がっつんがっつん靴底を廊下に打ちつけながら豚の病室を目指す。
ナースがもの言いたげにこっちを見ているが、スニーカーなんだから大した音が出る訳じゃなし、ほっとけよ、それどころじゃねえんだ。
ノックの応答を待つ間もなくドアを開け放てば、豚野郎はポカンとした顔をしやがった。
「よう」
「……え? あ、えー……ぷ、ぷれすてぃーちゃ?」
何だそれ、ロシア語のつもりか。失礼ですが、か? って何でお前が謝ってんだよ。いや、それよりも。
「記憶喪失ってマジか」
「え? あ、はい、えーと……そうです、記憶喪失です」
「っこんのマヌケ野郎!!」
「ひぇっ」
豚はなんとも豚っぽい悲鳴を上げて自由になる方の肩をすくめた。
怒鳴らないで! とさすがに通りがかったナースから注意された。だからほっとけ、それどころじゃねえんだよ!
ベッドサイドに椅子を運んで腰を下ろす。脚を組んで腕組みして、さて。
「で? どこまで覚えてんだ」
「いや、あの、それより……君は、誰なのかな」
その応えを聞いて程度がわかった。こりゃ重症だ。間違いねえ。ヴィクトルのやつが死にそうな顔してやがるわけだ。
「俺はユーリ・プリセツキー。ロシアのアイスタイガーにして次期氷上の皇帝との呼び声も高い、ウルトラ・スーパー・アルティメット・フィギュアスケーター様だ。覚えとけ。忘れるなんざ許さねえ」
「はあ……あ、名前同じなんだね。えーと、じゃあ……ユーリくんって呼べばいいのかな?」
さすがにこれには、がつん、と殴られたようなショックがあった。
「お、……おお、まあ仕方ねえ、それで勘弁してやる」
豚野郎はスパシーパと笑った。のんきに笑ってんじゃねえよ、記憶喪失の豚の分際で!
いらいらと睨みつけると豚はすぐに笑いを引っ込めて、こっちを窺うように見てきやがった。おう、その目つき、ハセツのリンクで頭を踏んづけた時以来じゃねえか。おどおどしやがって。
「えと、ユーリくん、もしかしてだけど……君とは友達、だったのかな……?」
友達、と聞いて体中の毛がざわっと逆立ったような気がした。
「と、と友達なんかじゃねーし! 俺様の友達気取るなんざ十年早ぇえんだよ! テメェなんかただのリンクメイトだ、リ・ン・ク・メ・イ・ト!」
「あ、あー、うん、わかったから落ち着いて。えっとリンクメイトってことは同じリンクで練習してるってことでいいんだよね?――ごめんね、一個一個確認しないと失礼しちゃうからさ……」
「テメエがジジイにくっついて年明けから俺らのリンクに来たんだよ。テメエのコーチはヴィクトルだが、ヤコフ――ヤコフには会ったんだよな? ――そう、そのジーサンだ、そのヤコフがサブコーチって名目でテメエを受け入れたんだ。相当すったもんだしてたけどな」
「すったもんだ?」
「チムピオーン――あー、俺らのリンクだけど、普通のリンクじゃねえ。オリンピックを狙えるような、ロシアのトップレベルのスケーターが集められてる。そこに他国のトップ選手を受け入れるなんて前代未聞だ。普通に考えたってどんだけ無茶なことか想像つくだろ? 自国のトップ選手の情報が他国に常時筒抜けになるんだぞ? まあ、逆もそうだけどよ」
豚野郎はまたポカンとした顔をしてから、そんな凄いところに僕が……? と呻いた。どうやらヴィクトルはその辺の事情を全然話していないらしい。
「ジジイもなんでそういう大事なこと話さねえかな……」
「さっきからジジイっていってるけど、ヤコフさんのこと?」
「ちっげー! ヴィクトルの野郎だよ!」
「ヴィクトル、ジジイって年じゃないだろ」
「俺から見りゃあテメエだってオッサンだぜ」
ぐ……とピロシキが喉に詰まった豚のような声を上げて豚野郎はじっとりした目で俺を見た。
「……君から見たら、って、君、いくつさ?」
その言葉を皮切りに、互いのパーソナルデータやら――どうせネットに書いてあるし秘密にしてることでもねえし、話が一々進まねえのもウンザリだから、いろいろ情報交換――というか、俺の方がいろいろ説明することになった。
温泉 on ICE あたりの話は、俺のスケートにかける情熱をアピールするいい契機になった。自身の求めるスケートのために十五歳の俺が単身日本に乗り込むなんて、誰もが胸を熱くする話だろうが!(異論は認めねえ)。ついでにヴィクトルの野郎がどんだけ適当でいい加減で忘れっぽい男かってこともきっちり言い含めておいた。病み上がりにあのフィーリング言語で振り回されたら豚といえども気の毒だからな。俺は弱者には慈悲深いんだ――。
そして運命のGPFの録画を二人で見る。スマホの小さな画面であの時の緊迫感を再現するのは難しいが、それでもところどころ説明を入れながら――こいつ、マジでスケートの用語も何も全部キレイに忘れてやがる――俺がいかにして栄光をつかんだか教え込んでやった。僅差だろうが、勝ちは勝ちだ。俺は勝ち、豚は負けた。勝負の世界はそれがすべてだ。
見終わった豚は「ユーリくんはすごいんだねえ」とぽやぽやした顔で笑った。ちくっと胸が痛んだ気がしたが、気のせいだ。
「それで? お前、これからどうすんだよ」
「どうって? 退院したらってこと? でもヴィクトルとはまだ先の話はしてないから……」
先の話、っていうけどな、退院なんてすぐだろうが。呑気にもほどがあるんじゃねえのか。
「日本に帰らねえのか?」
「いや……それは断ったんだ。お母さんたちも来てくれたし、日本のスケート連盟の人たちもいろいろ親切にいってくれたんだけどね」
「ああ、ヒロコたちには会ったぜ。俺も久しぶりだったし――まあ、しょうがねえけどガッカリはしてたな」
「だよね……」
豚は申し訳なさそうに眉を下げた。それでも自分の意志を曲げようとは思わなかったらしい。豚のくせに、初志貫徹というか、意志の強さはなかなかのもんじゃねえか。
「そんなに残りたいのか? ロシアじゃまだ数ヶ月しか暮らしてなかったんだし、なじみなんて……あ、ああ、悪ィ」
「うん、なじみも何も、ね。でも、どこも知らない場所なら、わざわざ移動する意味ってあるのかな? って思ってさ」
「……家族がいるじゃねえか」
俺なら祖父ちゃんのいるモスクワに帰ろうとするだろうな――でも、祖父ちゃんのこともわからなくなってたらどうなるんだ?
そこまで考えてゾツとした。家族も何もない、自分のこともわからないってマジで、ガチで、本気で――怖いことなんだ。
体中の血が引いていく感覚。不意に、足元の床の感触までがおぼつかなくなる。
とっさのことに、うまく表情を繕えなかった。
豚は、寂しそうに微笑んだだけだった。
そんな態度を見ると、普段は意識しない年齢差ってやつを突きつけられる。八年分の経験値の差は、俺が思ってるより大きいのだ、と。
気まずくなって無駄に咳払いして、かえって噎せて「大丈夫?」なんていわれちまった。クソ、カッコ悪ィ。
「――ま、まあ、ここにいる以上はヴィクトルがきっちり面倒みてくれるだろうから、とりあえず安心しとけばいいと思うぜ。あいつ、カネならあるからな。数少ない取り柄だから、せいぜいタカっとけ」
「タカるって」
苦笑する豚に、いやマジで、と言い添えたら何が可笑しいのか笑い出した。
けど、それが事故の前と全然変わらない笑い方で、俺はそれに何だかひどく安心しちまった。クソ、なんか悔しい。
「とにかくなあ! ロシアにいるってことは記憶があろうがなかろうがスケートする覚悟なんだろうから、手加減なんかしねえからな! わかったら、さっさと腕くっつけろ、豚!」
「腕はくっついてるよ。折れたのは骨。てか、豚って何?」
「知ってるつーの!! あと、豚は豚なんだよ、バーーーーーカ!!!」
その日は結局、騒ぎすぎだとナースにこっぴどくシメられたのをきっかけにして、病院を後にした。
記憶喪失って怖エ……そんなふうに考えながら家までの道を小走りで帰った。なんだか、無性に祖父ちゃんと話したくなったんだ。帰宅して、ピョーチャのお帰り攻撃をいなしながら祖父ちゃんに電話して、それでようやく落ち着いたのを覚えてる。
次の日、リンクでスケート靴の紐を結んでたら、珍しく朝からヴィクトルが現れて「昨日は勇利を見舞ってくれたんだってね。勇利が楽しそうに話してくれたよ、ありがとう」と礼をいわれた。
「別に。ジジイが死にそうな顔してるから瀕死の豚に興味が湧いただけだし」と憎まれ口を叩いてやる。すると、ジジイは「また行ってあげてよ。勇利が、豚って何かな? って首をかしげてたから説明してやって」とクスクス笑った。今日は少し人間らしい顔になったヴィクトルに免じて、行ってやってもいい気がした。
だから、ヴィクトルがそこまでいうなら仕方なく、決して俺の本意じゃなく、その後も病院に行っては豚の相手をしてやった。俺だってヒマじゃねえんだ。豚の相手ばかりしてるわけにはいかねえんだ。今季はグランプリシリーズ全戦で金メダルを勝ち取ってやるんだからな。
そんなわけで、週イチぐらいで病院に行ってるうちに、豚の頭の包帯は取れ、修理から戻ってきたメガネ――あのクソダセェ青いフレームをわざわざ修理させるとか意味わからねえ――をかけた見覚えのある姿になった豚がベッドで退屈そうにしてるので、車椅子に押し込んで病院中爆走して回ったり、豚の脚のギプスにイヤらしい落書きして豚を青ざめさせナースに出禁くらわされそうになったりしたけど、俺が悪いわけじゃねえ。顛末を知ったヴィクトルは爆笑してたし問題ねえ。
でもヤコフとリリアには、特にリリアには嫌ってほどシメられた。ヤコフは、ケガしたらどうする! と、これはまあ納得のいく怒られ方だったけど、リリアは脚のギプスにした落書きがとにかく気に入らなかったらしく、それはもう冷たーく、でもメチャクチャ怒られた。冗談じゃねえ、純粋培養じゃあるまいし、スラングの一つも知らずに成長できるかよ、納得いかねえ。
人騒がせな師弟は日を追うごとに人間らしくなっていく。特にヴィクトルは豚のケガがよくなっていくのが純粋に嬉しいらしいのと、豚を見舞うために仕事をセーブしたら結果的にマッカチンと過ごす時間も増えることになって、精神的な癒しポイントを地味に積めることが功を奏してるらしい。
一度、ヴィクトルに「豚の記憶が戻らなかったらどうすんだ?」と訊いてみたことがある。そうしたら、こともなげに「また一から始めるだけだよ」と笑いやがった。豚の記憶喪失が判明した頃は死人みたいな顔してやがったくせに、吹っ切れやがって。ムカつく。
「僕やっぱり日本に帰る――なんて言い出したらどうすんだよ」
豚の口真似、じゃない、鳴き真似をして問いかけてやった。ジジイは「上手い、上手い」と微笑んだ後、
「その時は、勇利はスケートをやめる時なんだろう。引き止めてはみるけど、勇利は頑固だからね、止められないかもしれない。そうしたら――」
と、言葉を濁すので嫌な予感がした。おい、引退するなら俺に負けてからにしろよ。
「アンタもやめるか?」
「どうかな。でも、勇利が一生記憶喪失のままなら、一度は目に焼き付けてほしいと思ってるよ、俺がどんな風に滑るのか、を。やめるとしたら、その後だね」
ずいぶん達観してるなと思ったのでそのまま口にしてみたら、「勇利には前に泣くほど驚かされたからねえ」と遠い目をしやがった。なんだそれ、と訊いたら、トラウマだから勘弁して、と逃げられた。バカ野郎、ジジイのトラウマなんてますます気になるじゃねえか。なら豚から聞き出そう──と思ったら、アイツ記憶喪失なんだった――使えねえな、ポークチャップにでもなっちまえ、と心の中で毒づいたところで、ヴィクトルに「ユリオはどうするんだい? 勇利の記憶が戻らなかったら」と聞き返された。
「俺は別に――元の生活に戻るだけだ。豚の一匹や二匹いなくなったところで、世界から強豪が消えちまうわけじゃねえ。練習して、食って寝て、勝つだけだ」
「ユリオは強いねえ」
「アンタみたいに、豚に全身で寄りかかってるわけじゃねえからな」
「ユリオはキツイねえ」
苦笑するヴィクトルに――前みたいに怒って顎をつかんでこなかったから自覚はあるんだろう――フン、と鼻息だけ返してやって背中を向けた。
バカな質問をしちまった、と少しだけ後悔しながら。
豚の退院の日、俺はウンザリするインタビューの仕事が入ってて、スーツに着替えてヤコフと一緒にしかめ面を披露してた。もう少し愛想よくしても罰は当たらんぞ、とヤコフにいわれたが、決まり切ったことしか訊いてこない退屈なインタビュアー(モデル上がりで勉強中とかいう触れ込みの)の相手なんて、してやってるだけで罰どころか感謝されてちょうどいいぐらいだっつーの。
「最後に一つ――ユーリ・カツキが記憶喪失で今季は絶望、最悪このまま引退も、なんて噂されているけど、それについて」
「――は?」
目つきが悪くなるのが自分でもわかった。
「ライバルの不調を喜ぶなんて――という人もいるかもしれないけれど、運も実力のうちといわれてもいるわ。今季のユーリ・カツキは運を引き寄せられなかった。あなたは――」
この女、最後にこの話題をぶっ込むために用意されたマネキンか。美女インタビュアーにブチギレるロシアの妖精の図を撮りたいか、でなきゃ、俺のビッグマウスを期待してやがるんだろう。どっちにしても、こんな無礼な質問をしてくる相手の意図にやすやすと乗ってやる義理はねえ。今の豚はリンクメイトでもあるんだ。同じリンクの仲間を不要に貶めるやつは許さねえ。
「――彼とは逆に、運を味方につけたともいえる。一ロシア国民としては昨季以上の活躍を期待したいところだけれど」
俺は脚を組み直し、背もたれに深く背を預けた。
「俺は他人の運、不運が関係するような練習はしていない。運なんて不確定の要素に頼って勝負したことなんて一度もない。昨季以上の活躍といったけれど、去年の自分すら超えられない人間がライバルの不調ごときで活躍できるとでも? 俺は今季も勝つが、それは俺が、去年の自分を超えたからだ。ことわざでもいうだろ? “神様お願い”より“神様のおかげです”がいい、と」
……なんだかジジイみたいな言い回しになっちまったが、俺を激昂させたかったらしい女は鼻白んだような顔をした。女が口を開きかけるよりも早く、俺は言葉を継いだ。
「俺はロシアに金メダルをもたらす。それは俺のため、俺の家族のため、俺のコーチやスタッフのため、そしてロシアのためだ。そこに他人の好不調が入り込む余地などねえ。俺のつかむ栄光がライバルの不調のおかげだ、なんて、いうつもりはないよな? 話はそれだけだ」
なおも言い募ろうとする女を制して、ヤコフがインタビューの終了を宣言し、俺はようやく、この生涯でも一、二を争うだろう無駄な時間から解放されたのだった。
帰りの車中で「よく動揺せずにあしらえたな。大人になったものだ」と珍しくヤコフに褒められ、生まれつき高い鼻がさらに高くなったのはオマケの話だ。
後日、このインタビューを見たミラが、わざわざ録画したとおぼしき動画をスマホで再生しながら「何コレ、ユーリ、まるでヴィクトルみたいじゃない、この言い方! 澄ました顔しちゃって、おっかしー! 昔はヴィクトルに憧れてたもんねえ、無意識に出ちゃうものなのねえ」と爆笑しやがったので、俺は今、復讐のチャンスを虎視眈々と狙っているところだ。怪力女の後ろから覗きこんでいたギオルギーは「愛、だな……尊い」とか何とか呟いてたが、意味不明もいいところだし、突っ込むと余計なものに感染しそうなので放っておくことにした。
もうすぐ豚がリンクに復帰する。それまでにミラへの復讐を完遂して、心置きなく豚を豚野郎と罵倒するために、俺は頭脳をフル回転させている。