「ヴィクトルは凄いんだね」
「何? 急に」
「凄いんだなあ、と思ったから」
そういって、はにかむように勇利は微笑んだ。
勇利の記憶はまだ戻らない。
今季は休養に充てるべきだと誰もがいった。
昨季の成績を思えば一年の休養は惜しい、けれど二十四歳の勇利のフィジカルを考えれば、ここで無理をすべきではない、と。記憶もないのに滑れるのか、そんな生半可な状態で挑むとは競技自体を舐めている、と悪し様にいう者もいたし、勝生勇利は終わった、と騒ぎ立てる報道もある。
だが、身体を鈍らせるわけにはいかないと強硬に主張したのは当の勇利で、キツい話し合いを重ねた末に、とうとう折れたのは俺やヤコフの方だった。まったく、あの頑固さは記憶を失っても健在なのか、と何度ため息をつかされたことか。
「左腕のギプスもまだ外れていないのに、何を焦ってるんだい? せめて、ギプスが外れてからでも遅くはないだろう?」
「でも、もし明日記憶が戻ったら? 僕は無駄にした時間をきっと後悔するよ。そうして、記憶をなくしていた間の──今の僕を──きっと恨む。僕、自分で自分を恨むようなまねも、恨まれるようなまねもしたくないです」
「でも、勇利」
「そうだよ、ヴィクトル。勝生勇利のためになんだよ。勝生勇利の競技人生のためになんだ。だから、お願い。お願いします!」
そういわれて、頭を下げられて、俺に勝ち目があるか!?
放っておいて勝手にトレーニングを始められても困るし、勇利はそういう前科なら山のようにある困った生徒だ。それに、正直、目を離すのも不安ではあった。俺のいない留守宅に記憶のない彼を残しておけるか?──否。
だから、フィジカルトレーナーの厳密な指導のもとで、それ以外の自主トレーニングは当面不可、この約束を守れるなら、と折衷案を出した。呑ませることに成功した時は天に向かって快哉を叫びたいぐらいだった。
そして、朝のロードワークが勇利の日課だったことを隠し通せた自分を、ひそかに、しかし盛大に褒め称えた。
朝はハウスキーパーが用意していった食事を摂る。温め直したり、盛りつけたりするだけの状態で冷蔵庫などに用意されているものだ。勇利はまだ右手しか使えないから、必然的に生活の細々した作業のメインは俺になる。勇利は済まながって謝罪の言葉を口にし、俺がそれを慰めるのが、勇利の退院以来の新たな生活パターンになっていた。
自分で食べるものぐらい手作りしたいというアスリートもいるが、俺はそのあたりにはこだわりがない。栄養バランスが取れていて、味がよくて、量も十分ならそれでいい。ハウスキーパーには栄養士の資格のある人材を選び、フィジカルトレーナーとも打合せのうえで食事を用意するように指示している。国の支援を受けるアスリートならば、雑事に時間を割くよりも競技のために全力を傾注すべきだからだ。
俺たちの競技人生は短い。三十歳を目前にした俺はなおのことだ。勇利と俺と、ともにポディウムの頂点を目指すのだ。正直にいえば寝る間も惜しいほど俺には時間がない。
いくばくかの金銭と引換えに生活上の雑事を肩代わりしてもらえるならば、少なくとも現役の間は有効に活用すべきだ。
ハウスキーパーの存在に慣れない勇利は「横着者になりそう…」と困惑しきりだった。
「引退したら、うんざりするほど家事ができるさ」と俺は片目をつぶってみせる。
向き合って食事を摂り、シンクに運んだ食器にざっと水をかけて──これはハセツで身につけた習慣だ。それまでは食べ終えた状態のままテーブルに置きっぱなしだった。マリに何度も叱られて会得した、よき行いだ。(日本語ではシツケというらしい?)──それから、食後の紅茶を飲む(これもハセツで身についた習慣だ。ハセツでは緑茶だったが)。太りやすい勇利はジャム無し、俺はジャムあり、こんな時の勇利はなんとも恨めしそうな目をするが、どうも無意識らしいので言及は避けている。
互いの一日のスケジュールを確認し、身支度を調え、マッカチンも一緒に家を出る。向かうのは、まずはリンクと逆方向のペットシッター宅だ。勇利が朝のロードワークに出られないので(まだ秘密にできているので)、マッカチンの散歩はペットシッターに依頼している。遠征のたびに預けているシッターだから、マッカチンも慣れたものだ。
勇利が事故に遭う前は一緒にジョギングしながらリンクに向かっていた。車を使うには近すぎるし、走っている方がまわりから余計な声もかからない。温かな声援ばかりがかけられるとは限らないのは、スポーツ選手の宿命といったところだろうか。俺がそうなのだから、アウェイの勇利にはなおさら気をつけねばならない。渡露してすぐの勇利は「過保護だなあ」と笑っていた……。
今は、むりやり助手席に押し込めてリンクまで送迎している。勇利はやっぱり「過保護だ」と笑った。
「よう、カツ丼。今日も運転手付きとはいいご身分だな」
「おはよう、ユーリくん。君も出世してね」
「あ? 豚の分際で生意気な口、聞いてんじゃねえよ」
「ユリオ~、俺には一言もないの?」
「よう、オッサン。生え際は無事か?」
「ひどいユリオ!」
悪罵とともに始まる1日にも勇利はすっかり慣れたようで、屈託なく笑っている。何だかんだといいながらも、勇利を気遣って都合がつく限り一緒にいようとしてくれるユリオは、本当に優しい子だ。
俺への悪罵は、まあ……俺がハセツに行く前はもう少し俺へのリスペクトがあったはずなんだけどなあ……と思いつつ、これもユリオがロシアフィギュア界の次期皇帝として健やかに成長するために必要な、精神の階梯を登っている証左なのだろう、だから我慢しよう、と思っている。うん、我慢、我慢。──ああ、俺らしくないなあ。コーチをしてなければ、こんなこと考えもしなかったに違いない。
てんでに朝のあいさつを交わし、それぞれに支度を済ませ、それぞれのメニューに取り組むために別れる。この辺はあっさりしたものだ。
仲がいいことと馴れ合うこととは別だ。俺たちは氷上に立てばライバル同士だ。リンクの中と外とでは関係性が変わったとしても当然のことだ。強くなるために氷に乗る、そこに気遣いは存在しても馴れ合いの入る余地はない。上に行くのは、その辺の切換がきちんとできる人間に多いような気がする。
勇利がオフアイストレーニングに取り組んでいる時間は、俺にとって貴重な氷上での練習時間だ。勇利が退院したことで、それまでセーブしていた対外的な活動にも時間を割くことを余儀なくされた今、氷に乗る時間は減っていく一方だ。全快した勇利が滑り出す前に、俺の新しいプログラムは完成の目処をつけておかねばならないのだ。
ハセツでもほぼ毎日氷に乗っていたとはいえ、選手としての練習とコーチのそれとは違う。
去年の十二月に復帰を決めて、マッカチンも荷物も何もかもハセツに残したまま急遽帰国し、死にものぐるいで肉体づくりに取り組んだ。肉体の限界とトレーニングの限界量をぎりぎりで擦り合わせ、綱渡りを渡るようにバランスを取りながら、過去のプログラムをブラッシュアップした日々。もう一度やれといわれても、きっとできない。
ただ、負けたくなかった。勇利の中の、過去の俺に。
復帰するなら、最高の俺を見せつけなくてはならないと思った。過去の自分に負けるような男が、グランプリファイナル銀メダリストのコーチなどできるものか。そんな男を、どうして勇利が信頼してくれる?
たとえロシアナショナルで惨敗しても勇利は信頼してくれたかもしれない。だが、「コーチとの二足のわらじは無理だ」とうるさい外野を黙らせることはできなくなる。
だから、なんとしても勝たねばならなかった。
それは今も変わらない。
振りの一つ、ジャンプの一挙動をヤコフとチェックし、プログラムを完成にもっていく。
今、この瞬間の俺は一人のアスリートだ。勇利を凌駕し、ポディウムの頂点に立つために。
これほどのやりがいを感じながら氷上に立つのは初めてのような気がする──。
昼食はリンクの食堂か、外に食べに行く。
たいがい勇利と待ち合わせて一緒に摂るようにしている。他愛ない話をしたり、オーバートレーニングをしていないか釘を刺したり。ユリオやミラ、ギオルギーが加わることも多い。雑談なら問題はないのだが、勇利はスケート関連の技術用語がすっぽり記憶から抜けてしまっているので、残りのメンバーが技術論を戦わせ始めると話に入れず、聞き役に徹するしかない。つらいなら話題を変えるから、と申し出たことがあるが、「用語とか勉強になるから」と止められてしまった。これは気を遣わせていることになるんだろうか? 今まで他人の心情を深く考えるということをしてこなかったので、こっちもどこまで気遣えばいいのかよくわからない。ロシア男とキューシューダンジとでは育ちも違うし。
「カツ丼、来週にはギプス取れるんだろ? 俺様のトリプルアクセル、目の前で見てビビんなよ」
「えっと、トリプルアクセルって前向きにジャンプして後ろ向きに着地──じゃない、着氷するんだよね?」
「おう、豚のくせに物覚えがいいじゃねえか」
本当に、口だけは悪いがユリオはいい子だ。さりげなく勇利を会話に入れようとしてくれる。
「カツキもトリプルアクセル得意だったみたいだわよ?」
「え、そうなんだ」
「だが、なんといってもカツキの持ち味はステップだな。あのリズム感は他者では再現が難しい」
「公式試合でヴィクトルしかやってなかったクワドフリップ跳んだ時はユーリもビックリしてたわよねえ?」
「は? してねーし」
「またまた~」
ミラやギオルギーも勇利を気遣ってくれる。いいリンクメイトに恵まれたが、甘えてばかりもいられないなあと思う。
勇利といると、つい記憶を失っていることを忘れてしまいそうになるのは、あまりにも彼が動じたそぶりを見せないからだ。特に、日常生活の細々とした約束やリズムに彼が慣れてくると、まるで事故の前と何も変わらないように錯覚してしまう。共同生活を始めてまだ数ヶ月という時期に事故が起きたため、互いに生活上のぎこちなさを完全には解消し切れていなかった。そのこともあって事故の前も後も互いの間に漂う空気感がほとんど同じなせいもあるのだろう。
俺がしっかりしないと。誰よりも一番勇利の身近にいるのは俺なんだから。
賑やかに談笑する彼らを見ながら心密かに決意する。(それももう何度目かになるのだけれど)
「ところでカツキ、その髪型いいわよねえ、アバンギャルドな感じで」
勇利の髪は、事故の時に傷を負った左側頭部の髪を剃って治療したせいで、パンクな若者風にも見えるアシンメトリーになっている。アバンギャルドかどうかはともかく、野暮ったい眼鏡と髪型とのアンバランスさは見る者に奇妙なインパクトを与えるものだった。
「ねえ! いっそ、この機会にイメチェンしてみるのもいいんじゃない? 今までのカツキはなんていうか……」
「あー、いいトコの坊ちゃん風というかカマトトっぽい感じだったからな、“エロス”やって思いっきり振り切ったんだから、今更怖いもんねえだろ」
「か、かまとと?」
「ふむ、新たな愛を世界に見せつけるには外見もまた重要な要素だ。私の昨季のプログラムを見たか? ──見てない? 今夜にでも見てくれ、あの魔女のメイクは……」
ちょっと待って、君たち! 勇利のイメージ戦略は俺がするの!! 記憶のない勇利に何を刷り込む気なんだ!?
ホントにまずい、俺がしっかり目を光らせてないと!!
午後の練習の時間を、勇利は見学と学習に当てている。
リンクサイドのベンチで、練習する俺やユリオやリンクメイトたちを見ながら、今のジャンプは何だ、あれは何ていうステップだ、と勉強しているのだ。
実際にリンクに立って滑り出せば、身体が技を思い出す──というか覚えているだろうけれど、消えた知識は一から学び直さなければならない。ジャンプやステップの見分け方、それら一つ一つの名称を、地道に地道に、短期間で習得しようと励んでいる。
これもやはり、焦らなくてもいいといったら、
「明日、記憶が戻るかもしれない。そしたら、僕が今やっていることはムダになるんだと思う。でも、可能性に甘えて時間をムダにする方が、僕にはもっと怖い」
と、試合に臨むようなキリリとした眼差しでいわれてしまい、弟子に甘い自覚がある俺は腰砕けになって、何も言い返すことができなかったんだ。
時々、リンクサイドに滑り寄って次に跳ぶジャンプの特徴を勇利に指導する。「踏切直前の両足の形に注目して。特徴的だからね」。彼はまさに目を皿のようにして俺の挙動を見つめる。そうして気づいたことをノートにメモを取る。教えているのが基礎的な内容だからか、昨年よりもコーチらしい気分だ。いや、コーチだけど。ただ、サルコウだけは体重の軽いユリオのジャンプで覚えてもらわなければならない。俺のようなパワージャンパーの跳び方ではしっくりこなかったのが、昨年ユリオがハセツで過ごした短い期間でコツをつかんだのだから、よほど相性がよかったのだろう。なんとなく不満ではある。そんなこと、誰にもいわないけど。
勇利の食い入るような目に見つめられながら滑るのは、試合同様の緊張感がある。俺の一挙手、一投足が今の勇利に影響を与えてしまうのだ。下手な滑りなどできるものか。おかげで今までのどのシーズンよりも仕上がりが早まっているのは、ありがたい。ヤコフの機嫌も上々だ。
リビングレジェンドと呼ばれていても時々はミスして転ぶこともある。そんな時、勇利は大きな目をまん丸に見開いて呆然としている。俺だって転ぶよ、と苦笑してみせると、「なんか見ちゃいけないものを見た気分だ……」と目を反らす。
「俺だってミスするし、転ぶし、振りを間違えることもあるよ。今はまだプログラムを煮詰めてる最中だし、特にね」
「わかってはいるんだよ、頭では。でもヴィクトルが転ぶとか……凄いものを見てる気がする」
「……凄いかどうかは置いといて、俺は転び方も巧いからね、練習できるようになったらケガしないように転び方も何なら真似して」
「は、はい」
気負った風に返答する勇利に笑顔を一つ渡して、俺はもう一度最初からメニューをさらい始めた。
夕方に練習を終えると、汗で重くなった衣類を脱ぎ、ざっとシャワーを使う。
勇利を待たせてしまうのは心苦しいけれど、リビングレジェンドなんて云われている以上、対外的なイメージを保つ必要があるからね。
俺が着替えている間、勇利は、時間が合えばユリオと一緒にいることが多いようだ。だが、今日は捕まらなかったらしく、ロビーの椅子にぽつんと掛けていた。
少し背中を丸めて、脚の間にデイパックを置いて、窓外に顔を向けている。表情の抜け落ちた顔に、遠い目をしている勇利はなんだか迷子のように見えて、俺は不自然にならない程度の小走りで勇利に駆け寄った。
「ごめん、お待たせ、勇利。大丈夫だった?」
「……ヴィクトル」
勇利は俺を見上げて、
「もう。ここで何が起こるっていうのさ? 過保護すぎだよ。僕、二十四歳の成人男子なんだから」
と、さも可笑しそうに笑った。
──ああ、こんな会話を何度もした。勇利のロシア語がどうにも舌っ足らずな、幼児の言葉のようで。日本ほど治安がよくないロシアで悪い大人に騙されやしないかと心配で心配で。二十四歳の大人だなんて、ロシア人の目にはとても見えないから、どこにでも着いていこうとして、窘められて──
「ヴィクトル?」
見上げてくる勇利の声に、ハッとする。
「あ、ああ、うん。なんでもないよ。じゃあ帰ろうか。マッカチンも待ってるだろうしね」
──俺は何を考えてた? 懐かしんでいたのか? 事故の前の勇利を。
バカなことを。勇利は勇利だ。死者を偲ぶようなまねをするなんて、勇利に失礼だ。
しっかりしろ。勇利にはほかに頼れるものがない。俺は彼の支柱でいなければ。
今日、何度目かの自身への叱咤をしている傍らで、勇利が見透かすような目をしていたことに俺は気づかずにいた。