごく弱いフェロモンしか放出していないようです。ですが、フェロモンはフェロモンです。ここまで来るのに公共交通機関でなく車で来られたのは正解でした」
そうか、メトロを使っていたら、訳もわからず襲われていたかもしれないのか。
勇利がぼんやり頷くと、医師は薄いファイルを取り出して勇利に渡した。
「今後はオメガ専門の医師とカウンセラーがあなたを担当します。こちらのファイルに必要な書類をまとめてあります。ヒートがおさまり次第、できる限り早く受診して下さい。ああ、くれぐれも、ヒート中は外出を控えるようになさって下さい」
お大事に、という医師の決まり文句が無性に腹立たしかった。
病院の入り口でタクシーに乗り込み、住所を告げる。運転手のような社会的地位が低いとされる職業に就いているのはオメガが多く、自分もこういう職業に就くことになるのかなあと勇利はぼんやり考えた。
スケートができない以上、勇利がロシアにいる理由はなくなる。当然、日本に帰らなければならなくなるだろう。
「そうしたら温泉手伝うか……」
ヴィクトルともお別れか。スケートができなくなることは手足をもがれたように感じるけれど、ヴィクトルと会えなくなることは心を引きちぎられるようだ。
「ズタボロばい……」
ふふ、と自嘲の笑みを漏らしたはずみで涙がじわりとにじんだ。慌てて瞬きして目を見開く。こんなところで取り乱すわけにはいかない。
アパルトマンのエントランスをコンシェルジュに会釈して必死の小走りで通り抜け、エレベーターに乗った。一人の空間がこれほどほっとするのはいつ以来だろう。玄関を開けるとマッカチンが駆けてきた。よしよし、と撫でてから、暖かな毛皮に顔を埋める。
「ねえマッカチン……マッカチンともお別れかもしれんばい……」
優しい老犬は勇利の顔をペロリと舐めた。慰めてくれているようで心が少しだけ軽くなる。
立ち上がって自室に向かい、ベッドに倒れ伏した。
どうしよう。これからどうしよう。
頭の中に渦巻くのはその言葉だけで、一向に問題への対処法が浮かんでこない。
いや、理性ではわかっているのだ。
ヴィクトルに説明する。まずはそこから。そうしないと何も始まらない。
でも、……それが一番つらい。
ヴィクトルはどんなに驚くだろう。どんなに落胆するだろう。どんなにか悲しんで……くれるだろうか。
選手としての勝生勇利は終わってしまった。もうスケートの世界では生きられない。アイスショーや何かのイベントにはもしかしたら呼んでもらえるかもしれない。でも、ヴィクトルとともに競うことはもうできないのだ。
「もっと戦いたかった……」
氷の上でもっと一緒に生きていきたかった。生きていけると思っていた。それは、ほんの何時間か前までのこと。
「ヴィクトル……」
恋しい人の名を呼ぶと、堰を切ったように嗚咽が漏れた。
手足がしんと冷えてきて、勇利は覚醒した。いつの間にか眠っていたようだった。
苦労して重い体を持ち上げる。そのまま座り込んで、襲いくるだるさと戦った。
「そうだ……薬」
緊急避難的に、とヒートの抑制剤を処方されていたのを思い出す。医師からは、ヒートが始まってからでは効果が出にくいかもしれないと念を押されていた。それでも、服まないよりはマシだろうと思った。ヴィクトルに迷惑をかけるわけにはいかない。
のろのろとベッドから下り、洗面所に向かった。鏡の前に立つと、目蓋が腫れ、顔全体がむくんでいるように見えた。
「こんな顔じゃヴィクトルに会えんばい……」
手早く薬を服んで自室に引き返す。泥の中を動いているようだった。休み休みしながら部屋着に着替え、ベッドに潜り込む。薬が効いてくれることをただただ願った。ほかのことは、今は考えたくなかった。
どのくらい時間が経ったのか、ふと、ドアをカリカリひっかく音に気がついた。
「マッカチン……?」
時刻を確かめると、とっくに夕食の時間を過ぎていて、お腹を空かせた愛犬が催促に来たのだとわかった。ヴィクトルはまだ帰っていないらしい。
「待っててね……マッカチン……今行くから」
薬が効いたのか、少し体が軽くなったような気がする。あるいはプラセボ効果かもしれなかったがどちらでもよかった。
ドアを開けるときちんとお座りした愛犬がちぎれんばかりに尻尾を振っていた。ごめんね、と頭を撫でて一緒にリビングに向かう。フードを与え、傍らにしゃがみ込んで食べる様子を見守っていると、頭の中がしん、と冷えてきた。
──ここにももういられないのかもしれない。
ヴィクトルはどう思うだろう。オメガをどう思っているかなんて訊いたことなかったし、訊く理由もなかった。オメガ嫌いのアルファも多い。ヴィクトルもそうだったらどうしよう。
アルファの発情も、オメガとは違った意味で特徴的だ。オメガと違ってフェロモンを出すことはないが、一度オメガのフェロモンに反応して発情してしまうと理性で押さえ込むことはまず不可能とされている。発情中は獣のような外見的特徴を見せるアルファも少なくない。ゆえに、時と場所を選ばず自らを本能の下僕と化せしめるオメガを、社会的地位の高いアルファほど嫌悪する傾向にある。理性と知性の及ばない領域にたやすく引き込み、獣の交尾のように性交しか考えられない動物へと堕してしまうオメガなど、存在すら認めたくないのだろう。
また、目当てのアルファと番になるため、故意にヒート期間中にアルファの前に姿を現すオメガも存在することから、オメガは嫌悪され、社会の異分子として扱われるようになったのだ。
まさか、そのオメガに自分が。
食べ終えたマッカチンの頭を撫でて、勇利は立ち上がった。軽いめまいのような感覚はすぐに消え、薬が効いているようだとほっとする。ヒート中のオメガから発せられるフェロモンには芳香も伴うという。勇利は腕を持ち上げて匂いを嗅いでみたが、薬のせいなのか、自分で自分の体臭はわからないせいなのか、匂いの有無は判断できなかった。医師は、勇利のフェロモンはごく弱いといっていた。匂いも薄ければごまかせるかもしれない。
そこまで考えて、はっとした。
ごまかしてどうするっていうんだ。ごまかして選手を続けたとして、もし途中でオメガだと発覚したらコーチのヴィクトルの汚名にもなってしまう。大会会場でフェロモンを発してアルファの選手たちが発情してしまったら──、想像して勇利はゾッとした。駄目だ、とてもそんなことはできない。
正直に打ち明けるしかない。
ヴィクトルに。
家族に。
ヤコフコーチに。
日本スケ連に。
応援してくれた人たちに……。
また涙があふれそうになって、上を向いてこらえた。
たった一日で運命が変わってしまった。キャリアの終焉に伴う進路変更は覚悟していたけれど、それはもっと先の話のはずだった。明日から──いや、今、この瞬間からこの先の一生をどう生きるか考えなければならないなんて。
「お先真っ暗とはこのことばい……」
ため息をついて自室に下がろうとした時、チャイムが鳴った。ヴィクトルが帰ってきたのだ。
一瞬、迷った。出迎えにでようか、どうしようか。だが、すぐに思い直して玄関に向かった。たとえ出迎えに出なくてもヴィクトルは心配して勇利の自室に様子を見に来るだろう。
玄関に行くとヴィクトルは室内履きに履き替えたところだった。
「勇利、マッカチン、ただいま。──勇利、体の具合は? 病院ではなんて?」
さあ、いえ。実はヴィクトル、信じられないと思うけど、僕──
「……うん。疲れがたまってるんだろうって。今週いっぱい休養しろっていわれちゃったよ」
口からすらすらと出たのは嘘八百だった。
何でこんなことをいったんだろう。ごまかしても無駄だってわかってるはずじゃないか。
内心で混乱する勇利をよそに、ヴィクトルはほっとした顔に笑みを浮かべた。
「そうか、よかった。体力オバケの勇利がだるそうにしてるなんて初めてだから、何事かと思ったよ」
「……うん、心配かけてごめんね。今週は大人しくしてるよ。それより、ヴィクトル、夕食は?」
「まだだよ。勇利は?」
「僕もまだなんだ。あんまり食欲ないけど付き合うよ」
「うん、少しでも食べた方がいいね。──それにしても、何かいい匂いがするような……」
勇利はぎくりと身構えた。
「……ヴィクトルじゃないの? またどこかのご令嬢とイチャイチャしてきたんだろ」
「失礼な。イチャイチャなんかしてないよ。でも、なんだろう。俺かなあ、やっぱり」
ヴィクトルは左右の腕を交互に掲げて自身の匂いを確かめては首を捻っている。
「まあ、お風呂入ったら消えるでしょ。僕、先にご飯の用意してるから着替えてきてよ」
勇利の言葉に気を取り直したヴィクトルはマッカチンを伴って自室に向かった。その背を見送って勇利はへたり込みそうになった。
なんでこんな嘘をついた? すぐバレるのに。嘘をつかれていたと知ったらヴィクトルが悲しむじゃないか。
自問自答しながら、のそのそとキッチンに向かった。温め直すだけの状態にした夕食がハウスキーパーによって用意されている。今日は鰊のシューバサラダとパン、シチー、果物というメニューだった。
シチーを温め直しながら、勇利は自分を責めた。
わかっている。いいたくないのだ。憧れ続けたヴィクトルに、恋人になったヴィクトルに、益体もない自身を告白するのがつらいのだ。たとえ勇利自身の意図したことではなかったにしても、絶対にヴィクトルを悲しませてしまう。失望させてしまう。もしかしたら嫌われてしまう──。
悲しませたくない。失望されたくない。嫌われたくない。
でも、いわなきゃいけないじゃないか。嘘をつき続けるわけにはいかないし、そんなことは不可能だ。こんなことになってつらい思いをするのは僕だけじゃないんだ。いわなきゃ。
それに、匂い。
アルファのヴィクトルは感じ取った。間違いなく僕のフェロモンの匂いだ。ごまかしきれるものじゃない。
……いうんだ。自分は無益になったんだと、無価値な人間になったんだと、ヴィクトルに告白するんだ。いわなきゃ駄目なんだ。
火を止めて器を手にしたところでヴィクトルが戻ってきた。
「ああ、いい匂いだなあ。シチーの匂いだね。お腹ペコペコだよ」
「パンとかサラダとか、テーブルに持って行ってて。シチーをよそったらすぐ行くよ」
オッケー、と上機嫌で応えたヴィクトルの背に、かけるべき言葉をかけられずに勇利は黙りこくっていた。
何の味もしない夕食を終え、だるさが残っているからと勇利は早々に自室に引き上げた。実際、全身の倦怠感は続いていて、これじゃ滑りたくても滑れやしないと考えて──もう滑れないのだと我に返る。
「……いえんかった」
いわなければと思うほどに、言葉はまったく逆の──嘘を並べる。願望に忠実に。弱い勇利を庇護するように言葉の防壁を固めようとする。
「卑怯者……」
ベッドに転がって弱い自分を守るように丸くなる。世界の全てから攻撃されている気がしてひどく心細かった。
翌日からのヴィクトルには泊を伴う仕事が入っていた。帰宅は週末ということで、その間は問題を先送りにできると勇利は緊張から解放される思いだった。何の解決にもならないことはわかっている。それでも一日の終わりに今日も生き延びたと喜ぶ死刑囚のように安堵する気持ちは止められない。
そう、自分は死刑囚なのだ、と勇利は思った。死刑宣告を自分で自分に下す、世にも珍しい死刑囚だ。ヴィクトルに事実を打ち明けることは自分で自分の息の根を止める行為に等しい。だから、つらくて当たり前だし、決心が鈍っても仕方ない──。
弱い自分が、弱さを正当化しようとしていた。
これではいけないと、勇利はかぶりを振る。
ちゃんといおう。ヴィクトルが帰ってきたら。そして、嘘ついてごめんって謝らないと。
ヴィクトルの帰宅まで、勇利は自室からほとんど出ずに過ごした。抑制剤のおかげで少し軽くなったとはいえ倦怠感は続いていたし、ハウスキーパーがフェロモンに反応しても困る。
何もすることのない時間を過ごすのが苦痛で、勇利はなんとなく自室を片付け始めた。勇利のオメガ化に対してヴィクトルがどんな反応を示すのかはわからないが、滑れない自分がロシアに居続けることはできない。ビザの問題もある。一年半近く過ごした部屋は、元々私物の少ない勇利だったが、それでも細々とした思い出の宿るものが増えて、触れるごとに胸を締め付けた。
ヴィクトルと二人三脚で獲得したメダル、白夜祭の夜にヴィクトルと観に行ったオペラのプログラム、ヴィクトルとマッカチンと散歩した時になんとなく拾ったどんぐり、ヴィクトルのお下がりの時計(今に至るも怖くて値段を聞けていない)、サンクトペテルブルクで訪れた場所を記した地図、グランプリファイナルと四大陸選手権で優勝したときの記念写真……。
メダルはいつも使っているデイパックに入れ、その他の細々したものはスーツケースに詰めた。スケーターは遠征が多い。だから荷造りも手慣れたもので、あっという間に済んでしまった。
「僕一人消えるのなんて簡単なんだな……」
ことさら自分を卑小な存在だと考えないと、この居心地のいい家から出て行けなくなってしまう。取るに足らない自分がここにいては迷惑だ、そう言い聞かせないと、打ち明けようとする意志がくじけてしまう。
ベッドに転がって天井を眺める。そして部屋の四囲に視線を飛ばす。すっかり見慣れたこの光景ともあと数日でお別れかもしれないのだ。
「ああ、楽しかったな……」
ヴィクトルとマッカチンと暮らして、毎日が充実していて。時々お酒を飲んで、酔っぱらってはヴィクトルとダンスして。夕食の後に観るDVDは何がいいかで揉めて。時にはケンカもしたけれど、大体いつもこの家には笑顔があふれていた。
それも、もうおしまい。
「楽しかったよ……ヴィクトル」
目尻から涙がこぼれる。こんなに何度も泣いたら肌荒れしてヴィクトルに叱られるなあ、と思った。