「ただいま、マッカチン。──ジーナ、勇利は?」
「お帰りなさい、ニキフォロフさん。ユウリさんは昼前からリンクに出かけて、まだ帰っていませんよ」
「まだ帰っていないって?」
時刻は夜の八時を回ったところ。成人男子が外出していてもおかしくない。むしろ、これから、という時間だ。季節は完全な白夜を過ぎて、夜でも空は薄い群青色の夕暮れのようだ。遊びに熱中した子供が帰る時間を失念して親に叱られることが増える、そんな時季だ。
いい大人が、少々帰りが遅くなったぐらいで何をとがめられることがあるだろうか。
でも、勇利は。
慌ててスマホの画面を見ても勇利からのメッセージはない。彼の電話番号を表示し、タップしようとした時、ドアチャイムが鳴った。
この家のドアチャイムを鳴らすのは住人のみ。
「ただいま~。……あ、ヴィクトル、帰ってたんだ。お帰りなさい、早かったんだね」
「勇利!」
不安と焦燥と恐怖と怒りが一気に喉元にこみ上げて、とっさに言葉が出ない。とりあえず、勇利の両肩をつかんで足先から頭のてっぺんまでチェックする。──不自然な汚れも、怪我もないようだ。顔色もいたって普通。思わず、大きなため息が出た。
「勇利……、どうしたの、いつもより遅かったじゃないか」
「あ、うん。練習終わってからユーリくんといろいろ話してたら時間を忘れちゃって」
「ユリオと?」
「うん。今度出るゲーム、一緒にやろうって約束したんだ。ここに呼んでもいい? 僕がユーリくんの家に行くのでもいいけど」
なんとも暢気な話題に、体中の緊張が一気にほぐれて脱力しそうだ。
「ああ、そう──。うん、呼ぶのはかまわないけど、勇利、遅くなるなら連絡ぐらい」
「だから、うっかり話し込んじゃったんだよ。連絡するにも、ヴィクトルは仕事中かもなーって思ったし、それに、もう連絡入れるより帰った方が早いと思って」
納得できる言い分だし、二十四歳という勇利の年齢を考えれば目くじらを立てるのもどうかとは思う。思うけれど。
「あのね、勇利──」
勢い込んで口を開こうとして、ふと思いとどまる。勢いに任せて叱りつけるような口調になったら、勇利のことだ、へそを曲げてしまいかねない。落ち着け、ヴィクトル・ニキフォロフ。喧嘩したいわけじゃないんだ。
「……仕事中でもかまわない。遅くなりそうなら必ず連絡して。悔しいけど、ピーテルはハセツほど治安がよくないんだ。勇利に何かあったらと思うと気が気じゃなくて仕事どころじゃなくなっちゃうよ」
これは本心。勇利を危険にさらすぐらいなら仕事なんて放り出してやる。でも、いつでもすぐに駆けつけられるとは限らない。ならば、自衛してもらうしかないじゃないか。
勇利の両手を握り、瞳を覗きこむ。勇利が俺の顔を好きなことを知っててやるのは卑怯な気もするが、こればかりは譲れないからね。
「お願いだよ、勇利。遅くなる時は連絡するって約束して。勇利を心配しすぎて俺の心臓を止めたくないなら」
「ヴィクトル──」
あと一押し。でも、相手が女ならキスの一つもするところだけど勇利にはどうすればいいんだ?
「あの、お二人とも……お部屋で話されてはいかがですか」
「うわぁっジーナさん!? いつからいたんですか?!」
慌てふためく勇利は俺の手を振りほどいてしまった。ジーナ、空気を読んでほしかったなあ……て、ロシア人には無理か。(俺だって無理だし)
「勇利、ちゃんと約束して! 俺の話、聞いてたよねえ!?」
「もう、ヴィクトル、わかったよ! わかったから!」
勇利は頬を赤く染めて、俺とジーナと交互に視線をさまよわせている。この間も赤くなってたけど、恥ずかしがるようなことしてないのにねえ。まあいい、一応の言質は取ったし。
勇利はうろたえつつ、ジーナに帰宅の挨拶をしている。俺は、いい子でお座りしたまま控えていたマッカチン──人間より空気が読めるんじゃないか? うちの子、天才かな──の頭をよしよしと撫でた。
シーズン・インということで、さすがに連盟やらスポンサーも配慮してくれるようになり、今日は午前中からみっちり練習できる。スケート以外の諸々のせいでメダルを逃しでもしたら本末転倒もいいところだ。リビングレジェンドの名にかけて、そんな無様な姿はさらせない。選手とコーチとの兼業でも俺はメダルをつかんでみせる。そうして、いまだに両立は困難だの勇利を日本に送り返せだの、うるさい外野を実力で黙らせてやる。
マシントレーニングを終えて、休憩を取ろうとしていた時だ。カフェテリアの先、通路の曲がり角に消えた背中が勇利に見えた。
このリンクに黒い髪の持ち主はごく少数だ。背格好に、服装も勇利に見えた。問題は彼が一人じゃなかったことだ。
(……誰だろう)
あの曲がり角の先はカフェテリアのバックヤードと非常口しかない、人気のない場所だ。
(そんなところに、なんで勇利が? 一緒にいたの、男だったよな)
なんだかものすごく嫌な気分で胸がざわざわする。少し足を速めて通路を急いだ。曲がり角の先に人影はない。なら、外か。
非常口のドアをそっと開けて辺りを見回すと、少し離れたところに、こちらに背を向けた勇利と、妙に肩幅が広く見える男がいた。
(そうだ、彼は確か、前にも勇利に話しかけていた──)
男の方が勇利より頭半分ほど背が高く、その眉間にしわが寄せられているのを見た瞬間、思わず声をかけていた。
「勇利! こんなところで何してるんだい?」
「えっ、ヴィクトル!?」
驚いて振り向く勇利の向こうで、男はくるりと背を向けて駆け去っていく。舌打ちしたように見えた。俺には見つかりたくなかったらしい。それとも、単に邪魔されて腹が立っただけなのか。
小走りで勇利に駆け寄り、尋ねる。
「勇利! 今の誰!?」
「ヴィクトル、なんで僕がここにいるの、わかったの」
「後ろ姿が見えたんだよ。それより、今の誰だい?」
さすがに知らないとはいえないだろう、この状況で。勇利はわずかに沈黙を挟んでから口を開いた。
「……レオニード。名字は知らない」
「知らない? ふうん。レオニードね。友達? 前にも話してたよね」
「……よく覚えてるね、ヴィクトル。友達ではないよ。ちょっと話があるって」
「話? 何それ、日本式のコクハクってやつ?」
「違うよ! そんなんじゃない」
「じゃあ、何」
「何って……話の内容までヴィクトルにいう必要ないでしょ」
「そうかな? 彼の態度、とても友好的には見えなかったからね。心配なんだよ。おかしい?」
「おかしくは……ないけど、でもヴィクトル、僕にもプライヴァシーってものがあるから」
段々、勇利の態度が硬化してきた。まずいな、このままではレオニードとやらのことも聞き出せなくなってしまう。
仕方なく、矛先を変えることにした。
「……確かにね。ところで、彼、何やってる人?」
質問を変えると、勇利は少し気を和らげた。
「ホッケーの選手だっていってた。アルメ何とかとかいってたけどよくわからない。ヴィクトル、知ってる?」
「アルメイツィ、だね。SKA(スカー)ってチームの選手のことをそう呼ぶんだ。なら、へえ、ホッケー選手としてはいい線いってるんだ、彼」
「そうなの?」
「……まあ、それは家ででもゆっくり説明するよ。それより、午前のプログラムは? リリアの──」
「うわっ、そうだった! バレエレッスン! リリア先生に怒られる!」
ヴィクトル先生もちょっと怒ってるんだけどね、勇利。
アルメイツィのレオニードね。それだけわかれば、まあ充分だろう。調べる方法ならある。
さっきの雰囲気、コクハクか、なんて冗談めかしたけど、そんな和やかなものじゃなかった。難癖をつけに来たのか? ロシアにも人種差別主義者は存在するし、今季は絶望視されている他国の選手がのうのうと国営のリンクに出入りしている、と反感を抱いているのかもしれない。
あの男のように舌打ちしそうになって、勇利の手前、ぎりぎり堪える。
勇利を取り巻く状況は安穏とはいえない。メディアは今も、鎮まり駆けた火を熾すかのように日本に帰るべきだと報じている。
だからこそ、俺は負けるわけにはいかない。この手につかんだライフとラブを手放してなるものか。
慌てて駆けだした勇利に「危ないよ」と声をかけながら、俺もその背を追って駆け出した。
「ねえ、勇利。昼間のことだけど」
夕食を終え、まったりとしたくつろぎの時間に持ち出すべき話題かどうかという問題はあったが、気になることをそのままにしておくのは精神衛生上よろしくない。ストレスのない生活を送るっていうのは、ストレス源を可及的速やかに処理してしまうからできることだと思っている。
「昼間のこと? ……ああ、昼間のこと……。ヴィクトル、何がそんなに気になるの?」
眉をひそめて勇利が問う。君こそ、何をそんなに嫌がるんだ。
「えー? いい雰囲気だったのなら、そっとドアを閉めて引き返そうと思ったよ。でも、そうじゃなかっただろ? 前にもいったけど、俺は勇利にロシアで快適に過ごしてほしいんだ。もし問題があるならさっさと解決してしまうに限るとも思ってる。だから、ね」
「ね、っていわれても……」
「コクハクじゃないんだろ。で、彼は友達でもない。雰囲気も悪かった。俺に気にするなっていっても、無理だと思わない?」
「……」
ごめんね、勇利。俺は手を緩める気にはなれないんだ。間違ってたら申し訳ないけど、と、それでも彼をなだめる言葉を挟んで畳みかけた。
「レオニード、だっけ。勇利に何か嫌な気持ちにさせることをいいに来たんじゃ──」
「いい加減にしてよ!!」
突然、雄叫びのように声を発して勇利が立ち上がった。
「いい加減にしてよ、ヴィクトル! 心配してくれるのはうれしいよ、でも、僕にだって人付き合いもあればプライヴァシーだってあるんだよ?! ちょっと立ち入りすぎだろ!!」
「……勇利、君はロシアに来てまだ日も浅いだろう? この国のこと、ロシア人のこと、きちんと把握できてるとはいいがたいだろ? 人間関係に問題があるなら、少し手助けをしたいと──」
「助けてほしい時はそういうよ! 僕のこと、何もできない子供だとでも思ってるの!? 僕は、ヴィクトルの許可がなきゃ友達も作れないっていうの!?」
「友達じゃないっていったじゃないか! 勇利こそ、何でそんなにムキになるんだ」
「彼のことだけじゃないよ! 僕はヴィクトルの金魚のフンじゃないんだよ!? おまけ扱いしないでよ!! 何でもかんでも守ってもらわなきゃ息もできない、僕はそんな人間じゃないんだよ! 彼とのことはほっといて!」
なんだろう。勇利の口から「彼」といわれるとすごく嫌な気分になる。
勇利は言い捨てるとリビングを出て行ってしまった。バタン!と玄関とは逆の方向から勢いよくドアの閉まる音がした。外に出て行ったのでなければいいか、と少しほっとする。
部屋の隅からマッカチンが顔を上げてこちらを見ていた。心配させてしまったようだ。ごめんね、と声をかけてからソファの背に思い切り身体を預けた。自然、ため息が出る。
──焦りすぎたかな。
日を改めて、レオニードの情報を集めておいてから話を切り出してもよかったはずだ。尋問みたいに追い詰めるやり方をするなんて、我ながらどうかしていた。
「今夜はもう部屋から出てこないのかなあ、勇利……」
何で焦っていたんだろう。昼間、勇利と彼が二人でいるところを見てからずっと、嫌な感じが続いていた。そのせいだろうか。
「それにしても、何でこんなに気にくわないのかなあ。ねえ、マッカチン?」
愛犬はすでに目を閉じて眠りの態勢に入っていた。
先にリンクに行きます、とだけ書かれたメモがダイニングのテーブルの上に置かれていた。勇利はまだ怒っているらしい。練習のつもりか、キリル文字で書かれたそれをポケットに入れる。テーブルには、昨夜ジーナが用意していった朝食用のオレンジとブッテルブロット(オープンサンドイッチ)のパンがフードカバーの掛かった状態で置かれている。このフードカバーは、勝生家で使われているのを見て気に入った俺が帰国する時に持ち帰ったものの一つだ。でも、マーマはフードカバーじゃなくハイチョウとかいってたっけ。ハエチョウだったかな?
冷蔵庫からパンに載せるバターとサーモン、イクラを出し、手早く朝食を摂る。勇利がいないんじゃゆっくり食べる気にもならない。
ハセツに行く前は何もかも一人で済ませてたのに。一人で、このテーブルで、どんな気持ちで食事を摂っていたのか、もう思い出せない。何もかも変わってしまったんだと思い知る。
そう、変わってしまった。ライフとラブを手にする前の自分にはもう戻れない。きっと空の色さえ違って見えている。
でも、もし。
もし勇利が日本に帰りたいといったら。
終わりにしよう、という勇利の声が耳によみがえる。生真面目な表情、何度か身につけてこなれたジャージ、コーチお疲れ様でしたと頭を下げて──。
オレンジの房が指から滑り落ちる。てんてんと二回弾んだそれを摘まみ直して、でも、もう口に運ぶ気にはなれなかった。