「なあ、ヴィクトル。カツ丼のヤツ、最近おかしくねえか」
リンクサイドのベンチで靴紐を結び直していたところにユリオが声をかけてきたのは、勇利が一日オフで不在の午後のことだった。
「おかしい? 何が?」
真新しい靴紐は固く、一向になじまないのではないかという気にさせられる。シーズンオフも残り少なくなってきた。一刻も早く慣らしてしまいたかった。
顔をあおのけて問うと、ユリオは眉間にくっきりとしわを刻んでいた。
「いや、なんつーか……前は、オフでもあんたにくっついてきて、隙あらば氷に乗ってたろ? けど、最近は……」
「うーん……まあ、確かに最近は素直にオフを受け入れてる……かな。でも、おかしいっていうのは、どうだろう」
そういうと、ユリオは凶悪な顔つきになった。
「あの練習バカが、素直に休むこと自体がおかしいだろうが。見てねえところで無茶なトレーニングでもしてんじゃねえのか」
何かあってからじゃ遅いんだぜ、と呟くようにいって、ユリオは背を向けた。
素直に感情を、それも他者への思いやりや善意を露わにすることを嫌う年頃だ。今のユリオには精一杯の、勇利を案じる気持ちの表れなのだろう。
(いい子だよね、本当に)
ユリオに見えないように顔を背けて笑みを隠す。微笑ましく思うこの気持ちを気づかれたら、盛大にへそを曲げられてしまうだろう。
さて、彼の考えすぎだ……とは思うが、確かに最近の勇利はユリオが不審がるほどスケジュール通りにきっちり休んでいる。アスリートとしては当然のことだが、体力オバケの勇利にしては、おかしい……かもしれない。
(仕事が忙しいのにかまけて、勇利がちゃんと休んでることに安心しすぎてたかな)
昨年、日本で過ごすために、さらに、勇利の事故に対応するためにセーブした仕事の大半を、今になって取り返すようにそちこちから声がかかって、断っても断っても続々と舞い込んでくる。正直、手一杯の状態ではあった。まとまった練習時間もまともに取れずにポディウムの頂点など目指せるか、と表情だけはにこやかに、ロシアスケ連に、スタッフにキレてみせるのだが、昨年好き勝手したツケだと言われると、どうにも弱い。泣く泣く勇利を一人残しての泊り仕事を入れざるを得ない時には、運命を呪いたくなる。
とはいえ完全に放任しているわけでは、もちろんない(勇利の意思に反しているとしても、こればかりは譲れない)。
ハウスキーパーを家に入れているのも、勇利の日本スケ連との協議をエージェントに送迎させているのも、チムピオーンに専属トレーナーを置いているのも、できる限り勇利に関する情報を漏らさないようにするためだ。
できるものなら四六時中ついていたい。記憶のない勇利が不利益を被ったり、嫌な思いをしたりすることのないように。やっぱり日本に帰ると言われたら──想像するだけでゾッとする。
餓えていることさえ気づかずにいたライフとラブ。その二つともを手に入れた今、どうして手放すことなどできるだろう。
(一度、腰を据えて勇利と話すべきかな)
ハウスキーパーにしろエージェントにしろ、勇利にとっては所詮外国人の他人だ。こちらが気づかないうちにストレスを溜め込んでいるかもしれない。
(でも、それならなおのこと氷に乗りたがるはず……やっぱり、ユリオの言うとおり最近の勇利は不自然なんだ)
そう考え始めると、いてもたってもいられない。
「ヤコフー! 俺、ちょっと急用を思い出し──」
「ばかもん! やっとまともに取れた練習時間だろうが! さっさとリンクに上がらんか!」
「……まだ全部言い切ってないけど」
「お前の言いそうなことなど聞かずとも見当がつくわい! 早くしろ! さっきの振りから通すぞ!」
「……はーい」
一秒でも早く勇利と話したい。しかし、練習時間が足りていないのも事実だった。不甲斐ない演技を見せたら勇利に幻滅される。それは避けなければならない。でも──。
心は千々に乱れる。皮肉なことに、今季のショートプログラムのテーマもそれなので、今日の演技は一段と深みが増すことになり、結果としてヤコフを満足させたのだった。
「ねえ、勇利。ここでの生活にもだいぶ慣れただろう? 何か、気になることはない?」
「気になることって?」
夕食を終え、リビングのソファに並んで座り、勇利のリクエストで俺の過去プロを一緒に見ながら尋ねてみた。
画面に集中している勇利は若干上の空で問い返してくる。このプロ見るの、初めてじゃないのに。……いや、事故の後では初めてかもしれない。なんだかもうよくわからないな。
少しだけ若い自分の演技を横目に、勇利の横顔──横顔なんだよ! こっちを向いてくれてないんだよ!──に粘り強く問い直す。
「慣れてきたところで目につく問題点とかあるだろう? もっと、こうだったらいいのになあって思うようなことはない? 何か不便なこととか」
「うーん……」
勇利の目線が、画面から少しだけ下に逸れる。一応、考えてはくれるらしい。事故前の彼だったら、こんな場面では適当にあしらわれていただろう。今の勇利は少しだけ俺への態度が丁寧なのだが、その分だけ遠慮していることも多いのではないだろうか。
わずかな沈黙の後、勇利は小首をかしげながら、「特にないです」と答えた。
「ほんとに? ねえ、勇利。初めてのロシアで、言葉もおぼつかないのに問題がないなんて、そんなことある? 遠慮してるなら無用だよ? 俺は勇利に、この国で快適に過ごしてほしいんだ。そのためなら──」
「ちょ、ちょっとヴィクトル、落ち着いて。どうしたの、一体」
ようやく俺に向き直って、勇利は慌てたように両手を胸の前でさまよわせている。俺はその手を取ってなお言い募った。
「大事なことだから真面目に考えてほしいんだ。俺は勇利にロシアを好きになってほしいし、ここでの暮らしに失望してほしくない。この国は、いわゆる西側とは違うことが多々あるから、勝手が違って戸惑うことも多いはずだ。そういうことをきちんと聞いておきたいんだ。でないと、──」
そこで俺の言葉は喉に引っかかって出なくなった。脳裏にはバルセロナの夜、別離を切り出した勇利の姿。
背筋を寒気が駆け抜ける。
(あんな思いは二度とごめんだ)
「……でないと、勇利に逃げられちゃうからね」
「逃げるなんて」
最後に冗談めかしたのは自分の気持ちを切り替えるためだ。ついでにウィンクもつけてみた。
勇利は苦笑いして否定したけれど、ねえ勇利、今の君は知らないだろうけど、君には前科があるんだよ。
「繰り返しになるけど、大事なことだから。快適な生活は人生の基盤だよ。ストレスを感じてることがあるなら教えてほしい。俺も解決に力を貸すから」
「ヴィクトル……」
戸惑いと、感に堪えないという面持ちとを混ぜ合わせた顔で勇利は俺の名をつぶやいた。俺の気持ちは伝わっただろうか。伝わった気はするが、勝生勇利はびっくり箱だから油断できない。でも、俺の手を振りほどかないのだから不快ではないのだろうし、シオタイオウすることもなさそうに見える。
「ありがとう、ヴィクトル。でも、本当に困ってることとかないんで。大丈夫、です」
「本当に?」
「本当に。むしろ、お手伝いさんはいるし、外出にも送迎がつくし、至れり尽くせりで、これで不満なんて言ってたら人間性に問題があるよ。そのぐらい、ここでの生活は快適です。感謝してます」
「なら、いいけど……日本に帰りたい、とか……ない?」
そう言うと、勇利の顔が歪んだ。俺の顔も歪んでたと思う。
「本当は帰った方がいいんだろうけど……今の僕は、やっとここの生活に慣れたところだし……あ、でもヴィクトルが帰れっていうなら」
「いわない! いわないよ! いつまでもここで暮らせばいい、記憶だっていつか戻る、そうすればスケートだってできるんだし」
俺がまくし立てると、勇利はほっとしたように笑って「お言葉に甘えさせてもらいます」と頭を下げた。俺もなんとなく安心してしまって、結局その夜は勇利への問いを手控えてしまったのだった。聞きたいこと、聞くべきことはたくさんあったのに。
それは、雑誌のモデル仕事を終えてリンクに着いた時だった。
リンクサイドのベンチに座っているはずの黒髪を探して視線をさまよわせていると、見慣れたトレーニングウェアの背中が見えた。
勇利の姿を確認するとほっとするのは何なんだろう。
ただ、今日は彼の傍らにたたずむ人影がある。
(誰だっけ、あれ)
リンク関係者なのは間違いない。部外者はそうそう入れない体制になっている。出で立ちからしてスタッフではなく選手だ。くすんだ金髪を短く刈り上げ、やや怒り肩をしていて肩幅が広く見える。それがアンバランスな体型に見える男だった。
近づいていくと、こちらに気づいた男はそそくさと立ち去った。見覚えはあるが名前は思い出せない。どこで見た顔だったろう。
「やあ、勇利。今の誰?」
「あ、ヴィクトル、お疲れ様。今の人? ちょっと話しただけで名前は知らないんだ。ヴィクトルの方が知ってるんじゃないの?」
「俺が忘れっぽいの知ってるでしょ?」
「そうだったね」
「それで、何話してたの?」
「うん? 大した話じゃないよ。調子はどうだ、みたいな」
ふぅん、と男の立ち去った方を見ても、もう姿は見えなかった。
勇利は大した話じゃないと言うけれど、そんな軽い話をしているような雰囲気ではなかったように思う。もっと剣呑な空気が漂っていたような……。
「それよりヴィクトル、今日はどんな仕事だったの?」
勇利に視線を戻すと、彼は屈託なく笑っている。
(気のせいだったかな……険悪そうに見えたのは)
答えようと口を開きかけた時、
「ヴィーチャ! いつまでぐずぐずしとるんだ! さっさと着替えてこんか!」
ヤコフの雷が落ちて、勇利と顔を見合わせて笑い合うにとどまった。
勇利は氷の感触を確かめるためにリンクに上がるようになった。そうなれば、身体に染みついた技術は湧き出す泉のようにあふれ出して、「できるのに、名前がわからない」という可笑しな状況になった。いくらリンクサイドで勉強していても、実際の滑りに当てはめるのはまた問題が別のようで、「これ! これ、何ていう名前だっけ!?」という叫びが何度も発せられては笑いを誘った。
「やっぱり練習の成果っていうのは消えないんだねえ、大したもんだよ、勇利。焦ることないから、ゆっくり名前を覚えていけばいい。そんなに数が多いわけじゃないんだし」
「何言ってるの、ヴィクトル。もう充分時間を無駄にしたよ。早く本格的に練習できるようにならなくちゃ」
「だから焦ることないって」
「焦るよ! どれだけ鈍ってるかわからないんだよ?! ジャンプだって、きっと跳べなくなってる。もたもたしてたら元の自分に申し訳ないよ!」
そう言うと、勇利は今できる限りのステップを刻み始めた。確かに、練習できていなかったから足さばきが甘い。それでも勇利独特のリズム感が健在なのはさすがだった。
「大丈夫。勇利は勇利だ。すぐに今まで通り滑れるようになるよ。ジャンプは、まあ……練習しないとダメだろうけどね。でも、」
そこで言葉を切って勇利の元に向かう。焦りを浮かべた顔はいつになく目元の険が深かった。再び滑りだそうとするのを、肩に手を置いて押さえ、瞳を覗きこむ。
「もう一度言うけど、焦ることないよ。──いや、焦っちゃ駄目だ。君の言う通り、どれだけ鈍っているかわからない。だからこそ、慎重であるべきだ。けがや故障につながったらどうする? せっかく氷に乗れるようになったのに、また見学に戻る気はないだろう?」
「それは……そうだけど」
悔しそうにうつむく頬を両手で包んで。
「できることから一つずつものにしていこう、勇利。大丈夫、勇利ならできる。俺も力になるし、俺がいない時はヤコフが協力してくれるから」
「ヴィクトル……」
勇利の瞳が揺れていた。不安と、焦りと、俺の言葉への賛意と、それでも拭い去れない恐怖とで。
どれだけ恐ろしいだろう。実力がものをいう世界で記憶もなく技術もおぼつかず、わずか数人の知己しか存在しない環境で、おまけに休業中とはいえ国を背負う立場だ。勇利にとっては、むき出しの肌に直接嵐を受けるようなものだろう。
「勇利には俺がいるよ。勇利は一人じゃない。一人で抱え込まないで。いいね?」
もっと俺を頼ればいい。記憶のない勇利を放り出すようなまねなんて決してするものか。だから、安心してここにいてほしい。そのためなら何だってする。
ロシア人の好きな黒い瞳。勇利の瞳は黒というより澄んだ紅茶の色に近い。それでも魅力的なことに変わりない。
「てめえら、いい加減にしろ! イチャイチャすんなら家でやれ!!」
ユリオの声に、我に返る。そういえばリンクの真ん中だったっけ。
怒髪天、といった面持ちのユリオと諦めきった顔のヤコフと、ニヤニヤしたり素知らぬ顔をしていたり、邪魔そうな顔をしていたりするリンクメイトたちを見回して、勇利は真っ赤になった。