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光のさして、たどる道の 3

ぱか、と口を開けて、勇利は俺たちの家であるアパルトマンを見上げた。

「なん……か、見るからに高級そうっていうか、いや、ちょっと待って、僕ホントにここに住んでたの? 場違いすぎて穴掘って埋まりたい気分なんですけど」
うわー、だの、やばい、だのといいながら、じわりじわりと後ずさりする勇利の背に手を添えてエントランスに入る。
「何これ、ホテルみたい。って、えっ、人がいる。もしかして、これが噂のコンシェルジュ付き……?」
両目と口とで3つのOを作る勇利がおかしい。数ヶ月前、勇利を初めて我が家に連れてきた時も似たような反応をしていたな……と思い出す。記憶の有無にかかわらず、本質は変わらないのだと思うと心強い思いがした。
カードキーをかざしてエレベーターのドアを開けては驚き、上層階はワンフロアに一世帯と知って呻き声を上げ、「もう、ここまでで死にそうです……こんなとこに僕が住むなんてあり得ない……」と勇利は顔色をなくしていた。
俺はといえば、もう可笑しくてたまらないやら、勇利とともに帰宅できたのが嬉しいやらで、にこにこニヤニヤ、はっきりいって浮かれていた。
「さあ、勇利、ここが俺たちの家だよ」
エレベーターを降りてドアの前に立つと、勇利は「か、観音開き……」と、またも呻いた。勇利が初めて家に来た時にも聞いた言葉だ。その時に聞きそびれて以来、尋ねるのを忘れていたんだっけ。大砲(Cannon)とドアと何の関係があるんだろう。それともパッヘルベルのカノンだろうか。
ドアを開けると、既にマッカチンがしっぽをちぎれんばかりに振りつつスタンバイしていた。
「ただいまー、マッカチン。勇利が帰ってきたよ!」
「お、おじゃましま──わっ!」
ワン! と一声、吠えると同時にマッカチンが勇利に飛びつく。大型犬の勢いに、勇利は三角巾で吊った左腕をかばって尻餅をつきそうになった。
「マッカチン、ステイ! 勇利は怪我人だからね、加減して!」
慌てて声をかけると、マッカチンはやっぱり嬉しそうにワン! と吠えた。


トイレはここ、風呂はここ、こっちがリビング……と間取りを説明するうちに、勇利の顔面で三つのOを形作っていた目と口は徐々に穏やかさを取り戻していた。今は探るような視線を家のそちらこちらに注いでいる。どこかに記憶の手がかりを見出せないか、彼は必死に目からの情報を集め、混沌とした己の内部と照らし合わせているようだった。
「ここが勇利の部屋だよ」
「僕の部屋……」
十畳ほどの広さにウォークインクローゼットのついた、いたって簡素な部屋だ。
採光は腰高の窓が二枚きりだが、天井が高いので部屋の隅々まで光が届く。壁はシルバーパインの腰壁に、その上の壁は淡い淡い水色。天井からはまん丸い電球みたいな形のペンダント照明が三つぶら下がっている。三つともクラックの入ったガラスでできていて、中の電球の光をやさしく和らげてくれる。
机と椅子、ベッド、本棚と背の低いチェストが一棹ずつ、あとは床にクッションがいくつか置かれている。
まるで個性の感じられない部屋の中で、しかし、住人は勇利でしかあり得ないと強烈な存在感を放っているのが、壁に飾られたポートレートだった。……俺の。
勇利も気がついて、写真を指さしたまま、無言で俺を振り返る。
「……勇利は、ずっと俺を目標にしてスケートを頑張ってきてくれたんだよ。同じ大会に出て、俺を超えるって頑張ってた。……いや、頑張ってるんだ」
「それにしても、同居しててまで写真を飾るって、どういう……」
「うん、まあ……その辺の心理は俺にもよくわからないかな……」
頼むから、俺に説明させないでほしい。ほかのことならいくらでも説明するから。君は俺のファンだ、なんて、さすがの俺でも真顔でいうのはためらわれるよ。
少し熱くなった頬を気取られないように、「見覚え、ある?」と部屋の確認を促す。
勇利は部屋全体を見回すと、ゆっくりと部屋の中を歩きながら一つ一つに目をとめ、琴線に触れるものがないかを探る。
やがて静かに、けれど深いため息をついた。
くうん、とマッカチンが悲しげに鳴いた。


一休みしよう、とリビングに戻った。勇利をソファにかけさせ、俺はキッチンで紅茶を入れて戻る。マッカチンはソファの足下に座り、勇利の手に撫でられながらしっぽをゆっくりと揺らしている。
カップを手渡し、俺も勇利の隣に座って脚を投げ出した。なんとなく、疲れた気がした。
今日のピーテルは珍しくもない曇りだが、雲の薄いところが銀色に光って、今にも太陽が顔をのぞかせそうな薄明るい日だった。
二人と一匹のリビングは、マッカチンの息遣い以外は音という音もなく、沈黙だけが空間を満たしている。
俺も浮かれた気分が落ち着いて、思考のかけらも浮かばずに、軽い虚脱感に浸っていた。
考えるべきことはたくさんある。けれど、今はもう少し、腑抜けていたい。
やっと勇利が帰ってきた。
記憶は戻らないままだし、腕も完治までにはもう少しかかる。それでも、ちゃんと生きて、呼吸して、意思の疎通のできる状態で帰ってきてくれた。今はもう少し、この喜びに浸っていたかった。
雲の切れ間から太陽がのぞき、窓からの光が室内を柔らかに包んで、ものの輪郭を金と銀の混じった色に輝かせた。美しい日だった。勇利の退院にふさわしい日だと思った。
「勇利、食べたいものはない? 退院祝いだからね、今日は何でも食べていいよ――あ、でも俺、カツ丼は作れないな……」
「カツ丼?」
「勇利の好物だよ。ロシアにも日本料理店はあるけど、ハセツの味と違うんだよねえ。ああ、勇利のマーマのカツ丼食べたいなあ」
「ヴィクトルもカツ丼が好きなの?」
「大好きだよ! 勇利の家のカツ丼を初めて食べた時は神の食べ物かと思ったよ」
「大げさだなあ」
「本当だよ!」
勇利が笑う。くすくす、楽しげに笑う。それだけで胸が温かくなった。マッカチンが勇利の太ももにあごを載せて、勇利をじっと見つめている。わかるよ、マッカチンも寂しかったよね。勇利が帰ってきてくれて本当によかったね。
「食べたいものって特に思いつかないから、行きつけだったり、お気に入りだったりした店を教えてほしいな。あと、生活の細々したこと――朝は何時に起きるとか、家事はどうしてたのかとか、そういうことを教えて」
「オーケー、お安い御用だ。でも疲れてない? 外に出て平気かい?」
「大丈夫。この子も一緒に行ける店なんかあったらいいんだけど」
「まかせてよ! マッカチン、勇利と一緒にお出かけだよ!」
俺が浮き浮きと立ち上がると、マッカチンのしっぽも勢いよく揺れた。


サンクトペテルブルクの初夏は短い夏に向けて緑が一斉に芽吹く美しい季節だ。日本でいえば春先ぐらいの気温で、街を覆っていた白一色の雪の記憶を消し飛ばすように、木々の葉は日増しに鮮やかに、生命力に満ちて輝く。
二人と一匹でゆっくりと街路を往きながら、勇利お気に入りの店をのぞいていった。ウィンドウごしに手を振る店主にぺこりと頭を下げる勇利を見ると、ああ日本人だな、と思う。
「あの店の主人は、俺が若い頃から声をかけてくれててね。勇利も仲良くしてたみたいだよ」
「そうなんだ?」
「俺たちロシア人の目から見ると勇利はティーンにしか見えないから、よくおまけしてもらってたみたい」
「ティーンって……僕、二十四歳だよね?」
「しょうがないだろ? そう見えるんだもん」
口をちょっと尖らせて不満そうな表情の勇利は、ますます二十四歳には見えないのだが、これ以上は怒らせてしまいそうなので口を閉じることにした。
「……ねえ、ヴィクトル。僕、この先、一人で買い物とか行っても構わないのかな?」
「構わないよ。どうして?」
「いや、絶対説明しなくちゃだよね? 記憶がないこと。そういうの、おおっぴらにしちゃっていいのかなって思ったから」
「仕方ないさ。隠しておきたいからって、一人で行動しないわけにはいかないし、店を変えるにしたって限度があるんだから。勇利だってこの先、引きこもって生活する気、ないだろ? 自分から広める必要はないけど、こそこそすることもないさ」
「でも……」
まだ心にかかっていることがあるようなので、辛抱強く先を促す。コミュニケーション不足で泣きを見るのはもうごめんだ。
「噂が広がったりして、騒ぎになったら――ヴィクトルに迷惑がかかるし……」
「そんなこと!」
ハ! と笑い飛ばす。
「騒ぎなら、もうなっただろ? ああ、それとも入院中だったからピンときてないかな?」


勇利の記憶喪失は事故からまもなくゴシップ紙によってすっぱ抜かれていた。
たとえ箝口令を敷いたとしても人の口を完全に閉ざすことは不可能だ。そもそも隠しておけることでもない。だから厳しく口止めをすることはせずにいた。そうしたら、あっという間、だ。
それまでだって、こっちは時間を縫うようにして勇利の病室に詰めていたというのに、スケ連からの呼び出しや記者対応、日本スケ連との長くてキツイ協議等々が一気に押し寄せてきて、面会に行けないばかりか肝心のスケートの時間まで減らさざるを得なくなり、ストレスが溜まりまくったものだった。
勇利の病室を当初から個室にしていたのも、そうした事態が起きた時に記者の突撃や暴漢を防ぐという目的もあったからだ。きちんとしたセキュリティを求めるにはそれなりの対価を支払う必要がある。カネで片がつく話なら、まして勇利の安全のためなら厭う理由はなかった。
実際、勇利のファンや野次馬、ひやかし、患者や業者を装って侵入しようとする素行の悪い記者、勇利のアンチまで病院とリンクに押し寄せるに至り、個室にしていてよかったとつくづく思ったものだった。(もちろん警備によって速やかにご退場いただいた)
一番キツかったのは日本スケ連との協議だった。彼らは勇利の日本での治療を望み、かなり強硬に主張を通そうとした。ピーテルに残りたいという勇利自身の意向と、帰国してから記憶が戻って再度入国をしようにもロシアのビザは取得が面倒なこと(発行されるかどうかも怪しい。まあ、出させるけど)、治療費の一切は俺が負担し、日本側に新たな支出は求めないこと、などなど、様々な条件の提示とすり合わせの末に俺は勇利のロシア残留を勝ち取ったのだ。


で、そんなこんなをくぐり抜けてきてるから、俺としてはこの先どんな騒ぎが起きたとしても想定の範囲内というか、屁でもないという気持ちだった。
「騒ぎなんて大したことじゃない。これでもリビングレジェンドって呼ばれてる男だからね、騒がれるのなら慣れてるよ。それに迷惑だなんて思うはずないだろ? 俺だって勇利に残ってほしいと思ってたんだから。自分で望んだことに迷惑なんて感じるはずないさ」
そういって片目をつぶってみせる。勇利は少しだけ愁眉を開いて口元をほころばせた。
「……あらためて、よろしくお願いします、ヴィクトル」
「こちらこそ。あらためてよろしくね、勇利」
「ワン!」
「ああ、ごめん、マッカチンもよろしくね」
応えるようにマッカチンがもう一声吠えた。


以前、何度か勇利を連れて行ったことのあるカフェでブリヌイの食べ方を、再度の指南をしながら一緒に食べた。テラス席の足下でマッカチンはおとなしく伏せている。ここはマッカチンにもなじみの店だ。
こうやって、以前教えたこと、勇利が以前覚えたはずのことを改めて伝えていると、記憶がないという事実が頭の真ん中にまで染み入ってきて、こんなにも穏やかな日だというのに身の冷える思いがする。
「帰りはスーパーに寄っていこう。ロシアのスーパーは計量式だからね、初めて行ったら、わけがわからなくて手ぶらで帰ることになるかもしれないよ」
気を取り直して、ことさら明るい調子でいうと、勇利は「難しそうだなあ」と苦笑いした。
伝えるべきことはたくさんある。
脚の治療とリハビリに万全を期すため、何だかんだと一ヶ月以上も入院させた。もっと早く退院させることもできたのだが、病院の行き帰りに誰が接触してくるかわからない状況で――それも好意的か否かを問わず――勇利を矢面に立たせるわけにはいかなかった。そんな状況じゃ、心配で片時も目を離すことができないじゃないか。仕事どころかスケートどころですらない。だが、それでは肝心の勇利が悲しむ――記憶を失う前の勇利なら、だが。
おかげで脚だけなら明日にでもリンクに立てるとのお墨付きを医師から得ることができた。折れた左腕は幸いにも単純骨折だったので、あと数週のうちにギプスを外すことができるだろうとのことだった。その後は、リハビリをしながらの練習復帰、ということになる。
だが、果たして勇利は滑れるのか。
あれほどの練習の虫だったのだから体に覚え込ませた滑りが早々のことで失われるとは思えない。だが、肉体の記憶や無意識だけで滑れるものでもない。
何を、どこから教えればいいのか。
コーチとしてのヴィクトル・ニキフォロフは三流だとヤコフはいう。カツキに逆コーチ代を支払ってもいいぐらいだと苦虫を噛み潰したような顔でいわれた時は、さすがに苦笑せざるを得なかった。
実際、勇利だから昨シーズンの好成績を残せたのであって、これがもしユリオ相手だったら意思の疎通の段階で師弟関係は崩壊していたことだろう。
勇利だから俺のフィーリングを理解して(多分)、ついてくることができたのだ。並の選手なら潰してしまっていたかもしれない、と昨シーズンも後半になって思い至った時にはさすがの俺もゾッとしたものだ。もし、もしも勇利を潰してしまっていたら。
コーチとしての真の正念場を、俺はこれから迎えるのだ――。
ファイトが湧かないわけではない。何とかしてみせる、という覚悟もある。
だが、実際に記憶をなくした勇利と日常を共にし、数瞬ごとにその事実を突きつけられ続けるのは思いの外つらいことなのかもしれないと、こんな短時間に俺は思い知らされていた。
初夏の風は爽やかに吹き抜けるけれど、ほのかに冷たさを宿して頬をなぶっていく。
飲み残したコーヒーの面がかすかに揺れる。
マッカチンが、帰ろうよ、と言いたげに俺の脚を鼻でつついた。

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