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光のさして、たどる道の 2

空港で出迎えたマーマとミナコは白い顔をしていた。
ミナコは眉間にしわを寄せ、マーマは泣きだしそうな笑顔で「ヴィっちゃん、迎えにきてくれてあいがとうね」といった。
俺は、腰を折って、二人に頭を下げた。深く、深く。
「俺を信頼して勇利をロシアに送り出してくれたのに、こんなことになって申し訳ありません」
……正直にいえば、頭を下げていないと、申し訳なさに二人の視線を受け止めることができなかったのだ。
これが英雄と呼ばれたヴィクトル・ニキフォロフか、情けない。
「頭、上げなさいよ。アンタのせいだって責めに来たわけじゃないわ」
ミナコの固い声。応じて身を起こすと、どちらも眉をしかめているのに二人は正反対の表情をしていた。
「そうばい、ヴィっちゃんのせいじゃなか。謝らんでよかよ。それより」
「──とりあえずホテルに行こう。勇利の状態を説明するよ。今日はもう遅いから、面会は明日だね。気が急くだろうけど、どうか我慢して」
奇異の目を向けてくる周囲をかき分けるように、二人を連れて重い足を踏み出した。
長い夜になりそうだった。



「ぱじゃーるすた」
ノックに応えた勇利の声が、何といっているのかわからなかった。寸瞬考えて、ロシア語で「どうぞ」といったのだと思い当たった。
勇利は、俺のインタビューや雑誌の記事を原語で理解したいと、高校生ぐらいからロシア語に手を出していたそうだ。おかげで、ロシアで生活しはじめても簡単な文章ならリーディングとヒアリングができていた。
“でも、書くのと発音するのは全然ダメ。ロシア語でコミュニケーションする機会なんてなかったし。それがまさか、ヴィクトルの家で同居することになるなんて”
耳の奥に勇利の声がこだまする。おおげさに肩をすくめて、首を振りながら笑ってた──。
「どうしたのよ、ヴィクトル。早く開けて」
ミナコに急かされてドアを開けると、窓からの光で病室は眩しいほどだった。そろそろ白夜が本格的に始まろうとする頃で、日差しが夏めいてきている。薄くオレンジがかった午後の光の中、勇利は病院のお仕着せと包帯に包まれて、ベッドに半身を起こしていた。
「──勇利……!」
押し殺した悲鳴のようなマーマの声、瞬時に泣き顔にゆがむミナコの顔。
おそるおそるベッドに近づく女性二人の後ろから俺も病室に入り、二人のための椅子を用意した。
「勇利、具合はどうと? 痛むん?」
「勇利、大丈夫? わかる?」
勇利は二人の顔を交互に見つめ、いたわるような笑みを浮かべると、頼りなげな声を出した。
「えっと……薬が効いているので痛みはないです。とりあえず座ってください。お母さん、と、ミナコさん……?」
ミナコが、ひゅ、と息をのんだ。



「あの子に、ミナコさん、なんて呼ばれたの初めてよ……」
ソファの肘掛けに肘をつき、額を手のひらで押さえながら、ミナコは呻くようにいう。マーマは彼女に気遣わしげな視線を送っているが、そのマーマ自身も息子の記憶喪失を目の当たりにして意気消沈していた。
「本当に覚えとらんのねえ……本当に、きれいさっぱり……」
病院を辞して、俺は二人を自宅へと連れてきていた。勇利の生活ぶりを見たいだろうと思ったのだ。しかし、まだ勇利の匂いに乏しい部屋は、かえって二人の寂寥を募らせただけのようだった。
二人の前に置いた紅茶は、もう湯気を立てることもなく、ただ冷めていくだけの色水になっている。
マッカチンが、きゅーんと悲しげに鳴いた。久しぶりに会うマーマの匂いをスンスンと嗅いでいる。本当はじゃれつきたいだろうに、玄関で歓迎したあとはおとなしくしている。本当に賢い子だ。
「マーマ、ミナコ、……本当にごめん」
「謝んじゃないわよ。アンタのせいじゃないって空港でもいったでしょ」
額を押さえた手の下からミナコがぎろりと睨む。
「謝られるとねえ、当たりたくなんのよ。だから謝らないでちょうだい」
怒鳴りつけたいのをぎりぎり堪えている、そんな声音だった。
「そうばい、ヴィっちゃんのせいじゃなかよ。それより、あんな良か病室に入れてくれて……」
あいがとうね、と頭を下げるマーマに、勇利のためなら当然だよ、と返す。
三人が三人とも、いいたいことを呑み込んで当たり障りない話題を探そうとしている。張り詰めた空気が堪える。
だが、いつまでも取り繕っているわけにはいかなかった。
「──そう、勇利のためなら当然なんだ。世界屈指のフィギュアスケーターなんだから、治療だって最高のものを受けさせなくちゃ」
「……わかっとーよ。ばってん……」
「幸い、脚はヒビだけで済んだけど、リハビリと、それに合わせたトレーニングをきちんとプログラムしないと勇利のスケート人生に……」
「わかってるわよ」
「日本への移動中に状態が悪化するかもしれないし」
「わかってるってば!」
ミナコの強い声。息子同然の勇利を心底案じている。本当に勇利は周りの人に恵まれている、と思う。
「マーマ、ミナコ、心配だろうし、今すぐ勇利を日本に連れて帰りたいのもわかるよ。今回の件で俺への信頼もなくなったかもしれない。でも、もう一度、勇利を預けてほしいんだ。──勇利も、それを望んでるし」


そう、勇利はいったのだ。
「今から、ひどいことをいいます」と前置いて。

「今の僕には、この病室と、ここに来てくれる人だけが世界のすべてです。今の僕にとっては勝生勇利という名前さえ自分のものだと実感できません。日本に帰って風景や家族の顔を見た瞬間、奇跡のように記憶を取り戻すかもしれません。──でも、記憶が戻って本来の勝生勇利に戻った時、一体なにを考えるだろうか……、と思うんです。スケートをするためにロシアに行ったのに、なぜ日本に? と、無駄にした時間を悔いるんじゃないかって……。僕、二十四歳なんですよね? それに勝生勇利って練習の虫だったんでしょ? だったら、本来の僕に戻った時のために、フィギュアスケーターの勝生勇利のために、僕は最善を尽くさなければならないと思うんです。いつ記憶が戻ってもいいように。記憶が戻った次の瞬間から、元通りのスケートをできる状態にしておかなきゃいけない。そうでないと勝生勇利に申し訳ない……。せっかく記憶が戻ったのに体が鈍っていたら、僕は僕自身に怒りを覚えると思うんです。そして、無駄にした時間を後悔するだろうって。そのためには、……お母さんとミナコさんには本当に申し訳ないけど……僕は、ロシアにいるべきじゃないかと思うんです」
「でも、勇利!」
「……ごめんなさい。正直にいうと、怖いんです。やっと状況が呑み込めてきたところなのに、またすぐに環境が変わってしまうのが……それに」
「それに?」
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。……ひどいことをいいます。僕……知らないところに行きたくないんです……」
「……知らないところ……」

呟いたきり、絶句するマーマの目に、みるみる涙が盛り上がってきた。


「……あれは堪えたわねえ……」
「アタシたちは、今の勇利にとって“知らない人たち”なんだって突きつけられたもんねえ……」
──きっと二人は期待していたのだ。自分たちの顔を見た勇利が記憶を取り戻すのではないかと。
記憶喪失と聞かされていたところで、実際に目の前にしなければ、それがどんな状態なのか本当には理解できないし、家族の絆を無意識に信じてもいたのだろう。母親や、母親同然の恩師の顔を見ればきっと記憶が戻ると──。
それを打ち砕かれたばかりか、勇利自身の口から“お前たちなど知らない”と宣告されたようなものなのだから、その衝撃は計り知れないものだったはずだ。
──俺も、そうだったから。
わかるよ、といおうとして口を「わ」の形にしたところで思いとどまった。彼女たちにくらべたら勇利と俺とのつきあいなんて一瞬の間のようなものだ。そんな俺に共感されても苛立つばかりだろう。
「……今の勇利は真っ白な紙みたいなものなんだと思う。真っ白すぎて、何をどう描けばいいのかわからなくて、迷っているんじゃないかな。これが自分の人生なんだと実感もないところに、方向性を決めなければならないのは、つらいと思うんだ。まだ目が覚めて一週間かそこらだし、もう少し落ち着くまで時間をあげてほしい。マーマ、ミナコ、お願い」
お願いします、と頭を下げた。
ためらいなく頭を下げられる自分が、何だか不思議だった。
英雄と呼ばれ、賞賛されることばかり増えて、人に頭を下げる機会なんてめったに訪れなくなっていた。勇利をロシアに連れてくるために、連盟や関係各所に形ばかり頭を下げたが、その時と今の心持ちとをくらべてみれば、あまりの違いように驚くほどだ。
──こんな気持ちで頭を下げられる人間だったなんて、俺、自分でも知らなかったよ……勇利。
大切なもののために下げる頭は、何の痛痒も生まないことを知った。
そして、世間で英雄だの何だのと呼ばれていようと、彼女たちの前では、自分はただの若造でしかないことも。ただの若造の下げる頭に、大した価値のないことも……。
「ヴィっちゃん……」
困り果てたようなマーマの声。それを断ち切るように、俺は頭を下げ続けた。



マーマとミナコは面会時間と勇利の体力の許す限り、病室を訪れるようになった。
勇利の生まれた頃のこと、ハセツの話、どんな風に育って、どんな子供だったのか、家族や友人との関係性など、昔話を赤裸々なまでに語る。
自分たちが滞在している間に記憶を取り戻してほしいと、口にはしないまでも、熱のこもった口調が物語っていた。
俺も空いた時間には必ず病院に詰めるようにしていた。彼女たちの奮闘で勇利の記憶が戻るならそれに越したことはないし、二人の語る昔話も聞き逃したくなかったからだ。俺の知らない勇利の物語。
勇利も真剣な面持ちで二人に向き合っていた。我がことのように目を丸くしたり、赤面したり青ざめたりしながら。
そう、我がことのように、だったのだ。
勇利は、自分の昔話だと頭では理解していても気持ちは追いつけないらしく、薄いが強固なフィルターを間にはさんで会話をしているような、そんな反応の鈍さを示していた。
それがなんとなく勇利らしくて、俺の知っている勇利がちゃんと存在しているように思えて、こんな時なのに少し嬉しかった。



空港へ向かうぎりぎりの時間まで、二人は勇利を見舞っていた。
彼女たちにも生活があるから、いつまでもロシアに滞在し続けるわけにはいかない。それでも一日延ばし、また一日延ばして、二人は十日近くロシアにいた。
この頃になると勇利もうち解けて、よく笑い声をあげていた。ミナコに「アンタのことよ? 笑いごとじゃないわ」と窘められては邪気のない笑顔で謝罪の言葉を口にする。
情景だけを見ていれば、勇利に記憶がないなんて嘘のようだった。ハセツで過ごした頃と変わらない、他愛ないやりとりと、彼らをつつむ温かな空気。
疎外感を覚えなかったといえば嘘になる。だが、仕方のないことだ。俺は真の意味での家族ではないし、勇利とのつきあいだって二年にも満たない。むしろ、こんな非常時でも、家族の輪の中に立ち会うのを(暗黙のうちに)許してもらえたことに感謝すべきだった。
「──ヴィっちゃん。勇利ば頼むけんね。迷惑かけてごめんね」
「マーマ、迷惑なんてとんでもないよ。勇利にはできる限りのことをする。約束するよ。俺も連絡を入れるし、なるべく勇利からも連絡させるようにするから」
「ほんと、最後のは特に頼んだわよ。あの子、あれで意外と薄情なとこあるのよね。──まあ、今はどうかわからないけど」
最後に呟くようにいって、ミナコは顔をしかめた。余計なことを口走ったと後悔しているようだった。
「そうねえ。アメリカにおった時も、ほとんど連絡よこさんやったし。ヴィっちゃん、そうしてくっと助かるわ。お願いね」
「うん。二人とも、勇利を預けてくれてありがとう。勇利には不自由させないからね。安心して」
搭乗開始のアナウンスが流れる。
二人は振り返り、振り返りしながら人波に呑まれていく。ゲートを過ぎて二人の背中が見えなくなるまで見送った。どんなにか後ろ髪を引かれる思いだろうに、と考えると、勇利を託してくれたことには感謝しかなかった。


二人がいる間に記憶が戻ればよかったんだけど、と呟いて、勇利は遠い目で窓外を見やった。
マーマとミナコを恋しがっているのだろうか。それとも、今の勇利にとってはまだ見ぬ日本に思いを馳せているのだろうか。
「本当によかったの? 日本に帰らなくて」
俺がそういうと、勇利はびっくりしたように振り向いた。
「ヴィクトル……僕、帰った方がよかったですか?──そりゃそうですよね、迷惑かけるばかりだし……」
質問したのは俺だよ? と苦笑すると、彼は気まずそうに眉を下げた。
「迷惑なんて思ってない。俺のことなら心配いらないよ。マーマとミナコには、勇利を預けてくれってお願いしたぐらいだし」
「え、……そうなんですか。でも、どうして……?」
そりゃもちろん、と前置いて、
「俺は君のコーチだからね。日本のみんなから信用して預けてもらったのに、こんなことになって本当に申し訳なく思ってるんだ。だから、俺にできる限りのことをする。記憶を戻すなんて芸当は、俺にはできないけど、身体の方は必ず事故の前と同じ、いや、それ以上のコンディションになるように最善を尽くすよ」
だから安心して、と片目をつぶってみせると、勇利は淡く笑った。
なんだか悲しそうに見えた。

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