「いいかい、勇利、日が暮れたら絶対に、絶対に一人で外に出ちゃダメだからね。用事があるならコンシェルジュに頼んで。──ユリオと? ユリオだってまだ子供だし、勇利と二人じゃ子供の二人連れにしか見えないよ。そんなの『どうぞ誘拐してください』っていってるようなものじゃないか。とにかく、絶対ダメだからね。いいね!?」
「もう、わかったってば。これで何回目? 夜は外には出ません。これでいい? ほら、迎えの人を待たせちゃダメだよ、早く行って」
「約束だからね、勇利に何かあったら──」
「何もありません。大丈夫。ほら、早く行って!」
「勇利が冷たい!」
右腕のギプスが外れた勇利は行動範囲を広げ始めていて、心配の種は尽きることがない。
それなのに、泊を伴う仕事を入れざるを得なくて(断り続けるのも限界だったので)、後ろ髪を盛大に引っ張られながらヴィクトルはピーテルを後にした。たった一泊だったけれど。
ジナイーダ・ミネルコヴァにとってニキフォロフ邸でのハウスキーピングは、折り返し点を過ぎた人生を振り返ってみてもそうはない、胸の高鳴りを抑えられないものだった。
決してミーハーではないつもりだが、家主はあのヴィクトル・ニキフォロフだ。ロシアの英雄、リビングレジェンドともてはやされ、ロシア人なら、よほどの僻地住まいでもない限り誰もが知るセレブ中のセレブ。
テレビの中と変わらず人当たりのよい家主、最近日本からやってきた同居人もいい子で──子供にしか見えないのに二十四歳と知って驚いた──、もこもこの老犬も躾が行き届いていて、彼女の中でヴィクトル・ニキフォロフの好感度は急カーブを描いて上昇していた。
とはいえ、職務上知り得たことを口外することはできないし、ぺらぺらと吹聴して回る趣味もない。第一、そんなことはプライドが許さない。誰しもに務まるものではない仕事を、長年勤め続けてきた自負もある。
だから、ユウリ・カツキの事故以来、たびたび突きつけられるマイクもカメラも彼女は無言を貫いてやり過ごしてきた。数年ぶりに連絡してきたうえに、しつこく二人の動向を知りたがった詮索好きな知人数人とは、はっきりと絶交を宣言もした。
ヴィクトルもユウリ・カツキも彼女の息子ほどの年齢で、どちらも本当にいい子だから、守れるものなら守ってやらなければと、義憤のような感情に駆られていたのだった。
「ジーナさん」
それは、ユウリ・カツキと二度目の『初めまして』を済ませて、ようやくぎこちなさが取れてきた頃だ。彼はジーナ──ジナイーダの略称だ──に「さん」を付けて呼ぶ。家主と同格の同居人とハウスキーパーという関係である以上、呼び捨てで構わないと彼女は主張するのだが、彼は何度いっても「さん」付けをやめようとしない。
彼は今日、家主から留守番を言い渡されていた。
「なんでしょう、ユウリさん」
ロシア人にとってカツキは発音しにくく、どうしてもカチュキになってしまう。そのため、家主の了解の下、ユウリと呼ばせてもらっていた。
「“さん”付けは、やめてくださいよ」
「あなたがやめるのが先ですよ。私はハウスキーパーですからね」
彼女がきっぱり言うと、分が悪いと思ったのか、ユウリは少し口ごもってから用件を述べた。
「……ええと、ジーナさんのボルシチの作り方、教えてもらえませんか? ヴィクトルも美味しいっていってたし、僕も何か、彼の役に立ちたいので」
「え? ええ、それは構いませんが──」
「よかった。じゃあ、今度ヴィクトルのいない時に。内緒にしてびっくりさせたいから。お願いしますね」
「はい……」
ロシア人には珍しくジーナが言い淀んだことに彼は気づかないようだった。
役に立ちたい、とはどういうことだろう。
明日の朝食の支度をしながら、彼女の思考は先ほどの会話に回帰する。
食事の支度は、本来、ハウスキーパーの職分にない。栄養士の資格を持つジーナは、ヴィクトルと特別に契約を結んでコック役も務めていた。彼らの所属するクラブの栄養士との打合せにより、日々のメニューは決定される。俯瞰してみれば、彼女の仕事はハウスキーパーというよりメイド・オブ・オール・ワークといったほうが正確なのかもしれない。そして、これはなかなかに精神的重圧のかかる仕事だ。彼女の匙の一振り、手の加え方一つで、国の宝であるアスリートの体調が左右されるのだ。だからこそ、やりがいもあるし、それに見合うだけの報酬も得ている。女一人の老後を安泰に暮らすために、金はいくらあってもいい。
小麦粉にライ麦粉を混ぜてふるいに掛ける。そば粉を入れるのが一般的だが、ライ麦は栄養価も高いし、時々は味を変えてみるのもいいものだ。ふるいに掛けた粉に卵、砂糖、塩、ドライイーストを入れてよく混ぜ、人肌に温めた牛乳を少しずつ混ぜる。
ユウリは何か引け目でも感じているのだろうか。
目の細かい網で混ぜ合わせた生地をこしながら、ユウリ・カツキの少し寂しそうに見える微笑を思い出す。
ヴィクトルの様子を見る限り、ユウリをそれは大切にしているし、「同居させてやっている」などと嵩(かさ)にかかった考え方をするような人柄でもない。生活レベルを見れば、ユウリ一人ぐらい食い扶持が増えたところでヴィクトルには痛くもかゆくもないだろう。実際、恐縮するユウリをヴィクトルがきつく窘めている会話が漏れ聞こえてきたこともある。
それでも申し訳なく思ってしまうのが日本人なのかしら──。
生地を寝かせている間に、キャベツを1cm角の粗みじんに、ニンジンを短めの千切りにしてボウルに入れ、塩をふっておく。
ヴィクトルにそれとなく伝えた方がいいだろうか。
サーモンを薄切りにし、塩、コショウ、オリーブオイルとハーブでマリネにする。
水気の出たキャベツとニンジンをしぼり、オリーブオイル、黒コショウ、レモン汁で味を調える。生地に酸味のあるライ麦粉を加えたので、酢はほんの少し。
いやいや、それではハウスキーパーの分を越えてしまう。
あらかじめ計算した分量のイクラを小鉢に移し、ラップしてまた冷蔵庫へ。
生クリームとヨーグルトを混ぜ、塩、コショウを加えてヨーグルトソースを作る。
寝かせておいた生地が発酵してきたところで、いよいよ焼きだ。成人男子の胃袋を満たすよう、生地は大きく、けれど薄く、ほんのりキツネ色に焼きあげる。我ながら食欲をそそる色合いだ。
私は所詮、雇われ人にすぎない。彼らの関係に口を差し挟む権利もない。これ以上考えるのはやめよう。これでは詮索好きな知人を笑えないじゃないの──。
焼き上がったブリヌイの生地を広げて粗熱を取り、一枚ずつラップで包む。面倒だが、重ねて包むよりもこの方が絶対に美味しい。本当は焼きたてを食べさせたいが、住み込みでもなければできない相談だ。
ハウスキーパーとしてできることと、できないことを明確にすること。職分を越えないこと。それが長くこの仕事を続ける間に身につけた、彼女の処世術だ。
どうやら、今朝のユウリは寝坊でもしたようだ。食後の器がシンクに置きっぱなしになっている。彼一人で食事をした後は、彼自身が片付けまで済ませてしまうのが常だった。
もちろん、片付けも彼女の職分だから置きっぱなしで構わないし、そうあるべきなのだが、ユウリは他人を使うことに慣れないらしかった。
遠慮することないのに、と口の中で呟いて、さっさと片付けてしまう。
洗濯し、続いて家中の掃除を済ませて埃を拭き取る頃には昼過ぎになってしまう。彼女はキッチンの隅で持参の遅い昼食を取る。最近はスマホでテレビも見られるから退屈しない。いい時代だ。
──おや、ユウリの話題だ。
どうやら、彼がロシアに「滞在」し続けていることを非難する方向性の番組らしい。ユウリに否定的なコメンテーターがメインゲストなことからも明らかだ。あからさまに日本に帰れとはいわないが、家族の元で療養した方が快復も早いのではないかと、いかにも彼を案じていますという体で帰国を促している。その方がヴィクトルの負担も減るだろうに、と──。事故後、何度となく繰り返される論調だった。
「ユウリ・カツキも慣れない異国での生活よりは、母国で手厚いケアを受けた方が回復も早いと思いますがねえ」
「日本に家族だっているわけでしょう? 私だったら外国で、それも記憶の無い状態で暮らし続けるなんて不安でたまらないですよ」
「彼はシャイボーイだと聞いていましたが、意外と図太い面もあるようですね」
「あれで二十四歳だそうですからね。見た目で騙されがちですが、立派な大人なんだから身の振り方も考えられるはずですよね」
「ヴィクトルは今季から選手に復帰するのに、コーチとの二足のわらじで、しかも病人のケアまで抱え込むんですよ? 彼が超人でも、できない相談じゃないですかねえ?」
「ヴィクトルと同居してるんでしたっけ。いくらコーチと生徒といったって、所詮は外国人同士ですしねえ」
「まあ、ヴィクトルとの同居なら生活費の心配はいらないでしょうけどね」
どっと笑い声。
勝手なことばかりいって。
いらいらしてテレビ機能をオフにする。
ユウリが残るも帰るも彼自身が決めることだ。もちろんヴィクトルの意志も彼の動向を左右はするだろうが、赤の他人が口を出すことではない。
そこまで考えてジーナはうっすら赤面した。彼らの関係を詮索がましく思考していたのは、つい昨日のことだ。
おせっかいに口出ししなくてよかった。私まで彼らの敵に回ることになっていたかもしれない。
それにしても、ひどい番組だ。こんなやり口なら、日本に帰れと彼を攻撃し続けているゴシップ紙の方が、意図が明白な分だけマシに思えてしまう。
ユウリはこの番組を見ているかしら。見ていないといいけど。
「ただいま、ジーナ。勇利は?」
「お帰りなさい、ニキフォロフさん。彼はまだクラブから帰っていませんよ」
「そう。何か変わったことは?」
「これといって」
ヴィクトルから上着を受け取り、ブラシでほこりを払う。襟や袖口、裾の汚れを改め、クリーニングに出すことにする。彼の服は洗濯を前提としない高級品も含まれているので注意が必要だ。
着替えの手伝いまではしなくていいと言い渡されているので、その間に紅茶の支度を調える。いい苺のヴァレーニエが手に入ったので、茶器とともに供した。
家主が茶を愉しんでいる間に、夕食の支度に戻る。今夜は鱈のウハー(スープ)とオリヴィエサラダだ。昼から魚のアラを煮込んでダシを取り、丁寧に灰汁を取って作ったスープは透き通っている。ジーナの得意料理の一つだ。
玄関のチャイムが鳴る。この家の玄関チャイムを鳴らすのは住人しかいない。来客は一階のコンシェルジュからインターホンで連絡が来る仕組みだ。
おかえり、勇利! おかえり、マッカチン!──という家主の声を遠く聞きながら、スープに入れた野菜から出る灰汁をすくい取る。出迎えに行くのが筋だが、今は手が離せない。ワンオペのつらいところだ。
快活なやり取りが近づいてきて、キッチンの入口から住人達とその愛犬が姿を見せた。
「ただいま、ジーナさん。今日は食器をそのままにしていってすみませんでした」
「お帰りなさい、ユウリさん。謝ることはありませんよ。片付けは私の仕事ですからね。もっと汚してあってもいいくらいですよ」
彼女が軽口を交えると、ユウリは「いや、そんな」と律儀に手を振った。
「勇利、寝坊したのかい? 俺のスリーピングビューティーは寝坊助だねえ」
「僕は誰のものでもありません。それに前からいってるでしょ? スリーピングビューティーとか変な誤解を招くからやめてください。寝坊助なのは認めます」
「勇利がつれない……」
そうリビングレジェンドは嘆いてみせ、そのまま流れるような仕草でユウリの肩を抱いてキッチンを出て行った。他愛ない会話が遠ざかっていく。
さて、住人が揃ったからにはぐずぐずしていられない。急いで仕上げなければ。
鱈の切り身と、アラから外しておいた魚の身、たっぷりのディルを鍋に入れ、弱火で煮込む。その間にパンを軽くトーストし、ウハーの付け合わせのバター(ヴィクトル用)とサワークリーム(ユウリ用)を小皿に取り分ける。
さあ、セッティングだ。お腹を空かせた成人男子達が待っている。
基本的に住人達の食事中は姿を現さないことにしている。レストランの給仕のように控えていて、食事の進行状況を見て皿を供するというようなことはしない。邪魔をしないためというのはもちろん、彼らが食事している間にジーナは翌日の朝食の支度をし、軽食──彼らの食事の余りもの──をつまむのだ。
これは、ヴィクトルと契約した当初に話し合って決めたことだ。そうでなければ、彼女の帰宅は深夜になってしまう。また、彼らの生活スタイルだけを優先すれば、ジーナには夕食を摂るヒマさえなくなってしまう。苦肉の策で、彼女がつまんでもよいことにしているのだ。
ダイニングから笑い声が聞こえる。どうやら今日のメニューは彼らの口に合ったようだ。食事が口に合わなくては、弾む会話も弾むまい。美味しい食事は日々のエッセンスだ。今日も彼らの胃袋を満足させられた、とジーナは達成感を噛みしめる。
「それでは失礼します。ごきげんよう、ニキフォロフさん、ユウリさん」
辞去の挨拶をできることもあれば、気配を立てないようにひっそりと去ることもある。所詮は使用人に過ぎないので、目立たないように振る舞うのが鉄則だとジーナも弁えている。彼女に対するヴィクトルの態度はそっけないものだが、雇用主と使用人という関係においてはその方がかえって気が楽だということを、彼もよく理解しているのだろう。ユウリのように、使用人に気を遣ってくれる雇い主は、それはありがたいけれど、対応に困ってしまうこともある。
それでも、私は相当に恵まれているわね。
ニキフォロフ邸を辞して白夜の街路を往く。今日も疲れた。コックまで務めていると、どうしても拘束時間は長くなる。けれど毎日が充実しているのはよいことだ。まして、相手は国を代表するアスリート達だ。これほどやりがいのある仕事があるだろうか。
ユウリは白夜になかなか慣れることができないようで体調のコントロールに苦労しているようだ。今朝の寝坊もスムーズに入眠できないせいかもしれない。寝坊と決まったわけではないけれど、そう外れてもいないだろう。
眠りを誘うハーブを彼のベッドの枕元に置こうか。──いやいや、そうじゃない。置くように、ヴィクトルに進言しようか。
できることと、できないことを明確に。職分を越えない。
息子のような年頃で、快活な彼らは可愛くて、つい世話を焼きたくなってしまう自分を抑えることが、ジーナにとって実は一番難しいことだった。