ドアを繰り返しノックする。眠っているとしたら申し訳ないが、引き下がる気には到底なれない。
「勇利。……勇利。起きて」
するとドアの向こうから応えがあった。不躾を詫びながら入室すると、やはり勇利はすでにベッドに入っていた。灯りをつけると彼は眩しそうに目をしばたたかせた。
「ごめんね、もう眠っていたんだね。でも、どうしても話さなきゃいけないことがあって」
「あー……大丈夫、さっき寝たばかりだから。あ、お帰り、ヴィクトル。僕こそごめんなさい、出迎えもしないで」
俺は彼にいわれる「お帰り」が大好きだ。彼を出迎えて俺が「お帰り」というのも好きだ。同居人のいることがこんなにも心を温かくしてくれるなんて昔は思いもしなかった。「ただいま」と応えることのできる相手のいる喜び、そういうものがあることをハセツの生活で教えられた。
「ただいま、勇利。いいんだよ、アスリートなんだから睡眠を優先すべきだ。……って、その睡眠を妨害しておいていうことじゃないけど」
ふふ、と顔を見合わせて微笑み合う。このまま他愛ない会話だけで終われたらどんなによかっただろう。
「ねえ、勇利。この間もいったけど、俺は悩みやトラブルがあるならどんなことでも教えてほしいと思ってる。勇利の自主性とプライヴァシーを尊重して、口うるさくはいわないつもりだった」
「“だった”? でも、この間約束したよね。トラブルになりそうならちゃんと相談するから、それまでは、って」
「うん、そのつもりだった。でも、状況が変わった」
持ってきたスマホに例の動画を表示し、勇利に示す。彼が眼鏡をかけるのを確認し、再生ボタンをタップした。
ざわざわとしたノイズ、手ぶれのする画面が束の間流れ、勇利の姿が画面中央に固定されるようになる。映っているのがほかならぬ自分だと気づいた彼の目が驚きに見開かれた。
「……これは、何、誰、が……」
撮影したのか、と尋ねたいのだろうか。つぶやきに応えずスマホを手渡す。再生が終わるまで待って、口を開いた。
「撮影者は俺も知らない。多分、居合わせた誰かだろうね」
そう……、といいながら勇利はスマホを返してよこした。受け取って視線を外すと部屋には沈黙があふれた。勇利の指が上掛けの端をこね回すのを気配で感じる。やがて彼は一つため息をつくと、ぽつぽつ言葉を紡ぎ始めた。
「その……ごめんなさい」
「うん?」
「えっと……休養日にちゃんと休まなくて」
「うん」
「そのー……ヴィクトルの指示も、トレーナーの指示もなしでプログラムみたいに滑って」
「うん」
「でも、ジャンプは入れてないし……あ、周りに人がいるのにこんな滑りをして」
「そうだね、危ないね」
「…………」
「…………」
再び沈黙が部屋を支配する。名を呼ばれるだけで絶命する大気の主が触れられるほどの密度で二人を包み込み、安らぎの場を気詰まりな舞台に変える。観客であり演者である俺たちは、台詞を忘れたでくの坊のように座り続けた。
だが、このまま黙り続けるわけにはいかないし、俺のいいたいことはまだ一つも口に上っていない。
ため息を一つ。勇利が、ひく、と身構えた。
「俺はね、勇利が今いったことにももちろん怒ってるよ。でも、今日はそのことを話しに来たんじゃないんだ」
勇利がますます身を固くする。
「ねえ、勇利。俺、この動画を見て驚いたよ。でも、コーチの俺に断りなく滑ったことだけじゃない」
彼の名を呼んで視線を合わせる。不安げな顔。微笑んで安心させたいけれど、懸念に支配された今の俺ではうまく笑える気がしない。
「何を考えながら滑ってたの?」
「え……」
「テーマは何? 音楽のイメージはあるの?」
スケーティングへの叱責だと思ったのか、勇利はわずかに居住まいを正して答えた。
「テーマなんて……ただ、気持ちのおもむくままっていうか、身体が動きたいように滑ったっていうか……。音楽も特にない、です」
「そうだよね、俺にもそう見えたよ。だから放っておけないと思ったんだ」
勇利は話の流れが読めず、顔に盛大なクエスチョンマークを浮かべている。
「気持ちのおもむくまま滑ったんだよね。じゃあ、どんな気持ちだったの」
「どんな、っていわれても……」
「俺にはね、悲しい悲しいって勇利が全身で叫んでるように見えたよ。何を考えながら滑ってたの。何がそんなに悲しいの」
口調がきつくなるのを抑えられない。落ち着け、落ち着けと理性は叫ぶのに心が勇利への想いであふれかえってとめどなく流れていこうとするのを抑えられない。
「勇利、教えて。君をここまで悲しませているのは一体何なのか。誰かに何かされたり、いわれたりしてるんじゃないか?」
「そんなこと……」
「ない? ないというなら、今のこの生活や君を取り巻く環境自体が君に悲しみをもたらしているってことになるよね。君には快適に過ごしてほしいと思って努力したつもりだけど、俺の配慮が足りてなかったということかな」
「そんなことない! ヴィクトルはものすごくよくしてくれてるし、この生活に不満なんて全然ないよ!」
「じゃあ、原因はどこにあるのかな? あるいは誰に?」
「それは……」
勇利は口ごもるとわずかに俯いた。彼の手は上掛けの端をぎゅっと握りしめ、拳の関節がくっきりと浮き出ている。唇は硬く引き結ばれて小刻みに震えているように見えた。
勇利を追い詰めている。ほかならぬ俺が勇利を苦しめている。この状況が胸に痛い。痛いが退かない、そう決意してここにいる。
「……原因、なんてそんな」
勇利はおもむろに口を開くと早口にまくし立て始めた。
「そんなの何もないよ。その動画だってほんの遊びで滑っただけだし、ヴィクトルってば深刻に考えすぎだよ。その日たまたま面白くないことでもあったんだよ、きっと。もう覚えてないけど、それぐらい大したことない何かが──」
「勇利。俺を馬鹿にしてるの?」
息をのんで勇利が固まった。さっ、と顔色が変わる。
「リビングレジェンドと呼ばれる俺が、ことスケートに関して遊びか本気か見誤ると思ってるの? 本当に?」
はっきりと動揺の色を浮かべて勇利は完全に俯いてしまった。呼吸が少し荒くなって肩がわずかに上下している。明らかな失態だと、恥じ入っているのだろうか。俺の気分を害したと狼狽しているのだろうか。
「勇利。あの動画の君は本気で滑ってた。そうだよね?」
「…………ハイ」
たっぷり間を置いて勇利は固い声で返答した。言いつくろうことは不可能だと悟ったのだろう。
「よかったよ、事実が一つはっきりして。じゃあ、次の問題だ。下手な言い訳までして君が隠そうとしたことは何なんだろう」
勇利は何も答えない。俺はポケットから紙切れを取り出した。見るのも忌まわしいそれは、ジーナから渡された彼への中傷が書かれた切れっ端だ。
「これ。──見覚えあるよね。こんなものがどうしてこの家に紛れ込んだんだろう。どこからやってきたのかな」
紙片を認めた彼の目が驚きに見開かれ、そしてみるみる青ざめた。
「それ……どうしてヴィクトルが」
「ジーナがね、洗濯の前にポケットの中を検めていて見つけたんだって。自分にはこれをどうする権限もない、だから俺に渡すことにした……余計なまねをしてくれた、と思うかい?」
束の間、勇利は逡巡して、それからゆるゆると首を振った。
「ジーナも心配しているようだったよ。でなければ、もめ事はごめんだとばかりに捨ててしまっただろう。君にはその方がよかったかもしれないけど、大事な相手だからこそつらい手段を執らなきゃいけない問題ってあるだろう? わかるよね?」
「……うん」
「でも、この先どうしても彼女と顔を合わせづらいなら、やめてもらっても──」
「そんなことしないで! ジーナさんはいい人だし、そりゃ気まずいけど原因は僕なんだし、だからやめさせたりしないで」
「うん。そういってくれて助かったよ。俺も家に入れる人間はころころ変えたくないからね」
勇利はホッとしたのだろう、少し気を緩めたようだった。
「ねえ、勇利。これは君の字じゃない。俺のでもない。なら、誰かほかの人間が書いて君に渡したことになる。……ここまでは否定しないよね?」
たちまち勇利の顔が強ばった。俺は気づかないふりをして言葉を続けた。
「こんなものを直接手渡すとも思えないから……ロッカーか、荷物にでも紛れ込ませてあったのかな? 俺も子供の頃はよくこういう嫌がらせをされたけど、手口は変わらないものだね」
「…………」
「こういうの、いつ頃から始まったの? 推測だけど、これが初めてじゃないんだろ? 退院してすぐ、とか?」
「…………退院して、ちょっとして、から」
「そう……。ほかにはどんなことを?」
「…………」
「陰口をいわれたり、わざとぶつかってこられたり、荷物を隠されたり……今、思いつくのはこんなところだけど、どう?」
勇利は何も答えない。だが、この場合は沈黙こそが答えだともいえた。
「相手に心当たりは……ありすぎて答えられないかな」
「そんなことない……よ、そんなにたくさんの人がちょっかい出してくるわけない……でも、名前のわからない人の方が多いから……」
そうか、と首肯して勇利から視線を外す。こみあげる怒りを顔に出さないように必死だった。どこの誰だか知らないが俺の勇利になんてことをしてくれる。
「荷物を隠されたり盗まれたり、なんて、明らかな犯罪だ。見過ごすわけにはいかないな」
「盗まれたりはしてない。全部戻ってきてる。……やっぱり盗んで捨てたりしたら大事になるから……僕がヴィクトルに保護されてること、みんなわかってるから、その程度で済ませてくれてるっていうか……」
保護されてる? 済ませてくれてる?
何だ、それ。俺は勇利の保護者じゃないし、保護してやってるわけでもないぞ。それに、済ませてくれてるって何だ。何で嫌がらせの相手の気遣いに感謝してるみたいな口ぶりなんだ。
「嫌がらせの件は放置しておけない。俺もちょっと動くけど、かまわないね?」
同意を求めると勇利はハッとしたように顔を上げたが、反論しても無駄だと思ったのだろう、すぐにまた顔を伏せてしまった。
俺は少し間を置いた。まだ本題が、もっと大事な問題が残ってる。ここまででも勇利の心的負担は大きいと想像がつくのに、さらに追い詰めなければならないのが心苦しかった。
「……動画の話に戻るよ」
そっと視線を戻しても勇利の表情はよく見えない。それでも顔をゆがめたらしき気配があった。
「あれほどの悲しみを君にもたらしたのは一体何? あるいは誰?」
勇利は答えない。俺は待った。彼が俺の問いを拒絶するのか、あるいは受容するのかを。
答えは拒絶だった。
「い……今まで話したことが全部だよ。嫌がらせされるのが悲しくて、それで気晴らしに滑ってたんだ。それだけだよ」
「そうかな」
「そうだよ。疑うの?」
「さっき下手な言い訳までされたからね」
「それは……嫌がらせのこと、ヴィクトルには隠しておきたかったから。心配させたくなかったし」
「それはそうかもしれない。でも、それだけじゃないだろう?」
「何でそんなこというの」
「それはね、嫌がらせの度合いについて“済ませてくれてる”なんていえるのは、そもそも、そんなことぐらいでは大したダメージを負ってないってわかるからだよ」
「…………」
勇利はぽかん、と口を開けて俺を見た後、次いで悔しそうに顔をゆがめた。
「な……何なの、カマかけたってわけ? こんなこといいたくないけど、ヴィクトル、やり口が酷くない!?」
「カマをかけたわけじゃないよ。嫌がらせの件も原因の一端だろうと思っていたからね。でも、それだけじゃないだろうってことがさっきの会話でわかっただけ」
「ヴィ……ヴィクトルがこんなに尋問がうまいなんて思わなかった……」
俺にもヤコフとか大人たちに散々問い詰められた過去があるからね。それにしても尋問って言い方。
「ねえ、勇利。こうまで君が隠そうとしてることって一体何? もしくは誰かをかばってるの?」
してやられたと憤っているのか、勇利は眉をしかめて視線をそらす。そういえば、事故以来ケンカらしいケンカをしていない。彼の怒った表情を見るのも久しぶりだった。
「もしかして、あのアルメイツィかい? まさかとは思うけど恋愛──」
「やめてよッ!!」
突然、勇利が叫んだ。悲鳴のように。
「邪推するのはやめて!! 彼とはそんなんじゃない! ヴィクトルが想像してるようなことなんて何もない!!」
邪推と断じられて、とうとう俺もカッとなった。
「じゃあ訊いてもかまわないよね? あの男は一体君の何なんだ」
「何でもないよ! 彼とはただの知り合いで、それ以上でも以下でもない」
「だったら何でしつこく会いに来るんだ。ケンカするほどのただの知り合いって何!?」
「ケンカなんてしてないよ!」
「険悪そうだったじゃないか! 俺が見た時!」
「あれは……」
「あれは?」
「あれは、ただ……と、とにかく詮索するの、やめてよ! ヴィクトルには関係ない!!」
関係ない? 関係ないだって!? よくもそんなことを。こんなに心配してるのに、関係ない!?
「関係なくない! 俺は勇利のコーチだよ!? 君のスケーティングによくない影響のありそうなことを排除しようとして何がおかしい!?」
「だから、それはプライヴァシーの侵害だっていってるの! コーチだからって僕の生活全てを把握する必要がどこにあるの!?」
グッと言葉に詰まる。反論しようとして、勇利の言に分があることに気づいて一瞬ためらった。
「ヴィクトルはコーチで同居人、それだけなんでしょ!? 仮にレオニードと恋愛関係になったからって、たとえば痴話げんかしたからって、コーチに報告する義務があるっていうの!?」
「だ、だからスケーティングに影響のありそうなことは──」
「あの動画を撮られた時のことなら、レオニードを想って滑ったんじゃない! 全然違う! 誓ってもいいよ、だから疑うのはやめて!」
荒い息をつく勇利のきついまなざしが俺の胸に突き刺さる。違う、勇利とケンカしたかったわけじゃないのに。
「……オーケー。あの動画の件に彼は関わってないんだね? 嘘だったらさすがに傷つくよ?」
「嘘じゃない。彼とはほんとに何でもないし、正直どうでもいい。こんな風に疑われるなら二度と会わない」
「友達と会うことまで制限しようなんて思わな──」
俺がいいかけると勇利がかぶせるように反論してきた。
「友達じゃない。知り合い。向こうから声をかけてきただけ。アドレスは渡されたけど登録もしてないし、僕のアドレスも教えてない。スマホ見る?」
そこまでは……と断ると、勇利も少し落ち着いたようだった。俺も、あの男が何でもないと知って気が抜けそうになった。でも、だったら、あの悲しみは──と、問題は何も片付いていないどころか、手がかりの一つが消えたことに気づいて気持ちが折れそうになった。
「……ねえ、勇利。そろそろ話してくれないか。このままじゃ話がループするばかりだ。教えてくれ、何がそんなに悲しいのか」
「…………」
「このままじゃ気になって何も手につかないよ。俺はコーチで、同居人でしかないけど、心配することも許されないのかい?」
泣き落としは卑怯だが、もう手段を選んでいられなかった。
「君があんな悲しみを抱えて生きてるなんて──それなのに俺は全然知らずに、自分だけ浮かれて過ごしてたなんて、自己嫌悪で死にたくなる」
「やめてよ。嘘でも死ぬなんていうの」
「ごめん。でも、俺の本心だよ。勇利、君は応えてくれないの? そこまでして何を隠したいの」
「…………」
「勇利」
問いを重ねるように名を呼ぶ。勇利、勇利、君の心に俺の言葉は届かないのか? どうすれば君の頑固な心の扉を開くことができる?
もう一度、そっと名を呼んだ。
「勇利」
「……いえない」
ぽつん、と勇利がつぶやいた。
「いえない……?」
「いえない」
「どうして? 俺には聞く資格がないとでもいうの?」
「……そう……かもしれない」
そうかもしれないって、どういうことだ? 俺に欠けている資格って何だ?
「勇利、わからないよ。ちゃんと説明して。俺にその資格がないかもしれないってどういうこと?」
彼の唇は貝のように閉ざされてしまった。目には何かの決意がみなぎっているのが見て取れる。何が何でも隠し通そうというのだろうか。
「俺には資格がないのかもしれないんだね。だったら誰かほかの──」
「いやだ」
間髪入れず拒絶される。明確な反抗の意志。頑固者の勇利。
「勇利、もう何もないことにはできないよ。君が話したくなくても俺は諦めないし、何度でもしつこく蒸し返させてもらう。何なら、誰かが理由を知っていないかリンク中に尋ね回っても──」
「脅すの? 卑怯だよ、ヴィクトル」
「何といわれたっていい。卑怯な手段だって使う。もう知らなかったことにはできないし、放っておく気もないから」
「…………」
「勇利」
今夜、もう何度彼の名を呼んだだろう。
「……どうして」
「うん?」
「どうして放っておいてくれないんだよ。ヴィクトルには関係ないだろ」
「またそれをいうの? あのアルメイツィが関係ないのはわかったけど、君のスケートへの影響っていう大問題は残ってる。関係なら大ありだと思うけど」
「コーチとして?」
勇利の唇が苦笑の形に歪む。どこか鼻で笑うようなそぶりがあって癇(かん)に障った。だが、何とか気を静める。そう、ケンカしたいわけじゃないんだ、落ち着け。
「……そうだよ、コーチとして。それだけじゃ足りないのかい?」
ふ……と小さく吐息をもらして勇利は肩を落とした。
「コーチだから」
「え?」
「ヴィクトルはコーチだから。だからいえないし、話したくない」
「……俺がコーチじゃなかったら話せるってこと?」
「……そうかもしれない」
またそれか。かもしれないって何なんだ。さすがに苛立ちを抑えきれない。
「勇利、俺はこんな夜中に謎かけをする気分じゃないんだ。俺は君の、コーチで、同居人で、友達だと思ってる。いや、親友といった方が正しいな。そんな俺でも話せないほどの重大なことがあるっていうなら、ハセツのご両親にでも──」
勇利は無言で首を振った。
「あれもダメ、これもダメって、子供の駄々じゃないんだよ、勇利。そんな手口が通用するわけな──」
「だから、ダメなんだよ! ヴィクトルにはいえない!」
たまりかねたように勇利が叫ぶ。ああ、また繰り返すのか。けれど、自分を抑えられなかった。
「俺には!? 俺にいえないなら誰にならいえるんだ! ヤコフか、ユリオか、ミラか!?」
勇利は堅く目をつぶって首を横に振り続ける。両の手で耳を塞いで、もう何も聞きたくないとばかりに背を丸めた。
俺はベッドに乗り上げて勇利の両腕を掴み、彼の耳をあらわにさせた。
「勇利!!」
「放っといてよ! コーチで同居人で親友のヴィクトル! でも、僕のものじゃない! 僕の親友じゃない、僕のコーチじゃない!」
愕然として、勇利の両腕を掴んでいた手の力が緩む。彼は俺の手を振り払うように膝を抱えて丸くなった。勇利の肩が震えている。かすかな嗚咽(おえつ)が聞こえてくる。食いしばった歯の隙間から、それでも漏れ出てしまうのを押さえられない、そんな密やかな音。
勇利。勇利!
「何いってるんだ。俺は──!」
「全部、全部、元の僕のだ。今の僕のものじゃない。今の僕は、元の僕のふりをしてるだけ。元の僕の時間を盗んで、ヴィクトルとの関係性まで盗もうとしてるんだ」
「馬鹿なことをいうな! 何度もいってきただろう!? 君は君だ、勝生勇利は一人だけだ、って!」
顔を伏せたまま勇利は激しく首を横に振った。
「それが原因なのか? それが悲しくて、あんな風に滑ったのか? だとしたら、とんだ杞憂(きゆう)だよ、勇利。たとえ君の記憶がこのまま一生戻らなくても、俺はずっと──」
勇利は顔を上げると俺の言葉を遮(さえぎ)ってまくし立てた。
「ずっと? コーチと選手の関係はいつか終わる。そうなれば同居もおしまい。親友でも離れてしまえば日ごとに関係は薄くなる。僕が日本に帰ったら、それこそ年単位で会えなくなるだろ。その間にヴィクトルは、どこかの美人と結婚して幸せになってるんだ。今日だって、いいニオイさせてるくせに! 僕は、誰一人知ってる人のいない日本で、楽しかった束の間のロシア生活を思い返しては未練がましく──」
「待って! 待って、勇利。ストップ。落ち着いて」
「僕は落ち着いてるよ!!」
いや、どう見ても興奮状態じゃないか。頬は紅潮してるし、息は荒いし、眼鏡には涙の粒がたまってて、何ならちょっと鼻水も出てるぞ。
「わかったから、一旦深呼吸でもして。Calm down,OK?」
枕元に置かれたティッシュボックスから数枚引き抜いて彼に手渡す。勇利はごしごしと顔を拭いて──ああ、そんな拭き方したら肌が荒れる──ついでに鼻までかんだ。そして乱暴なしぐさで丸めてゴミ箱に投げ捨てた。それから、今度は自分でティッシュペーパーを引き抜いて眼鏡を拭う。俺は一連の動作が済むのを躾けられた犬のようにおとなしく待っていた。
勇利はまだぐすぐすと鼻をすすりながら呼吸を整えようとしている。
さて、こんなデリケートな話題をどう切り出すべきだろうか。普段の俺ならもう少し気の利いた言葉が出てくるはずだが、いい加減きつい話合いで疲れていた。これでは言葉選びも雑になる。
「勇利、……俺の聞き間違いじゃなかったら、今の……やきもち?」
結局、ど真ん中をついてしまった。勇利はハッとした顔をすると、あらぬ方を向いた。
彼の反応を見て俺は確信を深めた。勇利、君は。
「もしかして君は、俺のこと──」
彼の肩がびくりと震え、横顔にはまた涙の浮かぶさまが見えた。
「そう……だったのか。だから、俺にはいえなかった? ただのコーチで、ただの同居人で、ただの親友の俺には」
勇利は何の音も立てない。俺は明らかになった意外な事実にしばし呆然としてしまった。
すると勇利は、ふ、と吐き捨てるように息をついた。
「──違うよ」
「え?」
「違う。そんなん、じゃ……ない」
「いや、でも──」
嫉妬してたじゃないか、今。顔も知らない女の残り香(が)に。
「僕が、記憶の件で心細い思い……をしてるのに、ヴィクトルは、美人と楽しく遊んでたんだなあ、と思って、……ちょっと、やっかんだだけ。そんなんじゃない」
じゃあ、何で君はまた泣いてるんだ。泣くほどやっかむなんてことがあるか? 下手な嘘をついて何をごまかそうとしてる?
「勇利、知ってるとは思うけど、俺もいろいろ恋愛やら恋愛もどきやらしてきた男でね。悪いけど、ごまかされてあげられないよ」
勇利の唇が震えている。嗚咽を漏らすまいと真一文字に結ばれたそれは、歯で噛みしめているのか少し白っぽくなっている。
「だ……として、も、……ヴィクト、には、関係な……」
「どうして!? なぜ隠そうとするの。俺が気持ち悪がるとでも思ってるの?」
勇利はゆっくり首を左右に振った。
「なら、安心して。俺は今までと変わらず勇利を大事にするし、ずっと──」
「ずっと? 親友だよ、って? ……そういうの、いいから」
「勇利! どうして──」
「ヴィクトルこそ、どうするつもりなの。同居人が自分を妄想のタネにしてるかもしれないってわかってて、それでも変わらずにいられるの。──ううん、ヴィクトルなら、その辺のことも気づかないふりしたりしてうまくやってくれるかもしれないね。ヴィクトルは優しいから。けど、僕はそんなのいらない」
「勇利──」
「憐れみなんていらない。それならいっそ、すっぱり別れた方がいい」
別れる? 勇利と?
「僕、日本に帰るよ」
足下の床が轟音を立てて崩れる幻覚が俺を襲う。目の前が白くなって血が下がっていくのが何となくわかった。次いで、あのバルセロナの夜がよみがえる。二度と聞きたくないあの言葉、それと同じ意味の言葉をまた勇利が──。
きっと俺は今、亡霊のような顔をしているのだろう。言葉を継げない俺を不審に思ったのか、勇利はこちらを向き そしてぎょっとした顔をした。
「ヴィクトル……大丈夫? どうしたの?」
……そうだ。今の勇利はバルセロナでのことを覚えていない。だから俺の反応が激しすぎることに戸惑っている。
パチパチと目をしばたたく。それから、ぎゅっと目蓋を閉じて息を吐き出す。目尻に涙がにじんだのを気づかれただろうか。けど、涙がなんだ。どうせなら血の涙でもにじめばいい──。
「ヴィクトル……?」
「──ああ、大丈夫……じゃないな。うん、大丈夫じゃない。勇利のせいだ。勇利が酷いことをいうから」
「え……」
きっ、と勇利を睨み据える。バルセロナの時はぼろぼろ泣いたけど、今はあの時以上に頭の中が溶岩みたいにぐつぐつと沸騰している。
「日本に帰るなんてダメだ」
「どうして!?」
勇利が気色(けしき)ばんで身を乗り出す。もうケンカしたくないなんていってられない。冷静さなんて糞食らえ。外面を取り繕って大事なものを失うなんて愚か者のすることだ。
「どうしてだって!? 俺を想ってくれてるのがやっとわかったのに、日本に帰せるわけないだろ!」
「何いってるんだよ! 僕の気持ちがわかったっていうなら、なおさらいってることがおかしいだろ! この先、たとえばヴィクトルが誰かと結婚して幸せな家庭を築くのを、ロシアで指をくわえて見てろっていうの!? そんなの拷問じゃないか!」
「結婚なんかしない!」
「はあ!? そんなの、あり得ないだろ!? それに、仮にそうなったとしても、僕が片想いし続けるのは変わらないだろ! ヴィクトルは僕が苦しみ続けるのを望んでるとでもいいたいの!?」
「そんなこといってない! 俺は誰より勇利の幸せを望んでる!」
「だったら、僕の希望どおりにしてよ!」
「いやだ! 日本には帰さないよ!」
「だから、何でだよ!?」
「何で、って──!」
何でだ? 俺は何でこんなにも勇利と別れたくないんだ。
この家から、ロシアから勇利がいなくなる? 日本に帰られたら時差を気にして電話すらためらわれてしまう。メールでのやりとり? ダメだ、この感じじゃ勇利がまともに返信するかどうかも怪しい。
勇利と別れる? 俺の傍から勇利がいなくなる? そうして、俺の知らない生活を送って、俺の知らない誰かと、そう、あのアルメイツィみたいにちょっかい出してくるやつと仲良くなって、そして俺の知らないうちに恋仲になって。
ダメだ、ダメだ、絶対にダメだ。だって勇利は俺の──。
その途端、ストンと何かが鳩尾(みぞおち)のあたりに落ちて、俺は不意に理解した。
そうか。そうだったんだ。
あのアルメイツィがとにかく気にくわなかったのも、勇利にちょっかいを出す男女に腹が立ったのも、あの中傷メモに自分の身体が傷つけられたような怒りを覚えたのも。
勇利を日本に帰したくないのも。
「……わかった」
「……そう。わかってくれたんだ? それなら、明日──もう今日だね、荷物をまとめるから。ヤコフコーチにも挨拶に」
「ああ、違う、違うよ。わかったのはそのことじゃない」
「は?」
俺は勇利にきちんと向き直った。ヴィクトル・ニキフォロフ、一世一代のコクハクだ。
「勇利。さっき結婚なんかしないっていったけど、間違ってた。俺はやっぱり結婚したい」
「……そう」
「結婚するなら君がいい」
「……はい?」
「君は片想いじゃない」
ぽかんとする勇利の手を取って、その手の甲に音を立てて口づけた。
「意味、わかったよね? だから日本に帰るなんていわせないし、帰さないよ」
呆気にとられたように勇利はしばし黙り込んで、自分の手の甲と俺の顔とを見比べていた。そして、あろうことか、げらげら笑い始めたのだ。
「ヴィ……クトル、何やってんのさ。芝居がかるのもたいがいにしてよ。おっかしい」
今度は俺が呆気にとられる番だった。何だ? 何がおかしいのか俺にはさっぱりだ。
ひとしきり笑うと、勇利は目尻の涙を指先で拭った。俺はといえば、一世一代のコクハクを笑われてちょっと気を悪くしていた。
「何? 何がおかしい?」
「だって」
勇利はなんだか憑き物が落ちたようなとでもいうような表情をしてる。
「結婚するなら僕がいい、なんて、その場しのぎの冗談に、手にキスまでしちゃって。さすがに笑っちゃうよ」
これにはカチンときた。冗談って何だ。人のコクハクをなんで冗談扱いするんだ。日本人はコクハクを重要視するんじゃなかったのか。
「冗談なんかじゃない。俺は本気で──」
「何いってんのさ。さっきまで、ただのコーチとかいってた人が。それがいきなり結婚とか言い始めたら、そりゃあ──」
「信じられない?」
「それにヴィクトルが僕を?って思ったら、あり得なさすぎておかしくて……」
思い出し笑いまでしそうな雰囲気に、俺は眉をしかめた。こちらは真剣なのだ、相手が勇利といえど、笑うなんて失礼じゃないか。
「何であり得ない、なんていうんだ。どうして信じてくれない? 疑う理由がどこにある?」
「あのね、ヴィクトル」
勇利は視線を落として、ふう、と息をついた。何、その聞き分けのない子供に接してる大人みたいな態度。
「ヴィクトルはロシアの皇帝、リビングレジェンドって呼ばれてる人だよ? 確か、世界一モテる男ともいわれてるんだよね? 今日だって女物の香水の匂いさせて帰ってきた人が僕と結婚? あり得ないでしょ。それにロシアは同性婚どころか、同性愛自体禁止されてるようなものでしょ? ヴィクトルはトップ・アスリートとして二世だって期待されてる。そんな人が僕を選ぶなんて信じられるわけないでしょ」
「匂いがするのは謝るよ。でも、楽しく遊んでなんか」
「ねえ、ヴィクトル。どうして僕を引き留めたいのか、理由はわからないけど、引き留め工作に僕の気持ちを利用するみたいなことはやめてよ。いくらヴィクトルでも気を悪くするよ?」
気を悪くしてるのはこっちだ! 引き留め工作に気持ちを利用する!? 俺をそんな卑劣な男だと思ってるのか! ああ、叫びたい。腹の底から叫びたい。
一方の勇利はといえば、すっかり何かを諦めきった目でこっちを見ている。まったく、俺のコクハクをこんな斜めに受け止めるなんて、勝生勇利の頭の中はどうなってるんだ!?
俺は腿の上に、ぱん、と手を置いて身を乗り出すと、精一杯まじめな顔を作った。
「オーケー、一つずつ解決していこう。まず、俺は今夜、あの動画が気になって酒も食事もどんな味だったか覚えていない。おまけに同席した女はやたらグイグイとアピールしてくる馴れ馴れしい女で、正直不愉快で仕方なかった。もう顔も思い出せない。こんなところで無駄な時間を過ごすなら、さっさと家に帰って勇利とマッカチンと過ごしたくて仕方ないって思ってた。動画の件で一刻も早く話し合いたいとも思ってたしね。勇利が考えてるような楽しい夜じゃ、全然なかった。──ここまでは信じてくれる?」
「え……あー……うん、まあ……」
「もしかしたら写真の一枚ぐらい撮られてて、例のごとく熱愛発覚ってゴシップ誌を賑わすかもしれないけどね。でも、勇利に顔向けできないようなことは、断じてしていない。宣誓しようか? ゴッドでもブッダでも、勇利の信用のおけるものにかけて誓おう」
「いや……そこまでは。わかったよ、楽しい夜っていうのは誤解でした。ごめんなさい」
何となく不信の残る顔つきをしていながらも、勇利は一応俺の言葉を受け入れた。何ならスマホも見せようか? でも、誰だったか覚えていないアドレスも登録しっぱなしになってるから説明に困るな。
それでもダメ押しと思ってスマホを見るかと彼に提案すると、いいよ、と手を振られた。
「じゃあ、次に俺の気持ちについて。確かに俺はリビングレジェンドと呼ばれてるし、実体はともかく世界一モテる男ともいわれてる」
何が世界一モテる男だ、勝生勇利一人オトせていないのに! 誰だ、こんな無責任な二つ名を俺に背負わせたのは! おかげで本命に信じてもらうのに苦労させられてるんだぞ!
「で、その俺が勇利に惚れて何がおかしい?」
「いや、だから──」
「リビングレジェンドには内心の自由もないってこと? 俺は本当に好きな相手を諦めて、国の望むまま女性アスリートかロシア美人と結婚して、種馬同然の生活をしろと、勇利はそういいたいの?」
「そんな! そんなこといってないよ。僕はただ、ヴィクトルには幸せになってほしいって──」
「幸せになりたいよ。そのためには勝生勇利に俺を受け入れてもらわなきゃいけない。俺の気持ちを信じてもらわなきゃいけない。こんな簡単なことなのに、勇利の頭の中でどんな複雑怪奇な変換されると引き留め工作なんてことになるんだ」
恨み節が混じってしまったが、仕方ないだろう? 今夜の俺は頑張ってる。以前の俺なら、こんな面倒な話合いなんて途中で椅子を蹴って退席していたはずだ。
「勇利。君のいう、俺の幸せって何?」
それは……、と勇利は口ごもる。ためらいがちに視線を行ったり来たりさせて、それからおずおずと口を開いた。
「ヴィクトルには……誰よりも幸せになってほしい。誰か素敵な人と、誰もがうらやむような結婚をして、……子供を持って、温かな家庭を築いて……満ち足りた人生を」
「そこに、勇利は入らないの?」
俺の言葉を聞いた彼はちょっと驚いた顔をして、それから怒り出した。
「何いってるんだよ。男同士なんだから結婚なんてできないだろ」
「同性婚できる国があるじゃないか」
「子供だってできない」
「養子を迎えるって手もある。実子でなければ育てたくない、なんていわないよ、俺は」
「温かな家庭を──」
「今、俺のこの家はとても温かいよ。勇利がいて、マッカチンがいて、お帰りとただいまと、朝にはおはよう、夜にはおやすみなさいを言い合える大切な人が傍にいる。これ以上に満ち足りた生活ってあるかい?」
「でも、ロシアじゃ非難される。世間には受け入れられない。ロシアのスケ連だってガッカリするし、ヴィクトルのファンだって──」
「だからね、勇利。俺はそういうもののために、唯一無二の人を諦めて、自分の人生を犠牲にしなきゃいけないのかい?」
「犠牲って──」
「違う? 勇利は俺に、体面のために一番の幸せを諦めろといってるのも同然なんだよ。わかる? それが勇利の考える、俺の、誰もがうらやむような幸せだっていうの?」
勇利は呆然とした表情をして、それから考え込むように黙り込んだ。複雑怪奇な彼の思考がどこに帰結するのか不安で仕方ない。
俺は待った。勝生勇利と付き合うようになって、本当に俺は忍耐強くなったと思う。思えば、今までの恋人との愁嘆場は、さっさと切り上げたくてキスでうやむやにしてきたし、それ以外の面倒そうなトラブルはヤコフやスタッフに丸投げすることが多かった。今思うと、俺は何と不誠実な男だったことか。
でも、勇利にそんな態度は取れない。俺の人生において、彼ほど大切だと思う人間は初めてだから。
「ヴィクトル……もしかして、だけど」
恐る恐る口を開いた勇利に、できる限り優しく相づちを打つ。励ますように。どうか俺の言葉をまっすぐ受け止めてくれと祈りながら。
「もしかして……僕のこと、す……す、好、き、……なの……?」
Yes! と快哉を叫ぶ自分と、初めからそういってるだろうが! と怒り出す俺が内心でせめぎ合って、歓喜する俺が勝利を収めた。
「そうだよ。俺は勇利と離れたくない。ずっと一緒にいたい。そのためなら国とだって戦ってみせる。もちろん俺が勝つよ。俺は自分の幸せを諦めるような男じゃないからね。誰にも負けない。たとえ相手が君でも、ね」
勇利は知らない生き物を見るような目で俺を見つめる。その珍獣を見るような目つきは何とかならないかと思ったが、今、ここにいるのは俺ですらさっきまで知らなかった俺だ。ただのコーチで同居人で、ただの親友だと思っていたなんて我ながら信じられない。というか、自分が自分の気持ちにここまで鈍感だとは。
「ヴィクトル……が、僕を、好き……?」
自問自答するようにつぶやいて、それから勇利はうろたえながら叫んだ。
「う、嘘だ!」
「なんで!?」
怒るぞ、いい加減!
「だって、なんでヴィクトルが僕なんかを好きになるんだよ!? 周りには素敵な人がいっぱいいるのに、僕みたいなどこにでもいる、しかも男を、ヴィクトルが好きになるなんておかしいよ!」
おかしくて悪かったな!
「じゃあ聞くけど、勇利は何で俺を好きになった? 勇利だって日本の誇るフィギュアスケーターで二世を期待されることは俺と変わらない。それでも俺を好きになったんだろう? そこに理屈なんてあったのか?」
「それは、……だってヴィクトルは顔も綺麗で、スケーティングは美しくて、技術は完璧だし、教本みたいなジャンプは思わず見とれちゃうし、でも全然偉ぶらないし、優しいし、一緒にいて楽しいし、好きになる要素ばっかりじゃないか。好きにならない方がおかしいっていうか」
「お褒めにあずかってありがとう。勇利に褒められて嬉しいよ。そういう勇利だって、大きな紅茶色の瞳は時々引き込まれそうになるぐらい可愛いし、顔立ちも整ってるし、世界でも勇利にしかできないステップはとても魅力的だよ。表現力と、練習量に裏打ちされた確かな技術とが組み合わされて生まれる世界観は、ちょっとほかには見られない持ち味だと思ってる。わがままで頑固だけど、余裕のある時にはそれすら可愛い。小ぶりな鼻と下がり眉はキュートだし、唇は大きすぎず小さすぎず、ふっくらして美味しそうだし、そうそう、マッカチンとじゃれ合ってるのを見てると可愛らしいわ幸せだわで思わず微笑まずにはいられないんだ。それに──」
「ま、待って待って。ストップ、ヴィクトル、もういいです、勘弁してください」
勇利はゆでだこのようになって俺を制止した。何だ、まだ言い足りないのに。ダンスのこととか酔っぱらった時の可愛さとか、カツ丼を食べてる時の至福の表情の味わい深さとか話したかったのに。
その間、勇利は心臓の上あたりに手を置いて、せわしない息を何とか落ち着かせようとしているようだった。
「少しは信じる気になった?」
俺が問いかけると、勇利は何となく恨めしそうな目で俺を見た後、はーっと大きなため息をついた。
「なんか……信じられないけど信じざるを得ないっていうか。キツネにつままれたような……」
後半は日本語でよく聞き取れなかった。キツネ? ツママル? 日本のことわざだろうか。
「でも……ほんとの、ほんとに、ヴィクトルが……僕を?」
まったくもって疑り深い。俺はちょっと肩をすくめると、再び勇利の手を取った。
「じゃあ、改めてやり直そう」
勇利は目をまん丸にしている。こぼれ落ちそうな瞳は、今夜何度も泣いたせいで、まだ少し潤んでいる。
「勇利、俺は勇利とずっと一緒にいたい。もしも結婚するなら相手は君がいいし、結婚なんて形にこだわらなくても、二人でいられるならそれだけで幸せだ。だから日本に帰るなんていわないで」
勇利の手の甲に、今度は優しく口づける。見上げた勇利の目は、また涙に覆われていた。
「俺を信じて、勇利」
願いを込めて呼びかけると、彼はほろほろと涙を落とした。
「僕、は」
「うん?」
「僕は……好き、になっちゃいけないんだって……ずっと、思って……」
「どうして?」
俺の手の中からそっと自分の手を引き抜いて、勇利は涙を拭う。
「僕は……本当の勝生勇利じゃない、から」
ああ、勇利、それほどまでに記憶を失った事実が君にはプレッシャーだったなんて。呑気に笑っていた過去の俺を絞め殺してやりたい。
「だから……気持ちを気づかれるわけにはいかない……ヴィクトルの迷惑になる。それに……」
「それに?」
「本当の勝生勇利に……悪いから……ヴィクトルを盗っちゃうみたいになる……ヴィクトルの気持ちも振り回してしまう……それだけはダメだって……」
「俺の気持ちを振り回す?」
「だって! ヴィクトルは優しいから! ……きっと嫌な思いしながらも……僕と接してくれようとする……わかるから……それに……」
「うん?」
「もし、ヴィクトルが……受け入れてくれても……記憶が戻ったら? なかったことになる……本当の僕は何も知らない、でも……ヴィクトルだけが覚えてて、きっと苦しむ、そう思ったら……」
俺はもう、いてもたってもいられなくて、勇利を腕の中に囲い込んだ。丸い後頭部を押さえて肩に伏せさせると、しゃくり上げる声が大きくなる。
「ヴィクトル……ヴィクトルが、今の僕の世界の全てで、でも、だから……絶対に手を触れちゃいけないものなんだって……そう、ずっと……」
声がやんでも彼の背中は震え続ける。俺はいたわりを込めて摩りながら彼が落ち着くのを待った。
どれくらいの時間が経ったのか、勇利の息づかいがだいぶ緩やかになったのを両腕に感じて、俺はそっと彼の顔を覗きこんだ。
「ずっと悩んでたの? ……ひとりで? それが悲しくて、あんな風に滑ったの……?」
勇利は言葉もなく頷いた。ぐす、と鼻を鳴らしてから、ぽつぽつ話し出す。
「時々気持ちが抑えきれなくなって……泣きたくなる。苦しくて、でも、そんなことしたら心配される。今の僕はただでさえ、みんなの配慮の中で生きているのに。だから、誰にもいえないから……」
想いを滑りに昇華させて、叫ぶ気持ちを押し殺して。それがあの、魂を震わせる滑りの──。
俺は少し身体を離すと、彼の顔をこちらに向けさせた。
「勇利、その頑固な頭に今度こそしみ込んでくれと心から願うよ。勝生勇利は一人だけだ。元も今もない、記憶のあるなしなんて関係ない、ただ、そのままの君でいてくれさえすればそれでいいんだ」
「ヴィクトル……」
「大好きだよ、勇利」
ころん、と転がり落ちた涙の粒がきらめいて見えた。
勇利のまろい頬を両手で包み、想いを込めて口づける。触れるだけの優しいキス。それでも彼は耳まで真っ赤になった。可愛いな、と思ってもう一度口づける。慌てて目を閉じる不慣れなさまがまた可愛くて、二度、三度とプレッシャーキスを繰り返した。
心のままに唇を食んでいると、勇利の手が俺の身体を少し押し離してきて、名残惜しい気持ちを抑えながら身体を起こした。
「も、……いきなり刺激強……」
「ええ? キスだけで?」
意味ありげに微笑んでみせると勇利はさらに赤くなる。すごいな、と感心すると同時にちょっと心配になった。
「いいよ。ゆっくりいこう。ずっと一緒だから。──ね?」
うん、と素直に勇利はうなずいた。そして、やっと少し微笑んだ。
「でも、最後にもう一度キスしたいな。──いい?」
「う、うん」
ありがとう、と呟いて顔を寄せる。勇利はぎこちなく目を閉じる。唇が触れあう。
俺は彼の顎を押さえると、力を込めて彼の唇を舌で割った。んん!? と驚く勇利を押さえて、そのまま熱い口内に舌を滑り込ませると思うさま貪る。
んん、ん、と呻きながら俺の肩を叩く拳が動かなくなるまで彼の唇を味わった。
ゆっくりと唇を離すと、とろんとした勇利の瞳に出会う。チュッとキスしてやると、ぱちんと音を立てて彼の目蓋が開閉して、瞳に理性の色が戻ってきた。
「……もうっ、ヴィクトル! ずるい!!」
「えー? なかなか信じてくれなかったオシオキだよー。それに嘘はついてないよ、キスしたいっていったじゃない」
「い、いったけど、確かにいったけど、こんなキスするなんて聞いてない!」
「断らなきゃいけないの? 恋人なのに?」
「こっ……」
恋人というワードに強烈に反応して勇利は絶句してしまった。
「ねえ、勇利、明日──もう今日か、今日から新しい習慣を始めよう。おはようとおやすみと、ただいまとお帰りなさいのキス!」
「ええっ!?」
「大丈夫、挨拶の時はディープなのはしないから。ね? いいよね? 恋人だもん」
恥ずかしいとごねる勇利を粘り強く、かつ、宥(なだ)めすかして説き伏せて、俺は朝晩最低四回のキスを勝ち取ることに成功した。そうとも、俺は欲しいものを我慢しないタチなんだ。ついでに一緒に寝ようと持ちかけたが、それには彼は頑としてうなずかなかった。
勇利は、もう、とか、強引、とかまだぶつぶつ呟いているが、聞こえないふりをする。
「あーあ、このまま押し倒したいところなのに、明日、じゃない、今日も一日スケジュールがぎっしりなんて、ついてないなあ。勇利は? 午前も午後もリンクの日だったよね?」
押し倒すのくだりを丸ごと無視して、勇利は「午前はオフアイス、午後はリンク」と応えた。ちょっとホッとしてるようなのが面白くなかったが、あまり追い込むとヘソを曲げられてしまうので矛を収めることにする。
「それじゃ、今から始めよう。おやすみのキス」
「えっ!? 明日、あ、今日? あーもう! ややこしいな! とにかく──」
俺はもう有無を言わせずバードキスをお見舞いした。「ヴィクトル!」と顔をくしゃくしゃにして怒る勇利が可愛くてダメ押ししそうになる自分を、すんでのところで押さえる。名残惜しい気持ちも同時に抑えこんでベッドから立ち上がった。
じとっ、と睨んでくる勇利に俺はにっこり笑ってみせる。彼が俺の顔を好きでよかった。大概のことはなし崩しになる。
「それじゃあ、本当におやすみ、勇利。朝まで離ればなれなのが寂しいよ」
「おやすみ、ヴィクトル。また明日──じゃない、朝にね」
後ろ髪を盛大に引っ張られながら勇利の部屋を出る。彼は俺がドアを閉じるまで見送ってくれた。
自室へ向かいながら、俺は浮き立つ心を抑えられなかった。朝には俺たちの新しい日々が始まる。こんなに朝が待ち遠しいと思うのは久しぶりだった。
「……クトル、ヴィクトル。起きて。ねえ、起きてよ。ヴィクトルってば」
有無をいわさぬ手に執拗に揺り動かされて意識が覚醒に近づいていく。耳に優しい、愛しい声。そう、これは勇利の声──。
声の主に思い当たった俺は、まだ半覚醒の頭のまま、彼に向かって両腕を伸ばした。おはよう、俺の可愛い子豚ちゃん……。
ところが、「寝ぼけないで」という声とともに、ぺちっと手をはたかれてしまった。何だろう? 今朝の勇利はワイルドな気分なのかな。
睡眠時間が足りないと主張する目蓋をこじ開けて、想いが通じ合ったばかりの恋人の姿を捉える。なんだか血相を変えているように見える。何? まさかトラブルでも?
途端に意識がしゃっきりして、俺は完全に覚醒するとベッドから身を起こした。
「おはよう、勇利。どうしたんだい? なんだか慌ててるみたいだけど」
「それどころじゃないよ! なんだかおかしいんだ。ねえ、今日は何月何日!?」
起き抜けの頭ではとっさに何も思い浮かばなくて、枕元のスマホを手に取り日付を確認する。それを告げると勇利は「やっぱり……」と絶望を顔に漂わせた。
「おかしいんだ、僕の記憶では昨日まではまだ春だったはずなのに、スマホの時刻表示も部屋のカレンダーも夏になってて。おまけに髪型もなんか変なんだ。ねえ、何が起こってるんだと思う? 僕、頭がどうかしたのかな」
ガツンと殴られたような衝撃、という表現は大げさだと思っていた。とんでもない。ハンマーで殴りつけられたような衝撃だった。
「ヴィクトル、聞いてる!?」
片手を上げて彼を制する。
聞いてる。ちゃんと聞いてるよ。だから、ちょっと待ってくれないか。
不満と焦燥とに彩られた勇利の顔。安心させてやらなければならない。でも、少しだけ待ってくれないか。少しでいい。ほんの少しだけ。
目が熱いのは寝不足のせいなのか涙が出ようとしているからなのかわからない。首筋から背中にかけて疲労感にも似た重みが圧(お)しかかるのを感じる。
右手で目を覆うと満腔の息を全て吐き出し、次いで胸いっぱいに息を吸い込む。そうして無理矢理気持ちを切り替える。今日は忙しくなる。勇利、君に長い長い話をしなければならない……。
「ごめん、勇利。ちょっと昨夜遅かったから。カレンダーはね、それで合ってるんだ。サンクトペテルブルクはもうそろそろ秋の気配だよ」
「そんな……僕、一体どうしちゃったんだろう……」
途方に暮れたような勇利の顔を見ていたら、昨夜の泣き顔を思い出してしまった。可愛い勇利。俺の愛しい恋人……。
「どうしてそんなことになってるのかは俺が知ってる。ちゃんと説明するよ。でも、まずは着替えさせてくれないかな? リビングで待ってて、すぐに行くから。──ああ、よかったら紅茶を入れてくれる? 飲みながら話そう」
わかった……、といって勇利は不安げな面持ちのまま立ち上がり、背を向けた。その背に向かって声を投げる。
「ねえ、勇利。おはようのキスしない?」
振り向いた勇利は呆れ半分、怒り半分といったような顔だった。
「はあ? 何いってるの、ヴィクトル。まだ頭が寝てるの?」
俺は苦笑を返す。それ以外に今はふさわしい表情がないから。
「ごめん、ごめん。ちょっと今朝はやさしいキスで起こされたい気分だったんだ」
勇利は再び背を向けると、口の中で何か俺への文句らしき言葉を呟きながら部屋を出て行った。
はあ、と息をついてベッドに倒れ込む。
腕で目を覆って誰にとも、何にともなく祈りを捧げる。
昨夜の勇利。怒った勇利、俺を窘(たしな)める勇利、初めてのキスに真っ赤になった勇利、部屋を出る俺を見送った勇利。
大丈夫だよ、勇利。俺は覚えてる。忘れやしない。俺が生きている限り、君は俺の中で生きている。
一緒に生きよう。俺たちはずっと一緒だ。
弾みをつけて起き上がり、部屋着を身につける。勇利の涙がしみ込んだ肩の辺りにそっと触れる。まだ熱を持っている気さえする。宝石が散るように落ちた勇利の涙。
勇利。大好きだよ。
さあ、部屋を出よう。勇利が待ってる。
今日は忙しくなる。勇利と話したら、ハセツに電話──まだ真夜中だけど、一刻も早く知らせた方がいい。それからエージェントに連絡して今日の仕事は全部キャンセルだ。その後、ヤコフに連絡して、病院に連絡して。
寝室のドアを閉じながらベッドに視線を投げる。昨夜、俺を見送った彼の姿が脳裏に浮かぶ。はにかんだ笑顔。何度も泣いて、こすって、林檎みたいに赤くなった頬っぺた。
幻を断ち切るようにドアを閉じた。
胸が痛むのは少しだけ。
ほんの、少しだけ。
【終】