「イラついてるわねえ、ヴィクトル。カツキとは仲直りしたんじゃないの?」
またもミラから声がかかったのは、勇利との話し合いを持ってからやはり三日目のことだった。
「やあ、ミラ。そんなにイラついて見えるかい?」
問いに問いで返すのはよけいに苛ついて見えないか──と思ったが、時すでに遅し。
ミラは大げさに肩をすくめて首を振った。ついでにため息まで。
「だってヴィクトルったら貧乏ゆすりまでしてるじゃないの。ロシアの皇帝サマにそんなことされたら、誰だっておかしいと思うわよ。爪も噛んでるみたいだし。形が悪くなるわよ」
うっ、と思わず爪を見る。まさに今、声をかけられるまで噛んでいたところだった。ごく幼い頃のクセがぶり返すとは、いい大人が情けない──と、彼女を前についこの前も反省したばかりだ。進歩がない。
「──ちょっと気になることがあってね。でも、気をつけるよ。雰囲気を悪くして申し訳なかったね」
「あら、謝ることないわ。ただねえ、原因は何だ、カツキとは別れるのか──って賭けまでやってる連中もいるとか何とか」
「え、マジで」
「ほんとのとこは知らないわ。でも、面白がってる連中がいるのは間違いないわね。皇帝サマのご乱心に興味津々って感じかしら。もちろん、心配してる人だっているけど」
苦笑が漏れる。皇帝だ、レジェンドだともてはやされていても弱ったところをみせれば、これだ──誰もが次の皇帝の座を狙っている。あるいは足を引っ張ろうとしている。虎視眈々と。
「俺をネタに賭けなんてされちゃ、これ以上おかしなところは見せられないな──ありがとうミラ、心配してくれて」
「気にしないで。今度何か豪勢な差入れでもしてちょうだい」
年下の女の子に気遣われるのはこれで二度目か……。
気をつけよう、と立ち上がったところで折良くヤコフの声がかかった。こちらの様子を窺ってタイミングを計ってくれたのだろう。ミラといい、気を遣われてるな──と自嘲しかかって、やめた。同じことの繰り返しだ。
蹴落とそうとする連中と同じくらい優しい人間だって俺の周りには存在する。そんな彼らに応えるには、皇帝として、レジェンドとしてふさわしい成績を上げることだ。
気を引き締めて氷に乗ると冷気が頬を叩いた。
実際、俺は苛ついていた。
勇利との話し合いは一応納得のいく形で終わったが、例のアルメイツィ(SKA所属のホッケー選手の愛称だ。名前を何度も思い出して記憶に定着させたくない)との仲については聞き出せていないし、仲直りの都合上、彼らの関係について口を出さないことになってしまった。これが地味にストレスがたまる。
もしかして勇利はあの男と付き合ってるのか? だが、それにしては険悪な雰囲気だった──痴話げんかってやつだったのか? 大体、いつ、どこで知り合ったんだ。最近、休養日にきちんと休んでいるのは、まさかデートのためだった? 俺に一言もなく!?
いやいや、待て待て。
あれでも勇利は立派な成人だ。二十四歳だ。全然見えないけど。ティーンにしか見えないけど二十四歳だ。デートしようが恋人を作ろうが勇利の勝手だ。詮索するのはプライヴァシーの侵害だし、俺だって過去には周囲に散々詮索されて嫌な思いをしてきたじゃないか。勇利に同じ思いを、俺がさせるわけにはいかないじゃないか。
とはいえ、あの見た目だ、目をつけるのが身ぎれいな連中ばかりとは限らない。デートで盛り場にでも行かれてみろ、裏路地に引っ張り込まれて何をされるかわかったもんじゃない。金を取られるぐらいで済むなら御の字、もっと酷いことになったら? その発端があの男だったら──。
俺はあの男を殺すぞ。
いや、ちょっと待て。先走りすぎだ。まだ付き合ってると決まったわけでもないのに。
だが、付き合ってないとしたら何度も会いに来るのはどういうわけだ? 俺の知らないところで何度も会っているとしたら、やっぱり彼らは付き合ってるのか?
……こんな不毛な思考をぐるぐると繰り返していれば苛つきもする。
成人男子のすることだ、静観して、のっぴきならない事態になった時にでも手助けしてやればいいと、理性ではちゃんとわかっている。
でも、俺はハセツの勝生家から勇利を預かっている立場だ。末っ子長男の大事な息子を危ない目になんて遇わせられるわけないじゃないか。俺には勇利に対して責任があるんだ。
だから、あのアルメイツィを気にするのは仕方のないことなんだ。
ところが、そういう風に考え出してからというもの、勇利が様々に周囲の視線を集めていることに、追い打ちをかけるように気がついてしまった。
正確には、勇利が注目されていることの意味を考えるようになった、というべきか。
世界でも屈指のスケーターだけに羨望や憧憬、嫉妬を集めるのはわかる。トップ選手の宿命だ。そんなことに目くじらを立てはしない。
だが、頻繁に勇利に話しかける、とある女子選手の態度はそういうレベルを超えて恋愛感情を抱いているように見えるし、はたまた、とある男性トレーナーは会話のたびにボディタッチが激しい気がするし、リンクの行き帰りにはすれ違う男女が意味ありげな視線で勇利を見ているような気がするし、で──とにかく気の休まる暇がなくなってしまった。誰も彼もが勇利によからぬ思惑を持って近づこうとしているように見えて仕方ない。
いい加減にしろ、と自分でも思う。
これじゃまるで、話に聞く日本のシュートメィみたいじゃないか。(妻とシュートメィとの不仲に悩んでいたシャシャキさん元気かなあ)
そんなこんなで俺は何重もの意味で苛ついていた。
「おい、ヴィクトル。あんた、これ知ってんのか?」
ユリオが話しかけてきたのは苛々がピークにさしかかろうかという頃だった。
スマホの画面を差し出して、見ろと言いたげな顔をしている。だが、いつものふてぶてしい態度と違って妙に殊勝げな様子で、おや、と思った。
「どうしたんだい? ユリオ。知ってんのか、って何?」
「いいから見ろって」
「えー、何だろう」
ユリオに話しかけられて少し気が紛れた俺は気楽な気分で画面を覗きこんだ。ユリオの指が再生ボタンをタップする。三脚なしで撮影したらしく手ぶれのする画面で、構図も凝っていないことから、素人がスマホででも撮影したのだろうと当たりをつける。どこかの屋外リンクのようだ。
と、画面がズームして誰かをメインに据えて動きを追い始めた。いや、誰かじゃない、これは、
「……勇利?」
見慣れた服装、身のこなし、デジタルズームの荒れた画質でも見間違えるはずもない姿。画面の中央に映っているのは勇利だった。
引ったくるようにユリオのスマホを手に取り、改めて画面に見入る。どうやらウォームアップを終えたところらしく、俯いて立つ勇利の姿が映し出される。
そして、音楽もなく、彼は滑り始めた。
「…………」
それは、悲嘆だった。
それは、悲哀だった。
それは、哀哭だった。
悲しみと名のつくあらゆる感情の体現として彼は存在していた。民間のものらしいリンクを世界の大舞台に変えて、画面の中央を占めて滑り続ける。いつしか周囲からは人が消え、遠巻きに彼を眺めているさまが見て取れる。
──なんだ、……これは。
見たことのないプログラム、振り、要素の組み合わせ。いや、プログラムというより感情の赴くまま滑っているだけのように見える。ジャンプも入れず、スピンはおよそ回転と呼ぶには緩すぎ、ステップの組み合わせもめちゃくちゃだ。だが、それが返って悲嘆のあまりの混乱を、嘆きの深さを演出し、瑕疵として感じさせない。
滑り続ける彼の姿は、まるで嵐に打ちひしがれる若木のようだ。寄る辺ない幼子の心許なさにも似て胸をしめつけ、見る者の視線を離さない。
演技なんかじゃない。これは感情の発露だ。生(き)のままの彼の感情だ。
これほどの悲しみを、どうして彼が醸し出しているのか。そんなにも悲嘆に暮れる一体何が勇利にあるというのか。
「やっぱり知らなかったんだな。まあ、知ってたらここで滑らせるだろうし、きちんとプログラムとして組み立てるだろうとは思ったけど」
ユリオの言葉が耳を素通りして宙に消えていく。
呆然と画面に見入る目の前で、勇利は不意に滑るのをやめた。膝に手をつき、滑走後の勢いに流されるままリンクを漂い始める。画面からはまばらに拍手が聞こえてきた。すると彼は、突然周囲の目があることに気づいたらしき素振りで画面から外れてしまった。なおも彼を追おうとする画面は激しくぶれ、周りの人々にまぎれる勇利を映したかと思うと唐突に再生が終了した。
俺は停止した画面を呆けたように見つめ続けた。その俺の手の中からユリオがそっと自身のスマホを引き抜く。
勇利のスケーティングから受けた衝撃と、回復して間もない彼の脚や腕への懸念、何より、こんな滑りを彼にさせた『何か』への激しい憂慮がない交ぜになって俺の中に渦巻き、怒濤のように喉元までこみ上げる。一塊になった感情が先を争うように舌の付け根に押し寄せて、結局どの感情もまともな言葉となって口から発することができずにいた。
「おい、大丈夫か」
やっと視線を上げると、ユリオが心配そうに俺を見つめていた。
「……ユリオ、これ俺にコピーしてくれる?」
手の中のスマホで勇利は繰り返し悲嘆に暮れていた。
休養日にきちんと休んでいなかったことは後できっちりとっちめる。今はそれよりも、これほどの、身を切るような悲嘆を彼にもたらしたものは何なのか、それをつきとめなければならない。
何がそんなに悲しいんだ、勇利。どうして俺に何もいってくれないんだ。約束したじゃないか、何かあったら打ち明けてくれるって。あれはただの口約束に過ぎなかったとでもいうのか? 俺は適当にあしらわれていたのか?
考えても詮無いことだ。彼の口から原因を聞き出さなければ確かなことは何もわからない。だが、もしこれほど勇利を悲しませているのがあのアルメイツィだとしたら──俺は本当にあいつを殺しかねない。(実際にはやれないが。ほかならぬ俺が勇利をさらに悲しませるわけにはいかないじゃないか。でも一発は殴る。絶対に)
手の中のスマホ。勇利は繰り返し、繰り返し踊る。悲哀の化身となって。自身の涙と冷たい露とで生をつないだクリュティエもかくやの姿。
勇利。勇利。どうか悲しまないでくれ。君をこんなにも悲しませているのは一体誰なんだ。俺に少しも勘づかせずに一人で傷ついていたのか? いつもと変わらぬふにゃっとした笑顔に心を隠して一人で泣いていたのか? そんなことは許せない。君を傷つけるものは何であろうと絶対に許さない。許せるものか。俺のライフとラブ。絶対に守ってみせる。
再生が終了したスマホを胸に推し戴くように当てて目を閉じる。眼裏には勇利の姿が映し出されている。繰り返し再生してすっかり焼き付いてしまった。
そのまま、加点要素は、ステップシークエンスは、と考えそうになって目を開けた。職業病もいいところだ。こんな時までスケートから離れられない。自分は骨の髄までスケーターなのだと思い知る。
勇利、君もそうだろう? だから一人で滑っていたんだろう? 俺たちは行き場のない感情をスケートに昇華させる術しか知らない生き物のようなものだ。でも、こんなのは違う。こんな悲しみを一人で抱えて滑るなんて間違ってる──。
午後の仕事を終えて帰宅した時には二十三時をわずかに過ぎていた。どうしてもキャンセルできない会食があり、気もそぞろに飲み、食べはしたが正直味などわからなかった。例によって主催者の娘とやらが同席して、これがやたら馴れ馴れしく触れようとしてくるので内心閉口させられた。別れ際には俺の腕に両腕をからませ胸を押しつけることまでしてきた。ああまであからさまな女は久々だ。申し訳ないが全くもってタイプじゃない──どころか、もうすでに顔も思い出せない。
出迎えてくれたマッカチンが衣服に鼻を寄せ、スンスンと匂いを嗅ぎ始めた。あの女の香水が移ってしまっているのだろう。
「ごめんね、マッカチン。臭うかい?」
平気だよ、とでもいいたげに愛犬は一鳴きしてぱたぱたと尻尾を振った。ああ、癒やされる。そこにハウスキーパーのジーナが顔を出した。
「やあ、ジーナ。今日は遅いね。何か凝った料理でも作ってたのかい?」
「お帰りなさい、ニキフォロフさん。実はお目にかけたいものが」
「急ぎかい? 俺もちょっと忙しいから──」
「ユウリさんのことなんです」
「勇利の?──何か変わったことが!?」
脳裏を例の動画がよぎる。彼女が何か知っているというのか? 勢い込んで尋ねた俺に、ジーナは数片の紙を差し出した。
「洗濯の前にユウリさんの服のポケットを検めていて見つけました。お知らせした方がいいと思いまして。──覗き屋のようなことをして、とお怒りでしたらお詫びします」
嫌な予感に襲われながら小さな紙切れを受け取る。どこにでもあるメモ用紙を乱暴にちぎったような切り口が生き物の歯のように見えた。字が書いてあるのが見える。キリル文字の殴り書きだ。
一枚目には毒々しい赤字で「娼婦」──二枚目には「日本に帰れ!」と──。
「これが……勇利の服から?」
「黙って握りつぶすのも、ユウリさんに問いただすのも私の職分を越えます。ニキフォロフさんのご判断をあおぐべきだと判断しました」
──なんてことだ。
わずかに天を仰いで目を閉じる。かそけき紙片が掌の中で恐ろしいほどの存在感を放っていた。感情が昂ぶって額と眉間がうずく。怒りのあまり握りつぶさないように気をつけながら目を開いた。
「その通りだ、ジーナ。よく知らせてくれたね。これからも勇利のこと、気をつけてやってくれないか。彼には味方が少ないんだ。変わったことがあったら、どんなことでも俺に教えて」
わかりました、と重々しくうなずくと、続けて彼女は辞去の挨拶を口にした。俺の帰りを待って遅くまで居残っていたことに思い至り、何とかねぎらいの言葉を口にする。彼女を見送ったついでに戸締まりをし、マッカチンを一撫でして自室に向かった。
まずは着替え。気持ちを切り替える。
それから考える。
無策のまま、感情のおもむくまま問いただしても抉(こじ)れるだけだ。
──勇利。
ジーナに渡された紙片が書き物机の上で毒気を放っている気がする。勇利への侮蔑を込めて書かれたであろうそれは、この家の中であまりにも異質な存在だった。
キリル文字の殴り書き。勇利の字ではない。殴り書きが読み書きできるほど彼はロシア語に熟達していない。たどたどしい筆致は幼児のそれと見紛うほどだ。だから悪意のある第三者が勇利に渡したものと判断して間違いない。
なぜ持ち帰ったのか。書かれている内容はおそらく読めなかっただろう──紙片の体裁から誰かに意味を尋ねるのもはばかられただろうから、自分で調べようと思ったのか? あるいは俺かジーナに聞こうと思った? どこで渡されたものかはわからないが、リンクだとしたら不用意に処分するのはためらわれたのかもしれない。
──勇利。勇利。
この紙切れが彼に向けられた悪意の全てでは、おそらくないだろう。ほかにも何度か同様なことがあったに違いない。ポケットの中に入れたまま忘れてしまえる程度には日常の出来事となっていた──だからジーナの目に止まった。そうでなければ、俺は今でも呑気に、彼が誰と付き合っているのかとか、くだらない考えをめぐらせ続けていたに違いない。
──ああ、勇利。君は一体どれほどの悪意にさらされ続けていたのか。
彼には味方が少ないと俺自身がいったとおりだ。彼にしてみれば周り中敵だらけのようなものかもしれない。事故以来、執拗に叩き続けるゴシップ誌、気遣う体で帰国をせかす論調のテレビ番組、無責任で、だからこそ声の大きなスポーツジャーナリスト、……これでは確かに四面楚歌も同然だ。もしかしたら日本スケ連のスタッフさえも、今の彼にはプレッシャーを与えるだけの存在なのかもしれない。それなのに俺は気づきもせずに。
事故から続く日々、記憶のない彼と真摯に向き合ってきたつもりだった。だが、本当にそうか? 向き合ったつもりでいただけではないのか。彼の無事と快復とが嬉しくて、ロシアに残るといってくれたことに浮かれて。勇利がロシアにいてくれさえすれば、ハセツでの生活同様に穏やかで楽しい日々を送れると疑いもせずに。
勇利。
あの悲嘆。あの哀しみの化身のような滑り。
その原因の一端が今ここに。
両の拳を眉に当てて腹の底から息を吐き出す。内蔵の熱がそのまま口から出て行くようだ。目をきつく閉じていないと涙が出そうになる。怒りと後悔と罪悪感と、勇利への懸念が頭の中いっぱいに充満してぐるぐると渦巻いている。
このままにはしておかない。
絶対に守ってみせると誓ったばかりだ。俺のライフとラブ。失ったりしない。誰にも傷つけさせたりなどしない。
何度かの洗濯を経て肌にしっくりなじむ部屋着を身につける。これが、今夜の俺の戦闘服だ。
勇利の部屋の前に立つ。何の気配も伝えてこないドア。出迎えに来てくれなかったから、もう休んでいるかもしれなかった。それでも。
ドアを強めにノックする。
「勇利、話があるんだ。起きてる?」