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前奏 ~未来に花を 手に愛を~⑤

ハウスキーパーの立てる音がかすかに聞こえてくる。
そのほかに耳に入るのはマッカチンの呼吸音と、時折ぱたりと振られるしっぽの音。
引退に伴う雑事がようやく落ち着いて、ヴィクトルは日がな一日ソファに転がっている。愛犬の散歩がなければ外にも出ない。出る気がしない。
引退会見でモチベーションが湧かないといった。だが、それはスケートのことだけでなく生活全般についてもいえることで、ハウスキーパーが入っていなければ、家は荒れ果て、愛犬と共に飢え死にしていたかもしれなかった。
そんなヴィクトルを心配してヤコフが毎日のように電話をよこすが、めったに出る気にもならない。三日に一度は業を煮やしてヤコフが乗り込んでくる、という生活が続いていた。
今日もまた。
来客を知らせるインターホンの音、応答するハウスキーパーの声。
そして間を置いて鳴らされる玄関チャイム……。
かつては自分のほかには勇利しか鳴らさなかったのに。
玄関ドアの開閉音に続いて足音がリビングに近づいてくる。ため息と共に言葉を吐き出した。
「ヤコフ、チャイムは鳴らさないでくれっていってるだろ? 耳障りなんだ、次からはやめてくれ」
「悪ィな、んなこと初めて聞いたし、次の機会とやらも多分ねえよ」
ヤコフよりもずいぶんと若い声は後輩のユーリ・プリセツキーのものだった。驚いて身を起こすと、軽蔑しきったような眼差しに出くわした。
「ユリオ……どうしたんだい? ヤコフに頼まれて来たのかな?」
まあな、といいながらユリオことユーリ・プリセツキーはヴィクトルの正面に回ると無作法にもテーブルに腰を下ろした。
だが、非礼をとがめる気も起きない。そのまま黙ってみていると、向こうも黙っている。続く沈黙にさすがにいたたまれなくなってきた。
「……お茶でも用意させるかい?」
「いらねえよ。コーラなら飲む」
「コーラ……は多分ないなあ……」
「なら構うな」
また沈黙。
「えーと……それで? 用件は?」
ヴィクトルの言葉にユリオは鼻で笑った。
「あんたの口から〝えーと〟なんて初めて聞いたぜ。カツ丼の口調が移ったか」
カツ丼。
グサリと胸を突き刺された。
それはユリオの、勇利に対する呼び名。
胸の痛みに絶句しているとユリオが口を開いた。
「甘やかされやがって。言葉一つで青くなってんじゃねえよ」
「……さすが、容赦ないね、ユリオは」
「腑抜けたオッサンとは訳が違うんだよ。──で? アンタはいつまでそうしてるつもりなんだ」
「さあ……ねえ……」
カネの続く限りは腑抜けていようか、と答えようとして、それではあまりに退廃的で青少年の教育に悪いかと言い淀む。
「カツ丼がいなくて寂しいーってメソメソしてても帰ってきやしねえぜ」
「……わかってるよ」
「なんで探しに行かねえ」
「簡単にいってくれるね」
思わずほろ苦い笑みが漏れた。そして、ユリオの直截な言動を眩しく感じられるぐらいには、自分は年を取ったのだなと思った。
「簡単なことじゃねえか。カツ丼の友達なんて数えるぐらいしかいねえんだから、しらみつぶしに当たりゃいい。アンタにはその時間もカネもあるだろ」
「その友達全てにフラれてるんだよ。勇利の居所は知らないってね」
久しぶりに口にした愛しい名前が胸を締め付ける。勇利、勇利、勇利。一度、堰を切ってしまえばもう止めようがない。胸からあふれ、こみ上げそうになった叫びを喉元で押しとどめる。どこへ行ってしまったんだと叫んで街中を、世界中を駆け回りたい。今すぐに。
「だぁから! 口止めされてるのかもしれねえだろ!? メールだの電話だので悠長にやってちゃ口を割るはずねえんだよ。面突き合わせりゃ吐くかもしれねえじゃねえか!」
「それ、俺が考えなかったと思ってる?」
考えたとも。幾度も考えたのだ。夜中に目覚めて、幾度財布だけを手に飛び出そうとしたことか。
「なら、何をぐずぐずしてんだよ」
ユリオにいわれるまでもない。何をぐずぐずしているのかと自分ですら思うのだ。
だが。
「……この子がね、調子がよくないんだ」
傍らに寝そべる愛犬を撫でながら、自らに言い聞かせるように言葉にした。
マッカチンはこの一年でめっきり老いの兆候を見せるようになっていた。眠っている時間が増え、散歩も今までの半分程度の距離をゆっくりとしか進めない。昨年の写真と比べれば毛艶も落ちているのがはっきりとわかる。
「多分、そう長いことはないんだと思う。勇利も大事だしマッカチンも大事だ。いつ逝くかわからないこの子を置いて、飛び出すわけにはいかないんだ」
この子を置き去りにしたまま、もしも一人で死なせてしまったらと思うと耐えがたい苦しみが襲ってくる。孤独な子供時代をともに過ごし、慰めてくれた子を一人で逝かせるわけにはいかなかった。引退を決めた理由の一つでもある。自分にできることは見守るだけだろう。それでも傍にいてやりたい、いてやらねばと思う。
ユリオはマッカチンを凝視して絶句している。彼の年齢では、身近な存在の死にはなじみが薄いだろうから無理もない。あるいは自分の祖父や飼っているという猫と重ねているのかもしれなかった。
「……アンタも色々考えてんだな」
それでも一矢報いずにはいられないのがユリオの長所であり、欠点でもある。年齢ゆえの行き過ぎた言動だとしても、果敢に立ち向かう精神は競技者には不可欠だ。TPOをわきまえて使い分けられるようにさえなれば何の問題もない。次期氷上の皇帝としてロシア・フィギュア界を背負っていくのだ、この程度の憎まれ口など可愛いものだった。
「年々考えなきゃいけないことが増える気がするよ。引退してそれも減ったけどね。まあ年を取ったってことかな」
「ジジくせえ」
「そうだね」
ユリオは心配してきてくれたのだろう。一向に動こうとしないヴィクトルに業を煮やしたのかもしれなかったが、その気持ちが嬉しい。ならば、この会話を終局に向けてきちんと舵を切るのは年長者の務めだろう。
「ありがとう、ユリオ、心配してくれて。おかげで少し元気が出たよ」
「……別に。してねーよ、心配なんか」
「だとしても、わざわざ来てもらったからね。コーラもない家で申し訳なかったけど」
「ああ、気の利かねえ家主の家だからな、期待してなかったから構うな」
そういうとユリオは立ち上がった。マッカチンの頭を一撫でし、「じゃあな」と背を向ける。その背に向かって呟いた。
「いずれ動くよ……いずれ、ね」
小さな声だったが、ユリオの耳には届いたようだった。「そうかよ」との声だけが宙に残り、やがて玄関ドアの閉まる音がした。
ため息をつきながらもう一度ソファに転がる。マッカチンが大儀そうに体の上に乗ってくる。温かな重み、ふわふわの毛並み、聞き慣れた、けれど今は少しゆっくりになった息づかい。
いずれ遠くない未来に失われる命。
勇利が消え、マッカチンもいなくなったら、俺は本当に一人だ──。
背筋の凍るような未来図は手の届きそうなほど近くにあった。
それを打ち消すためにも勇利の行方は必ずつきとめる。
だが、今は、まだ。
マッカチンのしっぽがぱたりとヴィクトルの足を打つ。こんなに転がってばかりいては相当に鈍っているだろう。
「四回転を跳べなくなったら勇利に嫌われるかな……」
行方をつきとめたとして、滑れない自分を勇利は受け入れてくれるだろうか。
「練習はしておくべきかもね。ねえ、マッカチン?」
愛犬の深い呼吸音だけが返る室内に、ヴィクトルはまたため息を漏らした。



「わーっ! 偉利耶! ダメ!」
つかまり立ちできるようになった偉利耶の手から爪切りを取り上げる。勇利が使ったあと、うっかりテーブルの上に置きっぱなしにしていたのだ。何でも口に入れようとするから気をつけていたのに。
偉利耶はきょとんと勇利を見上げてから、不服そうに顔をゆがめた。
「ああ、ごめんごめん。でもね、偉利耶、爪切りなんて食べるものじゃないから。ね?」
慌てて抱き上げて機嫌を取る。偉利耶の興味はすぐに勇利のメガネに移って、よだれでベタベタの手を差し伸べてきた。それを「ダメ!」と制し、いたずらな手を空いた手で押さえる。          
偉利耶はいよいよ不機嫌になってぐずり出す。しかし、泣かれてもダメなものはダメなのだ。なんだか最近ダメが口癖になりつつあるようで気が重い。
「子供を無事に育てるのって大変なんだなあ……」
温泉業の傍らで姉と自分を育てた母が偉大に思える。
よしよしと偉利耶の背を撫でながら、勇利は盛大なため息を漏らした。



マッカチンはもうよたよたとしか歩けず、それも数歩で息切れする状態だった。排泄を自力で行わせるのは限界で、犬用のおむつを着けさせている。リビングの隅に敷かれた小さなラグとお気に入りのクッションが愛犬の生活スペースになっていた。
「ただいま、マッカチン。食べやすいごはん買ってきたよ」
ヴィクトルが撫でると応えるように身を起こそうとするのが健気だった。
「いいよ、寝てて。無理しないで、マッカチン」
横たわる愛犬に身をかがめてキスをする。風呂にも入れてやれないから犬の匂いが強く鼻をついた。
「お風呂、好きなのにねえ。でも、体に障るから我慢だねえ」
いい子、いい子と言い聞かせるように体を撫でると愛犬は気持ちよさそうに目を閉じた。
この目が閉じたきり開かなくなる日が来るのか。
呼吸が止まり、体温も失われて。
冷たい物体へと変わってしまうのか。
背筋を駆け抜ける悪寒にあらがうように、ヴィクトルの瞳はじわりと熱を帯びた。



「偉利耶、待って!」
小走りができるようになった偉利耶は一時も目を離せない。いや、今までも離せなかったがますます、というべきか。両親のどちらに似ても脚力は強いはずなので、ちゃんと駆け出すようになるのもすぐだろう。子供用のハーネスを買うべきか勇利は今、真剣に悩んでいる。
きゃーっと奇声をあげながら前を行く我が子を後ろから捕まえて抱き上げた。
「ほーら、捕まえた。偉利耶はほんとにあんよが上手だねえ」
そのまま高い高いすると、キャッキャと偉利耶が笑う。口を大きく開いて、心の底から楽しそうな、……そっくりな、笑顔。
堪らなくなって息子をぎゅうっと抱きしめた。
胸が痛い。こんなに時間が経っているのに記憶は薄れることがない。楽しかったロシアでの日々、彼とマッカチンと三人で暮らしたあの家──。
「とーた?」
お父さんとはまだいえない偉利耶は、勇利に「とーた」と呼びかける。そのうち「父ちゃん」になって、もっと大きくなったら「親父」になるのかなあ、と勇利はぼんやり思う。
帽子をかぶせても偉利耶の銀髪は人目につく。公園に行くと近所のママさんに囲まれる。外国人の妻に逃げられた甲斐性なしと自己紹介して以来のことなので、すっかり慣れてしまった。実際、ママさんたちからの育児アドバイスは参考になったし、時々はお下がりをもらったりもする。幸いなことに、自分を勝生勇利だと気づく人はいないようで、偉利耶は奇跡的に母親似のイケメンくんとしてだけ受け入れられていた。
「とーた、とーた」
反応のないことに焦れた偉利耶がぺちぺちと勇利の頭を叩く。歩きたくて仕方ないのだ。体を動かすのが好きな子で、昼間しっかり遊ぶと夜にぐっすり寝てくれるのは本当に助かる。
「はいはい、ごめんね、偉利耶。でも、道路を歩くときはお父さんと手をつないでね」
いってもまだわからないかなあ、と思いつつ偉利耶を下ろして手をつなぐ。手をつながれたことに不満も見せず偉利耶はまた小走りを始める。合わせて歩調を速めながら、そのうち一緒にジョギングできるなあ、と気の早いことを考えていた。



マッカチンはほとんど目を覚まさなくなっていた。
時々お湯に浸して絞ったタオルで体を拭いてやると、気持ちいいのか、しっぽがぱたりと揺れる。かつてはちぎれるように振られたしっぽを思い出すと泣きそうになる。
「マッカチン、気持ちいいね」
応えが返らないとわかって、それでもヴィクトルは話しかけた。一人ではないのだと、自分が傍にいるのだと、わかってほしかった。
あと、もう数日だろう。
その時、自分はどうなってしまうのだろう、とヴィクトルは恐ろしかった。



「ばーば、あいがとー」
「はーい、どういたしまして。イリヤ君はおりこうねえ」
長谷津の母は目を細めて偉利耶の頭を撫でる。母が贈ってくれた偉利耶の誕生祝いは新しい靴だった。外遊びの大好きな息子にはぴったりのプレゼントだ。さっそく履かせてみせると、母は手を叩いて喜んだ。
「よう似合うよ。イリヤ君はいくつになったのかなあ?」
「?」
「お母さん、まだまだ早かばい。せめてあと半年は経たねいと。ねー、偉利耶? 偉利耶は二歳になったんだもんねえ?」
「あい!」
「あら、お返事じょうずねえ。勝生イリヤ君? お返事できる?」
「あい」
「じょうず、じょうず。賢い子やなあ」
母に褒められ、撫でられて偉利耶はご機嫌だ。新しい靴も気に入ったのだろう、部屋の中だというのにジャンプを繰り返している。
「偉利耶、近所迷惑になるから静かに、ね? 新しいクックはお外で履くから、そろそろ脱ごうね」
「やー!」
いやいやとかぶりを振る様子に、これはこのまま布団の中でも履いてそうだと勇利はため息をついた。誰に似たのか、息子は本当に頑固なのだ。
「イッちゃん、新しいクックにお名前書こうね。お名前、わかる? 勇利、ペン出して」
勇利が出してきた油性ペンのキャップを開けながら、母は偉利耶に話しかける。
「さあ、クックにお名前書きますよー。あらあら、脱いでもらわんば書けんばい。イリヤ君、クック、脱いで」
「あい」
ぽいぽいと放り出すようにだったが、一人で靴を脱げるようになった偉利耶は、母の言葉に素直に従ってみせた。
「あらあら、クックを脱ぐのもじょうずねえ。さ、勇利、アンタん書きんしゃい」
「お母さん、さすがばい」
靴とペンを受け取りながら勇利は感嘆する。やはり二児を育てた人は違うなあ……と母への尊敬の念を新たにした。
勇利は靴のかかとに、大きくひらがなで「いりや」と書いた。その手元を息子が興味津々といった面持ちで見つめている。
「偉利耶、これが偉利耶のお名前だよ。い・り・や。さあ、もう片方にも書こうね」
「おななえ?」
「お・な・ま・え。いってご覧?」
「お・な・な・え!」
「惜しかねえ。そのうち、いえるごとなるよねえ。ねえ、イッちゃん?」
「あい!」
笑い声があふれる室内は暖かくて、幸せだなあと勇利は思った。


誕生日のケーキに大はしゃぎだった偉利耶がやっと眠って、やれやれと大人が一息ついたのは夜九時を回った頃だった。
お茶を手に、しばしまったりと時を過ごす。偉利耶が寝てしまうとこの部屋は静かだ。窓の外を行く自動車や通行人の声も夜が更けるごとに少なくなっていく。病院の近くということで救急車は頻繁に通るが慣れてしまえばどうということはなかった。偉利耶が目を覚まして夜泣きしてしまうのには困らせられたが。
「ねえ、勇利。一度、長谷津に帰ってきたらどがん? お父さんも真利もイッちゃんに会いたがっとーし、世間だってそろそろアンタんこと忘れたて思うし」
「うん……」
「こんまま二人で暮らすんもよかばってん、アンタん働くごとなったらイッちゃんに寂しか思いさせてしまうじゃろ? 長谷津におっぎー、常にアンタん傍にいらるっけん寂しゅうなか。それだけでん考える価値はあるて思うばい」
「ばってん……おいが帰ったら周りに変な目で見らるっ……おい、オメガになってしもうたし」
「何いっとっと。そがんと宣伝でもせんば誰にもわからん。首んソレだって、おしゃれとしか思わんばい」
首のソレ──遠い日、空港でエドゥアールドに手渡されたチョーカーだ。今では身体の一部のようにしっくりとなじんでいるソレは、オメガである勇利が身を守るための必需品だった。実際、ヒート(発情期)間近で抑制剤をまだ服んでいなかったときに、勇利は執拗に男からつけ回されたことがあった。そのときは走って逃げたが、これから偉利耶と共にいるときに同じことが起きたらそうそう身軽には動けない。首のチョーカーはそんなときのための最終防衛線のように思っている。起こらないように努めてはいるが、何が起こるかわからないのは世の常だ。先行きを楽観視して最悪の事態に陥ることだけは避けなければならない。勇利には偉利耶がいるのだ。
「いきなり引っ越せとはいわんばい。たまには帰省しても罰は当たらんって話ばい。一度、帰って温泉つかって上げ膳据え膳ば楽しんでみたらどがん? イッちゃんにも、うちん温泉ば楽しんでほしかし」
「……真利姉ちゃんにこき使われて上げ膳据え膳にはならなそうだけどね」
勇利が笑うと母もほっとしたように微笑んだ。
確かに、母のいうとおり、この辺で一息つくのもいいかもしれない。ここに住んで二年半ほど、必死に走り通してきた。おむつを替えるタイミングがわからなくて何枚も無駄にしたり、夜泣きの止まらない偉利耶を背負って夜の道を歩いたりしたこともある。ミルクの適温がわからなくて四苦八苦したことも、トイレまで後追いする偉利耶に苦労したことも、過ぎてしまえば思い出の一つとして微笑ましく思い出せるけれど、そのときは必死だった。勇利だって泣きたかった。
帰省したからといって何が変わるわけでもない。だが、背負った肩の荷を束の間下ろして、この先のことを改めて考えてみるのもいいかもしれない。偉利耶と二人だけの生活では見えなかったことが見えてくるかもしれないし、そうでないかもしれない。何も変わらなくとも英気を養うことはできるし、これからの生活を頑張っていくための活力を充実させることができるなら、それだけでもしめたものではないか。
「そうやなあ……。ゴールデン・ウィークに帰ったらこき使われそうやけん、そん前……来月ん中旬ぐらいに一度帰るばい」
「本当? みんな喜ぶばい!」
早速お父さんたちに知らせんば、と母はメールを打ち始めた。気の早いことだ、と勇利は苦笑する。それとも、勇利の気が変わらないうちに父たちに知らせることで「やっぱりやめた」といえなくするためかもしれない、と邪推して、さすがに母に失礼だったと反省した。
「お父さん、喜んどーばい。イッちゃんとは生まれたとき以来だもん」
「あー……そう考えたら不義理しとったなあ……」
「親子なんやけん義理とかは考えんでよか。元気な顔ば見すっだけでよかとばい」
母に窘められて、親の情の強さ、濃さをありがたく思う。自分が親にならなければ、こんな風には感じなかっただろうと思うと、遅々とした歩みではあっても自分も親として成長しているのかもしれないと考えさせられた。



教会の墓地の外れ、小さな墓石の前に、これも小さな花束をそっと置いた。
週に一度はこうして花束を供えに来る。それもしばらくはできなくなるので、束の間の別れの挨拶に来たのだ。
本来、動物を教会の墓地に葬ることはできない。司祭に頼み込み、多少の寄付もして、やっと墓地の外れに埋葬することを許された。異例なことだ。不寛容だとは思ったが仕方ない。宗教も墓地も人間のためのものだからだ。
愛犬を埋葬し、小さな墓石を建て、祈りを捧げた。全てが済んでからヴィクトルは泣いた。泣いて泣いて、身体の中が空っぽになるほど泣いた。目玉が溶けずに残っているのが不思議なくらいだった。
それからヴィクトルは立ち上がった。今こそ、時が来たのだった。
「マッカチン、しばらく一人にしてしまうけど我慢してね。次に来るときは勇利も一緒に連れてくるよ。それまで寂しいだろうけど、ここで待ってて」
春の気配をはらんだ風が髪を揺らして吹きすぎていく。墓石の上の溶け残った雪を払い落とし、碑名を指でなぞってこみ上げる思いを注ぎ込む。
ヴィクトルの胸には穴が二つ開いている。勇利の形の穴と、マッカチンの形の穴だ。二つも穴を抱えては生きていけない。ヴィクトルは生きるためにせめて一つ、穴を埋めねばならないのだ。
「マッカチン、行ってくるよ。待っててね」
帰らぬ問いの答えを求めにヴィクトルは立ち上がった。

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