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光のさして、たどる道の 9

「イラついてるわね、ヴィクトル」
ミラがそう話しかけてきたのは、レオニードの件以来、勇利と冷戦状態が続くこと三日目の午後だった。
「カツキとまだ仲直りしてないの? 意外と頑固なのね、知らなかった」
無駄に広い家、家事はハウスキーパーまかせで互いに意思疎通しなければ生活が成り立たないわけでもない、支障があるとすれば、もう散歩には行ったとかフードを食べさせたとか、マッカチンに関することぐらい。そんな状況なので歩み寄るきっかけをつかめずにいたのだ。
思わず、ため息が出る。
「……頑固なのは勇利だよ。キューシューダンジの性ってやつらしい。一度へそを曲げると長くてね。──ていうか、そんなにイラついて見えるかい?」
「だって」
そういうとミラは大げさに肩をすくめてみせた。
「ヴィクトルったら、カツキがロシアに来て以来、そりゃもう幸せそうに笑いっぱなしじゃない。事故の時は自分が死にそうな顔してたけど。それが、この数日むっつりして、ため息つくわ、眉間にしわ寄せてるわ、だもの」
「…………」
十歳近く年下の女の子にこうまでいわれるほど俺は浮かれてたのか。そして今はイラついてるように見えるのか。なんたる不覚。さすがに大人として情けない。
「そうだね、喧嘩してるのも飽きたから、そろそろ仲直りするよ」
「それがいいわ。カツキだって、きっかけを欲しがってるわよ、きっと」
じゃあ、頑張って──と肩越しに手を振りながらミラは歩き去って行った。
やれやれとため息をつきそうになって、たった今指摘されたばかりじゃないかと息を呑み込む。年下の彼女が口を出さざるを得ないほど、俺と勇利は険悪な空気を放っていたのだろう。個人競技のアスリートが多いとはいえ、リンクの雰囲気を損ねていたのではみんなのパフォーマンスにも影響するだろう。申し訳ないことをした。今度、みんなに差し入れでもしよう。それに、そろそろ本当に仲直りしないと俺がつらい。
勇利はつらくないのかな──と考えて、またため息が出そうになって閉口した。しっかりしろ、俺。
「ヴィーチャ、ちょっといいか。最近のお前とカツキのことだが」
「ああ、ヤコフ──!」
ヤコフにものもいわせずハグしてしまった。自覚してなかったけど、勇利との冷戦は結構なストレスだったみたいだ。しかし、これじゃ、迷子が親に泣きついてるみたいじゃないか。しっかりしろってば、俺。



勇利の部屋のドアを前に、ノックしようと掲げた手を止めて、深呼吸を繰り返した。落ち着け、ヴィクトル・ニキフォロフ。この間みたいに衝突しないように。足下ではマッカチンが見上げている。この子の前で醜態をさらさないように今度は注意深くあろうと、あえて一緒に連れてきていた。マッカチン、頑張るから見守っててね。ぱたぱた揺れる、もこもこの尻尾に癒やされる。
ノックとともに声をかける。応えがあって入室し、部屋の中の様子を見て内心安堵した。勇利の部屋には俺の写真やポスターが飾ってあるのだが、ケンカに伴ってそれら全て撤去されているのでは──と心配していたのだ。
「勇利、話があるんだ。はっきりいうけどレオニードの件」
「……もう、ヴィクトル、まだこだわってるの? 僕、いったよね? 僕にだって人付き合いってものが──」
「待って待って、勇利。喧嘩しに来たんじゃないんだ」
気色ばんで言葉を繰り出す勇利を押しとどめる。このまま売り言葉に買い言葉の状態になったら冷戦が修復不可能になってしまう。それだけは避けなければ。
「勇利のプライヴァシーに口を出す形になったのは悪かったと思ってる。ただ、心配だったこともわかってほしい」
勇利のベッドに腰掛け、ぽんぽんとベッドをたたいてマッカチンを呼んだ。跳び乗ってきた愛犬を撫でて会話の間を取る。勇利は、ひとまず話を聞いてくれる気があるようで、黙ってこちらの様子を窺っている。
「勇利はそんなことないっていうかもしれないけど、やっぱり俺に対して遠慮があるんじゃないかと思ってる。だから、何かあっても少々のことでは打ち明けてくれないんじゃないかって心配なんだ」
勇利は沈黙したままだ。是とも非とも口にしないのは、是でも非でもあるからだろう。そんなことないとはいえず、少々のことは打ち明けない可能性があるというわけだ。ちょっとショックだけど、それでも口先だけで適当にあしらわれるより余程いいかもしれない。その場しのぎの言葉をいわれても、少しも嬉しくないし安心もできない。真剣にこちらの話を受け止めているからこそ、彼は沈黙を選んだのだ──。
「だから、君たちの様子に不穏な雰囲気を感じてムキになった……それは、悪かったと思ってるよ。ごめんね、勇利」
「ヴィクトル……」
この数日来、やっと勇利とまともに目が合った。
「誰と友達になったとか、俺に報告してくれといってるんじゃないんだ。ただ、もしトラブルになった時は俺を頼ってほしい。俺はそう願ってる。勇利には迷惑かな?」
「……迷惑なんて思ったことないよ。むしろ、僕がヴィクトルに迷惑かけてると思ってる」
「ほら、それ。俺にはそれがつらいよ。日本語でなんていうんだっけ──ミジュクッシャイ?」
「水くさい、だね。でも僕、生活の全てをヴィクトルにおんぶに抱っこだろ。その上、人間関係まで助けてもらうなんてできないよ」
「何いってるの、勇利。考えてみて。俺がユリオと喧嘩してたら勇利は止めに入らないかい? 俺が困ってたら手助けしようって思わない? ──思うよね。それに、他人の耳に入るぐらい大きくなってからトラブルを解決しようとするより、小さな芽のうちに摘んだ方が、被害が広がらないだろう? 俺への影響も、ね」
俺への影響、と聞いて勇利はハッとした顔をした。まずい、あまり深刻に受け止められたら困る。勇利の問題は俺の問題も同然だといいたいだけなんだ。なのに、勇利のことだ、斜め上の方向に思考が暴走しかねない。
「まあ、これでもリビングレジェンドと呼ばれてる男だからね、影響があったとしても軽く吹っ飛ばしてやるけど。それこそ、手の一振りで、ね」
ウィンクとともに、語尾にハートをつけて笑ってみせる。勇利の頬が和らいで、俺は内心ほっとする。
「だから、レオニードのこともトラブルになりそうだと思ったら教えてほしい。トラブルになりそうなら。ね?」
「うん……わかったよ、ヴィクトル。今のところはトラブルにはならないと思う。怪しくなったら相談するから、それまでは──」
「わかってる。勇利のプライヴァシーは尊重するよ。──ちょっと寂しいけどね。ねー、マッカチン?」
愛犬の前足をつかんで勇利に向かって振ってみせると、彼は立ち上がり、マッカチンを間に挟むようにベッドに座った。もこもこの頭を撫でる手つきが優しい。その手を何気なく見ていた俺は目を見開いた。


指輪がない──


視界が暗く狭まった気がして目をしばたたくと、自分が息を詰めていたことに気づく。束の間、呼吸も忘れて勇利の右手──指輪のない右手に見入っていた。思い出したように息を吸い込むと目がチカチカした。
「勇……利、指」
瀕死の病人のような絶え絶えの声。これが俺の声か。世界一モテる男、ロシアの皇帝、リビングレジェンドと呼ばれる男の声か。
「え? 指? なに?」
きょとんと問い返す勇利は、まるでこの世の悪意とは無縁でございます、という顔をしている。そう、きっと悪意じゃないんだ、勇利はこの指輪の意味を忘れてしまっているから、だから──。
「……指輪、どうしてつけてないの」
やっとのことで意味の通じる問いを発すると、勇利は得心した、とばかりに表情を緩めて、
「ああ、指輪。傷ついたり、どっかに忘れたりしたらやだなって思って」
と、こともなげにいった。
「失くしたとか──」
「してない、してない! だって大事なものなんでしょ? 失くしたりしたら元の僕に申し訳ないよ」
「じゃあ、ちゃんとあるんだね?」
「うん。……そういったでしょ」
ため息をついて目を覆った。親指と中指で両のこめかみをぎゅっと押さえると、萎えそうだった気持ちがしゃんとするように思う。
落ち着け、落ち着け。仲直りしたばかりだ。
気持ち、勇利に向き直る。──俺は今、どんな顔をしているだろう。世界一情けない男の役も、きっと今なら真に迫って演じられる。
「勇利、聞いて。前にも説明したけど、その指輪は勇利が必勝祈願のために俺のとペアで買ってくれたものなんだ」
「うん……」
右手を掲げて指輪を見せつける。俺はちゃんとしてるのに。俺はちゃんとしてるのに!
「もう一つ意味があってね。俺が一年近く君のコーチをした、そのお礼に、って」
勇利はのろのろと頷く。
「コーチと選手がマンツーマンで練習して寝食まで共にするなんてことは、どこの世界でもそうはないからね。その分、君との間に友情や信頼や、そういう言葉だけでは表せない感情が育まれたと思ってる。勇利はその感情を“愛”と表現したよ」
「愛……」
「だから、この指輪は」
掲げた右手の指輪に左手でそっと触れる。帰国以来、時に揶揄され、眉を顰められ、格好の中傷の的となったが、それでも外すことなど考えもつかなかった、大切な──
「俺たちの間にある“愛”と呼ばれる全ての感情の象徴で、いわば、俺たちの過去が凝縮されたようなものなんだ。陳腐な表現を恐れずいうなら、師弟の絆というところかな。傷つけないようにって大事にしてくれてるのはわかったけど、しまい込んでおくのは違うと、俺は思う」
勇利の目をまっすぐに見据える。
「つけていることに意味がある。俺はそう思ってる」
「……」
「だから、勇利もつけてほしい」
勇利は視線を落として沈黙してしまった。今の説明で納得できなかったろうか。それとも指輪をつけないのには、ほかの理由があるのだろうか。
「俺の指輪だって傷がついて少し曇ってきてるし、定期的にメンテナンスすれば綺麗になるから、そういう心配ならいらないよ。失くすのは、まあ──気をつけてもらうしかないけど」
「でも、さ……」
「うん?」
「僕がつけてて、いいの」
「……ごめん、どういう意味?」
「愛も、師弟の絆も、築いたのは今の僕じゃない……でしょ」
ガツン、と脳を揺さぶられた気がした。勇利、そんなことを。勇利。
「何いってるの、勇利。君はよく、今の僕とか前の僕とかいうけど、俺にとってはたった一人の勇利だよ。勇利は一人しかいない。俺がキャリアをなげうってでもコーチしたいと望んで、君はそれに応えてくれた──今だって応えようとしてくれてるじゃないか。誰がなんといおうと君は指輪をつける資格があるんだ」
「それに──」
勇利はまるで俺の言葉など耳に入らなかったかのように言葉を続ける。
「ロシアでは、さ……右手の薬指って恋人とか結婚してる人がするんでしょ、指輪……」
ああ、もう! 誰だ、勇利に余計なことを吹き込んだのは!
「ロシアは同性愛に厳しいんでしょ? それなのに、僕とペアで指輪なんかしてたら──」
「勇利!」
もう黙っていられず勇利の肩をがっしりと両手で掴んだ。驚いて持ち上がった顔を覗き込むように近づくと、マッカチンが「狭い」といわんばかりに鳴いた。ごめんねマッカチン、今、大事なところなんだ、我慢して。
「ねえ勇利。俺たちがそれについて話し合わなかったと思ってる? 前にもね、勇利は同じことをいって外そうとしたんだ。俺はそれを止めて、でも君はなかなか納得しなくて、もう充分すぎるくらい話し合ったんだ。そうして納得した上で指輪をしてくれてたんだよ」
「そう──なの?」
「そうなんだよ。確かにロシアは同性愛に厳しいし、男同士がペアで右手の薬指に指輪をしてるなんて、よく思わない人が多いことも事実だ。陰口を叩くやつだっているだろう。だけどね、俺たちを知る人たちが受け入れてくれてるなら何の問題がある? 俺たちの間にある“愛”を知りもしない連中が何をいったとしても、俺は指輪を外す気はないよ」
「でも──その愛は、僕との愛じゃない……」
「どうして!? 勇利は勇利だ。事故の前の君と、今の君は別人だっていうのかい!?」
「そうはいわないけど、……全く同じ人間だともいえないんじゃないかな」
俺は思わず天を仰いだ。この、めんどくささ。これが勝生勇利でなくて何だっていうんだ!?
イラついて怒鳴りそうになる自分を抑える。勇利と過ごすようになって、俺はずいぶん忍耐強くなったと思う。
「……同じだよ。君のそういう考え方、話の運び方、疑り深いところ、頑固なところ、……事故の前と少しも変わらない。やっぱり勇利は一人しかいないって、俺は今、実感したよ」
「……なんだろう、あんまり嬉しくない」
「まあ、嬉しくなるようなこといわなかったからね、今。でもね、勇利。君の遠慮がちなところも、はにかみ屋なところも、勝負にムキになるところも、他人への興味が薄いところも、事故の前も今も、俺には少しも変わったように見えないよ。君は別人なんかじゃない。胸を張って勝生勇利だって生きていいんだ」
「ヴィクトル……」
感に堪えない、という表情で勇利は俺を見つめる。けれど、すぐにその面は伏せられてしまった。
「でも、やっぱり迷惑になるんじゃないの。……ヴィクトルに好きな人ができたら」
好きな人ができたら。
その言葉に胸をつかれて、とっさに言葉が出てこない。
好きな人ができたら。
その可能性はゼロじゃないし、いや、むしろ年齢を考えれば身を固めることを考えなければならないし、周りからせっつかれてもいる。連盟だの企業のお偉いさんだのと会食すれば、ほぼ必ずどこぞのご令嬢がくっついて来てモーションをかけられる。ほかにも様々な場面で仕掛けられるアプローチを笑って躱してきたけれど、その時々に指輪について皮肉めいた言葉をかけられるのは、もはやお約束の展開だった。
恋人ができても不思議じゃない。
でも、それは。
それは勇利にとっても同じで──

どうして考えずにいたのだろう。
俺たちはナショナルフラッグを背負って戦うアスリートで、二世を期待される種類の人間だ。
そんな事情を抜きにしても、健康な成人男子なら誰かと恋愛関係になっても自然なことなのに。
いつの間にか俺は、このまま勇利と二人、完結した関係性の中で生きていくつもりになっていた。明日にも壊れるかもしれない──例えば、勇利が日本に帰りたいといったり、俺たちのどちらか、あるいは両方に恋人ができたりしたら、今のままではいられない──そんな、不確実なつながりであることに気づかずにいた。
いや、考えないようにしていたのか?
勇利がロシアに来て、嬉しくて、浮かれて。……事故の後だって、勇利がロシアに残るといってくれたことが嬉しくて、俺と勇利とマッカチン、二人と一匹で過ごす毎日が楽しくて、やっぱり俺は浮かれていたのだろう。
だから、考えたくなかったのか?
それなら、今から考えなければならない──勇利が帰りたいといったら、恋人ができたから出て行くといったら──例えばレオニードと? そうして、


もう一度、終わりにしようといわれたら?


足下が崩れるような錯覚を覚えて、思わず身震いした。
「ヴィクトル? どうしたの?」
勇利の声に我に返る。そうして、掴んだままだった勇利の両肩から手を離すと、改めて相対するように座り直した。
「……ああ、ごめん。そうだね、もし好きな人ができても、俺にとって勇利は特別だから、指輪は外さないし、それを理解してくれない相手とは付き合わないと思う」
「そんな! それじゃやっぱり迷惑になるんじゃないか! だったら」
「勇利、勇利、聞いて。これはまだ話してなかったけど、俺は君をコーチして、ハセツで暮らして、初めて自分に欠けているものがわかった。ライフとラブだ」
「ライフとラブ?」
「二十年以上、スケートに身を捧げてきた。その間には友人だってできたし恋愛だってした。父とも思う師もいる。満たされてると思ってた。でも違ったんだ」
順風満帆な人生で、欠けているものなどないと思っていた。俺は幸せな人間だと思ってた。
「ハセツでの暮らしは驚きと喜びの連続だった。俺をロシアのリビングレジェンド、ヴィクトル・ニキフォロフとしてじゃなく、ただの“ヴィっちゃん”として、家族やコミュニティの一員として扱ってくれた。ハセツでの俺は、外国人であることを除けば“そこらの兄ちゃん”だったよ。でも、全然嫌じゃなかった。むしろ腹の底から呼吸ができた気がしたよ。そんな感覚は初めてだった。そうして、ただの男として生きてみて、わかったんだ。ああ、俺はこんなにも欠けていたんだ──って」
「それが──ライフとラブ?」
おずおず問う勇利に俺は大きく肯いた。
「ハセツの勝生家では俺を家族の一員として扱ってくれた。勇利のコーチとして腫れ物みたいに扱うんじゃなしにね。ああ、俺も誰かの息子であり、弟であり、兄だったんだ、そんな風に実感させてくれた。もう何年もそんな感覚は忘れてたんだ。──いや、そんな感覚があることを知らなかったのかもしれない。だから、勝生家のみんなを、俺は家族だと思ってる。ハセツは第二の故郷だ。そして、それをもたらしてくれたのが、君だよ、勇利」
「ぼく──」
勇利の右手を取って、両手で包み込む。あの夜、バルセロナの教会の前で、こうして指輪をはめたんだ。ああ、勇利。思い出を語り合えないことが今ほどつらいと思うことはないよ。ハセツでの思い出を追体験するのは楽しいけれど、それが君の中にないと思い知らされるのはつらいね……。
「君が俺を受け入れてくれたから、コーチとしてだけでなく、友人のように、家族のように受け入れてくれたからこそ、勝生家だって同じように扱ってくれたんだ。君がいなければ、俺は大切なものが欠けていることに気づくこともなく、自分は幸せな男だと思い込んだまま生涯を送っただろう──最大の不幸に気づかないまま、ね。そんな人生、果たして本当に生きているといえるだろうか」
勇利は言葉もなく俺を見つめる。大きな、紅茶みたいな色の瞳。
「勇利、俺にライフとラブをくれたのは君だ。俺の人生は、君と出会って再スタートしたんだ。そんな君との絆の象徴を、どうして外せると思う? もし、誰かを好きになったとして、そして君との絆について理解もせず、指輪を外せというような人間だったら、こっちから願い下げだよ」
どうか、どうか伝わってくれ。勇利の頑固な心に、俺の精一杯が届きますように。
「指輪をしろと命令はできないし、そんな命令、勝生勇利は聞きやしないってわかってる。だから、俺の気持ちをわかった上で、それでも指輪をしないというなら俺にはもうどうにもできない」
そっと勇利の手を解放すると、彼の手はしばし名残惜しげに空中にとどまった。
「それでも、最後にもう一度だけお願いするよ。勇利にも指輪をしていてほしい」
ぱた、と宙に留まっていた勇利の右手が落ちて、また持ち上がったと思うと、勇利はしげしげと自分の手を見つめた。それから一つため息をついた。
「うん。……ヴィクトルの気持ちはわかったよ」
「勇利……!」
勢い込んで身を乗り出すと、勇利は淡く笑った。
「……わかったよ。指輪、するよ」
「ホントかい!? 勇利!」
「うん」
ほーっと特大のため息をついてベッドに倒れ込んだ。これほどの難事をクリアしたことってないんじゃないか? オリンピックぐらいか? いや、絶対オリンピックの方がラクだった──。
マッカチンがわふわふとのし掛かってくる。その心地よい重みともこもこの毛並を抱きしめて、俺は思わず泣きそうだった。
「……ごめんね。ヴィクトルが指輪にそんなに思い入れがあるなんて知らなかったから」
「いや……俺の方こそごめんね。説明しないと勇利にはわからないことだらけなのに、サボったツケが回ってきたんだ」
「サボった、だなんて思ってないよ」
苦笑する気配を感じてマッカチンの陰から見上げても、勇利は部屋のドアの方を向いて座っていて、表情を覗うことはできなかった。
「でも、焦ったよ、指輪してないのを見た時。俺にとっては体の一部みたいなものだから。心臓が止まるかと思った」
いいながら、マッカチンに身体の上からどいてもらって起き上がる。勇利の顔を見たい。
勇利はどこを見るともなく、視線をさまよわせるでもなく、ただ、そこにいた。表情が抜け落ちていて何を考えているのかわからない。何となく胸の底がざわついた。
「考え直してくれて、ありがとう、勇利」
そういうと、勇利はやっとこちらを向いて笑った。
「どういたしまして、……ていうのも変だけど。ぱじゃーるすた」
冗談めかした声に、俺の不安も薄らいでいく。
「ほんとに助かったよ。俺だけが指輪をしてたら“ヴィクトルは勝生勇利に片思いしてるんだ”なんてメディアに騒がれるところだよ」
ははは、と勇利は声を上げて笑った。その声が、どこか虚ろに響いた気がして、薄らいだはずの不安がまた胸の底で鎌首をもたげるのを俺はなす術なく見ていた。

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