「勇利、ヴィクトル荒れてるみたいだよ」
「……みたいだね」
冷たい返事だと思われるかもしれない。だが、ほかに返答のしようがなかった。フィギュア関連の情報は意識的にシャットアウトしている勇利にも伝わるぐらいなのだから、ロシア・フィギュア界は上を下への大騒ぎになっているだろう。それを引き起こしたのが自分なのだと思うと、薄ら寒くなる。
「そろそろ連絡してあげたら?」
「……できないよ……」
事態はもう自分ごときでは収拾不可能な段階に来てしまったと勇利は考えている。三ヶ月前、プルコヴォ空港でエドゥアールドにいったとおり、ヴィクトルのことは彼らに任せるしかない。
それに、連絡してどうなるというのだろう。
ヴィクトルの元にはもう戻れない。彼がまだ勇利を望んでくれているとしたら、議論になっても平行線だ。グランプリ・シリーズ開幕直前のこの時期に、タイにまで乗り込んでこられても困る。
そもそも勇利は今、自身としても面倒な……重大な問題を抱えている。
「でも、子供のことだって──黙ったままでいるわけにもいかないんじゃないの?」
そう、子供。子供なのだ。問題は。
勇利がタイに到着して三ヶ月。初めはこんなに長く滞在するつもりはなかったのだ。けれど、勇利の訪問を喜ぶピチットに──オメガ化した勇利を、それでも彼は親友だといってくれた──甘えて日を過ごすうちに、またしても体調不良に見舞われた。度重なる吐き気。これだけは覚えのある、いいようのない倦怠感。シーズン中のピチットに迷惑をかけるのは心苦しかったが、オメガの受診できる病院を探してもらい、検査した結果が──妊娠。
血の気が引いた。
まだ自身がオメガになったという自覚も薄いというのに、妊娠? ロシアの病院で見たエコー写真。あの、白くもやもやと映った器官に子供がいる? そんな馬鹿な。
タイ人の医師がエコー写真を見せてくれたが、やっぱりもやもやとしてどれが何だかわからない。けれど、確かにそこに子供が映っているのだという。
呆然とした。
ショックのあまり貧血になって医師らを慌てさせた。
病院のベッドに横たわって、妊娠、妊娠、と頭の中で繰り返した。
子供を産む? 僕が? 男の僕が? オメガだからって、確かにオメガになったんだろうけど、いきなり妊娠?
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
お医者さんは産むかどうするかって聞いてた気がするけど、そんなの僕が聞きたい。
産むかどうするか? どうするかって何。産むか堕ろすかってこと? それ今聞くこと!? 産むか堕ろすか、今決めろっていうわけ!? そんなめちゃくちゃな!
実際には決めるまでまだ猶予があると起き上がれるようになってからの再診察で知らされたが、またしても死刑宣告を受けた気分に変わりはなかった。今度は子供と自分と二人分だ。なんて荷が重い。
世のお母さんって大変な思いしたんだなあ……とピチット宅への道をとぼとぼ歩きながらため息をついた。
ピチットは仰天した後で祝ってくれた。
「おめでとうっていわせてね、勇利! これから大変だろうけど、僕でよかったらサポートするから何でもいってね」
ありがたい親友の言葉に勇利は泣いた。頼るものとてない異国で、いまだ受け入れがたいオメガ化という事実を前に、さらに妊娠という事態まで降りかかって、勇利は大海の中の岩礁に立たされた気分だった。行くもならず退くもならず、大波に呑まれるか大風に巻かれるかという瀬戸際だ。そこに差し込む一筋の陽光にすがりたくなったとして、誰に責められるだろうか。
今、妊娠三ヶ月。女性なら妊娠四ヶ月で、オメガ男性の場合は週数の数え方が違うのだと病院で教わった。十月十日という言葉があるが、それに倣えばオメガ男性は九月十日で出産を迎えることになる。らしい。
妊娠してとりあえずほっとしたことは、出産まではヒートが起こらないといわれたことだ。アルファのピチットに迷惑をかけないように三ヶ月後にはタイを発たないと……と思っていたから、幾分気がラクになった。
それでも考えなければならないことはたくさんある。
どこで出産するか。
言葉の通じないタイで出産するのはリスキーではないのか。親が日本人だから生まれた子はタイ国籍を取れない。日本国籍を得るためには日本大使館に届け出なければならない。
いや、そもそも長谷津の家族に子供のことを打ち明けなければ。両親にとっては曲がりなりにも孫だし。
そう、勇利はすでに産むと決めている。というか堕ろすなんて無理。ましてヴィクトルの子を堕ろすなんて有り得ない。
父子二人で生きていけるのか不安は尽きないがやるしかない。
そうと決まれば言葉も通じる慣れ親しんだ日本で出産する方がよいのではないか。佐賀にオメガの受診できる病院があるかどうか調べて、……いや、見知った顔の少ない他都市で出産する方がいいだろう。でも、孫の顔を見せに帰ったら一発でバレるし……。しばらくは親の方から出向いてもらうか……。
覚悟が決まれば方針も決まる。
安定期を待って日本に帰国し、拠点を定める。タイにいる間にオメガ男性の出産実績のある日本の病院を探して、その近辺の住居を探して。となると、おそらく関東になるだろう。
貯金、大丈夫かな……。
グランプリファイナルと四大陸選手権の優勝賞金が入ったので、勇利の貯蓄は、二十代男性としてはゆとりがあるといっていいかもしれない。だが、住居を確保し、通院し、出産し、子供を育てるとなればいくらあっても足りないだろう。……それもこれも、ヴィクトルへのコーチ代も、ピチット宅の滞在費もお礼も、度外視しての勘定だが……。
そう、ヴィクトル。
ピチットは暗に子供のことを知らせた方がいいと仄めかしているが、勇利に知らせるつもりはない。
うっかり番の関係を結んで、彼を縛る鎖にはならないようにと出てきたのに、子供ができたなんて知らせるわけにはいかない。第一、ヴィクトルがオメガに否定的感情を持っていたら? それどころか勝手に妊娠して、勝手に子供ができたなんていわれたら? 自分の与り知らないところで勝手に父親にされたなんてゾッとするんじゃないか。
この上、嫌われたくはないよなあ……。もうすでに憎まれてるかもしれないけど……。
勇利の失踪以来、ヴィクトルは荒れに荒れているらしい。
いわく、日本に(長谷津に)飛ぼうとして止められたとか。ロシア中の興信所に勇利の捜索を依頼しようとしてやっぱり止められたとか。勇利への嫌がらせがあったのではないかとリンクで執拗に尋ね回ったり、スタッフに当たり散らしたり、日本スケ連のスタッフに日参する勢いで勇利の消息を尋ねたり……。
その全てが空振りに終わって、今は自暴自棄に近い状態だという。
申し訳ない気持ちはある。でも、長い目で見ればヴィクトルのためになるのだからと勇利は(正直、ありがた迷惑にも)ピチットからもたらされる情報に耳をふさいできた。心を閉ざしてきた。そうしなければ自分を保っていられなかった。それでもヴィクトルとマッカチンと暮らしたあの家に帰りたいと何度泣いただろう。
だが、もう泣いてはいられない。子供が産まれるのだ。こうしている間にも成長して桜の咲く頃には出産を迎えるのだ。
「ヴィクトルにはいえない。……いや、いわないよ。彼にはもっとふさわしい人がいるから」
一人で産んで育てていく。そう決めたのだ。
「ふさわしい人って?」
ピチットが小首をかしげる。
「ロシア人の誰か。アスリートかもしれないし、女優とかモデルとかかもしれないけど、とにかくヴィクトルの隣に並んで釣り合う人。ロシアには、そういう条件のアルファ女性がいっぱいいると思うし」
「勇利は釣り合わないの?」
「釣り合わないよ」
勇利は言下に否定した。むしろ、そんな問いが出てくることに驚いた。こんなどこにでもいる日本人がヴィクトルと釣り合うはずがないじゃないか。
「グランプリファイナルと四大陸で優勝したアスリートでも釣り合わないなら、よほどの人じゃないとヴィクトルには釣り合わないってことだね。そんな人いるかなあ」
「いるでしょ。ロシアは広いし」
ふうん、とピチットは思惑ありげな音を発した。
「僕はねえ、勇利、ほかの誰も、ヴィクトルの隣に並んでも釣り合わないと思うよ」
「どうしてさ」
「だって、ヴィクトルが愛のない女性と一緒になるようなまね、すると思う? 国のいいなりに、あてがわれた女性と結婚するとは思えないよ」
「別に、何も、いいなりになるとか、そんなこといってるんじゃなくて。誰かほかに好きな人ができて、その人と結婚すればいいと思ってるだけ」
勇利は少しムキになって答えた。どうしてこんな簡単なことがわからないんだ?
「ほかに好きな人ねえ……できるかなあ。あれだけ荒れるぐらい勇利のこと想ってるのに」
「急な別れだったから混乱してるだけだよ。世界一モテる男っていわれた人だよ? 僕のこと忘れたら、ほかの誰かが目に入るようになるよ。周りはきれいな人ばっかりなんだから」
「ねえ、勇利。さっきから聞いてると、ヴィクトルのこと馬鹿にしてない?」
勇利は仰天した。ヴィクトルを馬鹿にする? 勇利がどれだけヴィクトルに憧れてきたか、ピチットだって知っているはずではないか。
「だって、勇利のいうこと聞いてると、想い人のこともすぐに忘れて、美人に目移りするチャラい男の話をしてるように聞こえるよ」
「違うよ! そうじゃなくて!」
「失恋を年単位で引きずる人なんてザラにいるでしょ? ヴィクトルもそうかもしれないと思わないの? ヴィクトルは恋愛面でも超人だとでも思ってる?」
「それは……だって僕なんか、想い人ってほどじゃ」
「じゃあ、勇利は遊びだったんだ」
「違うよ!!」
「それじゃ、ヴィクトルの方は遊びだったとでも? それにしちゃ、ひどい荒れようみたいだけど」
「……」
勇利は言葉を継げなくなった。
さっきからピチットはなんでこんな意地悪な物言いをするのだろう。もしかして、そろそろ僕のことが邪魔になったから追い出したいのかな。だとしたら、急いで日本での住処を探さないと……。
「勇利、妊夫さんを興奮させてごめんね。でも、僕はねえ、ヴィクトルは勇利以外に誰も選ばない気がするよ」
「……そんなことないよ」
そんなことはない。そんなことはないのだ。ヴィクトルなら、自分にふさわしい相手をきっと見つける。そうして誰もがうらやむ幸せな人生を送るだろう。
そうでなければ、なんのために勇利はあの家を出てきたというのか。
無駄だったというのか。今まで流した涙も、痛む胸も、ささやかな覚悟も、全て。
そんなことない。そんなこと耐えられない。
勇利は無礼にならない程度に会話を切り上げ、あてがわれている部屋に戻った。ベッドに転がり腕で目を覆った。
そんなことないんだ。ヴィクトルならきっと大丈夫。今は荒れてるかもしれないけど、グランプリ・シリーズだってすぐに始まるし、そうすれば気持ちを切り替えて試合に臨むはず。そうやって一日一日を過ごして、だんだん僕のことを思い出さなくなっていけば、周りにいる人が目に入るようになる。きっと。去る者は日々に疎しっていうじゃないか。ロシアにだって、きっと似たようなことわざがあるさ。
閉じた目の端から涙が落ちる。
覚悟は決めたけれど、ヴィクトルはきっと自分を忘れるはずだと連呼するのは思いのほかつらかった。覚悟と未練とはまた別の話なのだと、勇利は思い知らされていた。
勇利が消えた。
置き手紙もなく、なんの手がかりも残さずいなくなった。
ヴィクトルにはなんの心当たりもない。いなくなる前夜も愛を交わす行為をしたばかりだ。性急ではあったが無理矢理ことに及んだわけではなかったし、勇利も機嫌を損ねた様子はなかったのに。
無礼を承知で勇利の部屋に入ってみれば、妙に片付いていてまるで生活感がない。飾られていた写真や細々したものが姿を消していて、スーツケースもなくなっている。周到すぎる準備は、少なくともあの朝、突発的に出て行ったのではないことを匂わせた。
だが、それならどうして? 前々から出て行くつもりだったというのか?
そんなそぶりは全くなかった。勇利は日本のトップ・スケーターだ。国を背負う立場のアスリートがスケートを放り出して消えるなど尋常ではない。
勇利にスケートをも捨てさせる何かがあったことは間違いない。
だが、それがなんなのかわからない。
自分にできる限りの手を尽くして調べた。私生活に問題を抱えていた様子はないことから、リンクでの問題かと思って手当たり次第尋ね回った。それで自身の風評を落とすことにもなったが構わなかった。
スマホは電源が切られていて通じない。ハセツにも帰っていない。日本スケ連に尋ねようにも彼ら自身が混乱していた。恥も外聞もなく知己のスケーターに勇利の消息を尋ねたが、それも空振りに終わった。
そんな中、日本スケ連に勇利から連絡が入ったと耳にした。
勢い込んで乗り込むと、勇利は一身上の都合で引退すると連絡してきた、詳細はプライバシーに係わるので答えられないという、にべもない答え。
さすがのヴィクトルも激怒した。
「俺は勇利のコーチだ! 生徒の進退なら俺に連絡があってしかるべきだし、詳細な説明を求めるのは当然のことだ!」
「ですから、一身上の都合とだけ。それ以上のことは選手個人の非常にプライベートな問題になりますのでお答えできません」
「俺は勇利と生活を共にしていた。それにコーチといえば身内も同然だ。プライベートな問題というなら俺には説明を求める権利がある!」
「確かにあなたは勝生君と非常に近しい関係にあると我々も認識しています。ですが、身内も同然というあなたに何の説明もなかったということは、あなたには話したくない、話すべきではない問題だと勝生君が考えているということです」
「勇利が? そんな馬鹿な!」
「それに、同然という言葉は同じという意味ではありません。厳密な意味では、あなたは勝生君の親族ではない。親族でない方にお話しするわけにはいきません。これは本人の意志でもあります。あなたにはいわないでほしいと」
「勇利が──」
「あなたとのコーチ契約も解消すると。コーチ代は必ず払うからしばらく待って欲しい、勝生君から言付かっているのはそれだけです。我々としても、お世話になったあなたに対して心ない仕打ちをしているという自覚はあります。ですが、我々は本人の意志を尊重し、彼を守らねばなりません。どうかご理解下さい」
呆然とするヴィクトルを、初老の女性スタッフはどこか憐れむような表情で見つめた。
「最後に……ごめんなさい、と伝えてほしいと。それが我々にいえる全てです。本当に申し訳ありません」
日本式に深々と頭を下げるスタッフに、ヴィクトルは言葉も出なかった。
ソファにだらりと寝そべって、マッカチンの毛並みを撫でるともなく撫でている。
ついこの間までは、ここに勇利がいた。
勇利もおいでよ、というと、重いでしょ、と笑うから腕を引っ張って引き倒して。笑いながら倒れてくる勇利を抱き留めて。俺と勇利とマッカチンと、いつまでもそうやって過ごしていけると思っていた。
唐突に断ち切られた幸せが心臓を切り裂くように幾度も去来してはヴィクトルを苦しめる。
勇利、どうして。
愛し合っていると思っていたのは俺だけだったのか?
そんなはずはない。勇利は義理や情で他人とベッドを共にするような人間ではない。
想いが通じ合ったときの勇利の顔。真っ赤になって、はにかんで、キスしたら泣き笑いになった。初めて肌を重ねたときは「人の重みって心地いいんだね」と微笑んだ。ヴィクトルを見つめるまなざしも、しぐさも、全てが愛情に裏打ちされていると感じられた。
それが全部嘘だったとでも? いいや、そんなことは有り得ない。
「何があったんだ……勇利」
俺にもいえない事情って何なんだ。スケートをやめるほどの理由って何なんだ。ハセツにも帰らず、どこでどうしているんだ。無事でいるのか。元気でいるのか。
「教えてくれ、勇利……」
返る答えはない。勇利のいない今、この家は無駄に広く寒々と感じられる。マッカチンと身を寄せ合っていないと耐えられそうになかった。
スマホが鳴った。
勇利かもしれないと一縷の望みを託して表示した画面にはコーチの名前。出る気にならず放り出した。スマホが鳴るたび、こうだ。期待しては裏切られる。
しつこく鳴り続けるのにうんざりして起き上がり、スマホを拾い上げて通話ボタンをタップした。
「ヴィーチャ。明日には出てこい。カツキのことは残念だが、お前は選手としての自分も大事にしなければならん。初戦は目の前だ。こうなった以上は選手に専念しろ。……聞いとるか」
「……かろうじて」
「返事をするだけ立派になったな。お前の行動や試合結果は必ずカツキにも伝わる。〝カツキがいなくなったから、こんな不甲斐ない成績でした〟と泣きべそをかくわけにはいかんだろう。違うか?」
「……わかってるよ」
「わかっておるなら、いい。カツキに見せてやれ。お前の滑りでカツキに伝えろ。たとえ本人が見ていなくとも伝わるぐらいの滑りをしろ。スケーターにできることはそれしかないんだ。いいな、明日には出てくるんだぞ」
ヴィクトルの返事を待つように少しの間沈黙が続いたが、やがて諦めたのか通話が切れた。
「わかってるんだよ……そんなことは」
ヤコフにいわれるまでもなく、もはや自分にできるのは滑ることだけだとわかっている。だが、こんな、胸に風穴が開いているような状態でどんな滑りができるというのか。
それさえも芸術に昇華してみせてこそスケーターなのかもしれなかった。
「なら、俺はスケーターじゃないのかもな……」
どうしても、この胸に開いた穴をふさぐ術が見つからない。勇利の形に開いた穴は、勇利の存在でしか埋められないのだ。その大きさと喪失の苦しさにヴィクトルはもがいていた。
救いを求めるように伸ばした手に、これだけは変わらず輝き続ける指輪があった。その小さな金属にすがるようにヴィクトルは頬ずりした。