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光のさして、たどる道の 1

全生活史健忘、と医師は耳慣れない言葉を口にした。


「いわゆる記憶喪失です」
記憶喪失、とオウム返ししたのは誰の声だったのか。
「自分が誰なのか、ここがどこで、どのように育ってきたのかもわからない、彼は今そういう状態にあります。左側頭部に裂傷を負った際に強い衝撃を受けたのでしょう、その影響と思われます」
「それで、戻るのか? 彼の記憶は」
苦渋に満ちた声でヤコフが問う。その声が耳の中で反響して、目眩のように視界を揺らした。
「全生活史健忘──記憶喪失になった患者さんの多くは、日々の生活を営むうちに、徐々に記憶を取り戻していきます。戻り方も様々で、断片的に思い出す方もいれば、ふとしたきっかけで一気に記憶が戻った例もあります。……ただ……まれに、一生、記憶が戻らないままという方も」
戻らない、という言葉が喉を詰まらせ、ヒュ、と無様な音が口から漏れる。
大切なことは、と医師は前置いてから、ぎこちなく笑みを浮かべた。安心させるつもりの笑みなのだろうが、何の役にも立っていない。
「できる限り、記憶を失う前と同じ日常を送れるように配慮することです。記憶の戻るきっかけは本当に千差万別ではありますが、日常生活の中で自然に思い出す方が大半を占めています。また、特に強く印象に残っているであろうことを、もう一度体験させてみるというのもいいでしょう。そして、くれぐれも忘れないでいただきたいのは」
一転、光る目で医師が警句を発する。腿の上で握りしめた拳は、指が掌に食い込んで痛い。
「記憶を失って一番不安なのは患者さんご本人であるということです。何をあたりまえのことを、と思われるかもしれませんが、患者さんに忘れられてしまった悲しみ、思い出してもらえないことへの苛立ち、微妙にずれた──違和感を覚える言動がもたらす不安、そうしたストレスを患者さんにぶつけてしまう人もいるのです。──無理もないことですが。ですが、ただでさえ不安の中にいる患者さんにとっては」
「大きすぎるストレス、か…」
ヤコフの声に医師は深々とうなずいて、できるだけストレスなく過ごさせてください、と結んだ。


病院の照明というのは、どうしてこうも白々とただ明るいのか。
まるで、どんな小さな病巣も、どんな小さな隠しごとも見透かしてやるぞと凄まれているような気分になる。
だから病院は好きではない。幸いなことに大きな故障とは無縁だったため、病院とも疎遠なつきあいで済ませられていた自身の幸運を、己は今ここで使い果たそうとしているのだ、と詮ない思考が頭をめぐり続ける。
半歩前を行くヤコフの肩を眺めつつ、ため息をついた。
「……ため息をつくなとはいわん。だが、病室ではこらえろよ」
ヤコフが沈痛な声を発した。廊下を往く足音だけがそれに応えた。


ベッドの上で、迷子のような顔をして、勇利は病院のお仕着せに包まれた体を横たえていた。
左腕はギプスで固められ、頭にも包帯が巻かれている。治療のために髪を一部剃られたため、奇抜な髪型をした知らない人間のように見えた。
「……具合はどうだ? 痛みは? ──ああ、ゆっくりでいい、慌てるな」
ヤコフの問いに、勇利は起き上がろうとベッドの上でもがいた。その背を支えて起き上がらせ、枕をあてがってやる。寝衣ごしに感じる体温と、わずかに汗ばんだ感触に、なぜか居たたまれない気持ちになった。
「ありがとうございます。……え……と、その……」
とりあえずの謝辞を口にしただけで、勇利は言葉を継げずにいる。それはそうだ。“それで、あなたは誰?”などと、容易に尋ねられるものではない。少なくとも、勇利ならば。
「──ああ、医師から話は聞いている。儂はヤコフ・フェルツマン。チムピオーン・スポーツクラブでフィギュアスケートのコーチをしている」
「コーチ……。では、僕がお世話になっているんですね。それは、……すみません、僕──」
「ああ、いや、儂は名目上サブコーチということになっている。君のコーチは、今、君の背中を支えている男だ。名前はヴィクトル・ニキフォロフ」
「ヴィクトル……ニキフォロフ、さん?」
「……Hi.」
それだけ返すのがやっとだった。
“ニキフォロフさん”という、勇利の口から発せられた他人行儀な呼び方に受けた衝撃を、面に出さないようにするので精一杯だった。


コーチで、リンクメイトで、同居人で、師弟でもあり友達でもあり、家族も同然であり。
列挙する形容のなんと多いことかと自分達の関係を改めて思う。
とても一言では表現できない関係性を知らされて、勇利も戸惑っている。どんな態度で接すればいいのか判断できないでいるようだった。
「え、と……ニキフォロフさん」
「ヴィクトル、と呼んでくれないか? それから敬語もやめてほしい。要求ばかりで申し訳ないけど、君とは気が置けない関係だったと自負しているよ」
はあ、と曖昧にうなずきながら、勇利は窺うような目で見てくる。長谷津に押しかけたばかりの頃は、よくこんな風に見つめられたな……と思い、それから、そんな記憶も勇利にはないのだと、胸が潰れる思いにまた襲われた。
「じゃあ……ヴィクトル。あの、僕……」
「うん?」
「僕のこと、教えてください。あなたの知ってる、僕のこと」



事故の知らせを聞いた時、体中の血が一気にかかと目がけて落ちていった。
くらりと脳が揺れ、視界がブレた。事故、怪我、病院、そんな単語が周囲を飛び交っている。
束の間の混乱と停滞を正気に戻したのは「オイ!」という怒声とともに左肩を襲った鈍い痛みだった。目を向けると震える拳をかかげたユリオが、眦を吊り上げて「ボケてる場合か! 老けるのは家畜の安否を確かめてからにしろ!」と怒鳴った。
クラブの車にヤコフと一緒に乗り込んで病院に向かう間中、震えが止まらなかった。車から降りると、地面がグニャグニャとあまりにも頼りなくて、氷の上に戻りたいと思った。
処置が終わるのを待つ間、ヤコフの手がずっと背中に添えられていた。
頭部に裂傷、左腕の単純骨折、左脛骨にヒビ、主に体の左側を中心に多数の打撲と擦過傷。
脳波に異常はないが、頭を強く打ったので意識が戻るまでは注意深く観察が必要。
医師の説明を聞きながら、相槌ひとつ打つことができなかった。情けないコーチだった。いわれるがまま入院の手続きをし、書類にサインした。できることは、もう待つことだけだった。
酸素マスクが白く曇るために生きていることがわかる。血の気の失せた顔。閉じられた目蓋。
早く目を開けて、声を聞かせてほしかった。

勇利が目を開けるまで三日かかった。

睫毛が震え、次いで目蓋が半ばほど持ち上がる。
紅茶色の瞳が覗き、ぼんやり宙を見つめていた。「勇利」と何度か間隔をおきながら声をかけると、ゆっくりと視線が向いた。
その時のことを、喜ばしいはずのその時のことを、今は思い出したくない。
思い出す記憶のあることは、幸せなことなのだろうか。



「こんにちは、……ヴィクトル」
ためらいながらもファーストネームで呼ばれたことに少しの安堵を覚える。それが表情にも出たのだろう、勇利が目覚めてから初めてほのかに笑みを浮かべた。
勇利は上体を起こしてベッドに座っていた。紙のようだった顔色がまろやかな象牙色に戻っている。今日になって点滴も外れたらしく、自由に動かせるようになった右手にスマートフォンを持っている。見慣れた水色の地にプードルの模様のケース。よく無事だったものだ。
調べ物かい? と問うと、情けない表情に変わった。
「僕のことを知りたかったんです。でも……パスワードがわからなくて」
「パスワードか……。誕生日は試してみた?」
「はい。11月29日なんですよね? でも、違うみたいで」
今の勇利は、パスワードはおろか、パーソナルデータさえ他者の情報に頼らなければ得ることができない。鏡を見ることがなければ自分が日本人ということさえ気づかないのかもしれなかった。
「……俺が試してみてもいい?」
「え? ──あ、はい」
どうぞ、と差し出されたスマートフォンを受け取り、画面をONにする。愛らしいポーズのプードル。マッカチンではなく、これは勇利の愛する子。この画像も、今の勇利にとってはただの犬のそれに過ぎないのかと思うと、記憶を失うことの恐ろしさがひしひしと身に迫ってくる。
愛するもののことも忘れ果て、来し方も知らず、行く末も知らず……。
何と恐ろしいことだろう。
「ヴィクトル? やっぱりわかりませんか?」
怪訝そうな勇利の声にハッとさせられた。気を抜くと思考が底なしの沼に沈んでいきそうになる。しっかりしろ。こんなことでは勇利を支えていくことなどできやしない。
「……解除できたよ、勇利」
はい、と手渡すと勇利は目を丸くした。
「えっ、すごい! 知ってたんですか?」
「……いや。当てずっぽうで入れてみたんだ」
ぽかんとする勇利に笑んでみせる。
「──ほら、知りたいこと、調べてごらん。俺の知ってる範囲なら説明してあげられるよ」
「はい。──でも、なんか」
「ん?」
「なんか……覗き見するみたいだ……」
勇利は困ったように顔を歪めた。


「これが君のマーマ、名前はヒロコ。こっちがパーパのトシヤだよ。これが君のお姉さんのマリ。これは君のバレエの先生で、名前はミナコ」
ゆ~とぴあかつきの玄関前で、ユリオを真ん中にして撮った写真を表示し、一人一人指し示しながら説明する。懐かしい写真だ。勇利は食い入るように画面を見つめている。
ロックが解除され、いざ、見られる状態になるとためらうので、勇利から再度スマートフォンを受け取り、フォルダの中から画像を表示してやった。覗き見を誹られるなら、記憶のない勇利にそんなものを担わせることもない。実際、本人が本人の持ち物を扱っているのだから、誰も文句をつけるはずもないのだが、勇利の心理的な障壁になるというのなら取り除いてやりたかった。それに、一度見てしまえば、もうためらうこともないだろうし、という思いもある。
「見覚えはある?」
「……いいえ……。何となく、似てるな、っていう気はしますけど」
勇利は眉をしかめ、目を細めて画面を見る。それで、ようやく気がついた。
「勇利。メガネは?」
「メガネ?」
「何てことだ、うっかりしてた──頭にケガしてるんだから、メガネだって無事で済むわけないよね。事故の時に身につけてた物は? 返してもらってるんだろう?」
「あ、はい──えっと、そこの引き出しに」
いいながら、ベッドサイドの収納に手を伸ばそうとする勇利を制して引き出しを開け、中を検める。財布やパスポートといった貴重品と並んで、これも見慣れた青いフレームのメガネは、全体に歪み、レンズにはヒビが入っている。左の弦が中ほどから折れているのを見てゾッとした。
「──ヴィクトル?」
(こんな衝撃を……それも頭部に受けて、よく──)
最愛の教え子は、本当にあと少しで永遠に失われていたかもしれなかったのだ。
震える手を引き出しの中に差し入れる。パンドラの筺に触れるような気持ちだった。触れた瞬間に、勇利にさらなる不幸が訪れるのではないか、先延ばしにされていただけで勇利は失われてしまうのではないか──。
目蓋をぎゅっとつぶって妄想を振り払う。あっさりと手に移ったメガネは、腹立たしいほど何の感慨ももたらさなかった。小さく息を吐いて、笑顔を作る。取り繕うのは、慣れている。
「……これじゃ掛けられないね。ロシアの眼鏡屋でもよければ修理できるか聞いてみるよ」
いいかな? とメガネをかざしてみせる。勇利は、お願いします、と小さくうなずいた。
「じゃあ、話を戻そうか。もう一度さっきの写真を表示して? ──OK。やっぱり見覚えない? ──そう……。実はね、君のマーマとミナコが今夜サンクトペテルブルクに到着予定なんだ」
「え?」
「君の家は日本のキューシュー? っていったかな? の、ハセツっていうところで温泉をやっててね。で、家族と従業員少しで商売をやってるから、すぐにはこっちに来れなかったんだ。でも、ものすごく心配してる。息子の一大事だからね」
「ああ……はい」
勇利はのろのろとうなずくと再び画面に目を落とし、眉間にしわを寄せた。マーマとミナコの顔を改めて確認している。そして、ちらりとこちらを窺うように視線を投げてよこした。
「ヴィクトル、あの……僕のお母さん? たちが来てくれる時なんですけど、その」
もじもじと口ごもる様は事故の前にもよく見た。ハセツに初めて押しかけた頃によく見た勇利の姿。
「どうかした?」
なお数瞬ためらってから、勇利は必死の面持ちで口を開いた。
「あの、こんなこと、あなたにお願いするのは筋違いだとは思うんですけど、でも──あの」
「うん?」
「その……お母さん……たちが来てくれる時、あの……い、いてくれませんか。一緒に。ヴィクトル、も…」
頬を染めて、耳まで赤くして、勇利は必死に言い募る。
「ひどいことをいうと思うでしょうけど……家族と先生といわれても……今の僕には……、知らない人たち、なんです……」
知らない人たち。
知らない、人たち。
そうだ。勇利の中には、今、誰も存在しないのだ。それはコーチといえど同じことだ。今の勇利には、ハセツでともに過ごした八ヶ月の記憶も、ともに戦った試合も存在しない……。
視界がふいに眩んで、たまらずに俯いた。
勇利の中に存在すらしていない、今の勇利にとって自分は無価値な他人に過ぎない。改めて突きつけられた事実が巨大な重石になって喉をふさぐ。心臓が痛む。キリキリと、キリキリと──。
「ヴィクトル? あの、大丈夫…ですか?」
はっ、と、顔を上げると勇利が気遣わしげに覗きこんできていた。
しっかりしろ、と己を叱咤する。今、一番不安に苛まれているのは勇利だ。
「──ああ、うん。ごめん、なんでもないよ。そうだね、どっちみち俺も立ち会うつもりだったから問題ないよ。気にしないで」
マーマやミナコにも久しぶりに会いたいしね、と片目をつぶってみせると、勇利はようやく安心したように笑った。


じゃあ、明日ね、と病室を出ようとしたところで勇利に呼び止められた。
「ヴィクトル、あの、暗証番号は何だったんですか?」
「え? ──ああ、ああ、そうか。ごめん。……1225、だったよ」
「1225……? クリスマス……?」
答えずに微笑みだけ残してドアを閉めた。
もう限界だった。

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